『ふたり誌 Duralmin』(岩垂由里子、中村梨々) [読書(小説・詩)]
岩垂由里子(丸亀たまき)さん、中村梨々さんによる、ふたり詩誌。同人誌発行は2019年11月です。
120ページほどの白いお洒落な詩誌です。構成が工夫されており、
左綴じの表紙は
「ジュラルミン 中村梨々、岩垂由里子」
となっており、左開きで読むと中村梨々さんの詩集となります。
右綴じの表紙は
「Duralmin Lilium autum Orbis」
となっており、右開きで読むと岩垂由里子(丸亀たまき)さんの詩集となります。
ラテン語知らないのですが、おそらく著者名のところは「リリとタマ」というお二人の愛称なのでしょう。
『ジュラルミン 中村梨々、岩垂由里子』
――――
海に捨てるのが一番いいような気がするけど
海から生まれた私を海に捨てるのは
返すとおなじことだから
できれば
全然違う場所に
一本の木がぽつんとたっているようなところに
返すことにならない場所に
できれば
私を捨てたい
もう誰も拾わないですむように
――――
「テネレの砂」より
――――
きみは いつも ひとつじゃなくて
いちどに あらわれる
さんそがおおすぎても つたえられない
もいちど よそおって みる
てのひらを うえに
そらを したに
じめん を およぐ くじら
――――
「さみしいときは、たてにくしざして」より
――――
こうしにのって
なまくりーむのとうきょへ
いくわ
あたしはいつか
とうきょの
にゅうぎゅうに
ちゅうする
くちびるにくっついた
しろっぷを
したでなめる
――――
「よるはこうしにのって」より
『Duralmin Lilium autum Orbis』
――――
夏を欠落で片付けたものへの罰として
いくつもの欠落を紅でかさねた彼岸花
後ろ手に閉ざして去りたいはげしさが
どこまでも眼前にひろがる
たしかめがたい神経を浅く深くゆすり
穂へとふくらませ渦巻かせてゆく
高みのひとりに捧げる白髪のように
――――
「彼岸花」より
――――
さぁっと
風ひとすじに燃える紅葉の
向かいに紐のごとく立つ
自ら引けば明りはともるが
結び目が流れを堰くかも知れぬ
鬼灯をひびかせるうつろが潰れるかも知れぬ
――――
「紅葉」より
――――
元気を出そう 黙々と歩
行訓練を行う患者達の往還は 物理的な反復
が精神的な回遊の起動因となること 反復が
個性を 個性が反復を支えることを示してい
る 元気を出そう 高層ビルの窓は青く オ
フィスの人々は茶柱のようだ 不謹慎? 癒
えるためには ヒトの大群にも瑞兆を見よう
ここにいう元気とは高笑いの類ではない
人間は様相を変えるだけで たやすく割れは
しない 空のように ついに砕け散ったとし
ても 空にかえってひとつになる と確信し
て ため息を深呼吸とよぶ楽観である
――――
「空元気」より
120ページほどの白いお洒落な詩誌です。構成が工夫されており、
左綴じの表紙は
「ジュラルミン 中村梨々、岩垂由里子」
となっており、左開きで読むと中村梨々さんの詩集となります。
右綴じの表紙は
「Duralmin Lilium autum Orbis」
となっており、右開きで読むと岩垂由里子(丸亀たまき)さんの詩集となります。
ラテン語知らないのですが、おそらく著者名のところは「リリとタマ」というお二人の愛称なのでしょう。
『ジュラルミン 中村梨々、岩垂由里子』
――――
海に捨てるのが一番いいような気がするけど
海から生まれた私を海に捨てるのは
返すとおなじことだから
できれば
全然違う場所に
一本の木がぽつんとたっているようなところに
返すことにならない場所に
できれば
私を捨てたい
もう誰も拾わないですむように
――――
「テネレの砂」より
――――
きみは いつも ひとつじゃなくて
いちどに あらわれる
さんそがおおすぎても つたえられない
もいちど よそおって みる
てのひらを うえに
そらを したに
じめん を およぐ くじら
――――
「さみしいときは、たてにくしざして」より
――――
こうしにのって
なまくりーむのとうきょへ
いくわ
あたしはいつか
とうきょの
にゅうぎゅうに
ちゅうする
くちびるにくっついた
しろっぷを
したでなめる
――――
「よるはこうしにのって」より
『Duralmin Lilium autum Orbis』
――――
夏を欠落で片付けたものへの罰として
いくつもの欠落を紅でかさねた彼岸花
後ろ手に閉ざして去りたいはげしさが
どこまでも眼前にひろがる
たしかめがたい神経を浅く深くゆすり
穂へとふくらませ渦巻かせてゆく
高みのひとりに捧げる白髪のように
――――
「彼岸花」より
――――
さぁっと
風ひとすじに燃える紅葉の
向かいに紐のごとく立つ
自ら引けば明りはともるが
結び目が流れを堰くかも知れぬ
鬼灯をひびかせるうつろが潰れるかも知れぬ
――――
「紅葉」より
――――
元気を出そう 黙々と歩
行訓練を行う患者達の往還は 物理的な反復
が精神的な回遊の起動因となること 反復が
個性を 個性が反復を支えることを示してい
る 元気を出そう 高層ビルの窓は青く オ
フィスの人々は茶柱のようだ 不謹慎? 癒
えるためには ヒトの大群にも瑞兆を見よう
ここにいう元気とは高笑いの類ではない
人間は様相を変えるだけで たやすく割れは
しない 空のように ついに砕け散ったとし
ても 空にかえってひとつになる と確信し
て ため息を深呼吸とよぶ楽観である
――――
「空元気」より
『驚異の量子コンピュータ 宇宙最強マシンへの挑戦』(藤井啓祐) [読書(サイエンス)]
――――
壮大な夢を謳い、ひと昔前まで実現不可能とまで言われていた量子コンピュータを取り巻く環境は、ここ数年で完全に変貌をとげてしまった。
本書の校了を間近に控えたまさにこの瞬間にも、従来コンピュータの頂点に立つスーパーコンピュータが1万年かかる計算をグーグルが開発した量子コンピュータは数分でやってのけてしまうという驚異的な潜在能力が実証されたという発表があった。人類史上はじめて量子力学の原理で動くコンピュータが従来のコンピュータに対して数学的にきちんと定式化された問題において圧勝するという歴史的瞬間、量子超越性を達成したというのだ。私は、この論文の査読をした3人の研究者のうちの一人である。
――――
スーパーコンピュータで何万年もかかる計算を数分で解いてしまう驚異の量子コンピュータ。その量子超越性がついに達成されたという。それは厳密にはどういうことなのか。社会や他研究分野に対するインパクトは。量子コンピュータの基本原理から最前線研究まで一般向けに分かりやすく解説してくれる興奮の一冊。単行本(岩波書店)出版は2019年11月です。
専門的な内容も含まれますが、とにかく熱い言葉の数々に興奮しつつ、どんどん読み進めることが出来る本です。
「物理法則で作りうる最強のマシン」
「拡張チャーチ=チューリングのテーゼを我々の物理法則は破ることができるのか?」
「量子力学が持つ、量子コンピュータを作り上げろと言わんばかりの、奇跡的に美しい構造」
「インターネット経由で誰もが「量子の直感に基づいた経験」を積める時代」
「量子ネイティブ世代による物理世界の量子ハッキング」
「宇宙をハックせよ」
――――
アダマール演算、CNOT演算、位相回転演算を組み合わせることによって量子力学で許されたどのような計算も実行することができる。つまり、これらは量子コンピュータのための万能演算となっており、これらを実行できる量子コンピュータは、万能量子コンピュータと呼ばれている。つまり、確率振幅の波を分けたりひっくり返したりねじったりすることでどのような複雑な波も作れるということだ。
量子力学という自然を記述する最も基本的な枠組みにおいて、許されたすべての操作が実行できるコンピュータなので、万能量子コンピュータは、宇宙最強のコンピュータであるといえよう。
――――
単行本p.85
〔目次〕
1章 量子力学の誕生
2章 コンピュータと物理法則
3章 量子コンピュータの夜明け前
4章 量子情報と量子ビット
5章 量子コンピュータのからくり
6章 量子とノイズのせめぎ合い
7章 ブレイクスルー
8章 量子超越をめざして
9章 量子コンピュータはスパコンに勝てるのか?
