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『SFマガジン2020年6月号 英語圏SF受賞作特集』 [読書(SF)]

 隔月刊SFマガジン2020年6月号の特集は「英語圏SF受賞作特集」でした。また『三体』の著者、劉慈欣のデビュー作も翻訳掲載されました。


『鯨歌』(劉慈欣、泊功:翻訳)
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「お手伝いいただけるとお聞きしましたが、先生」ワーナーはサンタクロースの笑顔を浮かべて言いました。
「はい、海岸まであなたのお荷物を運んでさしあげますよ」ホプキンスは無表情のまま言いました。
「何をお使いになるので?」ワーナーが気だるそうに尋ねました。
「鯨です」ホプキンスはごく短く答えました。
――――
SFマガジン2020年6月号p.11


 技術の進歩により格段に難しくなった麻薬の密輸。悩める麻薬王に、一人の技術者が驚くべき提案をする。鯨の脳を遠隔コントロールして麻薬運搬船として活用するというのだ。技術と倫理の葛藤、人間に対する根深い不信、皮肉な結末など、いかにもこの著者らしいデビュー短編。


『ジョージ・ワシントンの義歯となった、九本の黒人の歯の知られざる来歴』(P・ジェリ・クラーク、佐田千織:翻訳)
――――
 エマは特別な魔法はなにも知らなかった。彼女は薬師でも魔術師でもなく、ワシントン家の女たちのように家事に使う単純な魔法の訓練も受けていなかった。だが彼女の夢は独自の魔法を働かせた。エマがよりどころとし、その心のなかで――彼女の主人でさえそれに触れることも奪うこともできない場所で――育ち花開いた、強い効力のある魔法を。
――――
SFマガジン2020年6月号p.32


 合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンは、入れ歯を作るために黒人の歯を九本購入した。この史実を元に、それぞれの歯を提供した人々がどのような人物だったのかを想像で描いた作品。魔術師もいれば、呪術の力を持ったもの、異世界から来たものまでいる九人のなかで、現実を変えてしまうような強い力を持っていたのは誰か。大切なのは、私たちは誰もがその力を持っているということだ。


『ガラスと鉄の季節』(アマル・エル=モータル、原島文世:翻訳)
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「子どものころ」喉のつまりをのみこもうとするかのように、タビサはかすれた声を出した。「心と心を金の紐でつなぐ結婚を夢見てたの――ふたつの心を結びつける、夏の日みたいにあったかいリボン。鉄の靴の鎖なんて夢見てなかった」
「タビサ――」アミラはタビサに手をのばしたものの、その手を握りしめる以外にどうしたらいいかわからなかった。話してほしい、理解してほしいと切望しながら、雁をながめるように見つめるしかなかった。「――あなたはなにも悪いことをしておりませんわ」
 タビサはアミラのまなざしを受け止めた。「あんただって」
 ふたりは長いあいだそのまま動かなかった。やがて七羽の雁の羽ばたきに驚き、星々を見あげるまで。
――――
SFマガジン2020年6月号p.44


 その美しさに男たちが惑わされるとして、ガラスの山に追放された女。夫に対するケアが足りないとして鉄の靴をはいて歩き続ける呪いをかけられた女。出会った二人は、それぞれの呪いを自分で解くことは出来ないが、お互いに連帯すれば解放されるということに気づく。シスターフッドの力を描いた寓話。


『初めはうまくいかなくても、何度でも挑戦すればいい』(ゼン・チョー、大谷真弓:翻訳)
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「耐えられなかったのです」みじめに答えた。「もう無理です、あれだけがんばったのに……また失敗するのが怖いのです。そんな勇気はありません」
 レスリーの目は無慈悲だった。
「いいえ、あるはずよ。わたしは知ってる」
――――
SFマガジン2020年6月号p.64


 大蛇が天に昇って龍と化す。千年に一度だけやってくるチャンスを何度も逃し、ついに龍になることをあきらめた大蛇は、人間に化けて、自分が失敗する原因となった女に復讐しようと企てる。だが次第に二人は親密になってゆき、やがて年老いた女は大蛇の化身に「あきらめないと約束して」と言い残してこの世を去るが……。


