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『七人のイヴ (2)』(ニール・スティーヴンスン、日暮雅通:翻訳) [読書(SF)]

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「地球上のすべての民族国家、その政府と憲法は、もう存在しないということだ。軍事および民間の指揮系統についても同様である。それらに対して捧げた誓い、誓った忠誠、感じた忠義、手にした市民権は今、永遠に消滅した。〈クラウド・アーク〉憲法によって与えられる権利こそがそれぞれの権利であり、それ以上でも以下でもない。各人は〈クラウド・アーク〉憲法の法律および義務に従うことになる。誰もが新たな国家にして唯一の国家の、国民となったのだ。久しく存続したもうことを」
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新書版p.125


 ついに始まった〈ハード・レイン〉。砕けた月破片の大規模落下により地球全体が燃え上がり、人類は死滅した。軌道上に残されたわずかな人数を残して。そして生き残った人々の苦闘が始まる。ニール・スティーヴンスンのハードSF大作、その第2巻です。新書版(早川書房)出版は2018年7月、Kindle版配信は2018年7月。


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 飛来する隕石の軌跡は、空中に描かれた明るい引っかき傷のような模様だったものが、目もくらむほどの過熱した空気の連続体に合わさるや、地上にある燃えるものすべてに火を放っていた。赤道周辺にはより多くの隕石が降りそそいでいたため、輝く火の帯はそこがいちばん明るかった。ただ、そこの南北の一帯の地表も燃えており、帯状に広がってカナダや南米の高緯度地方も包み込んでいた。
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新書版p.126


 連続的な巨大隕石落下〈ハード・レイン〉による人類滅亡を回避するため、既に軌道上にある国際宇宙ステーションを足掛かりに宇宙に居住環境を作り上げるという巨大プロジェクト〈クラウド・アーク〉計画のスタートを描いた第1巻。その続きとなる第2巻では〈クラウド・アーク〉に次々と降りかかる危機と、それに対する苦闘が描かれます。ちなみに第1巻の紹介はこちら。


2019年01月21日の日記
『七人のイヴ (1)』
https://babahide.blog.so-net.ne.jp/2019-01-21


 現在よりわずか先の近未来、今より少しだけ進んだテクノロジー。それで地表からの支援なしに宇宙空間に「千人を超す人数が恒久的に活きてゆける居住環境」を作り出すことなど可能なのか。まず無理と思う反面、絶対不可能とも言い切れない。このぎりぎりの状況設定をさらに突き詰めてゆきます。


 辛くも軌道上に退避できた人々に、次々と過酷な試練が降りかかってきます。まずは〈クラウド・アーク〉の中核となる国際宇宙ステーション〈イズィ〉の軌道が維持できないという大問題。


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 〈クラウド・アーク〉計画のごく初期から、〈ハード・レイン〉が大気を――全世界のあらゆる空気を――暖めるということはわかっていた。空気は熱くなれば膨張する。大気が膨張する方向はひとつだけ――宇宙に対してだ。そのため、〈イズィ〉が通常の高度400キロほどで空気の痕跡から感じる抗力がどんなものであれ、大気が上に向かって広がるにつれて悪化する。
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新書版p.217


 熱膨張する地球大気による抗力増大。徐々に軌道を下げてゆく国際宇宙ステーション。小惑星を抱えたまま安全な軌道まで上昇するための推力を得るには、膨大な量の推進剤が必要となる。それだけ大量の質量をどこから、どうやって手に入れればよいのか。ほとんど絶望的なミッションが開始される。


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「結果の予測は不可能だ。だが、ぼくには確信がもてない。ぼくに言えるのは、ショーンが考えていた計画のようにはいかないということだ。何か別のことになる。もっとエキサイティングなことに」
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新書版p.220


 さらに、中央集権的な統治体制に対して反感をつのらせたグループによる反乱の勃発。次々と失われてゆく人命。底をつく食糧と資源。物理的にも政治的にも破壊的なパワーに翻弄される〈クラウド・アーク〉がたどる軌道はどこに向かうのか。


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 修理に必要な器具や備蓄が、必ずしもすぐ調達できるわけではない。間に合わせにつくらざるをえないこともあった。人間の創意工夫、必死の作業によって苦心の解決策を考案し、何をやってもうまくいかなければ人命を危険にさらしたり犠牲にしたりするほかなかった。
(中略)
 あらゆる予防策を講じたにもかかわらず、放射性降下物の粒子が空気中や食物連鎖にもぐり込んで、呼吸器や消化器にとどまった。(中略)温室で病虫害が起きたり、設備が故障したりすることで、食糧や空気の供給危機もたびたび起こり、もとから体力をなくしていた人たちの命を奪った。
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新書版p.340、342