10章 宇宙をハッキングする
1章 量子力学の誕生
2章 コンピュータと物理法則
3章 量子コンピュータの夜明け前
――――
「計算にはエネルギーが必要であろうか?」という素朴な問いかけは情報科学の知見だけから答えることはできなかった。情報処理を行う物理系に視点を戻し、その物理系が従う物理法則にお伺いを立てる必要が再び出てくることになった。これが、1920年代の量子力学の確立に始まる現代物理学、そして1930年代に始まり、我々の日常生活のあり方を完全に変えることとなった情報科学の再会の瞬間である。
――――
単行本p.30
まず量子力学、続いて情報科学の基礎をおさらいします。その上で、量子コンピュータの源流ともいえる、両者の「再会」について解説します。
4章 量子情報と量子ビット
――――
古典的な直感では説明できない現象というのは、不思議であるだけでなく、従来の古典情報処理ではできないことを可能にしてくれる。そして、現在では、量子情報分野の研究者たちは、これらの現象を当たり前のことのように受け入れ、それを応用している。宇宙物理学分野の著名な研究者である佐藤文隆先生の言葉を借りると、まさに、「不思議とは古い理論への執着であり、技術とは不思議を制御すること」なのである。
――――
単行本p.62
状態の重ね合わせとエンタングルメントを利用する量子ビット。その基本原理から始まって、核スピン量子ビット、超伝導量子ビット、イオントラップ、半導体量子ビット、光量子ビットなど、量子ビットを実現するための様々な技術を解説します。
5章 量子コンピュータのからくり
――――
量子コンピュータの創成期においては、情報と物理の融合領域に魅せられた一握りの先駆的な研究者が量子コンピュータの研究を行っていた。しかし90年代に入り、一つのブレイクスルーによって量子コンピュータに多くの研究者が興味をもつようになった。当時ベル研究所にいたMITの数学者ピーター・ショアが、素因数分解という誰でもよく知っている問題について指数関数的に高速に答えを見つけ出す量子アルゴリズムを見つけたのだ。
(中略)
ショアによる素因数分解アルゴリズムは、二つの意味で驚異的であった。一つは、それまで難しいと信じられ、暗号の安全性の拠り所としてきた素因数分解問題が、量子コンピュータによって簡単に解くことができてしまうということ。二つ目は、チューリングの提案以降、最も一般的であり、それを超える計算モデルが現実世界には存在しないと考えられてきたチューリングマシンに対して、量的に性能を上回る計算モデルが見つかったことである。(中略)ショアによる素因数分解アルゴリズムの発見は、多くの計算機科学者と物理学者に大きなインパクトを与え、量子コンピュータ研究を情報と物理という極めて異質な二つの分野が交わる学際領域の最先端研究へと一気に引き上げた。
――――
単行本p.87、90、91
量子ビットを用いて実際にどのようにして演算を行うのか。その基本原理から、ゲート型、測定型、断熱型など量子コンピュータの演算機能を構成するための様々な方式を紹介。さらに、量子コンピュータによって素因数分解問題を高速に解くことが出来る、という発見が与えたインパクトを解説します。
6章 量子とノイズのせめぎ合い
――――
量子コンピュータをノイズから守ることができるか? といった問いかけは、単なる工学的に精度を改善できるかという問題をはるかに超えていた。量子コンピュータが物理法則で作りうる最強のマシンでありえるのか? 拡張チャーチ=チューリングのテーゼを我々の物理法則は破ることができるのか? という重要な問題の根幹につながる問いだった。
(中略)
量子力学は、デジタルとアナログが両立するように、奇跡的に美しい構造をとっている。まさに、量子コンピュータを作り上げろと言わんばかりである。著者がこれをはじめて知った時、鳥肌が立ったことを今でも覚えている。
――――
単行本p.98、103
原理的に構成可能だと示されたとはいえ、実際に量子コンピュータを実装しようとするとノイズの壁にぶち当たる。冗長化することで信頼性を上げられる古典コンピュータと違って、原理的に複製が出来ない量子情報に生ずるエラーをどのようにして回復すればよいのか。量子コンピュータ実装への道を切り開いた、量子誤り訂正の発見について解説します。
7章 ブレイクスルー
――――
マルチネスがグーグルとNASAのチームと共同研究していたことは知っていたので、「グーグルなんかが量子コンピュータを本当に実現するための研究所を作ってくれないですかね?」と冗談半分で言ったことをよく覚えている。その時は肯定しなかったが、まさかそれがすぐに現実になるとはまったく思っていなかった。(中略)技術的詳細を専門家から聞いたグーグルはマルチネスをグループごと取り込み、独自に超伝導量子ビットを開発し、万能量子コンピュータを目指す方向に舵をきったのである。
――――
単行本p.116、117
ついに始まった量子コンピュータ開発競争。グーグル・IBM・マイクロソフトなどIT大手、様々な量子ベンチャー企業、そしてEU・英国・米国・中国・オランダ・シンガポール・カナダなどの各国政府。それぞれのプレイヤーたちの動きを追います。
8章 量子超越をめざして
――――
ビットコインが暴落したり、暗号がすべて解読されてしまうという不安は明らかに行き過ぎた反応である。しかしながら、このような現在の量子コンピュータの現状を踏まえても、今回のグーグルの成果は科学技術史上重大な成果である。量子力学の原理で動作し、プログラム可能で万能性があり、数学的にきちんと計算ルールを記述することができ、従来のコンピュータ上でシミュレーションを行う最速アルゴリズムでも量子ビット数や計算ステップ数に対して指数関数的に時間を要するような計算をするマシンを史上はじめて実現し、スーパーコンピュータよりも速く特定のタスクを実行できることが実験的に示されたのだ。
――――
単行本p.133
ついに達成された量子超越性。それはどのような意味を持つのか。どうやって検証したのか。量子コンピュータ開発の現状の到達点を紹介します。
9章 量子コンピュータはスパコンに勝てるのか?
