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『荒潮』(陳楸帆、中原尚哉:翻訳) [読書(SF)]

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 速度制限を破るのは重罪だ。社会から跡形もなく消される。
 しかしいま、米米は大勢の仲間を連れてそのファイアウォールを突破しようとしている。まるでパラシュート一個を頼りに集団で摩天楼の屋上から飛び下りるような行為だ。
 青紫のLEDが米米の顔を照らす。宇宙を漂うように神秘的で美しい。
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単行本p.260


 世界中から集まる電子ゴミのリサイクル業で経済発展した中国シリコン島。最下層労働者はゴミ人と呼ばれ、最悪の環境汚染と劣悪な労働条件のもとで苦しんでいた。そんなゴミ人の少女が驚くべき覚醒を遂げたことから、島を牛耳る御三家と海外企業を巻き込んだ嵐が巻き起こる。サイバーテクノロジーの奇跡は身分制度に基づく社会体制やグレートファイヤーウォールを打ち破ることが出来るのか。そしてすべての発端である「荒潮計画」とは何か。『鼠年』『麗江の魚』『沙嘴の花』で注目された陳楸帆(チェン・チウファン)が放つ中華サイバーパンク長編。単行本(早川書房)出版は2020年1月、Kindle版配信は2020年1月です。


 ケン・リュウが編集英訳した現代中国SFアンソロジー『折りたたみ北京』の冒頭に置かれ、読者の度肝を抜いた『鼠年』『麗江の魚』『沙嘴の花』。魅力的なSFアイデアと社会問題意識を見事に一体化させて撃ち込んでくる作風には感心させられました。ちなみに紹介はこちら。


2018年06月21日の日記
『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』
(ケン・リュウ:編集・英訳、中原尚哉・他:翻訳)
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2018-06-21


 その陳楸帆のデビュー長編が本書『荒潮』です。

 舞台はシリコン島と呼ばれる中国沿岸の離島で、世界中から集まってくる電子ゴミのリサイクルが主要産業となっています。

 島は御三家とされる三つの名家に支配され、島民の生活を支えているリサイクル業に従事する最下級労働者は「ゴミ人」という蔑称で呼ばれています。中国全土から売られるようにして出稼ぎにやってきて、貧しい掘っ建て小屋に住み、安全基準の2400倍の鉛を含有する水を飲み、EPA基準の1338倍ものクロム濃度の土壌で眠り、ダイオキシン、フラン、酸性霧のなかで保護ギアもなしに重労働するしかない人々。


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 掘っ建て小屋と大差ない粗末な作業小屋が麻雀牌のようにすきまなく並んで道の両側を埋めている。道は細く、未処理のゴミを積んだ車両がやっと通れる幅しかない。
 金属製のケース、割れたディスプレイ、電子基盤、プラスチック部品、配線剤……。分解ずみの山と未処理の山があらゆるところに堆肥のように積まれている。そこに蠅のように群がり、動きまわっているのは、中国各地からやってきた出稼ぎ労働者だ。廃材の山から価値のある部品を集め、炉や酸浴槽に放りこんで溶かし、銅や錫、さらには金やプラチナなどの貴金属を取り出している。残りは燃やすか地面に捨てるかして新たなゴミの山になる。保護具などだれもつけていない。
 あたり一面が鉛色の煙霧におおわれている。煮えたぎる王水や酸浴槽から出る白い蒸気と、野や川岸でたえず燃やされるポリ塩化ビニル材や絶縁材や基盤から立ち昇る黒い煤煙があわさったものだ。対照的な二色は海風で渾然一体となり、あらゆる生き物の毛穴に染みこんでいく。
 そんなゴミの山で生活する人々の姿がある。地元ではゴミ人と呼ばれる。
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単行本p.28


