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『アメリカ最後の実験』(宮内悠介) [読書(ファンタジー・ミステリ・他)]


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 いつからか、音楽をゲームとして考えるようになった。
 音楽をゲームとして捉えること。たとえ内なる音叉が失われたとしても、理を突き詰め、最善の演奏を目指しつづけること。そうすれば、その先にやがて偽物が本物になる地点があるのではないか。人のためでも自分のためでもない、彼岸の音に辿り着けるのではないか。
 あの谷の向こう側に、必ずあるはずのもの――言ってしまえば、神の音楽に。
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単行本p.205


 米国の名門音楽学校在学中に不可解な失踪をとげた父。そのあとを追って西海岸にやってきた脩は、難関で知られる入学試験に挑戦する。だが試験会場で殺人事件が発生、現場には「アメリカ最初の実験」と書かれていた……。『エクソダス症候群』のプロット、『盤上の夜』における〈ゲーム〉、『ロワーサイドの幽霊たち』の〈アメリカという実験〉、それらを混ぜ合わせ、〈音楽〉の極限と根源に挑む長篇。単行本(新潮社)出版は2016年1月です。


 父親が失踪した理由を確かめるために、名門音楽学校の入学試験を受けに西海岸にやってきた青年、櫻井脩。彼を待っているのは厳しい試練だった。


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 人の聴覚や視覚の限界は約20ミリ秒――50分の1秒ほどだとされる。一般に、それ以下の違いは認識できないとされる。ところが測定結果を見てみると、ピアニストは100分の1秒の単位で音を弾き分けている。
 認識を超えた世界での格闘。
 それが、いまから自分がやろうとしていることだ。
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単行本p.17


 そこで脩が出会うのは、色々な意味でライバルであり、また戦友でもある、多くの仲間たち。「理」を突き詰めることで人知を超えた音楽への到達を希求する者。音楽は人を操る道具に過ぎないと割り切る者。音楽にとり憑かれた者。音楽の根源をめぐって多くの信念がぶつかり合う。


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 音楽に心などない。こんな考えは、賢しい。そんなことはわかっている。けれど、耐えがたいのは――この賢しい発想が、どうして通用してしまうのかだ。
 音楽とは、もっと手強いものでなくていいのか。
 自分の賢しさごときを打ち砕く現実が、この世界に存在しなくていいのか。世界とはもっと色鮮やかで、酷薄で、一筋縄ではいかないものではなかったのか。
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単行本p.91


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「演奏一つで人を掌中に収め、思うままに客の欲望をコントロールする。でも、音楽とは多かれ少なかれそういうものだろう?(中略)音楽は、突きつめれば人間に対するハッキングだ」
 音を媒介として、人の感情や欲求をコントロールする。その営為は、ハッカーがウェブを経由してコンピュータを乗っ取る行為と似ているということだ。
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単行本p.87、171


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裏側にひそむ、動物相にも植物相にも属さない何者かの息遣いだ。その何者かを飼い慣らし、研ぎ澄ませるためにこそ、彼は指を動かしつづける。その先にあるべきものは、英語ではない言語だ。あるいは、いまの音楽理論を超えた、まだ誰も知らないありうべき未来の理論、音楽ではない音楽なのだ。
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単行本p.77


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「だから音楽ってやつは嫌い。どこまでも亡霊みたいについてきて、心に影を落としてくる」
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単行本p.49


 しかし、試験会場で起こった殺人事件が物語を思いがけない方向へとドライブしてゆくことに。現場に残されていた「アメリカ最初の実験」という言葉は何を意味するのか。


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「性も暴力も、金すらもが人を動かさない世界で、それでも人類の欲を根底からゆさぶるであろう、ありうべき新たな時代の新たな商品とはいったい何か?」
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単行本p.74


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「アメリカ最後の実験が始まろうとしている」
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単行本p.74