――――
いずれにせよ、NISQマシンが、実用的な問題において古典コンピュータを凌駕する量子コンピュータたりえるのか、もしくは、誤り耐性のある真の量子コンピュータへの過渡期なのか、これからの進展から目が離せない。
――――
単行本p.147
すでに実現している量子アニーリングマシン、近い将来に実現するであろうNISQマシンなど量子コンピュータ開発の現状とロードマップをまとめ、どの段階で古典スーパーコンピュータを実用的な意味で凌駕するのかを論じます。
10章 宇宙をハッキングする
――――
誰もがインターネット経由で量子コンピュータを動かし、その不思議を気軽に経験し、「量子の直感に基づいた経験」を積むことができる時代になってきている。このように身近に量子に接して育った、量子ネイティブ世代が量子の不思議を乗り越え、それを当たり前のように使いこなすような時代がそこまできている。量子ネイティブたちが量子コンピュータをハックすることによって、物理法則が織りなす複雑な世界の新たな知見を得、情報処理のパラダイムを根底から変えてしまうことを期待したい。
――――
単行本p.160
量子コンピュータが実用化された後はどのような時代になるのか。量子ネイティブ世代の技術者たちによる物理世界の量子ハッキングは何を実現するのだろう。量子コンピュータ時代の展望を語ります。
壮大な夢を謳い、ひと昔前まで実現不可能とまで言われていた量子コンピュータを取り巻く環境は、ここ数年で完全に変貌をとげてしまった。
本書の校了を間近に控えたまさにこの瞬間にも、従来コンピュータの頂点に立つスーパーコンピュータが1万年かかる計算をグーグルが開発した量子コンピュータは数分でやってのけてしまうという驚異的な潜在能力が実証されたという発表があった。人類史上はじめて量子力学の原理で動くコンピュータが従来のコンピュータに対して数学的にきちんと定式化された問題において圧勝するという歴史的瞬間、量子超越性を達成したというのだ。私は、この論文の査読をした3人の研究者のうちの一人である。
――――
スーパーコンピュータで何万年もかかる計算を数分で解いてしまう驚異の量子コンピュータ。その量子超越性がついに達成されたという。それは厳密にはどういうことなのか。社会や他研究分野に対するインパクトは。量子コンピュータの基本原理から最前線研究まで一般向けに分かりやすく解説してくれる興奮の一冊。単行本(岩波書店)出版は2019年11月です。
専門的な内容も含まれますが、とにかく熱い言葉の数々に興奮しつつ、どんどん読み進めることが出来る本です。
「物理法則で作りうる最強のマシン」
「拡張チャーチ=チューリングのテーゼを我々の物理法則は破ることができるのか?」
「量子力学が持つ、量子コンピュータを作り上げろと言わんばかりの、奇跡的に美しい構造」
「インターネット経由で誰もが「量子の直感に基づいた経験」を積める時代」
「量子ネイティブ世代による物理世界の量子ハッキング」
「宇宙をハックせよ」
――――
アダマール演算、CNOT演算、位相回転演算を組み合わせることによって量子力学で許されたどのような計算も実行することができる。つまり、これらは量子コンピュータのための万能演算となっており、これらを実行できる量子コンピュータは、万能量子コンピュータと呼ばれている。つまり、確率振幅の波を分けたりひっくり返したりねじったりすることでどのような複雑な波も作れるということだ。
量子力学という自然を記述する最も基本的な枠組みにおいて、許されたすべての操作が実行できるコンピュータなので、万能量子コンピュータは、宇宙最強のコンピュータであるといえよう。
――――
単行本p.85
〔目次〕
1章 量子力学の誕生
2章 コンピュータと物理法則
3章 量子コンピュータの夜明け前
4章 量子情報と量子ビット
5章 量子コンピュータのからくり
6章 量子とノイズのせめぎ合い
7章 ブレイクスルー
8章 量子超越をめざして
9章 量子コンピュータはスパコンに勝てるのか?
10章 宇宙をハッキングする
1章 量子力学の誕生
2章 コンピュータと物理法則
3章 量子コンピュータの夜明け前
――――
「計算にはエネルギーが必要であろうか?」という素朴な問いかけは情報科学の知見だけから答えることはできなかった。情報処理を行う物理系に視点を戻し、その物理系が従う物理法則にお伺いを立てる必要が再び出てくることになった。これが、1920年代の量子力学の確立に始まる現代物理学、そして1930年代に始まり、我々の日常生活のあり方を完全に変えることとなった情報科学の再会の瞬間である。
――――
単行本p.30
まず量子力学、続いて情報科学の基礎をおさらいします。その上で、量子コンピュータの源流ともいえる、両者の「再会」について解説します。
4章 量子情報と量子ビット
――――
古典的な直感では説明できない現象というのは、不思議であるだけでなく、従来の古典情報処理ではできないことを可能にしてくれる。そして、現在では、量子情報分野の研究者たちは、これらの現象を当たり前のことのように受け入れ、それを応用している。宇宙物理学分野の著名な研究者である佐藤文隆先生の言葉を借りると、まさに、「不思議とは古い理論への執着であり、技術とは不思議を制御すること」なのである。
――――
単行本p.62
状態の重ね合わせとエンタングルメントを利用する量子ビット。その基本原理から始まって、核スピン量子ビット、超伝導量子ビット、イオントラップ、半導体量子ビット、光量子ビットなど、量子ビットを実現するための様々な技術を解説します。
5章 量子コンピュータのからくり
――――
量子コンピュータの創成期においては、情報と物理の融合領域に魅せられた一握りの先駆的な研究者が量子コンピュータの研究を行っていた。しかし90年代に入り、一つのブレイクスルーによって量子コンピュータに多くの研究者が興味をもつようになった。当時ベル研究所にいたMITの数学者ピーター・ショアが、素因数分解という誰でもよく知っている問題について指数関数的に高速に答えを見つけ出す量子アルゴリズムを見つけたのだ。
(中略)
ショアによる素因数分解アルゴリズムは、二つの意味で驚異的であった。一つは、それまで難しいと信じられ、暗号の安全性の拠り所としてきた素因数分解問題が、量子コンピュータによって簡単に解くことができてしまうということ。二つ目は、チューリングの提案以降、最も一般的であり、それを超える計算モデルが現実世界には存在しないと考えられてきたチューリングマシンに対して、量的に性能を上回る計算モデルが見つかったことである。(中略)ショアによる素因数分解アルゴリズムの発見は、多くの計算機科学者と物理学者に大きなインパクトを与え、量子コンピュータ研究を情報と物理という極めて異質な二つの分野が交わる学際領域の最先端研究へと一気に引き上げた。
――――
単行本p.87、90、91
量子ビットを用いて実際にどのようにして演算を行うのか。その基本原理から、ゲート型、測定型、断熱型など量子コンピュータの演算機能を構成するための様々な方式を紹介。さらに、量子コンピュータによって素因数分解問題を高速に解くことが出来る、という発見が与えたインパクトを解説します。
