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『フレドリック・ブラウンSF短編全集4 最初のタイムマシン』(フレドリック・ブラウン:著、安原和見:翻訳) [読書(SF)]

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 ブラウンの小説世界は、すでに見たように文脈から切り離された〈意味〉が浮遊し偶然によって接続される極端な観念論的世界である。そこでは事実と妄想が区別されず、もちろん自己と他者も区別されない。ゆえに、滅びゆく愚かな人類の悲惨を味わいつつ、それを観念的な高みから笑うことができるのだ。(中略)想像の世界において、人は誰でも(というわけにはいかないかもしれないが)死ぬ自分自身の愚かさを親しみのこもった笑いをもってみつめることができる。その慰めにこそユーモアの最大の力があり、エンターテインメント作家としてのブラウンの真骨頂があるのだ。
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単行本p.357


 奇想天外なアイデア、巧妙なプロット、意外なオチ。
 短編の名手、フレドリック・ブラウンのSF短編を発表年代順に収録した全集、その最終巻。1951年以降に発表された、本邦初訳2編を含む全68編が収録されています。単行本(東京創元社)出版は2021年2月、Kindle版配信は2021年2月です。


 子どもの頃、繰り返し繰り返し飽きずに読み返したフレドリック・ブラウンのSF短編。今でもアイデアからオチまですべて憶えているというのも凄いことだけど、それでも今読んでやっぱり面白い、というのが素晴らしい。既刊の紹介はこちら。


2020年12月10日の日記
『フレドリック・ブラウンSF短編全集3 最後の火星人』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2020-12-10

2020年03月16日の日記
『フレドリック・ブラウンSF短編全集2 すべての善きベムが』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2020-03-16

2019年07月31日の日記
『フレドリック・ブラウンSF短編全集1 星ねずみ』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2019-07-31


 最終巻には多数のショートショートが含まれています。見開き2ページでオチまで駆け抜ける掌編の数々。例えば、次の一文を見ただけでアイデアとオチを反射的に思い出すのは私だけではないはず。


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パラドックスはまったく起こらなかった。金属はそのままだった。
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『実験』より

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彼は人工頭脳に顔を向けた。「神は存在するか」
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『回答』より

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ある日、ウォルター・B・イェホヴァは実践的唯我論者になった。
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『唯我論者』より

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そう言いながらボタンを押した。「これで時間が逆方向に流れるはずだ
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『ジ・エンド』より


 もちろん傑作短編も多く収録されており、最後まで楽しめます。


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 むしろ、すばらしい惑星なのだ。いまでは、ここで唯一の知的生物であることにすら慣れてしまった。その点ではドロシーに助けられた。たとえ返事はなくとも、話しかける相手がいるのはいいことだ。
 ただ――どうしても――また緑の惑星をこの目で見たい。
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『緑あふれる』より

 未知の惑星に墜落した男は、地球の緑を再び見たいという一心で生き延びようとする。何年も、たった一人で。
 ブラウンには「狂気と妄執」をテーマにした作品が数多くありますが、なかでも最も印象的な一遍でしょう。


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 ドアの把手に手をかけ、彼は長いこと立ち尽くしていた。やがてとうとうなかに入ってドアを閉じた。かちりと音がしてラッチがかかる。二度と開くことはないとわかったが、恐ろしいとは感じなかった。
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『家』より

 ひたすら謎の家のなかをさ迷い歩く男。背景説明を省き、悪夢めいた不条理感を凝縮したような傑作。


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 “現実ファイル”に実在する人の名前がリストアップしてあって、それのおかげでその人は現実の存在になってるんです。それで――これが夢の語呂合わせなんですけどね、現実っていうのは現実に、あるチェーン組織によって運営されてるんです。
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『事件はなかった』より

 他人には実在人物と非実在人物がいることに気づいた男。非実在人物を殺すと過去に遡ってその人物は存在しなかったことになる。こうしたことはそれを管理する組織によって運用されているのだ。パラノイア的妄想を巧みに活かした作品。


