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『入門 山頭火』(町田康) [読書(随筆)]

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 山頭火は、句の完成は人間の完成によって初めて成る、という意味のことを書いている。金持ちの家に生まれた山頭火は人を見下すことによって、人をぶち壊し、また、自分もぶち壊れる人間の在り方が嫌でそれから脱却しようとしたように思う。そしてマア必ずしもそうなろうと思ってなった訳ではないだろうが、行乞流転の身の上となり、その低い位置からすべてを等し並みに見る眼差しを獲得することによる回天を図った。だけど右に言ったことや、言わなかったそれ以外のこともあって、人間にはなかなかできないことで矛盾に溢れ、山頭火は壁にぶち当たった。山頭火の句はだから、完成した三味境から生まれてくる神韻縹渺とした句ではなく、捨てられない重い荷物を背負った山頭火の生身とどうしようもない人間の壁が衝突したときに響く音、生じるエネルギーであったと思われる。だけどそれは不可能な完成を目指さないと響かぬ音であり、生じない熱と力である。俺なんかが山頭火の句に切なく共感しつつも、ここまで徹底できないな、と思う、その理由は多分そこらへんにあんのとちゃうけと思う。
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単行本p.304


 シリーズ“町田康を読む!”第73回。


 分け入つても分け入つても青い山、とはどういうことなのか。自由律俳句の俳人、山頭火の生涯を自らの人生と重ねるようにして読み解く一冊。単行本(春陽堂書店)出版は2023年12月。




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 その頃、東京の西郊に住んでいた俺は取りあえず街道を東に向かって歩いた。歩く以外にすることはなかった。そして懐には一文の銭もなかった。けれども歩いたとてなにがどうなる訳でもない。だったら止まれば良いのだけれども、止まったらもっとどうにもならない。(中略)そんなことで俺は意味なく歩き続けた。そのとき頭のなかに、

  このように流浪するわけは、
  このように歩き続けるわけは、

 という句がずっと浮かんで流れていた。だけど、その先はちっとも思い浮かばなかった。(中略)そのときの俺にはこれを山頭火のように、水のような純粋な言葉よりなる詩にする能力が無かった。だから俺は高円寺まで歩いて力尽き、それ以上歩けなくなって、その頃のバンドメンバーの部屋を訪ね、一泊させて貰って電車賃を借りて家に帰った。
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単行本p.207、217




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  分け入つても分け入つても青い山

 と言うとき、その句には人の、でもまだ分け入っていこう、という意志がそれでもうかがえる。いま現在、分け入っている、という感じがある。それから丸三年経って、その人は、

  どうしようもないわたしが歩いてゐる

 と言う。(中略)此の句はそのような人がただ生きているだけでもう途方にくれている、という悲哀が現れている。
 なんの苦労もしないで甘やかされて育ち、「生きづらい」などとほざいている若僧を見るとパンクの日陰道を歩んできた翁としては、「バカッ、元気を出せっ」と叱咤したくなる。だけど、ここにある人間のそもそものどうしようもなさを見るとき、

  このように流浪するわけは
  このように歩き続けるわけは

 と問うて絶句し、引き返した、その先の姿がこれなのだ、ということに思いいたり、こころが、ぐわあっ、となるのである。うくく。
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単行本p.227





タグ:町田康
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