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『おちび』(エドワード・ケアリー、古屋美登里:翻訳) [読書(小説・詩)]

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 顔。さらにたくさんの顔。口に次ぐ口。嚥下、嚥下、嚥下。わたしはそれらを目に焼き付けた。それを粘土をこねて形にし、毎日曜日に宮廷に行き、丹念に見つめ、粘土を修正し、最初からやり直し、また途中でやめて壊し、また初めからやり直した。食べる人たちがゆっくりとわたしのものになってきた。王の顎を見るために行き、王妃の耳たぶを見るために行き、伯爵の額を見るために行った。何度も何度も行った。必死で観察した。こうじゃない、だめだ、全然とらえられていない、ここは削いで、もう一度やり直し、もっとよく見て、集中して。わたしにはできっこない。ううん、わたしにはできる。いや、絶対に無理。
 何カ月もかかった。いいえ、何年もかかった。エリザベート王女が叔母たちと外出して不在のときや宮殿が寝静まっているあいだにたびたび作業した。(中略)これはわたしの作品だった。わたしが作りだしたものだった。この両手で、いろいろと考えながら。これは王妃だが、王妃だけではなかった。ここにはマリー・グロショルツもいた。この蝋の顔のなかにふたりの人間が生きている。これがわたしがはっきりと理解した瞬間だった。もう止めることができなかった。これこそがわたしのやりたいことだった。
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単行本p.347、350


 スイスの片田舎から師匠と共にパリにやってきた小さな女の子。あまりにも悲惨な境遇から一転してエリザベート王女の親友として宮殿で暮らすことになった彼女は、後にフランス革命に巻き込まれ死刑囚となり、国王ルイ16世をはじめとする著名人の生首を取り上げ、人間のなかにある輝きと醜悪をつぶさに観察しそれを蝋で再現する。英国ロンドンのベイカー街に有名な蝋人形館をひらいたマダム・タッソーの半生をもとに、アイアマンガー三部作の著者エドワード・ケアリーが15年の歳月をかけて完成させた感動の長編。単行本(東京創元社)出版は2019年11月、Kindle版配信は2019年11月です。


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 本書は類い稀な人生を送ったひとりの女性、芸術家であり商才に長けた女性を主人公にした壮大な歴史小説である。そしてこれまでのケアリーの作品と同じように、物語のテーマは愛と喪失だ。いつも人のために働き、虐げられてきたマリーは、幼い頃から身内の死を経験し、長じては親しい人たちの死を目撃する。その人々への愛情がさまざまなトーンで語られる。
(中略)
 長編はどの作品も、細部まで見事に構築された世界のなかで一風変わった孤独な人々が織りなす、愛と悲哀に満ちた綾織りのような物語である。ケアリー的としか言い表せないような、不気味でグロテスクだが不思議な魅力に満ちていて、どの作品にも「物」と「者」への一方ならぬ「愛」が貫かれている。弱者に対する優しさ、孤独な人々への慈しみの心、異端であることへの共感、それがケアリー文学の核となっている。
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単行本p.580、583


 アイアマンガー三部作が強烈だったので、エドワード・ケアリーの新しい長編小説も読んでみました。ちなみにアイアマンガー三部作の紹介はこちら。


2019年06月17日の日記
『堆塵館 アイアマンガー三部作1』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2019-06-17

2019年08月05日の日記
『穢れの町 アイアマンガー三部作2』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2019-08-05

2019年08月15日の日記
『肺都 アイアマンガー三部作3』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2019-08-15


 本作は、パリを舞台に、後に蝋人形作家として有名になるマダム・タッソーの半生を描いた作品です。父親を戦争で失い、目の前で母親が自殺するという悲惨な体験を経て孤児となった幼いマリーは、医師に引き取られることになります。彼こそ後に蝋人形制作の師匠となるクラティウス先生だったのです。こんな人。


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「私は人々を働かせることができないんだよ」と先生は言った。「人々を働かせないようにはできる。人をばらばらにすることもできるし、そう、実を言えば、それはとても得意で、かなり熟達している。でも、みんなは私といっしょには働こうとしない。絶対に。みんな拒絶する。遮断する。止まる」。
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単行本p.41


