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『誤植文学アンソロジー 校正者のいる風景』(高橋輝次:編著) [読書(小説・詩)]


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校正は、限りないマイナスを、ただいっしんに、「ゼロの地点」に引き上げる仕事。間違いというのはなくて当たり前、そこからようやく内容の吟味が始まる。(中略)事実関係のレベルにおいて、ようやく誤りなしのゼロの基準に達したと思われたとき、校了となり、文字は活字として定着する。その時、校正者は、まるでいっさいの仕事をしなかったかのように、その場からそっと消えていなくなる。
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単行本p.89


 『活字狂想曲』(倉阪鬼一郎)の著者が「校正の鬼」と化した男の末路を描く『赤魔』、詩人が校正者の内面を描く『青いインク』(小池昌代)、校正者の生活をリアルに描写するうちに不条理小説の域に達した私小説『爐邊の校正』(田中隆尚)など、校正という仕事の現場にときおり訪れる地味なドラマを扱った短篇アンソロジー。単行本(論創社)出版は2015年12月です。

 「誤植文学」といっても、小さな誤植が引き起こした大騒動、といった類の作品は収録されておらず、焦点はひたすら「校正」という仕事にあてられています。小説の主人公はすべて校正者で、しかもそういう仕事をしている人に共通する、独特の、人柄というか、職業上の習性のようなものが、リアルに描写されます。皆さん仕事熱心ながら正直あまり友だちにはしたくないタイプです。


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 いかなる本でも、三山は内容を読んで楽しむことがもはやできなくなっていた。外から見れば、確かに本を読んでいるように見える。だが、彼が探しているのは、「誤植」それのみであった。他社の本に誤植が見つかると、えもいわれぬ快感を味わうことができた。折にふれて誤植を糾弾する投書をし、詫び状と粗品をせしめる。これが唯一の陰気な趣味らしい趣味といえた。
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単行本p.78


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 日頃、文字の「校正」を生業としているせいだろうか、気がつけば、すべて軌道からはずれたものは、修正しようとする習性になっている。汚れはトル、間違いはタダス、ばらばらなものはトーイツする……。
 でも、時々、自分のなかから、もうどうでもいいじゃないのと、何もかもを放り投げようとする放埒な声がわく。
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単行本p.86


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校正者の喜びはミスを見つける、そのことにこそある。(ほとんどミスのない、きれいな仕上がりだと、かえって不安になってくるのである)しかも写植オペレーターの単純ミスに赤鉛筆をほどこすときより、原稿そのもののミスを発見して大いに青鉛筆を振るうときくらい知的虚栄心をくすぐられることはないのである。
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単行本p.130


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しごとそのものをそれほど苦労に感じたことはない。ただ校正をしている作品が私自身の評価ではどうしても没書にした方がいいと思うのに、紙面の都合とか出資者に対する義務とかにしばられてのせなければならなくなった時、その校正をしていると嘔吐をもよおすような本能的嫌悪を感じる。そしてこういうしごとにたずさわっているのを徒労にすぎないようにおもう。しかしそれは校正自体の苦労ではない。
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単行本p.141


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ここでこうして校正をみている時の心の状態が幸福なのではないかとおもった。すくなくとも時のたつのを意識しない状態であり、この状態からはなれるとすぐ又そこにかえりたいという郷愁をおぼえる状態であった。私はいつのまにか科学者になって実験室にこもって実験をしているような錯覚にとらわれた。
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単行本p.150


[収録作品]

『行間さん』(河内仙介)
『祝煙』(和田芳恵)
『遺児』(上林暁)
『祝辞』(佐多稲子)
『赤魔』(倉阪鬼一郎)
『青いインク』(小池昌代)
『「芙蓉社」の自宅校正者』(川崎彰彦)
『爐邊の校正』(田中隆尚)
『わが若き日は恥多し』(木下夕爾)
『で十条』(吉村昭)
『校正恐るべし』(杉本苑子)
『アララギ校正の夜』(杉浦明平)
『校正』(落合重信)
『植字校正老若問答』(宮崎修二朗)
『助詞一字の誤植 横光利一のために』(大屋幸世)
『正誤表の話』(河野與一))


『赤魔』(倉阪鬼一郎)
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 ほどなく、田舎町にささいな事件が出来するようになった。
 町内会の貼り紙「盆踊りに出れる方は」の「出」と「れる」のあいだに、朱筆も鮮やかに「ら」と加えられていた。「必らず」の「ら」には逆に「トルツメ」と記されていた。べつに実害はなかった。わずかに「歌揺教室」の看板に赤いペンキが塗られたくらいだった。
 虎はいぜんとして野にあった。
 そして、運命の日が来た。
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単行本p.82

 かつて校正の鬼、赤魔、と呼ばれた男は、その融通の利かない性格ゆえに職場をくびになり、自宅に引きこもってひたすら印刷物の校正を勝手にやっては出版社に送りつけるという迷惑な奇行を続けていた。だがあるとき、彼はついに人の道を踏み外し、鬼と化す。ら抜き言葉つかう子いねがー。校正おそるべし。
 筋立てこそサイコホラーですが、同じ著者による『活字狂想曲』を読んでいると、どうしても自虐ギャグに思えて笑ってしまいます。ちなみにKindle版読了時の紹介はこちら。

  2014年06月26日の日記
  『活字狂想曲』(倉阪鬼一郎)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2014-06-26


『「芙蓉社」の自宅校正者』(川崎彰彦)
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 ある日、一目で胃弱とわかる青白いコントローラーの青年が「コピーを書きませんか。そのほうが校正より、収入面でも有利だし……」と持ちかけてきた。親切からそういってくれていることはわかったが、敬助は即座にことわった。「受け身の仕事のほうが性に合っていますから」といったが、(こんな無内容な、株式会社様の提灯記事、心にもないゴマスリ記事を書いていたら、気持がすさんでしまう。精神が荒廃してしまう)という本音は口にしなかった。そんなことを口に出しては角が立って、世間は渡って行けないのである。兎角に人の世は住みにくい。
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単行本p.119

 校正の仕事で日銭を稼ぎながらも、自分は文学に生きているのだ、と自認する貧しい文学青年は、今日も「ユニークなベンチャー・ビジネスとしての私たち(株)ビーライナー関西はオリジナルなシステムやノウハウをプラスして、トータルなサービスを行うという、まったくフレッシュでフレキシブルなジャンルをデベロップしました」(単行本p.114)といった企業パンフレットの文章を校正し続ける。哀愁と滑稽さが見事にブレンドされた作品。


『爐邊の校正』(田中隆尚)
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校正はなかなか終らなかった。四校を最初読んだ時も、二度目に読んだ時も誤りが見つかった。そしてもうこれであるまいとおもって念のために最後の五校を見ていると又見つかった。
 しかしもうこれ以上見ることはできない。下巻の初校刷が近々出ることになっていた。そしてもう一度見たとしてもそれで完全になくなるということはあり得ないだろう。そうおもうとにわかにこれまで無駄な努力をつみかさねてきたような気がした。
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単行本p.162

 仕事を頼んだ相手とのトラブル、同僚とのあらぬ噂、徒労感つのる繰り返し。校正の現場をリアルに描いたがゆえに、不条理文学の領域へと流れてゆく。読みごたえ充分で、個人的には『「芙蓉社」の自宅校正者』(川崎彰彦)と共に最も感銘を受けた作品。



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