『あいまいな会話はなぜ成立するのか』(時本真吾) [読書(サイエンス)]
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日常会話は含意に溢れているのですが、私達は、そのことにほとんど気がつきません。なぜなら、私達には話し相手の意図を推測する能力が備わっているらしく、含意を理解することに、ほとんど苦労を感じないからです。(中略)
話し手の含意を理解することは、つまり話し手の「心を読む」ことでしょうから、心の理論と関わりがあるのが自然な気がします。現在では、脳研究の進歩に伴い、心の理論に関わっている脳の場所がかなりわかっています。一方で、ことばの理解を支えている脳活動についても多くの研究成果が蓄積されています。
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単行本p.5、18
「コーヒー飲む?」「明日ね、出張で朝が早いんだ」
なぜこのやり取りが会話として成立するのだろうか。
言葉から含意を読み取ること、含意の推測を適当なところで打ち切ること、わざと回りくどい表現を使うこと。わたしたちの会話に見られる3つの謎を軸に、現代の言語学の研究成果を紹介する本。単行本(岩波書店)出版は2020年6月です。
会話を文字に起こして客観的に分析してみると、何を言っているのか意味不明、まったくかみ合っていないように見える、それなのになぜか会話が成立している、ということが頻繁にあります。含意を読み取る私たちの能力はあまりにも高すぎて、これが不思議なことだと意識するのが困難なほどです。本書は、この「含意がおおむね正しく伝わる」という謎を中心に、20世紀後半以降の言語学の研究成果をまとめるものです。謎は次の3つに整理されています。
文脈の検索の不思議
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話し手の意図を理解するために、聞き手は話し手の文脈を見つけなくてはならないのですが、これは簡単ではありません。会話の場面には何百何千というモノやコトが身の回りにあるからです。(中略)私達は一体どうやって、そんな短時間に話し手の文脈を見つけだし、隠れた意図を理解することができるのでしょう?
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単行本p.7、8
推論の収束の問題
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「チケットが2枚ある」と言われても、誘いとは受け止めない人もいます。一方、「私は求婚された」と受け止める人がいたら、深刻な事態になるかもしれません。大多数の人は「デートに誘われているかもしれない」とは思っても、「プロポーズされた」とか「5万円貸してくれと言われた」とは解釈しませんが、中にはひどく深読みする人がいます。「あの人は、あの時、ああ言った、あんな顔をした」と記憶を遡り、解釈を膨らませれば「プロポーズ」や「5万円」に可能性はないとは言えません。
それでも、多くの場合、含意の解釈は、ほどほどのところで止まるのです。なぜ「ほどほどのところ」で解釈は止まるのでしょう? また、「ほどほど」とは、どれくらいなのでしょう?
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単行本p.10
間接的表現の存在理由
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他者に対して丁寧であろうとして、遠回しな表現を好むという考え方は、美しく、魅力的です。でも、「言語表現が丁寧である」ことが、正確にはどういうことなのかがよくわかりませんし、残念ながら、遠回しな表現が丁寧とは言えないことも多いようなのです。
丁寧であることが理由でないとしたら、人はなぜ遠回しな話し方をするのでしょうか?
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単行本p.13
〔目次〕
第1章 言わないことが伝わる不思議
第2章 会話は助け合いである
第3章 人間は無駄が嫌い
第4章 体面が大事
第5章 うやむやにした方が得
第6章 謎はどこまで解かれたか
第1章 言わないことが伝わる不思議
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この本では、適切な文脈の検索、推論の収束、間接的表現の存在理由の3つの不思議を念頭において、20世紀後半からの代表的理論を見直し、この不思議がどのように研究されてきたかを再検討します。最後に、最近の脳研究の成果から、3つの不思議への手がかりを探します。
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単行本p.18
まず「含意が伝わる」ということの不思議さを明らかにし、それを3つの謎に整理して提示します。
第2章 会話は助け合いである
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単語の意味と文法以外にも約束があると考えたらどうでしょうか。実際に言われたことと伝えたいことをつなぐ約束があると考えるのです。
イギリス出身の哲学者ポール・グライスは、この約束を協調の原理として提案しました。グライスの考えでは、会話に参加している人は暗黙の内にお互いが協調の原理に従っていることを前提にします。(中略)グライスが、会話とは話し手から聞き手へ向かう一方向の情報伝達ではなく、聞き手の積極的な関わりと努力があって初めて成り立つ協調作業だと指摘したことの意義は大変大きいと思います。
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単行本p.21、27
まずグライスの協調原理を紹介し、会話が単なる情報伝達ではなく参加者間の協調作業だということの意味を考えてゆきます。
第3章 人間は無駄が嫌い