 そしてクラティウス先生との暮らしはこんな日々。


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 母が死んだその週には二回、ベルン病院からハインリヒが人の体の一部がたくさん入った箱を届けにやってきた。先生がそれを基に模型を作った。わたしは先生の作業を観察し、簡単な仕事を手伝った。いまやわたしは膨大な体の部分に囲まれていた。先生の家に届けられてくる病死した人の体は、たいてい病院の解剖学の学生たちの手ですでに攻撃され、切り刻まれ、上半身が穴だらけになっていた。皮膚が黄色や灰色になったものが作業台の上に積み上げられた。その強烈な悪臭は、ほかのにおいをすべてなぎ倒した。腐臭の源を始末しても、その臭いはいつまでも留まり、口に入り鼻孔を上り、目や皮膚のなかにまで入りこんできた。人の体の一部よ、おまえはだれのものなの、とわたしは問いかけた。冷たい肌に刻まれた傷、そばかす、黒子、皺、腕に生えている体毛もとても不思議なものだった。しばらくすると、それほど怖いものではなくなった。きわめて当たり前のものになり、待ちわびるものになった。先生がそう教えてくれたのだ。
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単行本p.57


 幼い娘にとって理想的な生活環境とは言えないかも知れませんが、マリーはどんどん知識を吸収してゆきます。人体を構成しているパーツについて、その絵を描くことについて、蝋で模型を制作することについて。それが彼女の人生を決定してゆきます。


 やがて借金で首が回らなくなったクラティウス先生は、幼いマリーを連れてフランスのパリに夜逃げするはめに。パリ、それはこんな場所でした。


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 みな同じ思いだよ。どうしてこんな場所に、こんな不快な場所に、悲惨な都にどうして耐えられるのか、知りたいんだろう。どうして人々はこんな尿の溜まり場に住んでいるのか、どうしてこんな糞便のような場所を選んで住んでいるのか。どうして人々の目は光を宿しているのに、こんな深淵のいちばん暗いところにわざわざ自らを閉じ込めているのか。その問いに私が答えよう。とても簡単なことなんだ。習慣だからだよ。パリに暮らす人々がそうした邪悪なものとつきあっているのは、腐敗して堕落したこの場所が、われわれが地獄と呼ぶ自分の家だからだ。だから決してここを去らない。そんなにひどいものばかりでも、われわれはパリを愛している。愛しているんだよ。私は愛している。
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単行本p.123


 クラティウス先生とマリーを住まわせてくれたのは、未亡人アンリ・ピコーとその息子エドモンでした。エドモンはこんな人。


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 エドモンは女の人が近づいてきたら身動きできないマネキンになってしまうのだった。わたしと同じように、彼は自分の身を消す独自のやり方を身につけていた。姿を消すときには、内面をおが屑や麻のごみに換えて、体に残っている血をすべて耳に集結させる。すると、エドモンは自分をだれでもない存在に変えられた。そして女の人がどこかへ行ってしまい、たったひとりでしばらく立っていると命が吹き返してきて、耳に集まっていた血がゆっくりと体全体に行き渡り、おが屑が潤いを得て、再び肺や肝臓、膀胱、腸などになった。
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単行本p.223


 問題は未亡人の方で、彼女はマリーに対して徹底的に冷たい態度をとり、先生から引き離した上でせっせと児童虐待にはげむのでした。マリーによる人物評価はこうです。


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 わたしは、あんたが苦しみのなかで死ぬことを願っているよ、と思ったし、その有様が思い描けそうだった。どうしてこの女はわたしにこれほどむごい仕打ちができるのだろう、この女のためにこんなに必死に働いているというのに、と思っていた。彼女は自分がどん底にいるのではないことを確かめるために、自分より下にいる者を求めていたのかもしれない。もしかしたら、残酷であることが成功の秘訣だとでも思っていたのかもしれない。(中略)私はこの女を心底憎んだ。これまでもずっと、この先もずっと憎み続けてやる。どれほどこの女を憎悪しているかここに書きつけていいだろうか。でもそんなことをしたらこのノートが汚れてしまう。
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単行本p.194、257


 極端で歪な愛憎関係で結ばれたこの四名が、やがてグロテスクながら家族となってゆくところが読み所のひとつです。ケアリーの魔法というか、登場人物の大半が、普通の感覚では、非常に不快な人間なのに、いつの間にか読者は彼らのことが気になって気になって、やがてきたる運命の前に涙することになるのです。


 醜悪さと純粋さ、愛情の深さと憎悪の激しさ、どれもが過剰で歪みまくっていて、そして心を揺さぶられます。フランス革命の嵐を生き延びた一人の女性の半生をえがいた歴史小説、といった言葉からイメージされるものとは全然違って、とにかくアイアマンガー三部作に続くケアリー作品としか言いようがない長編です。お勧めです。





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『永遠の気晴らし』(勅使川原三郎、佐東利穂子) [ダンス]

 2020年6月20日は、夫婦でKARAS APPARATUSに行って勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんの公演を鑑賞しました。もうずっとKARAS APPARATUSに行ってないような気がしてなりませんが、実は二ヶ月半ほどのブランクだと気づいて驚きました。