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 シリコン島居住者には呼吸器疾患、腎臓結石、血液疾患が周辺地域の五倍から八倍も多発するとされている。癌の発生率も高く、ある村では一戸に一人は末期癌患者だった。汚染された釣り池の多くからは悪性腫瘍だらけの奇怪な魚がみつかる。死産件数も多い。出稼ぎの女が死産し、その死児の体が暗緑色で金属臭がしたという噂もある。シリコン島は呪われた島になったと老人たちは言う。(中略)
 この数週間、ゴミ作業員の生活と労働実態を体験してきた。若い女性たちの艶を失った病的な肌や、荒れてしみだらけの手を見た。いずれも強い腐食性の薬剤のせいだ。吐き気をもよおす悪臭を嗅ぎ、雇用主から配給される喉を通らないほど粗末な食事を口にした。信じがたい低賃金も知った。米米のことを思い出す。その笑顔は無邪気だが、肌の下の血管壁には重金属化合物がびっしり張りついているはずだ。嗅細胞は麻痺し、免疫系は損なわれている。彼女たちは自律的でメンテナンスフリーの機械だと思われている。この国の何億人という質の高い労働者とおなじく、死ぬまでこき使われるのだ。
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単行本p.47、110


 そんなシリコン島に、アメリカの企業が手を出してきます。近代的なリサイクル技術により島の汚染を減らし、環境保護と経済発見を両立させるという提案。しかし外資による島の乗っ取りが狙いと見て警戒する御三家。しかしそれでも彼らと組んでうまく立ち回れば、他家を蹴落とせるのではないか。それぞれの思惑がからんだ緊張関係が続くなか、米米(ミーミー)というゴミ人の少女が、違法な医療廃棄物から人工ウイルスに感染。米米の脳は再構成され、彼女は驚くべきサイバーアビリティを発達させてゆきます。


 パオロ・バチガルピを思わせる環境テーマSFと思わせておいて、第二部に入るや、いきなり巨大戦闘メカにジャックインしての大立ち回り、サイバースペース飛翔シーン、という具合にサイバーパンクの本領を発揮。そうだこの人、『沙嘴の花』の著者だった。

 いままで読んだことのない新しい要素といったものはありませんが、古き良きサイバーパンクを巧みにリブートしたような作品で、何しろ敵は「メガコーポ」とかいったぬるいアイコンではなく、現代中国の社会体制、そしてそれと共犯関係にあるといってよい、全世界を牛耳る新自由主義経済。カウガールと仲間たちが挑むのは、現代中国の階層化社会というか身分制度、そして国家により抑圧され管理されたネットワーク。もちろん彼らにわずかでもチャンスがあるとは読者も思わないわけですが、でもこれパンクだから。

 受難、迫害、犠牲、死、復活、奇跡、という神話の手順を踏んで誕生した米米の、そのコピーがダークウェブ(みたいな軌道上クラウド)に潜伏する、という展開からしておそらく続編を想定しているものと思われ、ぜひギブスン初期三部作の中華リブートというべきものに発展していってほしいものだと個人的に期待しています。サイバーパンクってよく知らないけどイキり文体と内輪受けガジェットを手癖で書いたノスタルSFでしょ、とか思っている若い読者にも読んでほしい。あのころは、熱くて、かっこ良くて、パンクだったんですよ。そう思ってたんですよ。





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『リリカル・アンドロイド』(荻原裕幸) [読書(小説・詩)]

 季節感のなか見え隠れする怪しさをとらえた歌集。単行本(書肆侃侃房)出版は2020年4月です。


 まずは微妙な怖さを感じさせる作品が印象に残ります。


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優先順位がたがひに二番であるやうな間柄にて海を見にゆく
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ローソンとローソン専用駐車場とに挟まれた場所にひとりで
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自販機のあかりに誰か来て何かたしかめてすぐまた暗がりに
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どうせ時報女ですといふ声がして何もかも夜の深みに落ちて
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ゐねむりのあひだに何か起きてゐた気配のしんと沁みるリビング
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リビングの天井の西の片隅にはじめて見るかたちのしみが浮く
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天袋から箱降ろすとき箱が鳴く怪しげに鳴くあけずに戻す
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 配偶者テーマの作品があちこちに散らばっていますが、集めてみるとこんな感じ。