6章 量子とノイズのせめぎ合い
――――
量子コンピュータをノイズから守ることができるか? といった問いかけは、単なる工学的に精度を改善できるかという問題をはるかに超えていた。量子コンピュータが物理法則で作りうる最強のマシンでありえるのか? 拡張チャーチ=チューリングのテーゼを我々の物理法則は破ることができるのか? という重要な問題の根幹につながる問いだった。
(中略)
量子力学は、デジタルとアナログが両立するように、奇跡的に美しい構造をとっている。まさに、量子コンピュータを作り上げろと言わんばかりである。著者がこれをはじめて知った時、鳥肌が立ったことを今でも覚えている。
――――
単行本p.98、103
原理的に構成可能だと示されたとはいえ、実際に量子コンピュータを実装しようとするとノイズの壁にぶち当たる。冗長化することで信頼性を上げられる古典コンピュータと違って、原理的に複製が出来ない量子情報に生ずるエラーをどのようにして回復すればよいのか。量子コンピュータ実装への道を切り開いた、量子誤り訂正の発見について解説します。
7章 ブレイクスルー
――――
マルチネスがグーグルとNASAのチームと共同研究していたことは知っていたので、「グーグルなんかが量子コンピュータを本当に実現するための研究所を作ってくれないですかね?」と冗談半分で言ったことをよく覚えている。その時は肯定しなかったが、まさかそれがすぐに現実になるとはまったく思っていなかった。(中略)技術的詳細を専門家から聞いたグーグルはマルチネスをグループごと取り込み、独自に超伝導量子ビットを開発し、万能量子コンピュータを目指す方向に舵をきったのである。
――――
単行本p.116、117
ついに始まった量子コンピュータ開発競争。グーグル・IBM・マイクロソフトなどIT大手、様々な量子ベンチャー企業、そしてEU・英国・米国・中国・オランダ・シンガポール・カナダなどの各国政府。それぞれのプレイヤーたちの動きを追います。
8章 量子超越をめざして
――――
ビットコインが暴落したり、暗号がすべて解読されてしまうという不安は明らかに行き過ぎた反応である。しかしながら、このような現在の量子コンピュータの現状を踏まえても、今回のグーグルの成果は科学技術史上重大な成果である。量子力学の原理で動作し、プログラム可能で万能性があり、数学的にきちんと計算ルールを記述することができ、従来のコンピュータ上でシミュレーションを行う最速アルゴリズムでも量子ビット数や計算ステップ数に対して指数関数的に時間を要するような計算をするマシンを史上はじめて実現し、スーパーコンピュータよりも速く特定のタスクを実行できることが実験的に示されたのだ。
――――
単行本p.133
ついに達成された量子超越性。それはどのような意味を持つのか。どうやって検証したのか。量子コンピュータ開発の現状の到達点を紹介します。
9章 量子コンピュータはスパコンに勝てるのか?
――――
いずれにせよ、NISQマシンが、実用的な問題において古典コンピュータを凌駕する量子コンピュータたりえるのか、もしくは、誤り耐性のある真の量子コンピュータへの過渡期なのか、これからの進展から目が離せない。
――――
単行本p.147
すでに実現している量子アニーリングマシン、近い将来に実現するであろうNISQマシンなど量子コンピュータ開発の現状とロードマップをまとめ、どの段階で古典スーパーコンピュータを実用的な意味で凌駕するのかを論じます。
10章 宇宙をハッキングする
――――
誰もがインターネット経由で量子コンピュータを動かし、その不思議を気軽に経験し、「量子の直感に基づいた経験」を積むことができる時代になってきている。このように身近に量子に接して育った、量子ネイティブ世代が量子の不思議を乗り越え、それを当たり前のように使いこなすような時代がそこまできている。量子ネイティブたちが量子コンピュータをハックすることによって、物理法則が織りなす複雑な世界の新たな知見を得、情報処理のパラダイムを根底から変えてしまうことを期待したい。
――――
単行本p.160
量子コンピュータが実用化された後はどのような時代になるのか。量子ネイティブ世代の技術者たちによる物理世界の量子ハッキングは何を実現するのだろう。量子コンピュータ時代の展望を語ります。
タグ:その他(サイエンス)
『深淵と浮遊 現代作家自己ベストセレクション』(伊藤比呂美、穂村弘、町田康、他、高原英理:編集) [読書(小説・詩)]
――――
これまでいくつかアンソロジーを編んできて、ほぼどれもありがたい反響をいただき、よい仕事をしたと自負もしているが、ただ、ときに内心忸怩たる思いがないではなかった。どこまでいってもこの自分の視点からしか見られないことの無念である。自分のまるで考えもしなかった視界を開く方法はないか。
こうして当アンソロジーのプランは生まれた。参加していただける個々の作家の決定にお任せする。それは私などの狭い先入観を裏切って思いもよらない豊穣な結果を生むだろう。ご覧いただきたい。
――――
文庫版p.317
シリーズ“町田康を読む!”第69回。
町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、作家が選んだ自己ベストを集めたアンソロジーに収録された作品。文庫版(講談社)出版は2019年12月です。
〔収録作品〕
『読み解き「懺悔文」 女がひとり、海千山千になるまで』(伊藤比呂美)
『愛犬ベネディクト』(小川洋子)
『ブルトンの遺言』(高原英理)
『胞子』(多和田葉子)
『ペニスに命中』(筒井康隆)
『瓦礫の陰に』(古井由吉)
『いろいろ』(穂村弘)
『のぼりとのスナフキン』(堀江敏幸)
『逆水戸』(町田康)
『間食』(山田詠美)
『読み解き「懺悔文」 女がひとり、海千山千になるまで』(伊藤比呂美)
――――
経本の何にひかれたかといって、あたしの場合は書かれた音だ。こうよみなさいと何も知らぬ人々に、教えしめすそのふりがなだ。
それはもう何語でもない。ことばですらないかもしれない。翻訳に翻訳をかさね、人の声に声をかさねて、実体のわからなくなってしまった音。そこに、人の心、悔いる心だけが残る。
――――
文庫本p.16
「歩いてきた道を振り返れば、死屍累々。貪もあった。瞋もあった。つまり、もっと欲しいとむさぼる心と、思いのままにならぬをいかる心が、いつもあった」
自身の人生に重ねるように、血を流しながら般若心経を読み解いてゆく『読み解き「般若心経」』の一部。罵った、殺した、見捨てた、ひどいことをした。最低であった。自身の業を吐露するようにして「懺悔文」を語り直してゆく。
『愛犬ベネディクト』(小川洋子)
――――
ベネディクトの背中は滑らかで、ふかふかして、お茶よりも暖炉よりも温かい。このままいつまででも撫でていたい、と思わせてくれる種類の温かさがそこにある。ベネディクトは少しも迷惑そうにしない。それどころか、
「ええ、いいのです。いつまででもいいのです。私の背中はそのためにあるのですから」
というかのように、じっとされるがままになっている。