 おぼろげに見えてくる暗闘。父とその仲間たちは、いったい何と戦っていたのか。そして「アメリカ最後の実験」とは。


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「アメリカは歴史上、常に先鋭的であろうとしてきた。我々が人工的で新しいものを好んできたのも、それが理由だ。まるで原罪か何かに駆り立てられるように、我々は先鋭的であろうとしつづけた。逆に言えば、我々は本質的に心の渇きを潤すことができないのだ」
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単行本p.85


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 俺たちは、そうと知らぬまま、資本と文化の闘いの最前線に立たされていた。そして、否が応にも、俺たちは音楽家だった。闘いを挑む以外、俺たちには道がなかったのさ。
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単行本p.140


 アメリカ最後の実験、その決着がつく場所。そこに引き寄せられるように集まってゆく登場人物たち。響きわたる銃声。そして原初の音楽と未来の音楽が交差する……。

 というわけで、「父親の失踪の真実を知るために、外界から閉ざされた場所にやってきた青年が挑む謎と闘い」という『エクソダス症候群』のプロットを再利用し、『盤上の夜』における〈ゲーム〉というテーマを〈音楽〉に換えて、『ロワーサイドの幽霊たち』(連作短篇集『ヨハネスブルグの天使たち』収録)における〈アメリカという実験〉を扱った、そんな長篇です。

 これまでの作品と比べると格段に読みやすく、長篇としてはごく短いページ数に、殺人事件、ライバル対決、陰謀、エキセントリックながらそれぞれに共感できる登場人物などエンタメ要素が隙間なく詰め込まれ、ミステリ、青春小説、謀略サスペンスなど様々な読み方が出来るようになっています。

 ただ、駆け足で終わってしまったという印象が強く、読後感は地味め。『エクソダス症候群』もそうでしたし、これは持ち味というものだろうと思います。



タグ:宮内悠介
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『短歌ください その二』(穂村弘) [読書(小説・詩)]

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「あーどこかにおっぱい落ちてないかな」と言う友達よそれは事件だ
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ハブられたイケてるやつがワンランク下の僕らと弁当食べる
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「元気をもらいました!もっと元気をください!」と迫り来る少女たち
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#あと二時間後には世界消えるし走馬灯晒そうぜ
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 「ダ・ヴィンチ」誌上にて募集された、読者投稿による短歌の数々と、歌人の穂村弘さんによる選評を収録したシリーズ第二弾。単行本(角川書店)出版は2014年3月です。

 連載の第31回から第60回までをまとめたものになります。ちなみに前作についての紹介はこちら。

  2014年06月25日の日記
  『短歌ください』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2014-06-25

 作品は「罪」「同性」「数字」といった毎回指定されるテーマに沿ったものと、自由枠とに分かれています。

 まずは学校生活や日常生活において「あるある」と感じる共感系の作品が印象に残ります。


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ジャージ着た七三分けの先生に服装検査される屈辱
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ハブられたイケてるやつがワンランク下の僕らと弁当食べる
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「あーどこかにおっぱい落ちてないかな」と言う友達よそれは事件だ
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正しさが欲しかったから25時赤信号にひとり従う
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カーテンのチェックの柄の法則を見破るだけで終わった日など
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歯ブラシをくわえて乗った体重計 重いものだな歯ブラシって
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自販機と話す女は狂ってるわけではないよ助けてココア
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アイスノンを殺して殺して殺して朝が生きろとわたしに告げる
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旅行だしちょっといいメシ食べようとコンビニでいくらのおにぎり買った
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 後から思い出す作品といえば、何となく怖いものと、滑稽なものが多いのですが、どちらがどちらか分からなくなるケースも。


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味の素かければ命生き返る気がしてかけた死にたての鳥に
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「元気をもらいました!もっと元気をください!」と迫り来る少女たち
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透明になれる薬をゴキブリに食べさせたからもう大丈夫
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私とは違うところで泣く友が私の部屋を怖いのだと言う
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#あと二時間後には世界消えるし走馬灯晒そうぜ
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飼い蛇にウサギをやる動画好きなわたしが人混みにいる
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室外機に鳩が絡まる血まみれの夢から覚めて布団から羽
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 あとね、個人的に「猫」が登場する作品にはいちいち感銘を受けてしまう癖。


