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『機龍警察 未亡旅団』(月村了衛) [読書(SF)]

 「彼女達が常軌を逸した覚悟で以て犯行を企図していることが分かる。それ以上の覚悟で捜査に当たらねば、我々はおそらく彼女達に敗北するだろう」(単行本p.26)

 未成年者による自爆攻撃という恐るべきテロ事件が日本を襲う。保身を考えない自爆仕様の機甲兵装という想像を絶する脅威に、特捜部はどう立ち向かうのか。SF、ミステリ、警察小説、冒険活劇、どのジャンルの読者も満足させる人気シリーズ『機龍警察』、その長編第四弾。単行本(早川書房)出版は、2014年01月です。

 凶悪化の一途をたどる機甲兵装(軍用パワードスーツ)犯罪に対抗するために特設された、刑事部・公安部などいずれの部局にも属さない、専従捜査員と突入要員を擁する警視庁特捜部SIPD(ポリス・ドラグーン)。通称「機龍警察」。

 龍機兵(ドラグーン)と呼ばれる三体の次世代機を駆使する特捜部は、元テロリストやプロの傭兵など警察組織と馴染まないメンバーをも積極的に雇用し、もはや軍事作戦やテロと区別のなくなった凶悪犯罪に立ち向かう。だがそれゆえに既存の警察組織とは極端に折り合いが悪く、むしろ目の敵とされていた。

 紛争で家族を失った女性だけで構成されるチェチェンのテロ組織「黒い未亡人」の精鋭メンバーが日本に潜入、大規模な攻撃を計画していることが判明した。未成年者による自爆攻撃という凄惨な現実を前に、日本警察に激震が走る。それは特捜部も例外ではなかった。

 「由起谷は絶句した。未成年に自爆を強要する。それは由起谷の精神が許容できる範囲をはるかに超える暴挙であった」(単行本p.32)

 「なにしろ自分の子供みたいな歳の相手を手にかけるんだからな。メンタルがおかしくなる兵隊が多いのも事実だよ」(単行本p.45)

 「自分が死ぬのは構わない。むしろそのために日本警察の誘いを受けたのだ。しかし子供はもう殺したくない。たとえテロリストであっても」(単行本p.121)

 戦場で少年兵を殺害した体験が重く心にのしかかっている姿、かつて十代のテロリストとして自らの妹を殺してしまったライザ。自爆用の機甲兵装で突っ込んでくる子供を前に、彼らは冷静に任務を遂行できるのだろうか。

 「迂闊であったと思う。姿警部の経歴について知る自分達は、その可能性に気づくべきだった。日頃の彼の飄々とした言動から、つい見過ごしてしまったのだ」(単行本p.42)

 いっぽう、この未曾有の危機的状況を前に上層部で見られる不審な動き。警察組織に深く根を張っている〈敵〉が、再び動き出したのだ。

 「あたしは沖津さん、あんたがどうにも信じられない。いえ、この際はっきり言っときましょうか。あんたは絶対になんかやってる。人に言えない何かをね。(中略)今度の件に関しては、なんてんですかねえ、どうもいろいろと様子がおかしい。腑に落ちないことだらけでね」(単行本p.104)

 「城木理事官は、どれだけの苦悩を背負いながら事に当たっているのだろうか。そして、今この瞬間にも、「組織」や「派閥」といった形すらないものが跳梁する雲の上の世界で、どれほど熾烈な駆け引きが繰り広げられているのだろうか」(単行本p.253)

 組織の狭間で翻弄されながら、〈敵〉にまつわる真実の一端に気付いてしまった城木理事官。テロリストグループの少女カティアと接触した由起谷主任。二人の苦悩と覚悟が試されるとき、日本犯罪史上に類を見ない大規模自爆テロ事件が決行されようとしていた。

 「わずかでも判断を誤れば、たちまちすべてが崩壊する。その結果がどうなるかは誰にも予測できない。ただ多くの人が死ぬということ以外は」(単行本p.270)

 「いくら子供とは言え、同じ警察官を何人も殺した、外国人のテロリストですよ。そんな子供を助けるためにみんな命を懸ける気だ。私はね、今日ほど部下を誇りに思ったことはありませんよ」(単行本p.295)