ベネディクトさえいれば、何の心配もいらない。妹はそんな気分になる。体はおくるみに包まれている。一針一針レースで編まれた、妹の全身をぐるりとくるんでもまだゆとりのある、たっぷりとしたおくるみだ。編目には母親の指の感触が残っている。妹は目を閉じる。どこまでも深くおくるみの奥で、小さく小さくなってゆく。
――――
文庫本p.51
自室に引きこもってひたすらドールハウスを作り続けている妹が、数日間の入院のあいだ、兄である語り手に愛犬ベネディクトの世話を頼む。ベネディクトは陶器の犬だが、兄は餌をやったり散歩させたりと真面目に世話をする。やがて読者のなかに「もしや妹など存在せず、妹やベネディクトを含むドールハウスを作っているのはこの兄ではないのか」という疑念が芽生えてくる。あるいは逆に兄こそが妹の妄想の一部ではないのかと。だがどこかに着地するような無粋なことはなく、物語は幻想のなかをふわふわと幸福に漂い続ける。
『いろいろ』(穂村弘)
――――
「共感(シンパシー)」と「驚異(ワンダー)」、言語表現を支えるこれらふたつの要素のうち、「泣ける」本、「笑える」本を求める読者は、圧倒的に「共感」優位の読み方をしているのだろう。言葉のなかに「驚異」など求めていないのだ。
そして詩歌は「共感」よりも「驚異」との親和性が高い。だから敬遠される。例外的に読まれるのは、作品の背後に、「共感」しやすい物語がある場合である。作者が不治の病とか心中したとか獄中の死刑囚とか、それらが「共感」面での補強要素として作用するわけだ。
――――
文庫本p.212
短歌とエッセイの詰め合わせセット。自選短歌を二百首以上も収録した上に、エッセイ「奈良と鹿」「シラタキ」「来れ好敵手」「トマジュー」「共感と驚異」を収録。入門書としても最適。
『のぼりとのスナフキン』(堀江敏幸)
――――
どんな土地を歩きまわろうと、帰るべき場所を必要としている私が憧れのスナフキンになれないのはもはや明らかだ。「塔の家」ならぬ「ムーミンやしき」の間取りが気に掛かるのも、こちらが本質的には定住者に属するからなのだろう。あのつつましい屋敷は、捨て子だったムーミンパパを代表格とする魂の冒険者たちにとって、いかにも快適な係留地なのである。小説を書いているらしい夢想家のムーミンパパも、かつては大いなる旅に身を任せた漂泊者だった。だが帰るべき場所があるかぎり、漂泊は甘えにすぎない。たとえ文章のなかであれ甘えの別名である漂泊の真似事を許した身に、スナフキンの孤独を理解できるはずもないのである。
――――
文庫本p.230
「「のぼりとでおりる」という語義矛盾を実践したいから」「町への入口ではなくたんなる通過点に貶められている風情の、どことなく不遇な匂いの漂う駅」に下りた語り手は、ムーミンに登場するスナフキンのことを考える。自分は、憧れのスナフキンにはなれないという諦念。
『逆水戸』(町田康)
――――
田垣は迷妄の淵に迷いこんで戻ってこられなくなったのであろうか。しかし誰が知ろう神の心、誰が知ろう仏の心を。そんなこととは無関係に、誰もがわめき散らしたくなるような貞享三年の四月の夜は更けていき、翌日になるとふざけたような太陽が昇って、箸にも棒にもかからぬ呆れ果てた里山に新緑のどあほうがまた芽吹いてきやがるのだ。なにやってんだまったく。
――――
文庫本p.277
「誰もがむやみに人を殴りたくなるような貞享三年四月。腐ったような里山に新緑のぼけが芽吹いていやがった。なめているのか」
安心して思考停止できることがウリのテレビ番組を題材に、どんどん暴走させてゆくパンク時代劇。水戸黄門の定型を外すことから生ずる何とも言えない気まずさ。そこからすべてをぶっ千切ってゆく狂騒へと突き進み、ふと我にかえって、なにやってんだまったく、と。
これまでいくつかアンソロジーを編んできて、ほぼどれもありがたい反響をいただき、よい仕事をしたと自負もしているが、ただ、ときに内心忸怩たる思いがないではなかった。どこまでいってもこの自分の視点からしか見られないことの無念である。自分のまるで考えもしなかった視界を開く方法はないか。
こうして当アンソロジーのプランは生まれた。参加していただける個々の作家の決定にお任せする。それは私などの狭い先入観を裏切って思いもよらない豊穣な結果を生むだろう。ご覧いただきたい。
――――
文庫版p.317
シリーズ“町田康を読む!”第69回。
町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、作家が選んだ自己ベストを集めたアンソロジーに収録された作品。文庫版(講談社)出版は2019年12月です。
〔収録作品〕
『読み解き「懺悔文」 女がひとり、海千山千になるまで』(伊藤比呂美)
『愛犬ベネディクト』(小川洋子)
『ブルトンの遺言』(高原英理)
『胞子』(多和田葉子)
『ペニスに命中』(筒井康隆)
『瓦礫の陰に』(古井由吉)
『いろいろ』(穂村弘)
『のぼりとのスナフキン』(堀江敏幸)
『逆水戸』(町田康)
『間食』(山田詠美)
『読み解き「懺悔文」 女がひとり、海千山千になるまで』(伊藤比呂美)
――――
経本の何にひかれたかといって、あたしの場合は書かれた音だ。こうよみなさいと何も知らぬ人々に、教えしめすそのふりがなだ。
それはもう何語でもない。ことばですらないかもしれない。翻訳に翻訳をかさね、人の声に声をかさねて、実体のわからなくなってしまった音。そこに、人の心、悔いる心だけが残る。
――――
文庫本p.16
「歩いてきた道を振り返れば、死屍累々。貪もあった。瞋もあった。つまり、もっと欲しいとむさぼる心と、思いのままにならぬをいかる心が、いつもあった」
自身の人生に重ねるように、血を流しながら般若心経を読み解いてゆく『読み解き「般若心経」』の一部。罵った、殺した、見捨てた、ひどいことをした。最低であった。自身の業を吐露するようにして「懺悔文」を語り直してゆく。
『愛犬ベネディクト』(小川洋子)
――――
ベネディクトの背中は滑らかで、ふかふかして、お茶よりも暖炉よりも温かい。このままいつまででも撫でていたい、と思わせてくれる種類の温かさがそこにある。ベネディクトは少しも迷惑そうにしない。それどころか、
「ええ、いいのです。いつまででもいいのです。私の背中はそのためにあるのですから」
というかのように、じっとされるがままになっている。
ベネディクトさえいれば、何の心配もいらない。妹はそんな気分になる。体はおくるみに包まれている。一針一針レースで編まれた、妹の全身をぐるりとくるんでもまだゆとりのある、たっぷりとしたおくるみだ。編目には母親の指の感触が残っている。妹は目を閉じる。どこまでも深くおくるみの奥で、小さく小さくなってゆく。
――――
文庫本p.51
自室に引きこもってひたすらドールハウスを作り続けている妹が、数日間の入院のあいだ、兄である語り手に愛犬ベネディクトの世話を頼む。ベネディクトは陶器の犬だが、兄は餌をやったり散歩させたりと真面目に世話をする。やがて読者のなかに「もしや妹など存在せず、妹やベネディクトを含むドールハウスを作っているのはこの兄ではないのか」という疑念が芽生えてくる。あるいは逆に兄こそが妹の妄想の一部ではないのかと。だがどこかに着地するような無粋なことはなく、物語は幻想のなかをふわふわと幸福に漂い続ける。
『いろいろ』(穂村弘)
――――