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ニャアニャアと鳴いてる猫にそっくりな生き物をみな猫と呼んでる
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タイフーン過ぎた舗道で白猫に『もち』と名付けてこねまわす朝
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このオレの入浴シーンを謎として見る猫アリス牡7ヶ月
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 穂村弘さんの寸評も面白くて、ときにはそれ自体がエッセイになっていたりします。


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 目茶苦茶な字余りで、短歌の形になってないんだけど、異様なドライブ感に惹かれました。カップラーメンの出来上がりが待てなくて2分で開けて食べちゃった。たったそれだけのことを、ここまでハイテンションに詠い切ったのは凄い。
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「女子と同じ体勢をしている、それだけで何となくそわそわしています。童貞なので」との作者コメントあり。胸を打つものがありますね。遠いものや微かなものでどきどきできるって童貞の特権だと思います。
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私はゴキブリに投げ飛ばされた記憶があるんだけど、冷静に考えるとそんなこと有り得ないから、たぶんパニックを起こして勝手に吹っ飛んだんでしょうね。
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 前作における陣崎草子さんのように、個人的に気になって仕方がない作者というのは今回はいませんでした。ちなみに、「木下龍也・男・23歳」の投稿作品が何作も取り上げられていますのでチェックしてみて下さい。



タグ:穂村弘
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『プラスマイナス 157号』 [その他]

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 桜咲く春  創刊まる26周年を迎えました。27年目突入です
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 『プラスマイナス』は、詩、短歌、小説、旅行記、身辺雑記など様々な文章を掲載する文芸同人誌です。配偶者が編集メンバーの一人ということで、宣伝を兼ねてご紹介いたします。

[プラスマイナス157号 目次]
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巻頭詩 『春』(深雪)、イラスト(D.Zon)
短歌 『二十六回目の呪文』(島野律子)
随筆 『水深に注意してください! 2』(島野律子)
詩 『2016 巣立ち』(多亜若)
詩 深雪とコラボ 『春休み』(深雪&しまのりつこ)
詩 『第二十六話』(島野律子)
詩 『桃の節句』(琴似景)
詩 『春の葬列』(島野律子)
小説 『一坪菜園生活 四十』(山崎純)
随筆 『香港映画は面白いぞ 157』(やましたみか)
イラストエッセイ 『脇道の話 96』(D.Zon)
編集後記
 「あこがれのひと」 その2 島野律子
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 盛りだくさんで定価300円の『プラスマイナス』、お問い合わせは以下のページにどうぞ。

目黒川には鯰が
http://shimanoritsuko.blog.so-net.ne.jp/



タグ:同人誌
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『誤植文学アンソロジー 校正者のいる風景』(高橋輝次:編著) [読書(小説・詩)]


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校正は、限りないマイナスを、ただいっしんに、「ゼロの地点」に引き上げる仕事。間違いというのはなくて当たり前、そこからようやく内容の吟味が始まる。(中略)事実関係のレベルにおいて、ようやく誤りなしのゼロの基準に達したと思われたとき、校了となり、文字は活字として定着する。その時、校正者は、まるでいっさいの仕事をしなかったかのように、その場からそっと消えていなくなる。
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単行本p.89


 『活字狂想曲』(倉阪鬼一郎)の著者が「校正の鬼」と化した男の末路を描く『赤魔』、詩人が校正者の内面を描く『青いインク』(小池昌代)、校正者の生活をリアルに描写するうちに不条理小説の域に達した私小説『爐邊の校正』(田中隆尚)など、校正という仕事の現場にときおり訪れる地味なドラマを扱った短篇アンソロジー。単行本(論創社)出版は2015年12月です。

 「誤植文学」といっても、小さな誤植が引き起こした大騒動、といった類の作品は収録されておらず、焦点はひたすら「校正」という仕事にあてられています。小説の主人公はすべて校正者で、しかもそういう仕事をしている人に共通する、独特の、人柄というか、職業上の習性のようなものが、リアルに描写されます。皆さん仕事熱心ながら正直あまり友だちにはしたくないタイプです。