 様々な曲を使って二人が踊る上演時間一時間ほどの作品です。佐東利穂子さんがすごくかっこよくて、どの瞬間もすべて印象的。それまでとうとうと流れていた曲がふいに断ち切られたように消え二人が立ち尽くすラストは、今わたしたちが置かれている状況を象徴しているようで、インパクトがありました。

 今後いつ何が起きてどうなるか予想がつきませんが、勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんの公演は今後もずっと観にゆきます。





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『Kindleで読める笙野頼子著作リスト(内容紹介つき)』 [読書(小説・詩)]

 この記事は更新されました。以下を参照ください。

2020年11月18日の日記
『Kindleで読める笙野頼子著作リスト(内容紹介つき)』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2020-11-18



タグ:笙野頼子
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『会いに行って 静流藤娘紀行』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

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なぜあの年私は行かなかったんだろう。行けば会えたのに。
 でももし行っていたらきっと師匠は「この人誰」って思っただけかあるいは、「ああ、君か」って言うだけなんだ。なのに『金毘羅』、「二百回忌」、だいにっほんシリーズ、全て彼の影響をうけているのかもしれないと今思ったりしている私、私。その影響とは何か? それは神の俗人化、場と時空の変形、私小説的自己の分裂、……ああ、でもそれならすべて、『田紳有楽』だ。
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単行本p.195


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 師匠、判るという事の大半をインチキだと私は思っています。理解してはいけないものを理解する事で、この世は合理的に回っている。それに抵抗するように師匠は、生きてこられましたよね? 教育の刷り込みを受けて、医師になった上で。その上で百錬の文体が本当にあるものか? ありますとも、師匠には、師匠ならば。
(中略)
 本当のリアルとは何であるのかを、師匠は文によって叩き出した。リアルを追求せずにはいられない心で、リアルを越えてきた。しかもそのリアルとは常に不快がる肉体でした。肉体から逃げない、それ故に理解出来ない。つまり対象と和解しない。理解しない、でもあえて付き合う。すると、いつしかふいに肉体を越えてしまう。
 師匠が何かを「理解」するのはけして理論によってではない。具体物によってである。奇跡を起こすのも同じ、具体的に書かれた文章によってである。
 この無理筋において、私はあなたを勝手に師匠とお呼びしています。
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単行本p.48、49


 シリーズ“笙野頼子を読む!”第131回。


 師と仰ぐ「私小説」の書き手、藤枝静男。笙野頼子さんが「我が文学の師」と呼ぶ師匠について、敬意と畏怖をこめて書いた評伝、ではなくて師匠説、私小説をめぐる私小説。単行本(講談社)出版は2020年6月です。


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 これからこの恐るべき文章に導かれて、私も私なりの小説を書いてみたい。作中、我が文学の師、師匠の生涯と彼の「私小説」について、追ってゆく予定である。さて、ここで造語して言う。今から書くものを私は、師匠説と呼ぶ。その上でこの、師匠説を書いてゆく。というのも師匠のような「私小説」を私は書けないから。そこで今回は彼に寄生して書く。
 師匠説、それは要するに作家論にはとても足りない自説に過ぎないものだ。でも、自分の師匠について書いたフィクションにして、論説である。ちなみにそれはけして大きい説ではなく、小さい説ばかりを綴るのみならず、そのすべてが、自説、私説に過ぎない。要は私の師匠についての、私的すぎる小説。さらに正確に言えば私淑師匠小説、というべきものである。すべて限定だらけの世界である。ばかりではなく、何よりも私がこの師匠について、判っていないという事をこそ、今から、もがきながら書く。
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単行本p.8


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 ただそれでもその判らないという一点に懸けて、私にはこのような師匠説が書けると、他の人には不可能な師匠の読解が出来ると、今はそう思っています。
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単行本p.55


 まず取り上げる作品は『志賀直哉・天皇・中野重治』。読解しながら並行して「目の前のあの不毛な改元について追いかけ」「今の時代をとらえる」(単行本p.73)ことを試みます。


 続いて読者待望の、笙野頼子さんによる『田紳有楽』の読み解き、ですよ。


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根本、私は彼にかなわないし生涯届かない。そして師匠は、勝手に言うけれど、志賀直哉門下においてもっとも私小説を極めた、この形式の領土を広げた、真に開拓した、小説家である。彼はそれによって中央集権的な構造を抜け、自分の愛する故郷を中心のない王国にし、自分の魂であるわが庭の池を、ひとつの宇宙にまでした。そういう傑出である、その作品の最頂点というべきものが、『田紳有楽』である。
 この『田紳有楽』とは、一見奇想天外な、しかし実は目の前の物事を「ありのままに」書いた「私小説」である。彼はこの「身辺雑記」により私小説に永遠の生を与えた、それ故に志賀門下無二の出藍である、と今私は勝手に書く。
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単行本p.9