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 なぜただの一度も頭に浮かばなかったのだろう――すべての十パーセントとは、たんに金銭や結婚のことだけではなかったのだ。
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『エージェント』より

 成功と引き換えにあらゆる収入の十パーセントを渡す、という契約を悪魔とかわした男。約束通りどんどん成功するが、契約の適用範囲は金銭だけではなかった……。うまくひねったプロットにより、読後もずっと気にかかる一遍。





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『フローラ 花、そして花』(勅使川原三郎、佐東利穂子) [ダンス]

 2021年3月26日は、夫婦でKARAS APPARATUSに行って勅使川原三郎さんの公演を鑑賞しました。勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんが踊る上演時間一時間ほどの作品です。

 二人のうちどちらが踊るかは日によって違うそうで、私たちが鑑賞した日は二人のデュエットでした。

 舞台背景、客席から向かって右の壁面、そして床に、ぼんやりとした花のイメージが投影されます。床にはときおり明るい光の環が現れ、それがダンサー交代や舞台上の雰囲気が転換したりする前ぶりになっているようです。

 照明と衣装は全体的に静寂な夜のイメージが強く、月の光に照らされた花、を連想させます。前半は勅使川原三郎さんが踊り、後半は佐東利穂子さんがメインでした。静かな、人の気配を感じさせない、人と無縁な美しい光景をずっと見ているような気持ちになります。

 佐東利穂子さんが激しい音楽(ロック曲の導入部を切り出し多重録音で重ね合わせミニマル音楽のようにしたと思しきもの)にあわせて何度も何度も旋回する強烈なダンスシーンがあり、その後にやってくる静かな終焉(しおれ枯れてしまう)との対比がすごく印象的でした。





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『現代音楽史 闘争しつづける芸術のゆくえ』(沼野雄司) [読書(教養)]

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 現代音楽史を書こうとした動機はいくつかある。
 まず類書がほとんどないこと。日本語で書かれた書物で21世紀までを含めて通観できるもの、それもある程度コンパクトなものが必要だと考えていた。(中略)
 そして、「はじめに」にも書いたが、現代音楽の世界が十分に知られていないように見えること。(中略)クンデラやゴダールには興味があっても、リゲティやカーゲルの作品を聴いたことがない、アイ・ウェイウェイや村上隆の名は知っていても、彼らと同世代の作曲家の名はまったく思い浮かばないという人は、かなり多いのではないだろうか。
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単行本p.267


 20世紀から21世紀にかけて「クラシック音楽」はどのように発展していったのか。観客との決別、ファシズムと政治的利用、無調音楽、十二音技法、セリー音楽、電子音響、新ロマン主義……。前衛と反動がせめぎ合い、芸術とは音楽とは何かを常に問い続けてきた現代音楽の歴史を平易に解説してくれる本。単行本(中央公論新社)出版は2021年1月です。


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 クラシック音楽の歴史においては、多くの場合、その「不自由」は過去の音楽の謂いであった。ベートーヴェンの後の世代は彼を乗り越えて自由になろうとしたし、ワーグナー後の世代も同様の自由を求めた。そしてシェーンベルクは、近代の音楽を支えてきた「調」という不自由から、ストラヴィンスキーは「拍節」という不自由から逃れようとした。(中略)
 こうした観点からいえば、新ロマン主義が「前衛様式に対する自由」であったことは明らかである。元来は自由を求めて開拓された無調や非拍節的な音楽は、しかし一部の作曲家にとっては大きな抑圧として機能するようになっていたわけだ。かつて筆者は、60年代を過ごした年長の作曲家たちから、「あの頃は前衛的でなければ許されない雰囲気があり、自分もいやいやそんな曲を作っていた」といった類の述懐をしばしば耳にした。
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単行本p.239