『ようこそ、惑星間中継ステーションの診療所へ──患者が死亡したのは0時間前』(キャロリン・M・ヨークム、赤尾秀子:翻訳)
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S 診察室の薬品棚を調べまくって、軟膏や水薬をいくつも見つける。使用法を片端から読むならTへ。薬を適当に使ってみるならTへ。どっちを選ぼうと、おなじ行先になることがちょくちょくあるのに気づいただろうか? 診療所では――人生と同じく――重要に思える決断が、最終的に無意味なことがしばしばある。なんだかんだいったところで、どのみちみんな死んでいくのだ。さあ、心してTへ。
――――
SFマガジン2020年6月号p.70


「この診療所で受診するならCへ。べつの医療機関に行くならBへ」
懐かしゲームブック形式で書かれたショートショート。毒虫にかまれた「あなた」は宇宙ステーションの診療所に向かうが、どの選択肢を選んでも結局は「Z あなたは苦しみもだえて息絶える」に到達する。人生と同じく、選択の自由は見せかけに過ぎない。


『博物館惑星2・ルーキー 最終話 歓喜の歌』(菅浩江)
――――
――祈ります、〈ムネーモシュネー〉。どうか、俺と〈ダイク〉をずっと〈アフロディーテ〉のおまわりさんでいさせてください。百周年を迎えるその日にも、美しい生き方をする人たちがいる、この美しい場所を守らせてください。
――――
SFマガジン2020年6月号p.265


 既知宇宙のあらゆる芸術と美を募集し研究するために作られた小惑星、地球-月の重力均衡点に置かれた博物館惑星〈アフロディーテ〉。その五十周年記念フェスティバルの開幕当日。若き警備担当者は美術品犯罪組織の黒幕を摘発するために危険なおとり捜査に挑む。フェスティバル開幕を前に、これまでの物語が一つに収束してゆきクライマックスへと至る新シリーズ最終話。





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『出張料理人ぶたぶた』(矢崎存美) [読書(小説・詩)]

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「驚かせて申し訳ありません。わたし、おとといお電話でお話ししました山崎ぶたぶたと申します。ぬいぐるみです」
 声はぬいぐるみの方から聞こえる。鼻がもくもくっと動いている。
「マジで……?」
 混乱しすぎているのか、普段使わないようなことを言ってしまう。すると、
「マジです」
と答えが。
 なんだろう、この状況。どうしたらいいの?
――――
文庫版p.114


 見た目は可愛いぶたのぬいぐるみ、中身は頼りになる中年男。そんな山崎ぶたぶた氏に出会った人々に、ほんの少しの勇気と幸福が訪れる。大好評「ぶたぶたシリーズ」は、そんなハートウォーミングな奇跡の物語。

 最新作は、料理人ぶたぶたがご家庭を訪問しておいしい料理をふるまってくれる四つの物語を収録した連作短編集。文庫版(光文社)出版は2020年6月です。


 ぶたぶたシリーズの読者ならみんな、近所にぶたぶたのカフェやレストランがあればいいのになあ、と思うものです。しかし実際にそうなら通うかと妄想のギアを上げてゆくと、忙しくて暇がない、他の客もいるのをリアルに想像すると意外に面倒、着替えて外出する気力もない、などの理由から、あーもういいからぶたぶたうちに来い、わたしのために料理を作ってわたしのために掃除洗濯して面倒な手続きとか全部やって、わたしのためにわたしだけのためにお金ならあるお金なんていくらでも出すから今すぐかもーんこいこいぶたぶた、とか絶叫するようになるわけです。いや別に隠すことはありません。

 そういう方に個人的にお勧めなのは、ベビーシッターやハウスキーパーといった自宅にぶたぶたがやってきて家事をてきぱき片づけて料理を作ってくれる「おうちでぶたぶた」シリーズ。最新作もこのシリーズの一作で、出張料理人、ハウスキーパー、パーティ企画、葬儀後の会食手配という具合に「おうちでぶたぶた」を満喫できます。あとがきによると作者も意識してシリーズ展開をしているそうです。


――――
 さて、今回の「出張料理人」というテーマですけれど、実はこれ続編というか、長年書き続けているシリーズ中のシリーズというべきテーマです。
 古くはシリーズ第一作『ぶたぶた』(徳間文庫)の一編目――つまり、ぶたぶたが初登場した「初恋」から。ベビーシッターとしてやってきたぶたぶたの短編でした。その時の会社がハウスキーパーもやり初め(『ぶたぶたは見た』)、アイドルのボディガードも引き受け(徳間文庫『ぶたぶたの花束』「ボディガード」)、今回は出張料理人となった、ということなのです。手広く商売をしているぶたぶたです。
――――
文庫版p.222