 「思い出せ、仲間の顔を。おまえよりほんの少しだけ先に死んでいった仲間の顔を。そうだ、一つ残らず思い出して見ろ。それがおまえ達のやってきた暴力だ」(単行本p.199)

 「みんなを守る。絶対に」(単行本p.315)

 「世界中をチェチェンと同じにしてやるの。世界が私達にしたのと同じことをしてやるわ」(単行本p.330)

 それぞれに譲れない信念と覚悟。降りしきる雨のなか、小さなメッセージが届いたとき、ついに沖津部長の指示が飛ぶ。「作戦開始」。

 というわけで、このシリーズもそろそろマンネリ化してくるのではないかしらという心配をよそに、盛り上がりまくる長編第四弾。その巧みなストーリーテリングで読者の感情を自在に操って、最後までぐいぐい引っ張ってゆきます。クライマックスでは読者の予想を上回る劇的な展開を次々と仕掛け、驚きと興奮が途切れません。さすがです。脱帽です。

 今回は基本的に群像劇ですが、由起谷主任と城木理事官には特にスポットライトが当てられます。城木理事官の件は今後の展開に大きく影響しそうだし、あと公安の曽我部課長がまたいーい味出しているし、とにかくこのシリーズ、今後がますます楽しみ。

 独立した長編として読めますが、やはりこれまでの作品を読んでいた方が楽しめるでしょう。ライザがカティアに向かって「私はおまえがうらやましい」とつぶやくシーン、正念場に向かう由起谷主任にユーリが〈痩せ犬の七ヶ条〉の一つを授けるシーンなど、それぞれこれまでの作品を読んでいれば、ぐっ、と込み上げてくるものがあるはず。


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『いま、世界で読まれている105冊 2013』(テン・ブックス編) [読書(教養)]

 「本書はフラットになったと言われているこの世界を、書物、とりわけ文学という制限された枠からあえて覗いてみる試みである。諸言語に通じ、その言葉、そして土地や人を見つめてこられた研究者、翻訳家、ジャーナリストの視点を借りて、世界を眺めようとした」(単行本p.268)

 北朝鮮からツバルまで、グルジア語からエスペラントまで。世界中の様々な場所で書かれ読まれている書物を、専門家が紹介してくれる一冊。単行本(テン・ブックス)出版は、2013年12月です。

 『日本語に生まれて 世界の本屋さんで考えたこと』(中村和恵)がひどく刺激的だったせいで、そもそも海外ではどのような本が書かれ読まれているのだろうかという興味がふつふつとわいてきて、まずはカタログ的な本書を手にとってみました。

 世界各国でいま読まれている書物105冊を、その地域や文化に詳しい研究者や翻訳家の方々が紹介してくれます。取り上げられている国は。

 ロシア、韓国、中国、新疆ウイグル自治区、カザフスタン、ベトナム、タイ、インドネシア、ブータン、インド、イラン、イラク、グルジア、トルコ、レバノン、イスラエル、フィンランド、スウェーデン、英国、アイルランド、リトアニア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニア、スロヴァキア、チェコ、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガル、イタリア、クロアチア、セルビア、アルバニア、モロッコ、アルジェリア、エジプト、エチオピア、タンザニア、南アフリカ、カナダ、米国、メキシコ、ベリーズ、キューバ、ジャマイカ、プエルト・リコ、グアドループ、トリニダード・トバゴ、コロンビア、ブラジル、エクアドル、チリ、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、オーストラリア、ニュージーランド、ツバル、エスペラント(言語)。

 圧倒されるほど幅広い文化と言語が、ぎっしり詰め込まれています。

 紹介されている本には、それぞれ参照番号が振られ、国名とタイトル、著者名と選者名、書影と発行年などの諸データ(ISBN含む)、一部抜粋翻訳(選者による)が、1ページにコンパクトにまとめられています。そして、選者による内容紹介、選者のプロフィールが続きます。

 選ばれている本は、いわゆる文学作品が多いのですが、なかには韓国で摘発された北朝鮮のスパイが妻に書いた書簡集とか、「一年間おならをがまんした牛がおならをしたら宇宙まで飛ぶの?」という子供の質問に専門家が答えるなぜなに本とか、初心者のための聖書入門書とか、ネルソン・マンデラ氏の公式引用集とか、コロンビアの麻薬王の評伝だとか、もう千差万別。

