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『口訳 古事記』(町田康) [読書(小説・詩)]

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 武装してテンションがあがりきった天照大御神は、弓の腹(内側)を振り立てて、意味の訣らないことを喚き散らしながら御殿の階を駆け下り庭に降り立った。
 庭の土は強く固められてあった。ところが。
「うおおおおおおおおおおっ」
 と咆哮しながら天照大御神が左足を大きくあげ、そして勢いよく、堅い地面をストンピングした。そうしたところ、なんということであろうか、あまりにも勢いが強いため、足が太腿のところまで地面にめり込んだ。
 そうしておいてまたぞろ、
「うおおおおおおおおおおおおおっ」
と咆哮しながらこんだ、右足を大きくあげ、同じようにストンピングした。そうしたところ右足も太腿のところまでめりこんだ。それはいいが、こんな風に埋まった状態では身動きが取れず、闘いにおいて不利である。いったいどうするのか、と思って周囲の者が見ていると、
「だらあああああああっ」
 と絶叫しながら、足を蹴り上げた。そうしたところ、なんということであろうか、あの堅い土が、まるで雪のように蹴散らかされて舞った。
「ぺっぺっぺっ」
「そこまでしなくても」
「ちょっとテンションやばくないですか」
「やばいっすね」
 と周囲の者は小声で言った。
 けれども天照大御神はますます興奮し、さらに土を蹴散らかして、咆哮し、暴れたくっていた。
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単行本p.49


 シリーズ“町田康を読む!”第74回。

「人間からするとまったくもってなんちゅうことをさらすのかと思うが神なので仕方ない」(単行本p.109)

 『ギケイキ』『宇治拾遺物語』の町田康が、日本神話を私たちの言葉で語り直す。現代口語や方言を駆使し、活き活きと伝わってくる神々のやらかし、不始末、沙汰の外。単行本(講談社)出版は2023年4月。

 というわけで天地開闢から国家統一までの道のりを「ん、まあ、そんな感じやったんやろーな、実際。今とそう変わらんし」という距離感で現代に伝えてくれます。




 外交はこんな感じ。

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 そのとき兄宇迦斯・弟宇迦斯は自宅で寛いでいた。
「兄貴、暇やからその辺のボケかなんかしばきにいこか」
「めんどいから明日にしょうや」
「ほなそうしょうけ」
 そんなことを言ってダラダラしていたのである。そこへ八咫烏が来た。
「ごめん」
「なんじゃ、この鳥。なめとんのか。しばいたろか」
「まあ待て、なんぞ言うとるがな。なんや、おまえなんか用か」
「用があるから来とんにゃろがい」
「なんやねん。儂ら忙しいねん。早よ言えや」
「いま暇や言うとったやんけ」
「なんや聞いとったんかい。兎に角、聞かなわかれへん。言え」
「言わいでかよう聞け。いま、天つ神の御子がそこまで来てはんねん。おまえらどないすんねん。服属すんのんかい。それとも喧嘩すんのんかい。どっちや。よう考えて返事せえ」
 と八咫烏が権高に言うのを聞いて弟宇迦斯がせせら笑って言った。
「けらけらけらけら。兄貴、服属するかどうか聞いとるぞ」
「わらわしよんの。返事したれ」
「りょーかーい」
 そう言って弟宇迦斯は鏑矢を射た。
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単行本p.211




 軍事はこんな感じ。

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 いよいよ本番、
「練習通りにやれば大丈夫だから」
「練習だと思ってやればいいから」
 などと言いながらやったところ驚くほどうまく行き、土蜘蛛を滅ぼすことに成功した。
(中略)
「おどれ」
「ヘゲタレがっ」
 軍勢はおめきながら突撃した。敵の反撃は凄まじかった。しかしみんながとても頑張って最終的にはこれを打ち破り、逃げ隠れした奴も見つけ出して鏖(みなごろし)にした。
「ざまあみさらせ、アホンダラがっ」
 と言ってよろこんでみんなで唄を歌った。
(中略)
 軍勢は殺害しながら、
「ころすぞ、ボケ」
「もう殺してるがな」
「あ、ほんまや。ゲラゲラゲラ」
「ゲラゲラゲラ」
 など言って笑った。
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単行本p.221