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 いかなる本でも、三山は内容を読んで楽しむことがもはやできなくなっていた。外から見れば、確かに本を読んでいるように見える。だが、彼が探しているのは、「誤植」それのみであった。他社の本に誤植が見つかると、えもいわれぬ快感を味わうことができた。折にふれて誤植を糾弾する投書をし、詫び状と粗品をせしめる。これが唯一の陰気な趣味らしい趣味といえた。
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単行本p.78


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 日頃、文字の「校正」を生業としているせいだろうか、気がつけば、すべて軌道からはずれたものは、修正しようとする習性になっている。汚れはトル、間違いはタダス、ばらばらなものはトーイツする……。
 でも、時々、自分のなかから、もうどうでもいいじゃないのと、何もかもを放り投げようとする放埒な声がわく。
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単行本p.86


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校正者の喜びはミスを見つける、そのことにこそある。(ほとんどミスのない、きれいな仕上がりだと、かえって不安になってくるのである)しかも写植オペレーターの単純ミスに赤鉛筆をほどこすときより、原稿そのもののミスを発見して大いに青鉛筆を振るうときくらい知的虚栄心をくすぐられることはないのである。
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単行本p.130


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しごとそのものをそれほど苦労に感じたことはない。ただ校正をしている作品が私自身の評価ではどうしても没書にした方がいいと思うのに、紙面の都合とか出資者に対する義務とかにしばられてのせなければならなくなった時、その校正をしていると嘔吐をもよおすような本能的嫌悪を感じる。そしてこういうしごとにたずさわっているのを徒労にすぎないようにおもう。しかしそれは校正自体の苦労ではない。
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単行本p.141


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ここでこうして校正をみている時の心の状態が幸福なのではないかとおもった。すくなくとも時のたつのを意識しない状態であり、この状態からはなれるとすぐ又そこにかえりたいという郷愁をおぼえる状態であった。私はいつのまにか科学者になって実験室にこもって実験をしているような錯覚にとらわれた。
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単行本p.150


[収録作品]

『行間さん』(河内仙介)
『祝煙』(和田芳恵)
『遺児』(上林暁)
『祝辞』(佐多稲子)
『赤魔』(倉阪鬼一郎)
『青いインク』(小池昌代)
『「芙蓉社」の自宅校正者』(川崎彰彦)
『爐邊の校正』(田中隆尚)
『わが若き日は恥多し』(木下夕爾)
『で十条』(吉村昭)
『校正恐るべし』(杉本苑子)
『アララギ校正の夜』(杉浦明平)
『校正』(落合重信)
『植字校正老若問答』(宮崎修二朗)
『助詞一字の誤植 横光利一のために』(大屋幸世)
『正誤表の話』(河野與一))


『赤魔』(倉阪鬼一郎)
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 ほどなく、田舎町にささいな事件が出来するようになった。
 町内会の貼り紙「盆踊りに出れる方は」の「出」と「れる」のあいだに、朱筆も鮮やかに「ら」と加えられていた。「必らず」の「ら」には逆に「トルツメ」と記されていた。べつに実害はなかった。わずかに「歌揺教室」の看板に赤いペンキが塗られたくらいだった。
 虎はいぜんとして野にあった。
 そして、運命の日が来た。
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単行本p.82

 かつて校正の鬼、赤魔、と呼ばれた男は、その融通の利かない性格ゆえに職場をくびになり、自宅に引きこもってひたすら印刷物の校正を勝手にやっては出版社に送りつけるという迷惑な奇行を続けていた。だがあるとき、彼はついに人の道を踏み外し、鬼と化す。ら抜き言葉つかう子いねがー。校正おそるべし。
 筋立てこそサイコホラーですが、同じ著者による『活字狂想曲』を読んでいると、どうしても自虐ギャグに思えて笑ってしまいます。ちなみにKindle版読了時の紹介はこちら。

  2014年06月26日の日記
  『活字狂想曲』(倉阪鬼一郎)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2014-06-26


