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『現代音楽史 闘争しつづける芸術のゆくえ』(沼野雄司) [読書(教養)]

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 現代音楽史を書こうとした動機はいくつかある。
 まず類書がほとんどないこと。日本語で書かれた書物で21世紀までを含めて通観できるもの、それもある程度コンパクトなものが必要だと考えていた。(中略)
 そして、「はじめに」にも書いたが、現代音楽の世界が十分に知られていないように見えること。(中略)クンデラやゴダールには興味があっても、リゲティやカーゲルの作品を聴いたことがない、アイ・ウェイウェイや村上隆の名は知っていても、彼らと同世代の作曲家の名はまったく思い浮かばないという人は、かなり多いのではないだろうか。
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単行本p.267


 20世紀から21世紀にかけて「クラシック音楽」はどのように発展していったのか。観客との決別、ファシズムと政治的利用、無調音楽、十二音技法、セリー音楽、電子音響、新ロマン主義……。前衛と反動がせめぎ合い、芸術とは音楽とは何かを常に問い続けてきた現代音楽の歴史を平易に解説してくれる本。単行本(中央公論新社)出版は2021年1月です。


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 クラシック音楽の歴史においては、多くの場合、その「不自由」は過去の音楽の謂いであった。ベートーヴェンの後の世代は彼を乗り越えて自由になろうとしたし、ワーグナー後の世代も同様の自由を求めた。そしてシェーンベルクは、近代の音楽を支えてきた「調」という不自由から、ストラヴィンスキーは「拍節」という不自由から逃れようとした。(中略)
 こうした観点からいえば、新ロマン主義が「前衛様式に対する自由」であったことは明らかである。元来は自由を求めて開拓された無調や非拍節的な音楽は、しかし一部の作曲家にとっては大きな抑圧として機能するようになっていたわけだ。かつて筆者は、60年代を過ごした年長の作曲家たちから、「あの頃は前衛的でなければ許されない雰囲気があり、自分もいやいやそんな曲を作っていた」といった類の述懐をしばしば耳にした。
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単行本p.239


〔目次〕

第1章 現代音楽の誕生
第2章 ハイブリッドという新しさ
第3章 ファシズムの中の音楽
第4章 抵抗の手段としての数
第5章 電子テクノロジーと「音響」の発見
第6章 1968年という切断
第7章 新ロマン主義とあらたなアカデミズム
第8章 21世紀の音楽状況




第1章 現代音楽の誕生
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 貴族とブルジョワジーの没落。これは彼らの庇護のもとで生きてきたクラシック音楽にとっては、もっとも恐ろしいことである。その終焉は、何世紀にもわたって音楽を支えてきたインフラストラクチャーの崩壊を意味していた。(中略)
 このとき、作曲家たちの眼の前にはいくつかの選択肢がひらけていた。ブルジョワの残党を対象に19世紀の延長で音楽を書き続ける道、思い切って移り気で軽薄な大衆の好みに寄り添おうという道、あるいは当時勃興しつつあった新しいジャンル「映画」のために働くという道。
 そのなかで、少数ではあるけれども、もはや誰の庇護も期待できないのであれば、いっそのこと好き勝手に音楽を開拓してみたい、と考える人々もいた。
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単行本p.25、27

 表現主義、無調音楽。19世紀のクラシック音楽から現代音楽への飛躍の歴史的背景について解説します。シェーンベルク、ウェーベルン、ベルク、等。


第2章 ハイブリッドという新しさ
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「分かりやすい新しさ」を得るために、過去から何らかのモデルを引き出して、現在と混ぜ合わせてしまうこと。これが新古典主義の基本的な戦略である。これは決して復古主義などではなく、きわめてモダンな態度というべきだろう。
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単行本p.41

 古さによって新しさを演出する。新古典主義はどのような背景のもとで何を目指したのか。ジャズ、機械音、レコードがクラシック音楽に与えた影響。ストラヴィンスキー、サティ、デュレ、オネゲル、プーランク、ミヨー、ガーシュイン、シュルホフ、ヒンデミット、等。


第3章 ファシズムの中の音楽
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 音楽は、こうした政治体制の中で、必然として国家に奉仕する役割を求められるようになるが、そうした要請と新しい創作への欲求を同時に満たす方法は、新古典主義の延長線上にしか見出せなかったはずだ。かくして新古典主義の「第二フェイズ」といってもよい光景が展開されることになる。
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単行本p.74

 社会主義リアリズム、頽廃音楽。ソビエト、ナチス、ファシスト党といった20世紀を代表する抑圧的政権のもとで、音楽はどのように形作られていったのか。ルリエー、ヴィシネグラツキー、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ハチャトゥリアン、カバレフスキー、フレンニコフ、リヒャルト・シュトラウス、ワーグナー、エック、ヘルベルト・ヴィント、マスカーニ、シェフェール、メシアン、コルンゴルト、バルトーク、等。