[収録作品]

『なんでもない日の食卓』
『妖精さん』
『誕生日の予定』
『通夜の客』




『なんでもない日の食卓』
――――
「なんだろう……リセットできるっていうのかな」
「リセット?」
「いや……ちょっと違うかもしれない。けど、なんか……それまでのことが浄化されるというか……そっちの方がちょっと近いかな」
 聞いてますますわからなくなった。だが「そこまで特別なのか」とも思った。そして、それの代わりを務めるのも怖くなった。
「どんな予定なの?」
「大したことはしないよ。出張料理人を頼んでるの」
――――
文庫版p.11


 出張料理人を頼んでいるので無駄にしたくないから来てほしい。体調を崩してしまった友人からそう頼まれた語り手。やって来た出張料理人はピンク色のぶたのぬいぐるみだった。おうちに山崎ぶたぶた氏がやってくる導入話。


『妖精さん』
――――
 今夏音に必要なのは、寝ている間に何もかもやってくれる妖精みたいなものだ。靴屋の小人みたいなの。来てほしいな、妖精さん。このぐちゃぐちゃな家の中を片づけてほしい。ごはん作ってほしい。ほったらかしにしていることをみんなどうにかしてほしい。
 でも、そんな非現実的なことはありえない。夏音は今一人だし、全部一人でやらなくちゃならない。
 それが現実なのだ。
――――
文庫版p.66


 どんなに働いても誰からのお礼もない、それどころか嫌なことばかりの毎日。もう何もかもやってくれる妖精さんがうちに来たらいいのに。そう思いながら疲れ切って眠り込んだ語り手のもとに、本当に妖精さんがやって来る。え、これって夢だよね。多くの読者の共感を呼ぶ感動作。


『誕生日の予定』
――――
「あの、どうしてもパーティはやりたいんです。サプライズじゃなくて、娘にはちゃんと日にち確認してみます」
「そうですか。わたしも本音を言えばサプライズはおすすめしません」
「どうしてでしょう」
「わたしが出ていく場合に限りますと、必然的にサプライズみたいになるので、あんまり意味がないからです」
――――
文庫版p.134


 娘との間に微妙な距離を感じて悩んでいる母親が、少しでも近づくためにバースデーパーティを開催しようと考える。企画の打ち合わせに訪れた担当者は、ピンク色のぶたのぬいぐるみ。打ち合わせを進めるうちに、自分がこれまで娘のことを知ろうともしてこなかったという重い事実に向き合うことになった彼女は……。


『通夜の客』
――――
「そういえば、ぶたぶたさんとおばあちゃんはどんな関係なの?」
 宣寿が伯父にたずねる。
「ぶたぶたさんは元々ベビーシッターやハウスキーパーの会社をやってて、その顧客がばあちゃんだったんだ」
「えっ!?」
 統吾を含め、いとこたちが全員目を丸くする。
「そんなビジネスライクな関係だったの!?」
「なんだと思ってたんだ、お前たちは」
 みんなで顔を見合わせる。子供だったから、もっとファンタジーな関係だと思っていた。家についている妖精とか座敷童子とか――お手伝いをしてくれる不思議な存在だとばかり。
――――
文庫版p.199


 祖母が亡くなった。葬儀に出席した語り手は、参列者のなかにピンク色のぶたのぬいぐるみを見つけて子供の頃のことを色々と思い出す。親戚が集まった席でぶたぶたさんが作ってくれた料理の数々。子供の頃は妖精のような存在だと思っていたぶたぶたと話すことで、彼は人間関係や仕事というものについて学んでゆく。





タグ:矢崎存美
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『サークル・ゲーム』(マーガレット・アトウッド:著、出口菜摘:翻訳) [読書(小説・詩)]

――――
この骨を壊したい、
わたしを幽閉するあなたのリズムも
   (冬、
    夏)
ガラスケースも全部粉々にしたい、

地図をすべて消し去りたい、
砕いてしまいたい
唄いながら回転しつづける
あなたの子どもたちを守る卵の殻を。
円環(サークル)が
壊れてほしい。
――――
『サークル・ゲーム』より