「共感(シンパシー)」と「驚異(ワンダー)」、言語表現を支えるこれらふたつの要素のうち、「泣ける」本、「笑える」本を求める読者は、圧倒的に「共感」優位の読み方をしているのだろう。言葉のなかに「驚異」など求めていないのだ。
そして詩歌は「共感」よりも「驚異」との親和性が高い。だから敬遠される。例外的に読まれるのは、作品の背後に、「共感」しやすい物語がある場合である。作者が不治の病とか心中したとか獄中の死刑囚とか、それらが「共感」面での補強要素として作用するわけだ。
――――
文庫本p.212
短歌とエッセイの詰め合わせセット。自選短歌を二百首以上も収録した上に、エッセイ「奈良と鹿」「シラタキ」「来れ好敵手」「トマジュー」「共感と驚異」を収録。入門書としても最適。
『のぼりとのスナフキン』(堀江敏幸)
――――
どんな土地を歩きまわろうと、帰るべき場所を必要としている私が憧れのスナフキンになれないのはもはや明らかだ。「塔の家」ならぬ「ムーミンやしき」の間取りが気に掛かるのも、こちらが本質的には定住者に属するからなのだろう。あのつつましい屋敷は、捨て子だったムーミンパパを代表格とする魂の冒険者たちにとって、いかにも快適な係留地なのである。小説を書いているらしい夢想家のムーミンパパも、かつては大いなる旅に身を任せた漂泊者だった。だが帰るべき場所があるかぎり、漂泊は甘えにすぎない。たとえ文章のなかであれ甘えの別名である漂泊の真似事を許した身に、スナフキンの孤独を理解できるはずもないのである。
――――
文庫本p.230
「「のぼりとでおりる」という語義矛盾を実践したいから」「町への入口ではなくたんなる通過点に貶められている風情の、どことなく不遇な匂いの漂う駅」に下りた語り手は、ムーミンに登場するスナフキンのことを考える。自分は、憧れのスナフキンにはなれないという諦念。
『逆水戸』(町田康)
――――
田垣は迷妄の淵に迷いこんで戻ってこられなくなったのであろうか。しかし誰が知ろう神の心、誰が知ろう仏の心を。そんなこととは無関係に、誰もがわめき散らしたくなるような貞享三年の四月の夜は更けていき、翌日になるとふざけたような太陽が昇って、箸にも棒にもかからぬ呆れ果てた里山に新緑のどあほうがまた芽吹いてきやがるのだ。なにやってんだまったく。
――――
文庫本p.277
「誰もがむやみに人を殴りたくなるような貞享三年四月。腐ったような里山に新緑のぼけが芽吹いていやがった。なめているのか」
安心して思考停止できることがウリのテレビ番組を題材に、どんどん暴走させてゆくパンク時代劇。水戸黄門の定型を外すことから生ずる何とも言えない気まずさ。そこからすべてをぶっ千切ってゆく狂騒へと突き進み、ふと我にかえって、なにやってんだまったく、と。
『音楽の捧げもの』(勅使川原三郎、佐東利穂子) [ダンス]
2020年1月18日は、夫婦でKARAS APPARATUSに行って勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんの公演を鑑賞しました。バッハの「音楽の捧げもの」を二人で踊る上演時間1時間ほどの作品です。
冒頭と最後にスカルラッティの声楽曲が配置されます。それに挟まれるようにしてバッハ「音楽の捧げもの」が流れ、勅勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんがダンスで「合奏」してゆきます。
無から形が世界が立ち現れてくるようなダンス、海中で最初の生命が生まれ出るようなダンス。二人のダンスが合わさって、視覚的な音楽となって流れゆく様子を、まざまざと見つめることに。
畏れや不安、情熱や切なさ、滑稽さ、畏怖の念。様々に感情を揺さぶられる作品です。全体的に音楽とダンスに対する真摯さ敬虔さが強く感じられ、胸を打ちます。動きや演出のバリエーションも豊富。新年最初に観たKARAS APPARATUS公演がこの作品で良かった。今年もなるべくたくさん観ようと思います。
冒頭と最後にスカルラッティの声楽曲が配置されます。それに挟まれるようにしてバッハ「音楽の捧げもの」が流れ、勅勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんがダンスで「合奏」してゆきます。
無から形が世界が立ち現れてくるようなダンス、海中で最初の生命が生まれ出るようなダンス。二人のダンスが合わさって、視覚的な音楽となって流れゆく様子を、まざまざと見つめることに。
畏れや不安、情熱や切なさ、滑稽さ、畏怖の念。様々に感情を揺さぶられる作品です。全体的に音楽とダンスに対する真摯さ敬虔さが強く感じられ、胸を打ちます。動きや演出のバリエーションも豊富。新年最初に観たKARAS APPARATUS公演がこの作品で良かった。今年もなるべくたくさん観ようと思います。
タグ:勅使川原三郎
『ポップ・スピリチュアリティ メディア化された宗教性』(堀江宗正) [読書(オカルト)]
――――
宗教についても心理学や医学などの知識についても、ある程度は知っているが、それを全面的には支持せず、心や魂の問題を理解して解決するのに使えるものは使うというプラグマティックな意識を持った人々のスピリチュアリティ、その中でも理解しやすく、実践しやすく、人気を基準として選別されたもの、SNS上で人々自身がメディアとなって流通させてゆくもの、本書が扱うのはそのような「ポップ・スピリチュアリティ」の、21世紀に入ってからのテーマ別の動向である。
(中略)
「宗教」を相対化し、宗教ではないけれど、何か自分にとって大切な価値観を表明し、伝えようとする人々がいる。そのような人々が日々に更新し続けているポップ・スピリチュアリティの世界は、現代的な現象ではあるが、むしろ文字以前の、つまり「宗教」以前の人々の精神生活の有様に近いものであるかもしれない。
――――
江原啓之、生まれ変わり、パワースポット、そしてアニメに登場する西洋魔術。21世紀の日本において人気があり普及しているスピリチュアルなもの、ポップ・スピリチュアリティについての論説集。単行本(岩波書店)出版は2019年11月です。
〔目次〕
第1章 スピリチュアリティとは何か――概念とその定義
第2章 2000年以後の日本におけるスピリチュアリティ言説
第3章 メディアのなかのスピリチュアル――江原啓之ブームとは何だったのか
第4章 メディアのなかのカリスマ――江原啓之とメディア環境
第5章 スピリチュアルとそのアンチ――江原番組の受容をめぐって
第6章 現代の輪廻転生観――輪廻する〈私〉の物語
第7章 パワースポット現象の歴史――ニューエイジ的スピリチュアリティから神道的スピリチュアリティへ
第8章 パワースポット体験の現象学――現世利益から心理利益へ
第9章 サブカルチャーの魔術師たち――宗教学的知識の消費と共有
第1章 スピリチュアリティとは何か――概念とその定義
――――
米国では、個人的スピリチュアリティがキリスト教から逸脱することを警戒する傾向がある。とくにキリスト教に代わる新時代がやってくると主張する「ニューエイジ」に対する保守的なキリスト教徒の反発は強い。カトリックの教皇庁はニューエイジ批判の公式文書を出している。それに対して「スピリチュアリティ」という言葉はキリスト教でも使われるために、「ニューエイジ」ほどの抵抗を引き起こさない。一方、キリスト教の衰退の著しい英国では、宗教と距離をとる「ニューエイジ」への抵抗はさほど大きくない。