 政治はこんな感じ。

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「いやさ、すっくり行きましたねぇ。さすが皇后さまですわ。御子ですわ」
「ええ。だけど心配なことがあります」
「なんですか。もうなにもかもすべて完璧に大丈夫でしょう」
「天地茂。謀叛の輩がいるやも知れません。そうなると御子の命が危ない」
「マジですか。僕は怖い、とても怖い」
「あなたは、大臣として自ら対策するという考えがないのですか」
「はいっ。ないですっ」
「わかりました。じゃあ、私が考えます。あなたは後日、殺します」
「ありがとうございます。お言葉の後半部分は聞かなかったことにします。どうすればよいでしょうか」
「御子を殺しなさい」
「えええええっ、マジですか。怖い。僕は怖い」
「またか。いや、本当に殺すのではない。喪船を仕立てて、御子、薨り給いぬ、と噂を流すのです」
「そうしたらどうなりますでしょうか」
「謀叛の輩はこちらが喪中で戦ができない、と考え、我々が帰り着いたところを襲ってくるでしょう。そこを返り討ちにするのです」
「あー、それでいいですね。すごいと思います。是非、やってください」
「おまえがやらんかー」
「すみません。いまのボケです。じゃあ、喪船の準備します。情報戦も開始します」
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単行本p.363





タグ:町田康
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『the sun』(小野寺修二、カンパニーデラシネラ) [ダンス]

 2024年3月23日は夫婦でシアタートラムに行って小野寺修二さんの新作を鑑賞しました。小野寺さんを含む6名の出演者が踊る70分の公演です。


キャスト他

演出:小野寺修二
出演:數見陽子、丹野武蔵、大西彩瑛、鈴鹿通儀、藤田桃子、小野寺修二
三味線演奏:桂小すみ


 カミュの自伝的な未完小説をベースとした無言劇で、セリフはありません。手話の翻訳が録音で流れるくらいです。三味線や縦笛、フルート、太鼓、歌唱など、次々に楽器を変えての桂小すみさんの演奏が印象的です。音の視覚化(例えばドアがきしむ音を“見える”ようにする、楽器や曲調が変わったことを視覚的に見せるなど)が工夫されており、これは出演者である、ろう者俳優である數見陽子さんのアドバイスが活かされているのでしょう。

 これまで観たデラシネラ作品と違って観客を驚かせ笑わせるようなマイムは控えめで、見立てが多く使われていました。冒頭で小野寺さんが白装束で踊っていたの、あれは配役表によると“馬”だったんかい。

 藤田桃子さんが少しも変わらないように見えることが個人的に驚いた点で、その存在感も相変わらず凄い。小野寺さんと藤田さんの掛け合いは本当に面白かった。

 原作をいったん断片化して再構成したようなプロットで、正直どういう話の展開なのかはよく分からなかったのですが、演出の面白さで最後まで楽しめました。タイトルにもなっている“太陽”の登場シーンの演出は特にインパクトがありました。





タグ:小野寺修二
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『EXHIBIT B』『calling glenn』(ダニエル・アガミ、Ate9ダンスカンパニー) [ダンス]

 2024年3月2日は、夫婦で世田谷パブリックシアターに行ってダニエル・アガミ率いるAte9ダンスカンパニーの初来日公演を鑑賞しました。『EXHIBIT B』が30分、『calling glenn』が50分の上演時間です。


[キャスト他]

振付・演出: ダニエル・アガミ
出演: Ate9ダンスカンパニー
マノン・アンドラル、アドリアン・デレフィン、ビョルン・バッカー、ジュリアン・ギブール、カルメラ・ディ・コスタンツォ、ユンティン・ツァイ、オスカー・ベレス
音楽: オミッド・ワリザデ(『EXHIBIT B 』)
音楽・演奏: グレン・コッチェ(『calling glenn』)