〔目次〕

第1章 現代音楽の誕生
第2章 ハイブリッドという新しさ
第3章 ファシズムの中の音楽
第4章 抵抗の手段としての数
第5章 電子テクノロジーと「音響」の発見
第6章 1968年という切断
第7章 新ロマン主義とあらたなアカデミズム
第8章 21世紀の音楽状況




第1章 現代音楽の誕生
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 貴族とブルジョワジーの没落。これは彼らの庇護のもとで生きてきたクラシック音楽にとっては、もっとも恐ろしいことである。その終焉は、何世紀にもわたって音楽を支えてきたインフラストラクチャーの崩壊を意味していた。(中略)
 このとき、作曲家たちの眼の前にはいくつかの選択肢がひらけていた。ブルジョワの残党を対象に19世紀の延長で音楽を書き続ける道、思い切って移り気で軽薄な大衆の好みに寄り添おうという道、あるいは当時勃興しつつあった新しいジャンル「映画」のために働くという道。
 そのなかで、少数ではあるけれども、もはや誰の庇護も期待できないのであれば、いっそのこと好き勝手に音楽を開拓してみたい、と考える人々もいた。
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単行本p.25、27

 表現主義、無調音楽。19世紀のクラシック音楽から現代音楽への飛躍の歴史的背景について解説します。シェーンベルク、ウェーベルン、ベルク、等。


第2章 ハイブリッドという新しさ
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「分かりやすい新しさ」を得るために、過去から何らかのモデルを引き出して、現在と混ぜ合わせてしまうこと。これが新古典主義の基本的な戦略である。これは決して復古主義などではなく、きわめてモダンな態度というべきだろう。
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単行本p.41

 古さによって新しさを演出する。新古典主義はどのような背景のもとで何を目指したのか。ジャズ、機械音、レコードがクラシック音楽に与えた影響。ストラヴィンスキー、サティ、デュレ、オネゲル、プーランク、ミヨー、ガーシュイン、シュルホフ、ヒンデミット、等。


第3章 ファシズムの中の音楽
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 音楽は、こうした政治体制の中で、必然として国家に奉仕する役割を求められるようになるが、そうした要請と新しい創作への欲求を同時に満たす方法は、新古典主義の延長線上にしか見出せなかったはずだ。かくして新古典主義の「第二フェイズ」といってもよい光景が展開されることになる。
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単行本p.74

 社会主義リアリズム、頽廃音楽。ソビエト、ナチス、ファシスト党といった20世紀を代表する抑圧的政権のもとで、音楽はどのように形作られていったのか。ルリエー、ヴィシネグラツキー、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ハチャトゥリアン、カバレフスキー、フレンニコフ、リヒャルト・シュトラウス、ワーグナー、エック、ヘルベルト・ヴィント、マスカーニ、シェフェール、メシアン、コルンゴルト、バルトーク、等。


第4章 抵抗の手段としての数
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 ファシズムの台頭から戦争へと至る真空地帯の中で宙吊りにされていた音楽様式は、ここにきて猛然と変貌を始めた。それはほとんど「発作」ともいうべき性急な変化だったといってもよいだろう。
 この時代の作曲家たちが目指したのは、社会という土壌から切り離された、芸術のユートピアだったように思われる。貴族社会にも、大衆にも、もちろんファシズムとも一切関わらない、自律した美の世界を探究する音楽。この時に彼らが頼りにしたのは「数」という無色透明な道具だった。(中略)
 音楽から感情を、好みを、体温を、可能な限りはぎ取る実験。そう考えてみると、この技法もまた、一種の悲愴な切実さをもって生み出されたことがわかる。戦後のこの時期、どうしてもいったん、彼らはここにたどり着かねばならなかった。
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単行本p.110、122