日本では「宗教」に対する警戒心の方が強い。このような違いは、スピリチュアリティ言説の展開にどのような影響を与えるだろうか。
――――
単行本p.11
それはニューエイジ思想や心霊主義とは、そして宗教とは、どのように関連しているのか、いないのか。まずは「スピリチュアリティ」という概念と定義を明らかにし、欧米と日本との違いを浮き彫りにしてゆきます。
第2章 2000年以後の日本におけるスピリチュアリティ言説
――――
スピリチュアリティ現象は、アイディアとしては英語圏の心理学的思想やニューエイジの輸入というスタイルをとりながら、ポピュラーなレベルで受容される過程で、実質的には伝統回帰と日常生活の保守的な肯定とに変容していった。「癒し」はもともとの自発的治癒力の活性化という意味を離れて、現世利益的な消費行動をうながすキャッチフレーズとなった。知識人の「スピリチュアリティ」概念は「霊」信仰との決別を目指していたが、霊への草の根的な関心とは逆行したため、ポピュラーなものとしては定着せず、マス・メディアでは、逆に霊信仰とポップ心理学と英国スピリチュアリズムの折衷を図った江原的「スピリチュアル」、ポップ・スピリチュアリティに押されていく。
――――
単行本p.37
トランスパーソナル心理学、トラウマ、アダルト・チルドレン、癒しブーム、オウム事件、心霊ブーム、江原啓之。メディアとの関連のなかで、21世紀日本におけるスピリチュアリティがどのように変遷していたのかを見て行きます。
第3章 メディアのなかのスピリチュアル――江原啓之ブームとは何だったのか
第4章 メディアのなかのカリスマ――江原啓之とメディア環境
第5章 スピリチュアルとそのアンチ――江原番組の受容をめぐって
――――
超越的な存在や力を前提とする信念や儀礼であっても、「特殊な拘束集団」と関わりがなければ、つまり個人的信念にとどまるものや社会的通念に達したものであれば「宗教」とは呼ばず、許容し、享受するという態度が、メディアを中心に――とくにメディアの影響を受けやすい若者に――定着していると考えられる。
江原のように、個人相談をおこなわず、教祖になることを自ら避けて、メディアでのみ「スピリチュアル」なことを語り実践するような存在は、このような環境に極めて適応的である。
――――
単行本p.56
日本で「スピリチュアル」という言葉を普及させるのにもっとも貢献した人物、江原啓之。その言動、メディアにおける扱い、そして視聴者の反応、それぞれの観点から詳しく分析してゆきます。
第6章 現代の輪廻転生観――輪廻する〈私〉の物語
――――
『ムー』は輪廻の特集に消極的だったし、『ぼくの地球を守って』は、前世共有者を求める投稿のパロディ、後追いである。つまり、メディアは「前世ブーム」の原因ではなく、結果にすぎない。時代的に先行する『幻魔大戦』の影響は否定できないが、単なるフィクションが、なぜ大きな影響を与えたのか。この作品がなければ、前世への関心は起きなかったのか。(中略)どの場合も先行する影響、カウンター・カルチャーや新宗教があり、これらの作品がなくても、別の作品が「きっかけ」を与えただろう。つまり、輪廻転生を受け入れる土壌が、日米で同時に人々の間に育まれていたと考えた方がよい。本書の主題であるポップ・スピリチュアリティの好例と言える。
――――
単行本p.124、125
生まれ変わり、輪廻転生という考えは、日米でほぼ同時期に広まっていった。それは従来の宗教的概念とはどう違うのか。なぜ定着したのか。現代的輪廻転生観のルーツと展開を探ります。
第7章 パワースポット現象の歴史――ニューエイジ的スピリチュアリティから神道的スピリチュアリティへ
第8章 パワースポット体験の現象学――現世利益から心理利益へ
――――
パワースポットは、長年来のニューエイジャーにとっては国内に限られるものではないし、神社に限られるものでもない。しかし、2000年代以降は、伊勢神宮や出雲大社のような神道の聖地が「パワースポット」として再発見され、結果的にパワースポット現象はある種の復興に吸収されそうになっている。パワースポットへの関心は個人的スピリチュアリティと伝統回帰の間を揺れ動いており、世俗化(私事化)かポスト世俗の宗教復興/再魔術化かという二項対立図式に収まらない興味深い研究領域を形成している。
――――
単行本p.172
パワースポットへの関心はどのようにして高まっていったのか。パワースポットとしての神社の再発見、神道的スピリチュアリティの動きは、どこを目指しているのか。日本におけるパワースポットをめぐる言説を追います。
第9章 サブカルチャーの魔術師たち――宗教学的知識の消費と共有
――――
「魔術」関心層はアニメおよびそれに関連するサブカルチャーに親しんでいる。そこで、テレビアニメのなかで「魔術」および広い意味で「宗教」に関わる語彙が登場する作品にどのような傾向があるかを、2012年から13年の2年に絞って確認した。(中略)
テレビアニメを取り上げることには調査の戦略上の利点がある。原作がアニメ以外のメディアであるものがほとんどであり、ラノベ、マンガ、ゲームのなかでも人気のある作品がテレビでアニメ化されるため、一定程度のポピュラリティが保証されるという点である。(中略)したがって、アニメを分析するといっても、純粋にアニメだけを取り上げることにはならない。アニメが一つの結節点となっている魔術・宗教的語彙を用いた様々なメディア作品が織りなすサブカルチャーの内容的特徴をすることが可能になるのである。
――――
単行本p.243
『とある魔術の禁書目録』を中心に、マンガ・アニメ・ゲームに登場する「魔術や宗教に関わる語彙」を分析してゆきます。さらにそれらの用語「事典」の出版ブーム、サブカルチャーの受け手と作り手の境界の曖昧さなど、サブカルチャーの特徴と宗教との関連を考察します。
宗教についても心理学や医学などの知識についても、ある程度は知っているが、それを全面的には支持せず、心や魂の問題を理解して解決するのに使えるものは使うというプラグマティックな意識を持った人々のスピリチュアリティ、その中でも理解しやすく、実践しやすく、人気を基準として選別されたもの、SNS上で人々自身がメディアとなって流通させてゆくもの、本書が扱うのはそのような「ポップ・スピリチュアリティ」の、21世紀に入ってからのテーマ別の動向である。
(中略)
「宗教」を相対化し、宗教ではないけれど、何か自分にとって大切な価値観を表明し、伝えようとする人々がいる。そのような人々が日々に更新し続けているポップ・スピリチュアリティの世界は、現代的な現象ではあるが、むしろ文字以前の、つまり「宗教」以前の人々の精神生活の有様に近いものであるかもしれない。
――――
江原啓之、生まれ変わり、パワースポット、そしてアニメに登場する西洋魔術。21世紀の日本において人気があり普及しているスピリチュアルなもの、ポップ・スピリチュアリティについての論説集。単行本(岩波書店)出版は2019年11月です。