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 師匠の私小説『田紳有楽』はこのように「でたらめ」と称し、一切のお約束リアリズムの手足を縛ったまま、真っ暗の崖に飛び下りても、体から文章の翼を生やして空中浮遊した世界文学。その浮遊により背後にあらわれるのは、輪郭をなくして初めて判る世界の本質だ。
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単行本p.222


 天皇制から始まって、体から文章の翼を生やして空中浮遊した世界文学の読み解きというクライマックスを経て、最後に向かう先は『イペリット眼』『犬の血』そしてそこから私たちをとりまく現実を「報道」してゆきます。


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ええ馬鹿でいいですもう。ナイーブでもルサンチマンでも愚鈍でも何でも「言ってもらっていいですか、どうぞ、けーっ」、だ。だって小説はモチーフが大切なのである。師匠には昔何か「憎悪」持ってると中野孝次先生との対談で言って貰いました。私は「憎悪」です。今こそ、「憎悪」します。
 要するに何か素敵な文学とか何か素敵なスポーツとか何か素敵なデリダの使い方とか、今はもう? いいえ、昔から、私はそんなものの外にいるつもり。師匠だって外だもん。素敵じゃない方の私小説でいいです。こっちが元祖の根源の原始(=純)文学です。
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単行本p.245


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 今これを師匠の名の下に書く事は師匠が「イペリット眼」「犬の血」の作者であるという事を大前提として、果して、これを「文学の政治利用である」と言うべきなのか、「芸術をプロパガンダに使った」と言うべきなのか、そして「ネット用語をつかったら文学ではない」という基準は、それは、ガリマールの基準なのか、でもどっちにしろ放置したらここはもう今から最悪、敗戦直後の、焼け野原になる。
 原爆を落として、治療はせずに患者の血液だけとっていって(子供含む)その上七十年超も沖縄を苦しめて「何もお仕置きをしなかった」と多くの人々からそう、信じられているアメリカ、だけどそれが今ほーら、とうとう莫大な利子を付けて取り立てに来たよ? だったらもう報道だ。それは自分の内面を薄めてでもやらなくてはならない、というわけで報道モードになっている私、貧血気味の笙野、でもそれ師匠が「イペリット眼」「犬の血」を書いた時と同じ状態でしょう?
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単行本p.247


 というわけで、師匠の「私小説」を受け継ぎ、自分の文学を展開する、師匠説にして私小説、私小説する私小説です。藤枝静男さんの作品は好きだけど笙野頼子さんの作品は読んだことがない、という方にもぜひ出会ってほしい覚悟と敬愛の一冊です。


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私の文章を嫌う人は最初からいたのです。無論、鍛えぬいた師匠の文章を嫌いと言える人はなかなかいないでしょう。まあどっちにしろ文章には出会うしかありません。ひとりの人とひとつの文章が会うか会わないかには、その人の心身のすべてが掛かっているから。
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単行本p.58





タグ:笙野頼子
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『偶然仕掛け人』(ヨアブ・ブルーム、高里ひろ:翻訳) [読書(ファンタジー・ミステリ・他)]

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 あらゆる選択には必然的に別のなにかをあきらめることが伴い、自分がなにかをどれだけ強く求めるかによって、その犠牲を払うための勇気が必要となる。なぜなら、つねに正しい選択をすることは不可能だからだ。ときどきは失敗するし、ときどきどころではなく失敗する。
 その差はシンプルだ。幸福な人々は人生を見て選択の連続を見いだす。不幸な人々には犠牲の連続しか見えない。きみたちが偶然を仕掛けるときにとる行動は、どちらのタイプの人間に向けたものか、確認が必要だ。希望に満ちた人間と不安に満ちた人間。両者は似ているが、違う。
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単行本p.318


 ささいなきっかけで仕事を決めたり、たまたま出会った人と恋におちたり、思わぬ事故で運命が大きく変わったり。それらの偶然が背後ですべて、精密に、完璧に、操られているとしたら……。偶然の連鎖をコントロールし世界を動かしている偶然仕掛け人たちの仕事ぶりを描く冒険小説。単行本(集英社)出版は2019年4月です。

 15年間一度も会わなかった人の話をすると同時に、その人がレストランに入ってくる。書店で同じ本に同時に手を伸ばした二人が後に結婚する。食パンをくわえて走っていた女子が出会い頭に転校生とぶつかる。思わぬアクシデントでペニシリンやX線が発見される。ピンク・フロイドの『狂気』が『オズの魔法使い』の映像と完璧にシンクロする。