 人類存続の希望が次第に失われてゆくなか、ついにタイトルの意味が明らかになったところで第2巻は終わり、結末は第3巻(最終巻)に持ち越されます。



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『滑走路』(萩原慎一郎) [読書(小説・詩)]

 非正規社員として使い捨てにされる若者が短歌にかけた思い。J-POP歌詞をめざしてもがいた記録のような悲しみの歌集。単行本(KADOKAWA)出版は2017年12月、Kindle版配信は2018年10月です。


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箱詰めの社会の底で潰された蜜柑のごとき若者がいる
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シュレッダーのごみ捨てにゆく シュレッダーのごみは誰かが捨てねばならず
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コピー用紙補充しながらこのままで終わるわけにはいかぬ人生
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階段をのぼりくだりて一日のあれこれあっと言う間に終わる
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ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼食べる
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頭を下げて頭を下げて牛丼を食べて頭を下げて暮れゆく
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 労働疎外と未来の見えない生活の苦しみをストレートに訴えるような作品が並びます。


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この街で今日もやりきれぬ感情を抱いているのはぼくだけじゃない
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目の前をバスがよぎりぬ死ぬことは案外そばにそして遠くに
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今日という日を懸命に生きてゆく蟻であっても僕であっても
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夜明けとはぼくにとっては残酷だ 朝になったら下っ端だから
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今日も雑務で明日も雑務だろうけど朝になったら出かけてゆくよ
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 屈託のなかで何とか生きようともがく若者の、無理やり前向きなJ-POP歌詞調の言葉がやるせない。


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きみのため用意されたる滑走路きみは翼を手にすればいい
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空を飛ぶための翼になるはずさ ぼくの愛する三十一文字が
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抑圧されたままでいるなよ ぼくたちは三十一文字で鳥になるのだ
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達成はまだまだ先だ、これからだ おれは口語の馬となるのだ
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クロールのように未来へ手を伸ばせ闇が僕らを追い越す前に
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もう少し待ってみようか曇天が過ぎ去ってゆく時を信じて
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 あえてベタな表現を多用することで、メジャーになりたい今の生活から脱出したい、という切実な気持ちが伝わってきます。実際にはそうはならなかったという結果を知って読むと、やりきれない悲しみが残る歌集です。



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『職業、女流棋士』(香川愛生) [読書(随筆)]

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 思い出そうと思えばどの経験も昨日のことのように思い出せます。自分への怒り、はらわたの煮えくり返るようなマグマのような感情が押し寄せてくるのです。でも感情に流されていては、感情的な将棋しか指せません。傷はうまく意識から消すことも大切です。時間がやわらげてくれた深いところに眠っている傷がたくさんあるのです。きれいごとのように決着をつけることはできませんし、過去は昇華できても消化はできません。
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新書版p.107


 囲碁界にはなく将棋界だけにある「女流棋士」という職業。女流棋士・香川愛生女流三段が、自身の人生と生活について語った一冊。新書版(マイナビ出版)出版は2018年8月、Kindle版配信は2018年8月です。


[目次]

第一章 女性棋士とは
第二章 女流棋士になるまで
第三章 対局
第四章 女流タイトル戦
第五章 勝負への思い
第六章 普及活動
第七章 教養・趣味
第八章 将棋界に生きる女性として
終章  女流棋士の未来


第一章 女性棋士とは
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 皆さんが囲碁の先生がたをお呼びになるときは、わざわざ「女流」とつける必要はありません。
 男女平等を実現している囲碁界は素直に羨ましく、素晴らしい環境だと思います。
(中略)
 女流棋士第一号だった蛸島彰子先生も、もとは奨励会の出身ですが、当時の記事で、男性奨励会員からの目線の厳しさを指摘しています。「孤独だった。戦う以前の問題だった」という当時の観戦記のことばからは、ただでさえ過酷な奨励会で、ひとりで多くを背負っていたことが窺えます。いま在籍している女性奨励会員も、決して変わらないと思います。
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新書版p.22、23