『「芙蓉社」の自宅校正者』(川崎彰彦)
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 ある日、一目で胃弱とわかる青白いコントローラーの青年が「コピーを書きませんか。そのほうが校正より、収入面でも有利だし……」と持ちかけてきた。親切からそういってくれていることはわかったが、敬助は即座にことわった。「受け身の仕事のほうが性に合っていますから」といったが、(こんな無内容な、株式会社様の提灯記事、心にもないゴマスリ記事を書いていたら、気持がすさんでしまう。精神が荒廃してしまう)という本音は口にしなかった。そんなことを口に出しては角が立って、世間は渡って行けないのである。兎角に人の世は住みにくい。
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単行本p.119

 校正の仕事で日銭を稼ぎながらも、自分は文学に生きているのだ、と自認する貧しい文学青年は、今日も「ユニークなベンチャー・ビジネスとしての私たち(株)ビーライナー関西はオリジナルなシステムやノウハウをプラスして、トータルなサービスを行うという、まったくフレッシュでフレキシブルなジャンルをデベロップしました」(単行本p.114)といった企業パンフレットの文章を校正し続ける。哀愁と滑稽さが見事にブレンドされた作品。


『爐邊の校正』(田中隆尚)
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校正はなかなか終らなかった。四校を最初読んだ時も、二度目に読んだ時も誤りが見つかった。そしてもうこれであるまいとおもって念のために最後の五校を見ていると又見つかった。
 しかしもうこれ以上見ることはできない。下巻の初校刷が近々出ることになっていた。そしてもう一度見たとしてもそれで完全になくなるということはあり得ないだろう。そうおもうとにわかにこれまで無駄な努力をつみかさねてきたような気がした。
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単行本p.162

 仕事を頼んだ相手とのトラブル、同僚とのあらぬ噂、徒労感つのる繰り返し。校正の現場をリアルに描いたがゆえに、不条理文学の領域へと流れてゆく。読みごたえ充分で、個人的には『「芙蓉社」の自宅校正者』(川崎彰彦)と共に最も感銘を受けた作品。



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『ダーウィンの覗き穴 性的器官はいかに進化したか』(メノ・ スヒルトハウゼン、田沢恭子:翻訳) [読書(サイエンス)]


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私は一冊の本を丸ごとこのテーマに費やし、もっと複雑な事柄にも正面から取り組むことによって、生殖器研究者がメディアから浴びせられる忍び笑いを乗り越えられたらと願っている。本書のトーンがそうしたメディアよりもお上品なものになるかどうかは保障の限りではない。しかし生殖器の進化は今や、動物の奇態のすみずみから探し出したみだらなエピソードからなる見世物を脱し、この25年間で、際立った生物多様性、高度な進化論、エレガントな実験が一体となった、一つの確固たる学問分野へと成熟した。私が目指すのは、生物学に誕生したこの新たな分野の、ありのままの姿を提示することだ。
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単行本p.15


 どの種においても、最も急速かつ過激に進化する身体パーツは生殖器である。その驚くほどの多様性の背後では、性拮抗的共進化をはじめとする数々の性淘汰プロセスが働いている。ひたすら生殖器を見つめることで現代進化論の真髄を探る異色のサイエンス本。単行本(早川書房)出版は2016年1月、Kindle版配信は2016年1月です。

 本体の8倍もの長さを誇るフジツボのペニス。
 バイブレーターが付いているガガンボのペニス。
 他のオスが残した精子をかき出すためのスプーンが付いたカワトンボのペニス。
 交接の最中に付け根から切断され、あとは自力でメスの体内に潜り込むカイダコのペニス。
 同じく切断されてメスの生殖器をふさぐことで他のオスとの交尾を邪魔するナガコガネグモのペニス
 メスの生殖器を切り裂き、傷口から操作型分子を侵入させるためのトゲに覆われたマメゾウムシのペニス。
 互いに矢を撃ち込むナメクジのペニス。