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秋のはじめの妻はわたしの目をのぞく闇を見るのと同じ目をして
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本を閉ぢるときの淋しき音がしてそれ以後音のしない妻の部屋
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この夏は二度も触れたがそのありかもかたちも知らぬ妻の逆鱗
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妻といふ山はますます雪ふかくこれは遭難なのかも知れず
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 季節をテーマにした作品には、何とそういう風に表現するのかという驚きがあります。ざっと抜粋引用してみます。


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灯油高騰するからくりのこんこんと雪ふるなかに埋もれて見えず
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蕪と無が似てゐることのかなしみももろとも煮えてゆく冬の音
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妖精などの類ではないかひとりだけ息が見えない寒のバス停
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諭したくなる淡雪よひるひなかそんなところに積らなくても
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搭乗のときぼんやりとおもふ死のやうなしづけさにて寒の街
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わたしには見えない春が見えてゐる人かふしぎなしぐさで歩く
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名古屋駅の地下街はすべて迷路にて行方不明者ばかり三月
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あの門柱に猫がゐなくて春野菜の籠が置かれてゐるそんな午後
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嫌なだけだと認めずそれを間違ひと言ふ人がゐて春の区役所
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春が軋んでどうしようもないゆふぐれを逃れて平和園の炒飯
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さくらからさくらをひいた華やかな空白があるさくらのあとに
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壁のなかにときどき誰かの気配あれど逢ふこともなく六月終る
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雨戸を数枚ひつぱりだせばそこにある戸袋の闇やそのほかの闇
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西瓜の縞は黒ではなくて濃い緑ですと言はれてはじめて気づく
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夏のひざしのほかには特に飾るべきものなく3LDKしづか
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秋がもう機能してゐるひだまりに影を踏まれて痛みがはしる
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十月になつたらと言ひそれつきり表情をほほゑみが覆つた
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デジカメであなたを撮つてほとんどのあなたを消してゐる秋日和
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どこかよく見えないなにか怪しげな隙間からはみ出てゐる芒
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欠けてゐる物がわからぬ秋晴れの高台にゐて見えぬ何かが
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秋がまだ何かをせよと云つてゐるからだの奥で木琴が鳴る
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大掃除のさなか当家に一枚もシューベルトのない事態に気づく
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内閣の支持率くだるよりもややゆるやかな暮の坂をふたりは
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誰も画面を見てゐないのにNHKが映りつづけてゐる大晦日
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元日すでに薄埃あるテーブルのひかりしづかにこれからを問ふ
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『熾火をむなうちにしずめ』(斎藤恵子) [読書(小説・詩)]

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遮断機の前で衝動を抑える
鉄道草が群生する
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『鉄道草』より


 なまえのない強い感情が、動植物のすがたをとってあらわれる詩集。単行本(思潮社)出版は2020年4月です。


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きのう見知らぬ町を歩いた
ビルの北壁に馬の大腿骨
放熱している
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『見知らぬ町』より


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生れてはちぎれていく
ことばのように
気配はきれぎれの横じまになり
校庭を
尾を垂れた黒犬がのろのろ歩いていく
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『尋常小学校の上を』より


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朝顔のつるが屋根に駆けあがり
ベランダに百足が這う
サーカスで芸が覚えられなかったライオンが
動物園の檻で絶食中の眼をほそめ
駅の掲示の手配写真が濃くなる
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『六月に壊れていく島があるから』より


 他人と共有できなさそうな感情、なまえのない強い感情が、動植物のすがたをとってあらわれるような作品が並びます。


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水底にいるものたち
海を畏れながら
ぬれてわたしのなかに棲むひとたち
息をぬるませ
わたしのゆびを長くする
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『鞆』より


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こどもを連れて通ったことがあった
 ぬれた色をしてねているよ
奥からおばあさんのような手が
おいでおいでをした

蛇やは朝から店を開けていたが
客らしいひとを見たことはない
ガラスケースのなかの生きものは
薄墨を曳いてたまにのろりと動く
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『蛇や』より