 強力な力で聴衆を物語の中に引き込み、感動と陶酔感を与える音楽。ナチスによるその悪用を経験した作曲家たちは、物語や意味や感情から切り離された純粋音楽、搾取されない音楽を目指した。十二音技法、セリー音楽、偶然性の音楽。シェーンベルク、ウェーベルン、ベルク、ブーレーズ、シュトックハウゼン、ジョン・ケージ、アイヴズ、等。


第5章 電子テクノロジーと「音響」の発見
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 パリの「ミュージック・コンクレート」に対して、ケルンの手法は狭義の「電子音楽」と呼ばれるが、双方はお互いの側から接近し、時として融合することになった。ゆえに現在では、両者の総称として「電子音響音楽」という語を使うことが一般的である。ただし依然として、その出自が本質的にどちらにあるのかは、作品の性格を決定する大きな要素といえよう。
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単行本p.153

 テクノロジーの発達により可能になった、具体的な音を録音して編集して作るミュージック・コンクレートや電子音楽、そしてその融合により生まれた電子音響音楽。特殊奏法と雑音の取り込み。新しい音を手に入れた作曲家たちは、様々な冒険に乗り出してゆく。武満徹、シェフェール、フェラーリ、ルシエ、リゲティ、ペンデレツキ、等。


第6章 1968年という切断
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 1968年的な音楽のあり方とは、これまで自明と思われていた西洋中心主義や単線的な歴史観に疑義をさしはさみ、時には「不純」ともいえる雑多な要素を参入させる試みだった。
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単行本p.204

 現代音楽の前衛という「大きな物語」の終焉。音楽の進歩それ自体への疑い。作曲家たちはコラージュ、ミニマル音楽、即興、政治的主張、などの試みによりそれぞれに音楽の枠を広げていった。ベリオ、ライヒ、グロボカール、シェルシ、高橋悠治、等。


第7章 新ロマン主義とあらたなアカデミズム
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 ウェーベルンから戦後のセリー音楽へと続く「冷たい」モダニズムの流れに対して、調性や拍節、そして表現や物語性のゆるやかな復活が、70年代後半から徐々に目立ってくるのである。(中略)
 面白いことに、新ロマン主義的なムードが広く支持される一方で、前衛の方向性をそのまま継承し、より複雑なセリー書法、より徹底した特殊奏法へと進んだ作曲家たちが、80年代を過ぎると急速に存在感を増してゆく。
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単行本p.213、230

 多様な手法やコンセプトが積み重なり、作曲家たちは単一の時代様式という拘束から自由になってゆく。調性や拍節やさらには物語の復活(新ロマン主義、オペラの隆盛)と並行して、ミニマル音楽、古楽ブーム、新しい複雑性。リーム、シャリーノ、アダムズ、グラス、ライヒ、シュニトケ、ペルト、ファーニホウ、マヌリ、細川俊夫、西村郎、タンドゥン、等。


第8章 21世紀の音楽状況
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 シャリーノやリームよりもさらに若い世代、すなわち21世紀において音楽界の中心を成す作曲家たちに、新しい傾向は存在するだろうか。
 歴史というのは近くになればなるほど多様な事象が目にとびこんでくるから、ひとつの流れを見出すことは難しい。しかし――もちろん例外も山ほど指摘できるとはいえ――ひとつの傾向が感じられなくもない。それを正確には何と呼んだらよいか分からないのだが、一種の「ポップ化」とでもいうべき事態が進行しているように見えるのだ。
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単行本p.258

 現代オペラの隆盛、現代音楽の「ポップ化」、楽譜作成ソフトの発展……。21世紀における現代音楽の重要トピックを取り上げて解説。グロボカール、ラッヘンマン、ドナトーニ、リンドベルイ、フラー、ペドロシアン、センド、ポッペ、ヴィトマン、望月京、藤倉大、ノイヴィルト、シュタウト、アンドレ、等。





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さいたまダンス・ラボラトリVol.3公演『明日を探る身体』(小尻健太、湯浅永麻) [ダンス]