 イスラエルに住むアラブ人が母語ではないヘブライ語で書いた自伝だとか、スウェーデンの移民が「社会への反抗として話す言語」であるリンケビュー・スウェーデン語で書かれた本とか、聖書を除きツバル語で出版された初めての本とか、エスペラント文学史上初の長編作品かも知れない本とか、使われている言語も多種多様です。

 日本が登場する話もあり、私たちが世界からどのようなイメージで見られているかがストレートに伝わってきて、興味深いものがあります。

 例えば、アルゼンチンの小説はこう。友人に冗談で「お前のチンポくわえてやるよ」と言った男に、そばにいた日系人が「名誉にかけて、言ったことは守らねばならぬ」と言い出し、カラテで威嚇。止めに入ったポーランド人ボクサーをカラテの必殺技で一撃で倒し、「さあ、彼のチンポをくわえるのだ」と、あくまで名誉と真実をつらぬく武士道精神。

 ブラジルの小説。グルメクラブに現れた謎の料理人、彼は日本のクシモトにあるという「ふぐ調理師を養成する秘密結社」で修行した男で、「食べた者は30パーセントの確率で死亡する」という料理の奥義を会得していた。そのため彼の料理を食べると十人に三人は死亡するが、しかしその味は絶品。さあ、命がけで食うべきか、食わざるべきか。グルメたちの葛藤と苦悩が始まった……。

 日本って本当に便利なネタなんだなあ。

 現代を生きる人々の姿を瑞々しい筆致で描いた作品、政治状況や社会状況を鋭く風刺した作品、純文学作品、詩歌、古典、戯曲など、紹介されているのは真面目な作品の方が多いのですが、個人的な好みとして、どうしてもこう、変な話、ぶっとんだ話、わけのわからない話、そういうのが印象に残ってしまうのです。例えば。

 新聞を読むたびに「左傾化」してゆく男が横になって治そうとするとか(ロシア)、偉大なる金正恩さんが父親の霊に向かって「敵どもに無慈悲な火の雨を降らせてやりますよ」と力強く語るとか(北朝鮮)、この地球は偽物であり本物の鏡映に過ぎないという妄想にとらわれた女性とか(英国)、地球人のサイズが立っているときも横になっているときも変わらないという発見に驚愕する宇宙人とか(スペイン)、ふたりの結合双生児がそれぞれ一人称で語る自叙伝だとか(カナダ)。

 世界の文化的多様性をまのあたりにして感嘆する他はない素敵なガイドブックです。タイトルに2013とあるので、これから毎年出るのでしょうか。期待したいと思います。

 余談になりますが、本書で紹介されているなかで個人的に最も興奮した一冊について。

 「グレッグ・イーガンや伊東計劃〔原文ママ〕も真っ青の本格SF」と選者が太鼓判を押す、中国は劉慈欣の『三体』。内容紹介によると。

 「物理学など存在しない。今までも、これからも」という謎の言葉を残して科学者たちが次々と自殺するという事件が発生。そして主人公の視界に表示されるようになった「カウントダウン」時刻。その背後には、地球侵略を企む異星人の陰謀が隠されていた!

 ということらしく、うはあ、これは期待できるというか、読みてえ。

 ちなみにこの作品、選者が講師をつとめている「NHK レベルアップ中国語」でも中国語の学習教材として取り上げられています。あわててNHKテキストを確認しましたが、抜粋訳(原文対訳)に加えて、全体ストーリー紹介、登場する設定やアイデアについての解説など、丁寧に書かれています。SF好きなら要チェックですよ。物理法則の捏造とか、バカSFすれすれの大ネタ炸裂で面白そう。

 なお、ウィキペディア記事『三体』には、かなり詳しい内容紹介が書かれていますので、興味がある方はそちらをどうぞ。

 読者の熱烈な支持を受けたこの作品、英語、韓国語、日本語への翻訳が進められており、さらにハリウッドから映画化の打診もあるとのこと。日本語版の出版が楽しみです。


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『日本語に生まれて 世界の本屋さんで考えたこと』(中村和恵) [読書(随筆)]

