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『会いに行って 静流藤娘紀行』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

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なぜあの年私は行かなかったんだろう。行けば会えたのに。
 でももし行っていたらきっと師匠は「この人誰」って思っただけかあるいは、「ああ、君か」って言うだけなんだ。なのに『金毘羅』、「二百回忌」、だいにっほんシリーズ、全て彼の影響をうけているのかもしれないと今思ったりしている私、私。その影響とは何か? それは神の俗人化、場と時空の変形、私小説的自己の分裂、……ああ、でもそれならすべて、『田紳有楽』だ。
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単行本p.195


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 師匠、判るという事の大半をインチキだと私は思っています。理解してはいけないものを理解する事で、この世は合理的に回っている。それに抵抗するように師匠は、生きてこられましたよね? 教育の刷り込みを受けて、医師になった上で。その上で百錬の文体が本当にあるものか? ありますとも、師匠には、師匠ならば。
(中略)
 本当のリアルとは何であるのかを、師匠は文によって叩き出した。リアルを追求せずにはいられない心で、リアルを越えてきた。しかもそのリアルとは常に不快がる肉体でした。肉体から逃げない、それ故に理解出来ない。つまり対象と和解しない。理解しない、でもあえて付き合う。すると、いつしかふいに肉体を越えてしまう。
 師匠が何かを「理解」するのはけして理論によってではない。具体物によってである。奇跡を起こすのも同じ、具体的に書かれた文章によってである。
 この無理筋において、私はあなたを勝手に師匠とお呼びしています。
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単行本p.48、49


 シリーズ“笙野頼子を読む!”第131回。


 師と仰ぐ「私小説」の書き手、藤枝静男。笙野頼子さんが「我が文学の師」と呼ぶ師匠について、敬意と畏怖をこめて書いた評伝、ではなくて師匠説、私小説をめぐる私小説。単行本(講談社)出版は2020年6月です。


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 これからこの恐るべき文章に導かれて、私も私なりの小説を書いてみたい。作中、我が文学の師、師匠の生涯と彼の「私小説」について、追ってゆく予定である。さて、ここで造語して言う。今から書くものを私は、師匠説と呼ぶ。その上でこの、師匠説を書いてゆく。というのも師匠のような「私小説」を私は書けないから。そこで今回は彼に寄生して書く。
 師匠説、それは要するに作家論にはとても足りない自説に過ぎないものだ。でも、自分の師匠について書いたフィクションにして、論説である。ちなみにそれはけして大きい説ではなく、小さい説ばかりを綴るのみならず、そのすべてが、自説、私説に過ぎない。要は私の師匠についての、私的すぎる小説。さらに正確に言えば私淑師匠小説、というべきものである。すべて限定だらけの世界である。ばかりではなく、何よりも私がこの師匠について、判っていないという事をこそ、今から、もがきながら書く。
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単行本p.8


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 ただそれでもその判らないという一点に懸けて、私にはこのような師匠説が書けると、他の人には不可能な師匠の読解が出来ると、今はそう思っています。
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単行本p.55


 まず取り上げる作品は『志賀直哉・天皇・中野重治』。読解しながら並行して「目の前のあの不毛な改元について追いかけ」「今の時代をとらえる」(単行本p.73)ことを試みます。


 続いて読者待望の、笙野頼子さんによる『田紳有楽』の読み解き、ですよ。


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根本、私は彼にかなわないし生涯届かない。そして師匠は、勝手に言うけれど、志賀直哉門下においてもっとも私小説を極めた、この形式の領土を広げた、真に開拓した、小説家である。彼はそれによって中央集権的な構造を抜け、自分の愛する故郷を中心のない王国にし、自分の魂であるわが庭の池を、ひとつの宇宙にまでした。そういう傑出である、その作品の最頂点というべきものが、『田紳有楽』である。
 この『田紳有楽』とは、一見奇想天外な、しかし実は目の前の物事を「ありのままに」書いた「私小説」である。彼はこの「身辺雑記」により私小説に永遠の生を与えた、それ故に志賀門下無二の出藍である、と今私は勝手に書く。
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単行本p.9


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 師匠の私小説『田紳有楽』はこのように「でたらめ」と称し、一切のお約束リアリズムの手足を縛ったまま、真っ暗の崖に飛び下りても、体から文章の翼を生やして空中浮遊した世界文学。その浮遊により背後にあらわれるのは、輪郭をなくして初めて判る世界の本質だ。
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単行本p.222


 天皇制から始まって、体から文章の翼を生やして空中浮遊した世界文学の読み解きというクライマックスを経て、最後に向かう先は『イペリット眼』『犬の血』そしてそこから私たちをとりまく現実を「報道」してゆきます。


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ええ馬鹿でいいですもう。ナイーブでもルサンチマンでも愚鈍でも何でも「言ってもらっていいですか、どうぞ、けーっ」、だ。だって小説はモチーフが大切なのである。師匠には昔何か「憎悪」持ってると中野孝次先生との対談で言って貰いました。私は「憎悪」です。今こそ、「憎悪」します。
 要するに何か素敵な文学とか何か素敵なスポーツとか何か素敵なデリダの使い方とか、今はもう? いいえ、昔から、私はそんなものの外にいるつもり。師匠だって外だもん。素敵じゃない方の私小説でいいです。こっちが元祖の根源の原始(=純)文学です。
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単行本p.245


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 今これを師匠の名の下に書く事は師匠が「イペリット眼」「犬の血」の作者であるという事を大前提として、果して、これを「文学の政治利用である」と言うべきなのか、「芸術をプロパガンダに使った」と言うべきなのか、そして「ネット用語をつかったら文学ではない」という基準は、それは、ガリマールの基準なのか、でもどっちにしろ放置したらここはもう今から最悪、敗戦直後の、焼け野原になる。
 原爆を落として、治療はせずに患者の血液だけとっていって(子供含む)その上七十年超も沖縄を苦しめて「何もお仕置きをしなかった」と多くの人々からそう、信じられているアメリカ、だけどそれが今ほーら、とうとう莫大な利子を付けて取り立てに来たよ? だったらもう報道だ。それは自分の内面を薄めてでもやらなくてはならない、というわけで報道モードになっている私、貧血気味の笙野、でもそれ師匠が「イペリット眼」「犬の血」を書いた時と同じ状態でしょう?
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単行本p.247


 というわけで、師匠の「私小説」を受け継ぎ、自分の文学を展開する、師匠説にして私小説、私小説する私小説です。藤枝静男さんの作品は好きだけど笙野頼子さんの作品は読んだことがない、という方にもぜひ出会ってほしい覚悟と敬愛の一冊です。


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私の文章を嫌う人は最初からいたのです。無論、鍛えぬいた師匠の文章を嫌いと言える人はなかなかいないでしょう。まあどっちにしろ文章には出会うしかありません。ひとりの人とひとつの文章が会うか会わないかには、その人の心身のすべてが掛かっているから。
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単行本p.58





タグ:笙野頼子
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