 マーガレット・アトウッドのデビュー作、怒りと絶望に満ちた第一詩集。単行本(彩流社)出版は2020年5月です。


――――
ひょろりと伸びた木々は
沼地にその根を張っていること。
ここは貧しい土地だということ。
手で触れてようやく
こんなにも荒い岩肌の崖だと分かる、
だから到着不可能なのだ。なにより
旅とは、ある地点から別の地点へ
地図上の点線、四角い記された場所へ
移動するような気楽なものではなく
むしろ、絡まりあった枝々に包囲され、
まとわりつく空気と、明滅する網目のなかを
動きつづけるものだということ。
ここより他に向かう先はないこと。
――――
『内面への旅』より


――――
でも、車道を均し
ヒステリーを手際よく避けても、
焦げつく空を敬遠し
屋根の勾配をすべて均一にとっても、
ちょっとしたこと、
たとえば撒かれたオイルの臭い
ガレージに淀むかすかな嫌悪感、
殴打の痕かと胸を衝くレンガに付着したペンキの飛沫、
毒々しくとぐろ巻くプラスチックのホース、
幅広の窓でさえ、無遠慮に一点を凝視しているから
垣間見えるのだ
漆喰の壁にもうじき走る亀裂
そこから覗く隠された風景
――――
『都市設計者』より


――――
初期の
言語は廃れた。
このごろは
互いを疲弊させる隔たり。
剥げた部屋のうつろな空間で
借りものの数分間行われる
スパークリングのような論戦、
いつもどおりの階段をあがり、
疲労でかすれたわたしたちの声、
警戒する体。
わたしが向ける不信にあなたは収縮し
蒼穹を高く揚げることなどできない、
変身にまつわる伝説を
ふたたび始めることなどできない、

この姿が最後。
――――
『プロテウスのなれの果て』より


――――
自らを
わたし
と呼ぶこれは
今この時
どうでもいい

わたしはどうでもいい

そんなことは
必ずわたしのそばにいる
シビュラに託す
(そのために彼女はいるのだから)
安全に瓶詰めされた苦悶と
ガラスの絶望とともに
――――
『女預言者』より





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『小説版 韓国・フェミニズム・日本』(チョ・ナムジュ、松田青子、デュナ、西加奈子、ハン・ガン、深緑野分、イ・ラン、小山田浩子、パク・ミンギュ、高山羽根子、パク・ソルメ、星野智幸) [読書(小説・詩)]

 『文藝』2019年秋季号の特集小説に書き下ろしを追加した短編小説アンソロジー。単行本(河出書房新社)出版は2020年5月です。


〔収録作品〕

『離婚の妖精』(チョ・ナムジュ)
『桑原さんの赤色』(松田青子)
『追憶虫』(デュナ)
『韓国人の女の子』(西加奈子)
『京都、ファサード』(ハン・ガン)
『ゲンちゃんのこと』(深緑野分)
『あなたの能力を見せてください』(イ・ラン)
『卵男』(小山田浩子)
『デウス・エクス・マキナ』(パク・ミンギュ)
『名前を忘れた人のこと Unknwn Man』(高山羽根子)
『水泳する人』(パク・ソルメ)
『モミチョアヨ』(星野智幸)




『離婚の妖精』(チョナムジュ)
――――
「とにかくさ、君は不幸な奥さんたちを助ける離婚の妖精じゃないんだし……」
「ウンギョンさんが不幸せに見えたから救い出したんだと思う?」
「違う?」
「私の気持ちを、丁寧に、事細かに、正確に説明したところで、あなたには理解できないはずなの。それはあなたの理解が足りないからでもあなたが悪いからでもない。初めからそうできているの」
――――
単行本p.37


 自分のもとを去っていった元妻が、他の夫婦の離婚に尽力したという。文句をつけにきた相手の男に会ってみると、いかにもありふれた女性蔑視クズ。これじゃ離婚されるのも無理はないと思いつつも、じゃ自分はどうなのか、いやそれより元妻はどういうつもりで他人様の家庭に口出ししたのか。離婚の妖精でもきどっているのか。疑問に思った語り手は再開した元妻にわけをきいてみるが、「あなたには理解できない」と言われる。