 シンクロニシティとかセレンディピティとか呼ばれる意味ある偶然。これらを意図的に計画し、複雑極まりない因果連鎖を精密に制御することで実現する、それが偶然仕掛け人の仕事。

 子どもたち相手に想像の友だち(イマジナリーフレンド)をつとめていた主人公は、謎の組織(実在するのかどうかよくわからない)に抜擢され、偶然仕掛け人になるために厳しい訓練を受けることになります。


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 偶然の仕掛けは繊細で複雑な芸術であり、複数のできごとを巧みにさばき、状況と反応を見極め、ときとして希少な抜かりのなさを応用する能力が求められることが多い。数学、物理学、心理学を使う必要もある……。わたしはきみたちに、統計学、連想と無意識、人々の普通の生活の背後にあるもうひとつの、彼らがまったく気づいていない層について教える。わたしはきみたちの脳に、性格的特性や行動論を詰めこみ、どんな量子物理学者や神経科学者や菓子職人見習いにも勝るレベルの正確さを要求し、ある主の鳥が特定の木に留まり、別の鳥は電線に留まるわけを理解するまで寝ることを許さず、生涯の恋人の――きみたちに恋人がいれば、または生涯があればだが――名前を忘れてしまうほど、因果関係の一覧表を暗記させるつもりだ。
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単行本p.74


 訓練過程を終了し実技試験に合格した主人公は、自宅に届く封筒の指示に従って、恋人同士の出会いや転職のきっかけ作りなど個人レベルの偶然を生み出す仕事を黙々と遂行してゆきます。同期メンバーたちとの掛け合いやら恋愛沙汰やら色々と経験しながらも、比較的穏やかに働く日々。だが、北半球最高の殺し屋、通称「ハムスターを連れた男」のサポートという穏やかでない仕事を指示されたとき、彼は自分の仕事について真剣に考えざるを得なくなるのでした。


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 アルベルト・ブラウンは北半球でもっとも成功した殺し屋になった。そして彼は虫も殺したことがなかった。時間がたつうちに、彼はそれに慣れていった。なにもかも準備して――武器を用意したり、罠を仕掛けたり、殺しを計画したりして、実行寸前までいく。そうするとターゲットはひとりでに死ぬ。アルベルトを雇った人々は満足し、彼自身、夜よく眠れる。
 アルベルトにとってすばらしい仕事であり、なんの暴力も必要としない。
 だがときどきさびしくなることがあった。それでハムスターを飼いはじめた。
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単行本p.180


 アルベルト・ブラウンがライフルの引き金に指をかけた瞬間、ターゲットは偶然の事故あるいは病気の発作で必ず死ぬ。一人も殺すことなく「自然死あるいは事故死としか見えない殺人」の名手となった殺し屋。もちろんその成功の背後では、ベテランの偶然仕掛け人が頑張っているわけです。今回、主人公が指示されたのは、この殺し屋のターゲットが完璧なタイミングで事故死するように偶然をコントロールするという仕事。

 これまで恋愛成就やら転職支援やらの仕事しかしてこなかった主人公は、殺人(としか言いようがない)を行うことが出来るのか。そもそも偶然仕掛け人という存在は倫理や道徳を超越しているというのか。それは傲慢な考えではないのか。主人公は(いまさら)悩み、そして決断を下すのでした。


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「この仕事に就いて、能動的に動き、ものごとを変え、自分が正しいと思う場所にものごとを導く機会を手に入れた。だがぼくはそうせず、封筒の言いなりになってしまった。自分を制度の一部と化した。それが楽で、快適で、帰属感を得られたから。最初の封筒からいままでずっと、ぼくは実行する任務しか見ていなかった。あなたのような人間になる安全経路を進んでいた。素晴らしい功績の自己賛美に夢中になり、自分の仕掛ける偶然によって影響を受ける人々の心を見ないような人間だ。だがもう違う」
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単行本p.270


 というわけで、スパイ工作員ものの典型的プロット(素質を見いだされスカウトされた主人公が厳しい訓練を経て工作員となって仕事に取り組むが、自身の倫理観に反する指令を受け、組織や友人を敵にまわして闘うはめになる)をうまく応用した長編小説です。登場する様々な偶然仕掛け人の仕事の説明が面白く、最後まで楽しめます。イマジナリーフレンド同士の恋愛というおバカ設定が、意外なことに、メインプロットとして浮上してくるあたり、恋愛小説としてもよく出来ていると思います。





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