 将棋界における女流棋士の立場について率直に語ります。


第二章 女流棋士になるまで
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 このおじいちゃんとの出会いがなければ、私はプロになることはありませんでした。
 のちに聞くと調布市屈指の強豪で、段位にしてアマチュア六段。県代表相当の、プロとも渡り合える実力です。柴崎にある将棋道場で、63連勝という驚異的な記録を打ち立てたとか。またウソのようなホントの話なのですが、中盤で相手が投了したときに局面をひっくり返し、敗勢の側から指し直し、もう一回勝ったという逸話もお持ちです。
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新書版p.40


 将棋との出会いから女流棋士になるまでの歩みを語ります。


第三章 対局
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 10時に対局が始まる場合は9時40~50分ごろに入室される対局者が多いです。将棋会館の最寄り駅は総武線の千駄ヶ谷駅と、副都心線の北参道駅。朝は混雑や遅延があるので、早めの行動をとるに越したことはありません。多くの棋士が寝坊や遅延で不戦敗になる悪夢を見ると語られているので、朝は気が張っているかもしれませんね。最近はスマートフォンを含む電子機器はすべてロッカーに預ける規則になっていますし、金属探知機による手荷物検査が実施される場合もあるので、いままでより早めに将棋会館に着くよう行動しているかたも。
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新書版p.60


 対局はどのようにして行われるのかを語ります。


第四章 女流タイトル戦
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 棋道を志す者であればだれもが目指し、憧れるなかで、一握りの人間しか手にすることができない称号がタイトルです。実績によって評価が決まる勝負の世界で最も尊重され、その有無だけで人生が一変すると言っていいほど、夢と残酷さを併せ持つものです。一年ごとに行われる番勝負を「人生のかかった」と形容するのは、最も適切な表現でしょう。
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新書版p.80


 様々な女流タイトル戦と年間スケジュールなどを語ります。


第五章 勝負への思い
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 未熟な自分も、荒波に飛び込めば希望が見えてくると信じていました。でも実際には、波に飲み込まれ、闇に飲み込まれる絶望的な日々でした。奨励会での1年半の日々は、後にも先にも、これほどつらかったことはありません。
(中略)
 奨励会を退会した前後は最も脆弱な時期でした。細くて繊細な糸が、音もたてずに静かに切れてしまったような幕切れでした。2012年2月、退会。家族にも、棋友にも、恩師にも告げず、奨励会の退会を決めたことは、私にとって自殺を決意したようなものでした。
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新書版p.110、113


 勉強、体力づくり、メンタルケア、そして奨励会。自身がぶつかった勝負の厳しさと苦難について語ります。


第六章 普及活動
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 実は、私自身も今年会社を設立しました。まどかさんをはじめ、他業種で活躍する身近な女性の影響が少なからずありましたが、まぎれもなく新しい挑戦です。まだ事業内容として詳しくお話できる段階ではないですが、将棋にまつわるコンテンツやイベントの企画・プロデュースなど、将棋の普及を主眼とした事業を手がけていければいいなと思っています。
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新書版p.157


 指導対局から様々なイベントまで、将棋の普及活動について語ります。


第七章 教養・趣味
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 学業と将棋の両立は、想像を絶する苦労がありました。実際、入学したものの中退を余儀なくされたプロの例も一人や二人ではありません。タイトルを獲るまで、東京で対局がある日は、キャリーバックを引いて教室に入り、授業を終えたらバスで駅へ移動、新幹線に飛び乗って上京。対局の後は夜行バスで京都に戻り、シャワーをー浴びて一限の授業に出る、という生活でした。
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新書版p.168


 大学生活との両立の苦労、ゲームや読書などの趣味について語ります。


第八章 将棋界に生きる女性として
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 社会で活躍される女性のかたがたがワークライフバランスを考えるのと同じように、勝負とプライベートとのバランスは、多くの女流棋士が抱える悩みだと思います。妊娠してトーナメント戦に出場する場合は、残念ながら進行の都合で不戦敗を余儀なくされるケースもままあり、いまなお課題が山積しています。
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新書版p.195


 結婚や出産による影響など、女流棋士という職業につきものの悩みを語ります。「恋も感想戦ができればいいのに」。



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『高丘親王航海記』(笠井叡:振付・演出、黒田育世、近藤良平、ほか) [ダンス]

 2019年1月27日は、夫婦で世田谷パブリックシアターに行って笠井叡さんの新作公演を鑑賞しました。澁澤龍彦の遺作をダンス化、ものすごい豪華メンバーを集結した110分の舞台です。


[キャスト他]