『桑原さんの赤色』(松田青子)
――――
「そういうことじゃないのよ」
 桑原さんは言い、つまらなそうに夜野を見た。
「この色じゃないと駄目」
「え、なんでですか?」
「いつもこういう気分だから」
――――
単行本p.56


 バイト先の上司である桑原さんは、いつも赤いアイシャドウをしていた。なぜなんだろう、と不思議に思う語り手。女が常に戦闘モードでいることを強いられる世間というものをいやというほど知っている桑原さんと、まだよく分かっていない若い女性のすれ違いを描いた短編。


『追憶虫』(デュナ)
――――
 この感情が彼女自身のものだということが、ありうるのだろうか? ありえないことではなかった。そうだったらなぜいけないのか、私はそんなに血も涙もない存在かしら? けれども、脳と目の間に隠れている米粒ほどの宇宙生命体が、細い神経ネットワークを私の脳のあちこちで展開していることが確認されたのなら、その生命体のせいと考えた方がいいのではないだろうか。
 だとしたら、この感情は誰から来たものなのか。
――――
単行本p.71


 以前の宿主が抱いた感情を次の宿主に「感染」させる追憶虫。寄生されてしまった語り手は、ある女性に強い愛情を感じて止まらなくなる。これは自分自身がもともと持っていた感情か、それとも追憶虫による症状なのか。だとしたら、以前の宿主は誰か。相手の女性に対してこれほどまでに強い執着と、そしてストーカー的行動をとっていた人物。
 不思議な設定で語られるロマンス小説。


『ゲンちゃんのこと』(深緑野分)
――――
 私はあの日の夜、父が急に不機嫌になったことを思い出した。私はぬか漬けとキムチの違いがわからなかった。ぼーちゃんに言われても、まだわからない。ただひとつわかるのは、この違いを嫌悪して振るわれる暴力が、学校にも、私の家族の中にさえあり、ゲンちゃんと家族はそれと闘っているのだ。ずっと。それなのに私は無邪気すぎて、こうやって教えてもらうまで、気づくことさえできてなかった。
――――
単行本p.167


 友達のゲンちゃんが喧嘩で大怪我をして入院した。なぜいつもゲンちゃんは集団で暴力を振るわれるのか。どうして周囲の大人たちはそれをなかったことにしてしまうのか。はじめて差別というものに触れ、それが存在する世界に生きることの意味を予感する子供の心を丁寧に描いた作品。


『卵男』(小山田浩子)
――――
 足を早めようとした途端、不意に目の前に高い壁が現れました。その壁がぐらりと揺れた気がしてぎょっと足を止めると、それは卵で、卵が、むき出しの白い卵が、間に赤茶色の段ボールのようなものを挟んで積み上げられていて、それが誰かの手によって運ばれているのでした。うみたてかなにかなのか、ゆで卵なのか、塩卵温泉卵、パックに入っていない卵は無防備で、それがしかも縦に何段か、ざっと十段くらい横にもそれくらい積まれた状態で人々が、手に手にカゴや袋を持った人々が歩いている中を素手で運ばれているのです。運んでいるのは真っ青なジャンパーを着た中年男性で、ふらりふらり揺れるような足取りでどこかへ歩き去って行きました。
――――
単行本p.188


 韓国の市場で見かけた卵男。むきだしの卵を積み上げて出来た壁を運んでいた卵男。一年後に韓国を再訪した語り手は、再びその姿を目にする。現実なのか、幻覚なのか。奇妙な存在感を持つ「壁」を描いた作品。


『デウス・エクス・マキナ』(パク・ミンギュ)
――――
 僕はだるさを感じ
 部屋に上がっていくとすぐに眠った。
 長時間ではなかったが
 休暇をもらった会社員だけがとることのできる
 深い眠りだった。
 神はそのあいだに降りてこられた。
――――
単行本p.204


 あるとき神が地上に降臨する。背丈が1700キロメートルくらいあるので身体の大部分は大気圏より上にあったけど。神は人間のことなど気にもかけないで、まず空腹を満たすためにニュージーランドを食べてしまい(かわいそうなニュージーランド)、それから性欲を満たすためにアメリカをレイプする(かわいそうなアメリカ)。どうやら世界は終わるらしい。いかにもパク・ミンギュらしい作品。