 なぜ自然はこんなにも多様な生殖器と交尾様式を作り出したのでしょうか。その答えをめぐって、性淘汰がどのように機能するかを解説してゆきます。

 全体は8つの章から構成されます。


「第1章 用語を定義せよ!」
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エバーハードの定義に厳密に従っても「交尾器」という用語に該当する器官は、ペニスからゾンビのごとき触腕、外陰部から上唇に至るまで、何でもありだ。
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単行本p.43

 まずは導入として、なぜ多くの生物種に雌雄があるのかという簡単そうで難しい問題に取り組み、さらには生殖に用いられる器官の仰天するほどのバリエーションをちら見せします。


「第2章 ダーウィンの覗き穴」
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どんな動物を調べてもたいていこのパターンが見出されるので、これは自然の法則に近いものだと考えてほしい。つまり、動物に備わるすべての器官のうち、種間の最大の違いが見られるのは脳やくちばしではなく、腎臓や消化管でもなく、生殖器なのだ。(中略)
 もちろん、このユーモラスな生殖器「芸術」によって、私たちはいやがおうにも「なぜか」という問いを突きつけられる。どれも同じ単純な機能を果たす器官なのに、種によって形状がそれぞれまったく異なるのはなぜか。
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単行本p.52、55

 外見上の区別がつかないほどそっくりな種であっても、生殖器の形状だけは大きく異なることが多いのはなぜか。生殖器進化に関する古典的な「鍵と鍵穴」仮説を取り上げ、それが否定されていった理由を示します。


「第3章 体内求愛装置」
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雄にとって一回分の精子を雌に与えるためのコストは比較的低いので、どんな交尾もやる価値はある。(中略)ところが雌の計算は違う。産める卵の数には限りがあるので、この貴重な賞品を差し出すときには打算が必要だ。最も優秀な遺伝子をもつ雄だけに渡すか、それとも子のあいだで遺伝的多様性が生じるように多くの雄に均等に分配するか、考えなくてはならない。そこで、雄の射精と雌の受精とのあいだにハードルをいくつか設けて主導権を握り、それぞれのハードルで雌に有利な決定を下すことが、雌の利益になる。
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単行本p.95

 メスの「好み」によってオスの生殖器が進化してゆく、すなわち性淘汰の基本メカニズムについて詳しく解説します。


「第4章 恋人をじらす50の方法」
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交尾は必ずしも精子注入に至るわけではなく、精子注入ができたとしても受精には至らないかもしれないし、受精も繁殖とイコールではない。エバーハードの考えでは、これらのステップはそれぞれ、彼が「雌による秘かな選択」と呼ぶさまざまな戦略において、雌主導のもと進められる。「秘かな」というのは、これらの決定が雌の体内の奥深くで下され、交尾相手や観察する人間からは見えないからだ。
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単行本p.97

 交尾相手の選択から始まって、多段階交尾(オスに何度も交尾行動を強いて、「合格」した相手からだけ精子を受け取る)、クリトリスとオルガスム(複数のオスと交尾したとき、どの相手の精子を優先的に受け入れるかを制御する)、精子貯蔵庫(交尾後に精子を体内で保存しておき、後に選択的に受精させる)など、メスが主導権を握っている様々な精子競争を取り上げ、それらが生殖器の進化にどのように作用しているかを示します。


「第5章 気まぐれな造形家」
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 このような進化上の不安定性こそ、自然淘汰と性淘汰の最大の違いだ。種が土壌の質や環境温度などに適応する自然淘汰では、最適条件は一つに定まっている。土壌や温度は長期にわたっておおむね一定で、そこに適応した生物に応じて変化することはない。フィードバックのループがないので、種は何世代もかけて最良の適応状態に少しずつ近づいていく。しかし性淘汰の仕組みはまったく違って、種が進化によって向かっていく唯一の最適条件というものが存在しない。むしろ雄が雌に適応し、また雌も雄に適応していくのだ。つまり両性が動く目標を追跡することになる。(中略)このように、性淘汰は進化のダイナミズムの極致であり、それゆえ自然淘汰よりもはるかに複雑で予測が難しい。
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単行本p.134