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なんども同じ道をいくから
踏切のそばで月見草になる

鉄橋の下
鈍色の水面がゆらいでいる
ぬるんだ月が生れている
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『月見草』より


 動植物ではなく道具に託される作品もありますが、どれも穏やかな水面の下で黒い強い渦がまいているような激情を感じさせて、思わず息をのみます。かなり怖い詩集。


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母は鯨の骨のヘラに力をこめ
布に線をひくように押していく
細いへこみが印になりひたいが汗ばむ
温い日だった
はげしくにくむものがあった
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『弦月』より


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砂時計の微かな音
悔やんでいるひとの声が
ばらばらの黒鍵になってちぎれていく
いち枚の青空

暗い冷蔵庫の水をのむ
骨のあいだを抜けていく
わたしはつめたさだけになっている
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『ばらばらの黒鍵になって』より





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『世界現代怪異事典』(朝里樹) [読書(オカルト)]

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 本書『世界現代怪異事典』は、朝里樹氏の前著『日本現代怪異事典』の編纂方針を受け継いで、日本以外の世界各地の巷間で人口に膾炙した奇談・怪異談・噂話・都市伝説を、書籍や新聞・雑誌等の刊行物、テレビ報道、インターネット上等の記録を基として、網羅的な整理を試みた著作である。同様の志で網羅を試みた事典(および事典的雑誌記事)は、昭和以前においてはともかくも、web時代を迎えて以後では初なのではないだろうか。
ここまで徹底的であるという点も、空前にして絶後である。
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単行本p.320


『日本現代怪異事典』に続いて、日本を除く各国で語られている怪異を集め、地域ごとに分類して掲載した事典。単行本(笠間書院)出版は2020年6月です。


 まず前作の紹介はこちら。

2018年01月23日の日記
『日本現代怪異事典』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2018-01-23


 本書はその続編というべき事典で、アジア、オセアニア、北アメリカ、南アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、その他、という地域分類で様々な怪異を分類整理しています。怪異の種類も、幽霊、妖精、妖怪、未確認生物、怪人、ネット怪談、ほら話(トール・テール)、さらには鼻歩類や平行植物まで網羅。五十音順、国別、という索引も充実。さらには世界史との対照年表、様々な著者による寄稿なども収録されています。


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 そうして現代のわたしたちは、こうした「どこか・かなた」の怪異・怪物の情報に、書籍や雑誌の情報、オカルト番組、まとめサイト等を通じて、時間・空間を超越して並行(スーパーフラット)な形で受容することが常態となっている。そこでは、個々の伝承に固有の文脈――時代や文化、地理的・歴史的な背景――が零れ落ち、キャラクターとしての怪異・怪物だけが知識として流通することになりやすい。それは日本のみならず、web時代を迎えた世界全体で進行している文化状況である。
 時代や地域の文脈を無化して現代・日本の文脈で再解釈するフラットな受け止め方からは、新たな文化が生まれる可能性がある反面、その時代・地域ごとの文脈を踏まえないままでの理解により怪異・怪物を「誤読」する危険性がある。現代世界の怪異・怪物は、ともすればその出自・来歴などの文化的・歴史的背景を意識しないままになりかねない。現代日本のわたしたちが、世界の怪異・怪物を個別の伝承の文脈に置きなおして向き合い、理解するための碇(アンカー)として、ぜひ本書を活用してほしい。
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単行本p.328





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『あいまいな会話はなぜ成立するのか』(時本真吾) [読書(サイエンス)]

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 日常会話は含意に溢れているのですが、私達は、そのことにほとんど気がつきません。なぜなら、私達には話し相手の意図を推測する能力が備わっているらしく、含意を理解することに、ほとんど苦労を感じないからです。(中略)
 話し手の含意を理解することは、つまり話し手の「心を読む」ことでしょうから、心の理論と関わりがあるのが自然な気がします。現在では、脳研究の進歩に伴い、心の理論に関わっている脳の場所がかなりわかっています。一方で、ことばの理解を支えている脳活動についても多くの研究成果が蓄積されています。
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単行本p.5、18