 「目で文字を追うだけでなく、その土地にいって、土地を読む、ということを、できればすこししてみたいとおもった。脚で読む、とでもいうような。(中略)なにしろ、どこでも本屋さんを探した。見つからないところもあった。随分変わった本屋さんもあった」(単行本p.7、8)

 世界のあちこちを旅して、そこで本屋さんを探す。そして考える。ことばとは、文化とは、そして日本とは。私たちの文化を外側から見つめるエッセイ集。単行本(岩波書店)出版は、2013年11月です。

 「あちこちに行って飯を食う」ことで世界の文化的多様性を語る『地上の飯 皿めぐり航海記』の著者が、今度は世界のあちこちに行って本屋に入って本を探しまくる一冊です。といっても珍本、稀覯本を紹介するのではなく、本と書店を起点に、文化のあり方を考えるのです。

 「英語で書かれた文学、というと、いまだにイギリスとアメリカ合衆国、そのどちらかのものと考える人が多い。それは現在の世界の実情とはかなり、かけ離れている。(中略)いまや国別の文学史はかつて以上に書きにくくなり、比較文学的な視野をもたずにはことばの文化を語れないというのが現状だ」(単行本p.6)

 海外文学というと、すぐに欧米の小説か、そうでなくても「主要国」の作品を連想する私たちの視野の狭さを打ち砕くかのように、まず登場するのはカリブ海の島々。

 「ドミニカ島の黒いちいさい本が、わたしはいまでも見たくてしかたがない。そのためだけに借金をして飛行機を乗り継ぎ、あの島までいってもいい。(中略)文字以前からのことばの呪術的な力にふれられるような、グローバル化と合理化に根づよく抗いつづけるような、直截なことばにふれたい」(単行本p.27)

 「ポルノグラフィの言語というのは、特定の言語体系の身体化、親密化のバロメーターとして、複数の言語文化が併存・混淆する社会においては特別意義深いものだというわけだ(といったまるでエロくない漢字の多いことば遣いでなければ性について真面目な話をしているとは理解されにくい日本語の状況も、じつは混淆文化の現象として考えると興味深い)」(単行本p.40)

 ドミニカ島で古くから伝承されているという呪術書、そしてマルティニーク島のクレオール(混成言語)で書かれたポルノ小説。読者の意表をつく二冊の話題から、ことばと文字、ポストコロニアル文化と言語、植民地主義とグローバル化、など様々な考察ポイントが提示されます。

 続いてインドの地方都市で翻訳の意義について、オーストラリアではアボリジニ文化(そして例えばウラン鉱石の輸入という形で日本がどう関与しているか)を考えます。

 こうして「周縁」とされがちな文化に視野と想像力を広げたところで、なぜそこから生み出される文学が私たちにとって大切なのか、ということがストレートに語られることに。ここが前半の山場、大きな感銘を受けます。

 「進歩と物量と速度と強度(暴力性といってもいい)を誇る西欧発の近代神話がもはや絶対ではないことは、多くの人々が感じている。別の物語が聞きたい、侵略と征服の正当化以前の古い物語の中に新しい意味を見いだしたい。同時に日常の率直な思いを丹念に正確なことばであらわす作家の物語に別の発想を見つけたい。だからかつての植民地の文学、否定と暴力と混淆をくぐりぬけた非西洋発の混成文化が興味深いのだ」(単行本p.90)

 後半に入ると、日本文化、それも外から、異文化を通して、眺めた日本の姿が話題の中心に。

 まずはメルボルンの書店で見つけた自然史本に載っている「野蛮人標本写真」のなかに、「ちょんまげを結ってふんどしだけ締めた格好」(単行本p.95)の日本人男性の写真を見つけた話から。

 「非ヨーロッパ人をすべて素っ裸の写真標本にして並べ、「われわれの物差し」で正確に測り、比較対照して特徴を把握したい。こういう西欧中心的な「世界制覇=世界理解」の欲望と、西洋式学問の体系・方法論はがっちりと根のところでからみあっていて、しかもいまだに日本を含め世界各地の大学や研究施設というものがこの世界観からほんとうの意味では抜け出せずにいるからたちがわるい」(単行本p.97)