 2021年3月21日は、夫婦で彩の国さいたま芸術劇場に行って公演を鑑賞しました。さいたまダンス・ラボラトリVol.3の参加者が、小尻健太さんと湯浅永麻さんの指導とともに制作したワークショップ成果発表公演です。


〔プログラム〕

イリ・キリアン『27'52"』より抜粋
振付: イリ・キリアン
音楽: ディルク・ハウブリッヒ
指導: 小尻健太、湯浅永麻

『シェヘラザーズ』
演出振付: 湯浅永麻
出演: さいたまダンス・ラボラトリVol.3受講生11名

『Wild flowers』
振付演出: 柿崎麻莉子
出演: 飯森沙百合、栗朱音、小暮香帆、鈴木春香
音楽: 豊田奈千甫

『あはい』
振付演出: 小尻健太
音楽: 森永泰弘
出演: さいたまダンス・ラボラトリVol.3受講生12名

『わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド』
テキスト・演出: 岡田利規
出演: 湯浅永麻


 開場したときには、舞台上では参加者たちによるキリアン『27'52"』のリハーサルが進んでいます。小尻健太さんと湯浅永麻さんの指導のもとに参加者たちの動きが調整されてゆく過程をそのまま観客に見せるという試みですが、これが非常に面白かった。こういう風に指導するんだ、助言ひとつでこんな感じで動きが変わるものなんだ、など新鮮な驚きがあります。

 湯浅永麻『シェヘラザーズ』、小尻健太『あはい』とも見応えのある作品でしたが、個人的には柿崎麻莉子さんの『Wild flowers』が好きです。もう一度観たい作品。

 『わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド』は湯浅永麻さんがしゃべりながら踊る作品ですが、セリフの内容(あるいはその欠如)がいかにもチェルフィッチュだなあという感じで、それと呼応しているようなしてないような凄い動きがセリフのくだけた感じとは裏腹にどんどん出てくる様には、正直あっけにとられました。

 参加者たちはみんなプロ、セミプロのダンサーなので、公演全体のレベルは高く、ワークショップの成果発表会というよりは新作ガラ公演として楽しめました。





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『裏世界ピクニック6 Tは寺生まれのT』(宮澤伊織) [読書(SF)]

―――
「……私、いま発狂してた?」
「ちょっとね」
「ごめん」
「いいよ」
「予備動作なしで発狂しないでくれないか、ビビるから……」
 小桜が震え声で言って、胸を撫で下ろした。
「すみません……。でも、いま私なんで狂ったんだろ」
「そんな疑問文生まれて初めて聞いたわ」
――――


 裏世界、あるいは〈ゾーン〉とも呼称される異世界。そこでは人知をこえる超常現象や危険な存在、そして「くねくね」「八尺様」「きさらぎ駅」など様々なネットロア怪異が跳梁している。日常の隙間を通り抜け、未知領域を探索する若い女性二人組〈ストーカー〉コンビの活躍をえがく連作シリーズ、その第6巻。文庫版(早川書房)出版は2021年3月、Kindle版配信は2021年3月です。

 タイトルからも分かる通りストルガツキーの名作『路傍のピクニック』をベースに、ゲーム『S.T.A.L.K.E.R. Shadow of Chernobyl』の要素を取り込み、日常の隙間からふと異世界に入り込んで恐ろしい目にあうネット怪談の要素を加え、さらに主人公を若い女性二人組にすることでわくわくする感じと怖さを絶妙にミックスした好評シリーズ『裏世界ピクニック』。

 もともとSFマガジンに連載されたコンタクトテーマSFだったのが、コミック化に伴って「異世界百合ホラー」と称され、やがて「百合ホラー」となり、「百合」となって、ついには故郷たるSFマガジンが「百合特集」を組むことになり、それがまた予約殺到で在庫全滅、発売前なのに版元が緊急重版に踏み切るという事態に陥り、さらにはTVアニメ化され、ジュニア版が出版され、あまりのことに調子に乗ったSFマガジンが再び百合特集を組んだら発売前にまたもや緊急重版。もうストルガツキーやタルコフスキーのことは誰も気にしない。