演出・振付: 笠井叡
意匠・舞台美術・衣裳デザイン: 榎本了壱
出演: 笠井叡、黒田育世、近藤良平、笠井瑞丈、上村なおか、岡本優、篠原くらら、伊佐千明、大江麻美子、大熊聡美、熊谷理沙、政岡由衣子、矢嶋久美子、浅見裕子、野口泉、原仁美、三上周子、宮原三千世、山口奈緒子、酒井はな


 まず自ら主役(高丘親王)を踊った笠井叡さんの存在感がすごい。三人の従者(息子の笠井瑞丈、近藤良平、岡本優)を従えて天竺に向かう、その途中で奇怪で怪しげないきものに次々と遭遇するわけですが、インパクトの強さでは誰にも負けてない印象です。サングラスにパイプをくわえて澁澤龍彦ごっこ、というシーンもばっちり決まってた。

 藤原薬子を踊った黒田育世さんの呪詛的ダンスも強烈。何か吸引してトリップしているようなきらびやかに歪んだ舞台上に、彼女が登場するだけで、いきなり死と破滅の予感に満ち満ちてしまう。底が抜けたような登場人物だらけの空間にいて、負のパワーでバランスをとっていたような気がします。

 パタタ姫を踊った篠原くららさん、春丸を踊った酒井はなさん、陳家蘭を踊った上村なおかさん、さらにはBATIKと天使館オイリュトミストのメンバーをがんがん投入するという、出演者リストを見ただけで天竺まで飛んでしまいそうなパワフルな舞台でした。



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『しびれる短歌』(東直子、穂村弘) [読書(小説・詩)]

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 わざわざ言葉を型にはめてコンパクトな詩型にしたのに、それを何時間もかけて語りあって読み解こうとするなんて、なんとも奇妙で、非効率的なことだと思います。でも、なんというか、その奇妙で非効率的なことが楽しくて仕方がないんです。だって、奇妙さゼロ、効率百パーセントな世界は、おもしろくないですよね。
 この世のどこかで、だれかがそっと形にした一首の短歌。それは、短歌でなければ残せなかった心です。残してくれなければ、知ることのできなかった感覚、時代の気分、世界観がつまっています。
 この本では、そうした短歌をいくつかの項目に分けて語りあい、それぞれの角度から見えてくる人間の心や時代性を探りました。
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新書版p.218


 恋愛、食事、家族、動物、金銭。歌人二人が持ち寄った作品を様々なテーマに沿って分類し語り合う短歌アンソロジー。新書版(筑摩書房)出版は2019年1月です。


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 短歌を作るのは楽しいけど、うまくいかないと苦しい。短歌を読むのは楽しいけど、慣れないと難しい。無条件に楽しいのは短歌について話すこと。というわけで、友だちの歌人、東直子さんとあれこれ語り合ってみました。
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新書版p.9


[目次]

第1章 やっぱり基本は恋の歌
第2章 食べ物の歌には魔法がかかっている
第3章 いまがわかる!家族の歌
第4章 イメージを裏切る動物の歌
第5章 人生と神に触れる時間の歌
第6章 豊かさと貧しさと屈折と、お金の歌
第7章 いつか分からなくなるのかもしれない固有名詞の歌
第8章 表現の面白さだってある、トリッキーな歌
付録1 歌人ってどうやってなるの?
付録2 真似っ子歌


第1章 やっぱり基本は恋の歌
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 こうやって見ると、恋愛というのは思いのほか、時代の影響を受けていますね。本能的な部分は変わらないんだろうけど、社会的に制約を受けることで、表現として出てくるものが変わってくることがあるような気がします。今は全面的に前向きになれないというか。若い人が出す歌集で一冊丸ごとバリバリ相聞歌というのは減りましたね。恋愛ばかり詠んでいる人って少ないんじゃないかな。
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新書版p.34


したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ
(岡崎裕美子)

するときは球体関節、のわけもなく骨軋みたる今朝の通学
(野口あや子)

鳩サブレは絶対くちびるから食べる。くちびるじゃなくってくちばしか
(佐藤友美)


第2章 食べ物の歌には魔法がかかっている
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 食べ物は対人関係と結びつくよね、典型は家族。胃袋をつかむとか同じ釜の飯とかなんとなく気持ち悪く感じるんだけどね。
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新書版p.46


「今お前食べてるそれは蛇だよ」と言いし男が今の夫なり
(斎藤清美)

冷や飯につめたい卵かけて食べ子どもと呼ばれる戦士であった
(雪舟えま)

飼いていし兎を「今夜食べるぞ」と取り上げし父 今、墓にいる
(岡崎裕美子)