 さらにロンドンやエストニアでの体験、あるいは日本の原発事故が他国からどのように見られているのか、といった話題を通じて、私たちが無意識に持っている西洋中心主義的な世界観(しかも自分たちは西洋の側に立ってるつもりだったり)をえぐってゆきます。

 「わたしはヨーロッパを中心とする世界史の視点を根底から疑うようになり、近代ヨーロッパの評価基準を理由もなく標準とみなす西欧正統のハイ・カルチャーにほぼまったく興味を失った」(単行本p.136)

 「大国の姿は小国を通して見るにかぎる。おまえの書くような世界の果ての小国の話まで考えている暇がない、とある批評家にいわれたことがあるが、「世界の真ん中」にあぐらをかいている方々の内実は、「世界の果て」こそ、よくわかっているのである」(単行本p.161)

 上で引用した「とある批評家」のような考えは、日本では決して珍しいものではないでしょう。むしろ、世界を動かしている「主要国」の情勢を把握することにしか興味のない人々が大多数ではないでしょうか。そして日本における海外報道は、そういった「意識の高いグローバル人材」な方々しか想定してないのではないでしょうか。

 「わたしはいまヴェトナムでなにが起こっているのかをよく知らない。(中略)だがすくなくともいまは、わたしがなにも知らなかったということはわかっている。これから先、わたしはもっと多くを知るだろうか。なにを通じて? 日本のメディアから?」(単行本p.199)

 ヴェトナムにおける苛烈な言論統制の実態について聞いたとき、著者はそうつぶやきます。私たちは世界について何も知らない。知らないことすら知らない。いや、世界だけでなく、私たちの文化についても、私たち自身についても。

 「日本には複数のマイノリティがいて、かれらの声は日本の文学史にもはっきりと刻まれているが、アイヌによって書かれたものを読んだことのある日本人大学生は圧倒的少数者であると、ニュージーランド・マオリの前でわたしは断言せざるをえない----いくらかれらが信じられない、ショックだといってもそれは事実である。日本では差別は注意深く隠そうとされる、それが「ヤサシイ」行いとされる」(単行本p.205)

 「遠慮、気配り、我慢、善良さを尊ぶ人々が、穏やかに和やかに、共通の正しさ、倫理観をみんなで共有することを望むあまり、都合のわるい、居心地のわるい事実を照らしだし、オーソリティに立ち向かわねばならないと明言して、穏やかならざる空気を生む人や状況への、過剰なほど鋭敏な拒否反応を示す」(単行本p.176)

 「気遣う気持ちが、大切なのだ。遠慮する気持ち、慮る態度、明快に対立構造を認識し利害関係を前面に押し出すことを避けて、自分を好いてもらい、内輪になって、その絆ゆえに多少のことは和やかに許してほしいと願う気持ち。西洋近代的な対人関係とは異なる、むしろアボリジニ・コミュニティに見られるような、村落的、原始共産主義的調和」(単行本p.178)

 「じつは日本の世界観は、欧米発の世界観とはかなり違ったまま、別の文化の外皮の中でとぎれとぎれのマーブル模様を描き、わたしたちの内にいまも生きているのに、この分裂した精神状態の詳細は時間が経つほどにうやむやにされてきた。日本人の輪郭が国外にとって、またしばしばわたしたち自身にとって「あいまい」なのはこのせいだとおもう」(単行本p.88)

 というわけで、グローバル化とは別の世界観、比較文学的な視点、世界の多種多様な文化と文学を想像する力について、分かりやすく語ってくれる本です。もちろん、世界のあちこちに旅して珍しい本屋さんを尋ね歩いたことを書いたエッセイとして気軽に読んでも充分に面白い。

 個人的に強く心に残ったのは、読書ということの意義について。「ひとつの声、ひとつの形式、ひとつの原理、ひとつの価値基準だけが響いている世界など、フィクションであるということを認識し、表現して」(単行本p.14)いることばを、たんねんに誠実に読むことの大切さです。そのことは、ぜひ多くの人に伝えたいと、私もそう思うのです。

 「ことばで、ひとは動かされる。ヒト属ヒト科とはそういう動物である。 だからいま読む教育ほど大切なものはないと、先生稼業も20年近くなったわたしはおもっている。迂遠なことと笑われるかもしれない。だが読む。丁寧に。読む習慣のないひとと一緒に読む。深いことばを苦労して読んでもらう」(単行本p.125)