第4章 抵抗の手段としての数
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 ファシズムの台頭から戦争へと至る真空地帯の中で宙吊りにされていた音楽様式は、ここにきて猛然と変貌を始めた。それはほとんど「発作」ともいうべき性急な変化だったといってもよいだろう。
 この時代の作曲家たちが目指したのは、社会という土壌から切り離された、芸術のユートピアだったように思われる。貴族社会にも、大衆にも、もちろんファシズムとも一切関わらない、自律した美の世界を探究する音楽。この時に彼らが頼りにしたのは「数」という無色透明な道具だった。(中略)
 音楽から感情を、好みを、体温を、可能な限りはぎ取る実験。そう考えてみると、この技法もまた、一種の悲愴な切実さをもって生み出されたことがわかる。戦後のこの時期、どうしてもいったん、彼らはここにたどり着かねばならなかった。
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単行本p.110、122

 強力な力で聴衆を物語の中に引き込み、感動と陶酔感を与える音楽。ナチスによるその悪用を経験した作曲家たちは、物語や意味や感情から切り離された純粋音楽、搾取されない音楽を目指した。十二音技法、セリー音楽、偶然性の音楽。シェーンベルク、ウェーベルン、ベルク、ブーレーズ、シュトックハウゼン、ジョン・ケージ、アイヴズ、等。


第5章 電子テクノロジーと「音響」の発見
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 パリの「ミュージック・コンクレート」に対して、ケルンの手法は狭義の「電子音楽」と呼ばれるが、双方はお互いの側から接近し、時として融合することになった。ゆえに現在では、両者の総称として「電子音響音楽」という語を使うことが一般的である。ただし依然として、その出自が本質的にどちらにあるのかは、作品の性格を決定する大きな要素といえよう。
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単行本p.153

 テクノロジーの発達により可能になった、具体的な音を録音して編集して作るミュージック・コンクレートや電子音楽、そしてその融合により生まれた電子音響音楽。特殊奏法と雑音の取り込み。新しい音を手に入れた作曲家たちは、様々な冒険に乗り出してゆく。武満徹、シェフェール、フェラーリ、ルシエ、リゲティ、ペンデレツキ、等。


第6章 1968年という切断
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 1968年的な音楽のあり方とは、これまで自明と思われていた西洋中心主義や単線的な歴史観に疑義をさしはさみ、時には「不純」ともいえる雑多な要素を参入させる試みだった。
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単行本p.204

 現代音楽の前衛という「大きな物語」の終焉。音楽の進歩それ自体への疑い。作曲家たちはコラージュ、ミニマル音楽、即興、政治的主張、などの試みによりそれぞれに音楽の枠を広げていった。ベリオ、ライヒ、グロボカール、シェルシ、高橋悠治、等。


第7章 新ロマン主義とあらたなアカデミズム
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 ウェーベルンから戦後のセリー音楽へと続く「冷たい」モダニズムの流れに対して、調性や拍節、そして表現や物語性のゆるやかな復活が、70年代後半から徐々に目立ってくるのである。(中略)
 面白いことに、新ロマン主義的なムードが広く支持される一方で、前衛の方向性をそのまま継承し、より複雑なセリー書法、より徹底した特殊奏法へと進んだ作曲家たちが、80年代を過ぎると急速に存在感を増してゆく。
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単行本p.213、230

 多様な手法やコンセプトが積み重なり、作曲家たちは単一の時代様式という拘束から自由になってゆく。調性や拍節やさらには物語の復活(新ロマン主義、オペラの隆盛)と並行して、ミニマル音楽、古楽ブーム、新しい複雑性。リーム、シャリーノ、アダムズ、グラス、ライヒ、シュニトケ、ペルト、ファーニホウ、マヌリ、細川俊夫、西村郎、タンドゥン、等。


第8章 21世紀の音楽状況
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 シャリーノやリームよりもさらに若い世代、すなわち21世紀において音楽界の中心を成す作曲家たちに、新しい傾向は存在するだろうか。
 歴史というのは近くになればなるほど多様な事象が目にとびこんでくるから、ひとつの流れを見出すことは難しい。しかし――もちろん例外も山ほど指摘できるとはいえ――ひとつの傾向が感じられなくもない。それを正確には何と呼んだらよいか分からないのだが、一種の「ポップ化」とでもいうべき事態が進行しているように見えるのだ。
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単行本p.258

 現代オペラの隆盛、現代音楽の「ポップ化」、楽譜作成ソフトの発展……。21世紀における現代音楽の重要トピックを取り上げて解説。グロボカール、ラッヘンマン、ドナトーニ、リンドベルイ、フラー、ペドロシアン、センド、ポッペ、ヴィトマン、望月京、藤倉大、ノイヴィルト、シュタウト、アンドレ、等。





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