『名前を忘れた人のこと Unknwn Man』(高山羽根子)
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 そんなことは本人にきいてみないとわからないのに、あるいはそれさえも、きいて本当のことを知ることができるかどうかわからないのに、当時の私が彼にとって敵である可能性を持ったまま、彼に痛かったか、怖かったか、とたずねてしまうことが恐ろしかったからかもしれない。自分が悪者の側に立ってしまっている、というこちら側の勝手な心配ごとのせいでもある。
 知らないでいようとすることが、表面上は無実に思える弱さと無知と、わずかのやさしさで成り立っていたとしても、この先そんな気持ちを抱えたままであれば、私がいったいどうなってしまうのか、今ももちろん、これからもずっと恐ろしいままだ。
――――
単行本p.258


 韓国の民俗博物館で見かけた工芸品を目にしたとき、語り手は名前も顔も思い出せない一人の芸術家のことを思い出す。集団と集団の歴史が個人にどのように影響するのかをとらえた作品。





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『聖なるものへ』(寺井淳) [読書(小説・詩)]

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見渡せば同じ夜汽車の客がみなうつむきて読む『解脱教本』
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勉強が煮詰まつてますと泣く子あり まづ〈煮詰まる〉を辞書にひけ君
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「ゴミはちゃんと分別しろと言われても死んだ誇りはたぶん燃えない。」
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犯人を教へてやらう キジ猫がのつそりと寄る植物園のベンチ
――――
猫を抱き七時のニューズ視てゐしが夕餐の鯵かれは嘔吐す
――――


 学校の生徒たちから猫の生活まで鋭く観察してゆるく描写する歌集。単行本(短歌研究社)出版は2001年6月です。


 まずは自身の世代(1957年生まれ)を見せる作品が、やや下の世代の読者から見て印象に残ります。


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われら『戦争を知らない子供たち』知らぬことさへ忘れ果つるを
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海をゆく「ひょうたん島」のひよつこりとかへり来よドンガバチョも君も
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たまゆらの逢ひこそ晴れの縁なればそののち知らずパンチDEデート 〈遇不遇恋〉
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〈黒く塗れ!〉さうまづ何を塗るべきかミック=ジャガアに煽られゆかな
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かの歌手に罪はあらぬをにこやかにファシズムは朗々と〈マイ=ウェイ〉
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見渡せば同じ夜汽車の客がみなうつむきて読む『解脱教本』
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 教師という職業がらでしょうか、生徒たちの様子を描く作品はとてもリアルです。


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自販機は校舎の陰に灯をともしコーラと並び避妊具光る
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レコードの針知らぬ子が降る雨を散文的にただ聴いてゐる
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銀河の英雄と子に呼ばれゐるカルガモが飛び去りて後のひだまり
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勉強が煮詰まつてますと泣く子あり まづ〈煮詰まる〉を辞書にひけ君
――――
日常へ韻ふむことのあはれさは岩波書店基礎古語辞典
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 いくつか生徒がしゃべった言葉をそのまま取り込んだような作品も散見されますが、これがけっこう可笑しい。


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「陽に灼けた水道管をゆく水に鉛のとける音がきこえる。」
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「明日芽吹く可能性ならまあ少し残っていると思ってもいい。」
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「ゴミはちゃんと分別しろと言われても死んだ誇りはたぶん燃えない。」
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 恋の歌もありますが、どこかユーモラスな印象を受けます。


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水妖を幾百秘めて揺らがざる沼のごときか君に惹かるる
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愛はいつも私のうちよりみちて部屋にあふれ割るるガラス窓
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星の数だけ贈らむとする愛を君は「たかだか有限」と言ふ
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くちづけを 雨天中止のプロ野球予備番組のやうにおざなり
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 そしてもちろん、猫の歌。猫がいればどうしても詠んでしまうようです。


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犯人を教へてやらう キジ猫がのつそりと寄る植物園のベンチ
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恋猫は今宵何処へゆくならむ〈猫ナビ〉つけて遺らましものを
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猫を抱き七時のニューズ視てゐしが夕餐の鯵かれは嘔吐す
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森羅といひ万象といひ永久といひ猫の欠伸に世界はゆらぐ
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あはれげな声も媚態のひとつにてあたかも人のことば吐く猫
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腹をみせ〈の〉の字のなりに横たはる夜のたまもののごとき黒猫
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