「コーヒー飲む?」「明日ね、出張で朝が早いんだ」
なぜこのやり取りが会話として成立するのだろうか。
言葉から含意を読み取ること、含意の推測を適当なところで打ち切ること、わざと回りくどい表現を使うこと。わたしたちの会話に見られる3つの謎を軸に、現代の言語学の研究成果を紹介する本。単行本(岩波書店)出版は2020年6月です。


 会話を文字に起こして客観的に分析してみると、何を言っているのか意味不明、まったくかみ合っていないように見える、それなのになぜか会話が成立している、ということが頻繁にあります。含意を読み取る私たちの能力はあまりにも高すぎて、これが不思議なことだと意識するのが困難なほどです。本書は、この「含意がおおむね正しく伝わる」という謎を中心に、20世紀後半以降の言語学の研究成果をまとめるものです。謎は次の3つに整理されています。


文脈の検索の不思議
――――
 話し手の意図を理解するために、聞き手は話し手の文脈を見つけなくてはならないのですが、これは簡単ではありません。会話の場面には何百何千というモノやコトが身の回りにあるからです。(中略)私達は一体どうやって、そんな短時間に話し手の文脈を見つけだし、隠れた意図を理解することができるのでしょう?
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単行本p.7、8


推論の収束の問題
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「チケットが2枚ある」と言われても、誘いとは受け止めない人もいます。一方、「私は求婚された」と受け止める人がいたら、深刻な事態になるかもしれません。大多数の人は「デートに誘われているかもしれない」とは思っても、「プロポーズされた」とか「5万円貸してくれと言われた」とは解釈しませんが、中にはひどく深読みする人がいます。「あの人は、あの時、ああ言った、あんな顔をした」と記憶を遡り、解釈を膨らませれば「プロポーズ」や「5万円」に可能性はないとは言えません。
 それでも、多くの場合、含意の解釈は、ほどほどのところで止まるのです。なぜ「ほどほどのところ」で解釈は止まるのでしょう? また、「ほどほど」とは、どれくらいなのでしょう?
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単行本p.10


間接的表現の存在理由
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 他者に対して丁寧であろうとして、遠回しな表現を好むという考え方は、美しく、魅力的です。でも、「言語表現が丁寧である」ことが、正確にはどういうことなのかがよくわかりませんし、残念ながら、遠回しな表現が丁寧とは言えないことも多いようなのです。
 丁寧であることが理由でないとしたら、人はなぜ遠回しな話し方をするのでしょうか?
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単行本p.13


〔目次〕

第1章 言わないことが伝わる不思議
第2章 会話は助け合いである
第3章 人間は無駄が嫌い
第4章 体面が大事
第5章 うやむやにした方が得
第6章 謎はどこまで解かれたか




第1章 言わないことが伝わる不思議
――――
 この本では、適切な文脈の検索、推論の収束、間接的表現の存在理由の3つの不思議を念頭において、20世紀後半からの代表的理論を見直し、この不思議がどのように研究されてきたかを再検討します。最後に、最近の脳研究の成果から、3つの不思議への手がかりを探します。
――――
単行本p.18


 まず「含意が伝わる」ということの不思議さを明らかにし、それを3つの謎に整理して提示します。


第2章 会話は助け合いである
――――
 単語の意味と文法以外にも約束があると考えたらどうでしょうか。実際に言われたことと伝えたいことをつなぐ約束があると考えるのです。
 イギリス出身の哲学者ポール・グライスは、この約束を協調の原理として提案しました。グライスの考えでは、会話に参加している人は暗黙の内にお互いが協調の原理に従っていることを前提にします。(中略)グライスが、会話とは話し手から聞き手へ向かう一方向の情報伝達ではなく、聞き手の積極的な関わりと努力があって初めて成り立つ協調作業だと指摘したことの意義は大変大きいと思います。
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単行本p.21、27