 音楽が強烈です。特に『calling glenn』ではグレン・コッチェ自身が打楽器をばんばん叩いて観客の身体を揺さぶります。彼の演奏目当てに来た観客も多いようです。

 聴いているうちに頭がぐらぐらして胃が動転して心が高揚するようなパーカッション鳴り響くなか、ダンサーたちはあちこちで小さな遭遇を繰り返します。その様はとても現代的というか、社会の縮図っぽいというか、近藤良平さんのダンスグループ「コンドルズ」の演出を連想させるというか。皮肉なユーモアがたっぷり。鳴り響く耳障りな不協和音でSNSを表現するシーンなどお見事でした。

 バットシェバ舞踊団の来日公演がキャンセルされた直後にこの公演をみることが出来て幸運でした。





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『入門 山頭火』(町田康) [読書(随筆)]

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 山頭火は、句の完成は人間の完成によって初めて成る、という意味のことを書いている。金持ちの家に生まれた山頭火は人を見下すことによって、人をぶち壊し、また、自分もぶち壊れる人間の在り方が嫌でそれから脱却しようとしたように思う。そしてマア必ずしもそうなろうと思ってなった訳ではないだろうが、行乞流転の身の上となり、その低い位置からすべてを等し並みに見る眼差しを獲得することによる回天を図った。だけど右に言ったことや、言わなかったそれ以外のこともあって、人間にはなかなかできないことで矛盾に溢れ、山頭火は壁にぶち当たった。山頭火の句はだから、完成した三味境から生まれてくる神韻縹渺とした句ではなく、捨てられない重い荷物を背負った山頭火の生身とどうしようもない人間の壁が衝突したときに響く音、生じるエネルギーであったと思われる。だけどそれは不可能な完成を目指さないと響かぬ音であり、生じない熱と力である。俺なんかが山頭火の句に切なく共感しつつも、ここまで徹底できないな、と思う、その理由は多分そこらへんにあんのとちゃうけと思う。
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単行本p.304


 シリーズ“町田康を読む!”第73回。


 分け入つても分け入つても青い山、とはどういうことなのか。自由律俳句の俳人、山頭火の生涯を自らの人生と重ねるようにして読み解く一冊。単行本(春陽堂書店)出版は2023年12月。




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 その頃、東京の西郊に住んでいた俺は取りあえず街道を東に向かって歩いた。歩く以外にすることはなかった。そして懐には一文の銭もなかった。けれども歩いたとてなにがどうなる訳でもない。だったら止まれば良いのだけれども、止まったらもっとどうにもならない。(中略)そんなことで俺は意味なく歩き続けた。そのとき頭のなかに、

  このように流浪するわけは、
  このように歩き続けるわけは、

 という句がずっと浮かんで流れていた。だけど、その先はちっとも思い浮かばなかった。(中略)そのときの俺にはこれを山頭火のように、水のような純粋な言葉よりなる詩にする能力が無かった。だから俺は高円寺まで歩いて力尽き、それ以上歩けなくなって、その頃のバンドメンバーの部屋を訪ね、一泊させて貰って電車賃を借りて家に帰った。
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単行本p.207、217




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  分け入つても分け入つても青い山

 と言うとき、その句には人の、でもまだ分け入っていこう、という意志がそれでもうかがえる。いま現在、分け入っている、という感じがある。それから丸三年経って、その人は、

  どうしようもないわたしが歩いてゐる

 と言う。(中略)此の句はそのような人がただ生きているだけでもう途方にくれている、という悲哀が現れている。
 なんの苦労もしないで甘やかされて育ち、「生きづらい」などとほざいている若僧を見るとパンクの日陰道を歩んできた翁としては、「バカッ、元気を出せっ」と叱咤したくなる。だけど、ここにある人間のそもそものどうしようもなさを見るとき、

  このように流浪するわけは
  このように歩き続けるわけは

 と問うて絶句し、引き返した、その先の姿がこれなのだ、ということに思いいたり、こころが、ぐわあっ、となるのである。うくく。
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単行本p.227





タグ:町田康
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