 ファーストシーズンの4話は前述の通りSFマガジンに連載された後に文庫版第1巻としてまとめられましたが、セカンドシーズンは各話ごとに電子書籍として配信。ファイル5から8は文庫版第2巻、ファイル9から11は文庫版第3巻に収録されています。その後もファイル12から15を書き下ろしで収録した文庫版第4巻が2019年末に出版され、2020年末にも無事に第5巻が出版されました。年末には裏世界が出るという新たなにっぽんの風物詩。既刊の紹介はこちら。


2017年03月23日の日記
『裏世界ピクニック ふたりの怪異探検ファイル』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2017-03-23

2017年11月30日の日記
『裏世界ピクニック2 果ての浜辺のリゾートナイト』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2017-11-30

2018年12月17日の日記
『裏世界ピクニック3 ヤマノケハイ』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2018-12-17

2019年12月26日の日記
『裏世界ピクニック4 裏世界夜行』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2019-12-26

2020年12月22日の日記
『裏世界ピクニック5 八尺様リバイバル』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2020-12-22


 そして「年末新刊」というスケジュールを外してきた(おそらくTVアニメ放映中に新刊を出す必要があったと思われ)のがファイル20を収録した第6巻です。レギュラー総出演で最強の敵と戦うという、著者いわく「劇場版」、シリーズ初の長編です。


[収録作品]

『ファイル20 Tは寺生まれのT』


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 私の名前は、紙越空魚。埼玉に住む、ごく普通の大学生だ。
 そのはず、だったんだけど。
 いったい私、どうなっちゃうの……?
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「問診したところ、ここにいる全員の記憶もないし、DS研の存在自体も忘れ、UBLに関連することは何も憶えていないようだった。しかし、大学や日々の生活については特に問題なく記憶している。部分的な健忘──というより、恣意的と言ってもいいくらいだ」
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「真面目に考えろよ。明らかに、ただ頭打って記憶が飛んだとかじゃないからな。右目が……不活性化したとでもいうか。そんなの今まで見たこともない。何か裏世界に関係する、深刻な出来事が起こったんだ」
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「聞いて。空魚はいま、正常な状態じゃない。記憶喪失になってるんだと思う」
「きおく、そうしつ……」
「私、空魚の敵じゃないから。信じて」
「じゃあ、あなたは……何?」
「え?」
「敵じゃないなら、あなたは私の、何なの?」
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 今も現在進行形で、〈寺生まれのTさん〉という怪談の姿を借りた裏世界の“現象”に遭遇し続けているんだと思う。 今起こっている、この一連の出来事そのものが、人間の怪談の形式に沿った 裏世界との接近遭遇事例であり、それを認識している私への、裏世界からのアプローチなんだ。
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 あいつの正体がなんであったにしても、一つ確実なこと。〈寺生まれのTさん〉は、私の敵だ。
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 やっぱり寺生まれはすごい。空魚たちの前に現れた、あらゆる怪談実話を一喝で粉砕してしまう最強の男、Tさん。

 他人を発狂させる邪眼、パートナーとの後ろ暗い共犯関係、裏世界やDS研とのヤバいつながり。そういった自らの大切なアイデンティティ(それでいいのか?)を守るために戦う決意を固める空魚。

 だが先手を打ってきたTの御祓いにより壊滅的打撃を受けるDS研。<目>、<手>、そして<声>。もちろん最後は拳。パーティを組んでそれぞれのスキルを駆使して反撃に出る、それと巻き込まれて泣きべそかいたりする、レギュラーキャラクターたち。死闘の果てに、えっ、もしかして本来のコンタクトテーマSFに回帰しちゃったりするの?





タグ:宮澤伊織
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