 性淘汰メカニズムが生殖器の形状や機能を急速かつ過激に、そして不安定に、進化させる仕組みを解説します。


「第6章 ベイトマン・リターンズ」
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体内での求愛と雌による秘かな選択というおなじみの舞台で描かれる物語は入り組み方が格段に増しており、ライバルの競争、雌雄の対立、欺瞞を描く生殖器のドラマが展開する。雄はペニスを使ってほかの雄の恋の行方を操り、またセックスにおける雌の自律性も支配する。窮地に追いやられた雌は、雄の思いどおりにならずにすむ方法を進化させる。専門家が言うところの「性拮抗的共進化」である。
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単行本p.165

 強制交尾(強姦)、外傷的精子注入(メスに針を突き刺して強引に精子を送り込む)、他のオスの精子強制排出など、「メスによる秘かな選択」に対してオスが取り得る対抗策と、それに対抗するためのメスの策略。「進化のタンゴ」と呼ばれる共進化の仕組みを解説し、性淘汰の真の姿をここに明らかにします。


「第7章 将来の求愛者」
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 どうやら精液には操作性物質が豊富に含まれているらしい。雄が雌の生殖系を利用して、雌の生殖の自律性を奪おうとし、潜在的な将来の競争相手に対しても進化によって研ぎすまされた攻撃性を振るって、化学戦を繰り広げるのだ。(中略)侵食性の化合物、精神に作用する分子、破壊的な物質……あらゆる動物において、雄の精液は無害どころではない成分を含んでいるらしい。
(中略)
マメゾウムシがとげに覆われたペニスを進化させたのはおそらく、そのほうが精液中のタンパク質が雌のホルモン系の化学的機構の中に直接侵入しやすく、それによって雌を他の雄と交尾しにくくするか、あるいはなんらかの別の方法で自分に都合よく雌の性生活を乗っ取ることができるからだ。
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単行本p.211、212

 メスの性欲を抑制する、神経系を操るなど、他のオスとの交尾を邪魔するために進化したオスの化学的攻撃手段について解説されます。


「第8章 性のアンビバレンス」
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最近15年ほどのあいだに進化生物学者は、雌雄同体動物の暮らす世界ではきわめて異様な性器が用いられ、奇妙でしばしばおぞましい交尾の儀式が当たり前に行われているという事実に気づくようになった。(中略)恋矢、極端に長いペニスの先端で行われる精子の受け渡し、精子の摂食、そしてこっけいなほど巨大な精包――これらはみな交尾相手に自分の精子をよく多く受け取らせるために進化した戦略なのだ。
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単行本p.232

 メスとオスの性拮抗的共進化に加えて、「できるだけ自分の卵を節約し、相手に精子を多く与える」という目標をめぐる競争が起きるために、戦略はさらに複雑になり、結果も仰天するようなことになる。最終章のテーマは雌雄同体動物です。


 次から次へと登場する生物の奇態に驚かされますが、それを探求する研究者たちの姿もそれにおとらず印象的です。


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「ピュン、ドキューン!」と、アーンクヴィストはレーザービームの怪しげな物まねをする。「すごいんです。本当にすごい」。彼は指導学生が体長3ミリのマメゾウムシに麻酔をかけて、ペニスを押し出して長さ0.05ミリのとげを採取したときのことを思い出すと、今でもわれを忘れてしまうらしい。
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単行本p.219


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 アイルランドの軟体動物研究者がナメクジ優越主義に駆られて、講演を聴く生物学者たちに、ナメクジは実験用ラットよりすぐれていると力説する場面に私は居合わせたことがある。「動物行動学的に言って、ナメクジは基本的にラットと変わりません。ラットに粘液を塗りつけて、脚を切断し、交尾器を右耳の後ろに引っ張り上げて、スロー撮影すれば、ナメクジになります!」。
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単行本p.240


 というわけで、性淘汰のメカニズムを解説するサイエンス本のなかでも、とにかく最初から最後まで生殖器を話題にするという、ある意味「シモネタ満載」の一冊です。人間のセックスについての話題もありますが、すごく即物的かつ直截的で、色っぽい印象は受けないので、期待も危惧もしないで下さい。



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