第3章 いまがわかる!家族の歌
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 老夫婦の歌を調べたことがあるんだけれども、夫が妻を詠んだものは大体いい感じの歌になっているのが多くて、妻が夫を詠んだものはすごい。もう、本当にすごい。
 階段に置いた私のコートをあなたが足でどけたとか、私以外の家族は一度も靴を揃えたことがないとか、そんなのばっかりいくらでも出てきて、こんなに男女で違うかと思った。読んでいるうちに怖くなってくる。
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新書版p.82


父の撒くポップコーンを鳩が食ふついでに父も食われてしまへ
(木村陽子)

家族の誰かが「自首 減刑」で検索をしていたパソコンまだ温かい
(小坂井大輔)

浴室のドアは開けといてと何回も言えども出来ぬカビの味方か
(稲熊明美)


第4章 イメージを裏切る動物の歌
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 やっぱりプロの歌人は文体が、「こはいかに」と入る感じとか、「ひとがみなみな見ゆるぞ猿に」とか、さっきの「ぺったんぺったん」とか、ちょっと不思議な感じ、違和感があるよね。「ぺったんぺったん」の入る位置が面白い。水を出て大きな黒い水掻きの白鳥が歩いて来る、という流れの間に水掻きの「ぺったんぺったん」が挿入されている。いわゆる散文の文体ではない。
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新書版p.101


こはいかに人参色のゆふぐれはひとがみなみな見ゆるぞ猿に
(永井陽子)

水を出でおおきな黒き水掻きのぺったんぺったん白鳥がくる
(渡辺松男)

そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています
(東直子)


第5章 人生と神に触れる時間の歌
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 これまで読んだ作品の中には、内容はそれぞれユニークでおもしろいんだけど、短歌として捉えた場合に少し散文的な気がしたものもあります。でもこの歌には、長い歳月が醸し出す重層性がある。この重層性が短歌だと思う。短歌的な豊かさがあると思うんだけど。
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新書版p.122


一秒でもいいから早く帰ってきて ふえるわかめがすごいことなの
(伊藤真也)

いきつぎの瞬間見える太陽の光がのびて水面走る
(金山和)

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい
(笹井宏之)


第6章 豊かさと貧しさと屈折と、お金の歌
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 土屋文明の頃はお金がないから、ほしいものや栄養価があるものが買えなくて、貧しくて苦しかった。単純に日本人の夢がかなった時代というのが八〇年代、俵万智さんの時代。そこから三十年たって、永井くんになると不思議な様相を帯びていて、もし一度、一周回った貧しさの中にいる。でもそれは、かつての真っ当な貧しさとは何か違っていて、バナナは何本でも食べられるし、大晦日の渋谷のデニーズで一万円持っている。これは、貧しいのか豊かなのかよくわからないわけです。
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新書版p.140


大みそかの渋谷のデニーズの席でずっとさわっている1万円
(永井祐)

奥村は源泉徴収でボーナスの四分の一を国に取られた
(奥村晃作)

たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく
(山田航)


第7章 いつか分からなくなるのかもしれない固有名詞の歌
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穂村 ブーフーウーは今誰も知らない。発表したときはみんな知っていた固有名詞が、三十年後には誰も知らない名前になった(笑)
東 この前、四百人近い学生に聞いてみたけど、一人として知らなくて、シーンとなった。
穂村 ショック! 彼らの親はみんな知ってると思うけど。それじゃこの歌は意味不明になっちゃうよね。
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新書版p.160


「酔ってるの? あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
(穂村弘)

夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで
(仙波龍英)

生前は無名であった鶏がからあげクンとして蘇る
(木下龍也)


第8章 表現の面白さだってある、トリッキーな歌
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 音数以外の何か、内面に関わる短歌のアイデンティティみたいなものがあるのかないのか、あるとすればそれは何なのか。俳句と川柳は、それが特に問題になるよね。音数が同じなんだから。あとは、内面に関わるものだけがその二つを分けるわけだから。それは何なのかっていうのは分かるようで分からないというのがある。短歌だって、これは狂歌だと言われる可能性もあるよね。
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新書版p.190


にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった
(加藤治郎)

トンカチのイントネーションはトンカチと思い込んでた本当はトンカチ
(エース古賀)

(7×7+4÷2)÷3=17
(かっこなな、かけるななたす、よんわるに、カッコとじわる、さんはじゅうなな)
(杉田抱僕)



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