〔目次〕
第1章 スピリチュアリティとは何か――概念とその定義
第2章 2000年以後の日本におけるスピリチュアリティ言説
第3章 メディアのなかのスピリチュアル――江原啓之ブームとは何だったのか
第4章 メディアのなかのカリスマ――江原啓之とメディア環境
第5章 スピリチュアルとそのアンチ――江原番組の受容をめぐって
第6章 現代の輪廻転生観――輪廻する〈私〉の物語
第7章 パワースポット現象の歴史――ニューエイジ的スピリチュアリティから神道的スピリチュアリティへ
第8章 パワースポット体験の現象学――現世利益から心理利益へ
第9章 サブカルチャーの魔術師たち――宗教学的知識の消費と共有
第1章 スピリチュアリティとは何か――概念とその定義
――――
米国では、個人的スピリチュアリティがキリスト教から逸脱することを警戒する傾向がある。とくにキリスト教に代わる新時代がやってくると主張する「ニューエイジ」に対する保守的なキリスト教徒の反発は強い。カトリックの教皇庁はニューエイジ批判の公式文書を出している。それに対して「スピリチュアリティ」という言葉はキリスト教でも使われるために、「ニューエイジ」ほどの抵抗を引き起こさない。一方、キリスト教の衰退の著しい英国では、宗教と距離をとる「ニューエイジ」への抵抗はさほど大きくない。
日本では「宗教」に対する警戒心の方が強い。このような違いは、スピリチュアリティ言説の展開にどのような影響を与えるだろうか。
――――
単行本p.11
それはニューエイジ思想や心霊主義とは、そして宗教とは、どのように関連しているのか、いないのか。まずは「スピリチュアリティ」という概念と定義を明らかにし、欧米と日本との違いを浮き彫りにしてゆきます。
第2章 2000年以後の日本におけるスピリチュアリティ言説
――――
スピリチュアリティ現象は、アイディアとしては英語圏の心理学的思想やニューエイジの輸入というスタイルをとりながら、ポピュラーなレベルで受容される過程で、実質的には伝統回帰と日常生活の保守的な肯定とに変容していった。「癒し」はもともとの自発的治癒力の活性化という意味を離れて、現世利益的な消費行動をうながすキャッチフレーズとなった。知識人の「スピリチュアリティ」概念は「霊」信仰との決別を目指していたが、霊への草の根的な関心とは逆行したため、ポピュラーなものとしては定着せず、マス・メディアでは、逆に霊信仰とポップ心理学と英国スピリチュアリズムの折衷を図った江原的「スピリチュアル」、ポップ・スピリチュアリティに押されていく。
――――
単行本p.37
トランスパーソナル心理学、トラウマ、アダルト・チルドレン、癒しブーム、オウム事件、心霊ブーム、江原啓之。メディアとの関連のなかで、21世紀日本におけるスピリチュアリティがどのように変遷していたのかを見て行きます。
第3章 メディアのなかのスピリチュアル――江原啓之ブームとは何だったのか
第4章 メディアのなかのカリスマ――江原啓之とメディア環境
第5章 スピリチュアルとそのアンチ――江原番組の受容をめぐって
――――
超越的な存在や力を前提とする信念や儀礼であっても、「特殊な拘束集団」と関わりがなければ、つまり個人的信念にとどまるものや社会的通念に達したものであれば「宗教」とは呼ばず、許容し、享受するという態度が、メディアを中心に――とくにメディアの影響を受けやすい若者に――定着していると考えられる。
江原のように、個人相談をおこなわず、教祖になることを自ら避けて、メディアでのみ「スピリチュアル」なことを語り実践するような存在は、このような環境に極めて適応的である。
――――
単行本p.56
日本で「スピリチュアル」という言葉を普及させるのにもっとも貢献した人物、江原啓之。その言動、メディアにおける扱い、そして視聴者の反応、それぞれの観点から詳しく分析してゆきます。
第6章 現代の輪廻転生観――輪廻する〈私〉の物語
――――
『ムー』は輪廻の特集に消極的だったし、『ぼくの地球を守って』は、前世共有者を求める投稿のパロディ、後追いである。つまり、メディアは「前世ブーム」の原因ではなく、結果にすぎない。時代的に先行する『幻魔大戦』の影響は否定できないが、単なるフィクションが、なぜ大きな影響を与えたのか。この作品がなければ、前世への関心は起きなかったのか。(中略)どの場合も先行する影響、カウンター・カルチャーや新宗教があり、これらの作品がなくても、別の作品が「きっかけ」を与えただろう。つまり、輪廻転生を受け入れる土壌が、日米で同時に人々の間に育まれていたと考えた方がよい。本書の主題であるポップ・スピリチュアリティの好例と言える。
――――
単行本p.124、125
生まれ変わり、輪廻転生という考えは、日米でほぼ同時期に広まっていった。それは従来の宗教的概念とはどう違うのか。なぜ定着したのか。現代的輪廻転生観のルーツと展開を探ります。
第7章 パワースポット現象の歴史――ニューエイジ的スピリチュアリティから神道的スピリチュアリティへ
第8章 パワースポット体験の現象学――現世利益から心理利益へ
――――
パワースポットは、長年来のニューエイジャーにとっては国内に限られるものではないし、神社に限られるものでもない。しかし、2000年代以降は、伊勢神宮や出雲大社のような神道の聖地が「パワースポット」として再発見され、結果的にパワースポット現象はある種の復興に吸収されそうになっている。パワースポットへの関心は個人的スピリチュアリティと伝統回帰の間を揺れ動いており、世俗化(私事化)かポスト世俗の宗教復興/再魔術化かという二項対立図式に収まらない興味深い研究領域を形成している。
――――
単行本p.172
パワースポットへの関心はどのようにして高まっていったのか。パワースポットとしての神社の再発見、神道的スピリチュアリティの動きは、どこを目指しているのか。日本におけるパワースポットをめぐる言説を追います。
第9章 サブカルチャーの魔術師たち――宗教学的知識の消費と共有
――――
「魔術」関心層はアニメおよびそれに関連するサブカルチャーに親しんでいる。そこで、テレビアニメのなかで「魔術」および広い意味で「宗教」に関わる語彙が登場する作品にどのような傾向があるかを、2012年から13年の2年に絞って確認した。(中略)
テレビアニメを取り上げることには調査の戦略上の利点がある。原作がアニメ以外のメディアであるものがほとんどであり、ラノベ、マンガ、ゲームのなかでも人気のある作品がテレビでアニメ化されるため、一定程度のポピュラリティが保証されるという点である。(中略)したがって、アニメを分析するといっても、純粋にアニメだけを取り上げることにはならない。アニメが一つの結節点となっている魔術・宗教的語彙を用いた様々なメディア作品が織りなすサブカルチャーの内容的特徴をすることが可能になるのである。
――――
単行本p.243
『とある魔術の禁書目録』を中心に、マンガ・アニメ・ゲームに登場する「魔術や宗教に関わる語彙」を分析してゆきます。さらにそれらの用語「事典」の出版ブーム、サブカルチャーの受け手と作り手の境界の曖昧さなど、サブカルチャーの特徴と宗教との関連を考察します。
タグ:その他(オカルト)