 まずグライスの協調原理を紹介し、会話が単なる情報伝達ではなく参加者間の協調作業だということの意味を考えてゆきます。


第3章 人間は無駄が嫌い
――――
 人間の感覚や記憶、推論の働きには限りがあるので、心はその時々で自分に最も関わりの深い物事に自動的に注意を払うようにできているに違いありません。これがスペルベルとウィルソンが1986年の著書『関連性理論――伝達と認知』で提案した関連性理論の立場です。(中略)関連性理論は言葉の理由を、注意や記憶、処理コストといった言葉以外の心の働きにも求めました。著者は、関連性の原理によって言葉の仕組みとヒト種の進化の関わりが考えられるようになったと感じています。初めて関連性理論に触れた時は正に目からウロコが落ちた思いでした。
――――
単行本p.32、35


 会話をとりまく背景情報は無数に存在するのに、含意を推測するためにその一部だけを取り出すとき、私たちはどのような基準でそれを選んでいるのだろうか。スペルベルとウィルソンの関連性理論を紹介します。


第4章 体面が大事
――――
 ブラウンとレビンソンは、言葉が相手を傷つける可能性を中心的なアイディアとして、コミュニケーションにおける丁寧さを説明するポライトネス理論を提案しました。(中略)ブラウンとレビンソンが、大胆で、それでも人間の本質を突いたかもしれないと感じさせるのは、対人距離や社会的上下関係、また、個々の発話や行動をどう受け止めるかについて文化差があるとしても、「距離」「力」「負荷度」で「顔をつぶす危険度(丁寧さ)」が決まる仕組みがあると主張したところです。
――――
単行本p.46


 会話は、うっかり相手の面子をつぶしてしまう危険性を含んでいる。このリスクを無意識に計算した上で、私たちはわざと遠回しな表現を使うのだ。ブラウンとレビンソンによるポライトネス理論を紹介します。


第5章 うやむやにした方が得
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 会話を協調行動と捉えたグライスや対人配慮の普遍性を主張したブラウンとレビンソンの志は尊く、美しいと感じます。でも、残念ながら、協調的とは言いがたい発話や行動も人間社会には多くあります。人間の醜い面を見つめることになるかもしれませんが、幅広い人間の言語コミュニケーションについて、もっと私達を納得させてくれるアイディアはないでしょうか?
 アメリカの心理学者ピンカーは、非協調的な発話例を視野に入れ、ゲーム理論を枠組みとして利用し、戦略的話者の理論を提案しました。ゲーム理論とは、利害が対立する人やグループが、それぞれ自分の利益が最大になるように行動する状況において、人がどのように行動し、意思を決定するかを説明しようとする理論です。(中略)戦略的話者の理論は、人類学、行動経済学、進化心理学の研究にも根拠があって、大変包括的であると同時に説得的でもあります。
――――
単行本p.57、66


 会話は本当に協調的なのだろうか。丁寧さは相手への配慮から生じるのだろうか。会話を利害の対立するプレイヤー間の戦略的競争と見なし、ゲーム理論を応用するピンカーの戦略的話者の理論を紹介します。


第6章 謎はどこまで解かれたか
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 この本では話し手の含意がほとんどの場合、話し手の意図通りに理解され、極端な深読みが起こらないことを大きな不思議だと考えたのですが、言葉の意味が話し手の間で共有されているなら、概念や意図に対応する神経回路の安定状態も多くの場合、共通しているのかもしれません。だとすると、含意理解の推論がほどほどのところで収束するのは、デジタルな性質を持った神経細胞からできている回路に安定状態があるからだということになりそうです。
――――
単行本p.105


 技術の発展により、発話中の脳の状態を詳しく調べることが可能になってきた。はたしてこれまで言語学が主張してきた様々な理論を、脳科学の知見と結びつけることが出来るのだろうか。またそこから含意解釈の謎にどこまで迫ることが出来るのだろうか。著者自身の論文を含む最新の研究成果を紹介します。





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