 「思慮深く力あることばを伝える、大切なことばに丁寧に耳を傾ける。それはひとが生きのびるために必要な、根源的な営みである」(単行本p.127)


タグ:中村和恵
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『ある女の家』(小野寺修二、カンパニーデラシネラ) [ダンス]

 2014年01月26日(日)は、夫婦で新国立劇場に行って、カンパニーデラシネラ初期作品の再演を鑑賞しました。小野寺修二さんを含む5人の出演者による、75分の公演です。

 舞台上には、階段式の巨大ゴミ屋敷、トレーラーハウス、枠組みだけの家といった、出演者が出入りする様々な「家」が置いてあります。他にも、テーブル、バスケットリングなど、舞台装置は多彩。

 うずたかく積み上げられたように見えるゴミ屋敷には、あちこちに仕掛けがあり、次に何が起きるか予測できないドキドキ感に満ちています。

 一貫したストーリーはなく、パントマイムの技法を様々に使いながら家あるいは家族にまつわる奇妙な出来事が描かれます。個々のシーンの面白さでつないでゆく作品で、全体の統一感は薄く、むしろ、とっ散らかった印象が強くなっています。

 「被害者」、「加害者」、「発見者」などの役を出演者が次々と交替しながら演じることで観客を幻惑するシーンなど、後の作品でも定番的に使われる演出は観ていてやっぱり楽しい。枠組みだけの家と「中の人」が連動して動くマイムも素敵でした。

 複数の出演者の一見バラバラで実は精密に組み立てられた動きが、時計仕掛けのように互いにカチリとかみ合って、パターンを形成してゆく快感。実に小野寺さんの作品らしさにあふれていて、いつも通り心踊ります。

 昨年末に梶原暁子さんが怪我のため降板したというお知らせがありましたが、そのためでしょうか、ダンスは少なめで、個人的には残念です。梶原暁子さんが豪快に踊るのを(そして藤田桃子さんと意味不明に結託するシーケンスを)観たかったなあと、そう思います。

[キャスト]

振付・演出: 小野寺修二
出演: 浅野和之、河内大和、竹内英明、藤田桃子、小野寺修二


タグ:小野寺修二
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『ひとびとひとり』(KENTARO!!) [ダンス]

 「寝ないでほしい。(中略)この作品は長くないから寝たら終わっちゃいます」

 2014年01月25日(土)は、夫婦でシアタートラムに行って、ヒップホップダンスの技法を活かしつつも個性的なコンテンポラリーダンスを踊ってみせるKENTARO!!さんのソロ公演を鑑賞しました。

 大道具も小道具も何もない舞台上で(正確には、照明を仕組んだマイクスタンドを使う短い場面がありましたが)、照明効果だけを使って踊るシンプルな公演です。

 煌々と照明が照らされるなかアップテンポなノリの良い曲でヒップホップ調にばんばん踊ってみせるかっこいいシーンと、暗い照明の下でじーんわり動くシーンが交互に繰り返されます。

 じんわりシーンでは、腕を触手のようにくねくね動かしたり、奇妙な足裁きで翻弄したり、床に寝ころんでぐねぐねうごめくワザなどもたっぷり含まれていて、あまり見たことがない動きが新鮮です。途中で引っ込むことなしに1時間、水も飲まずに出ずっぱり。最後の方では、うっかり咳き込んでしまうアクシデントも。観ているときは振付の一部だと思いましたが、終演後に自分で言っちゃうのがこの人らしさ。

 床に倒れては両手を使わずに下半身の筋肉だけで起き上がる、という無茶を繰り返すシーンなど体力温存すべきサイクルでも全力を出していたり、迷って悩んで試行錯誤しつつも左右観客席からまんべんなく見えるように気配りするとか、内面の揺れをストレートに出しているような雰囲気もあって、不思議とそこに心動かされます。

 私たちが鑑賞した日には、アンコールとして十年前の作品を披露してくれました。こちらはあまり迷いのないくっきりとしたドラマチックなダンスで、シンプルに盛り上がります。お得感たっぷり。


タグ:KENTARO!!
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