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人間の感覚や記憶、推論の働きには限りがあるので、心はその時々で自分に最も関わりの深い物事に自動的に注意を払うようにできているに違いありません。これがスペルベルとウィルソンが1986年の著書『関連性理論――伝達と認知』で提案した関連性理論の立場です。(中略)関連性理論は言葉の理由を、注意や記憶、処理コストといった言葉以外の心の働きにも求めました。著者は、関連性の原理によって言葉の仕組みとヒト種の進化の関わりが考えられるようになったと感じています。初めて関連性理論に触れた時は正に目からウロコが落ちた思いでした。
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単行本p.32、35
会話をとりまく背景情報は無数に存在するのに、含意を推測するためにその一部だけを取り出すとき、私たちはどのような基準でそれを選んでいるのだろうか。スペルベルとウィルソンの関連性理論を紹介します。
第4章 体面が大事
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ブラウンとレビンソンは、言葉が相手を傷つける可能性を中心的なアイディアとして、コミュニケーションにおける丁寧さを説明するポライトネス理論を提案しました。(中略)ブラウンとレビンソンが、大胆で、それでも人間の本質を突いたかもしれないと感じさせるのは、対人距離や社会的上下関係、また、個々の発話や行動をどう受け止めるかについて文化差があるとしても、「距離」「力」「負荷度」で「顔をつぶす危険度(丁寧さ)」が決まる仕組みがあると主張したところです。
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単行本p.46
会話は、うっかり相手の面子をつぶしてしまう危険性を含んでいる。このリスクを無意識に計算した上で、私たちはわざと遠回しな表現を使うのだ。ブラウンとレビンソンによるポライトネス理論を紹介します。
第5章 うやむやにした方が得
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会話を協調行動と捉えたグライスや対人配慮の普遍性を主張したブラウンとレビンソンの志は尊く、美しいと感じます。でも、残念ながら、協調的とは言いがたい発話や行動も人間社会には多くあります。人間の醜い面を見つめることになるかもしれませんが、幅広い人間の言語コミュニケーションについて、もっと私達を納得させてくれるアイディアはないでしょうか?
アメリカの心理学者ピンカーは、非協調的な発話例を視野に入れ、ゲーム理論を枠組みとして利用し、戦略的話者の理論を提案しました。ゲーム理論とは、利害が対立する人やグループが、それぞれ自分の利益が最大になるように行動する状況において、人がどのように行動し、意思を決定するかを説明しようとする理論です。(中略)戦略的話者の理論は、人類学、行動経済学、進化心理学の研究にも根拠があって、大変包括的であると同時に説得的でもあります。
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単行本p.57、66
会話は本当に協調的なのだろうか。丁寧さは相手への配慮から生じるのだろうか。会話を利害の対立するプレイヤー間の戦略的競争と見なし、ゲーム理論を応用するピンカーの戦略的話者の理論を紹介します。
第6章 謎はどこまで解かれたか
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この本では話し手の含意がほとんどの場合、話し手の意図通りに理解され、極端な深読みが起こらないことを大きな不思議だと考えたのですが、言葉の意味が話し手の間で共有されているなら、概念や意図に対応する神経回路の安定状態も多くの場合、共通しているのかもしれません。だとすると、含意理解の推論がほどほどのところで収束するのは、デジタルな性質を持った神経細胞からできている回路に安定状態があるからだということになりそうです。
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単行本p.105
技術の発展により、発話中の脳の状態を詳しく調べることが可能になってきた。はたしてこれまで言語学が主張してきた様々な理論を、脳科学の知見と結びつけることが出来るのだろうか。またそこから含意解釈の謎にどこまで迫ることが出来るのだろうか。著者自身の論文を含む最新の研究成果を紹介します。
日常会話は含意に溢れているのですが、私達は、そのことにほとんど気がつきません。なぜなら、私達には話し相手の意図を推測する能力が備わっているらしく、含意を理解することに、ほとんど苦労を感じないからです。(中略)
話し手の含意を理解することは、つまり話し手の「心を読む」ことでしょうから、心の理論と関わりがあるのが自然な気がします。現在では、脳研究の進歩に伴い、心の理論に関わっている脳の場所がかなりわかっています。一方で、ことばの理解を支えている脳活動についても多くの研究成果が蓄積されています。
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単行本p.5、18
「コーヒー飲む?」「明日ね、出張で朝が早いんだ」
なぜこのやり取りが会話として成立するのだろうか。
言葉から含意を読み取ること、含意の推測を適当なところで打ち切ること、わざと回りくどい表現を使うこと。わたしたちの会話に見られる3つの謎を軸に、現代の言語学の研究成果を紹介する本。単行本(岩波書店)出版は2020年6月です。
会話を文字に起こして客観的に分析してみると、何を言っているのか意味不明、まったくかみ合っていないように見える、それなのになぜか会話が成立している、ということが頻繁にあります。含意を読み取る私たちの能力はあまりにも高すぎて、これが不思議なことだと意識するのが困難なほどです。本書は、この「含意がおおむね正しく伝わる」という謎を中心に、20世紀後半以降の言語学の研究成果をまとめるものです。謎は次の3つに整理されています。
文脈の検索の不思議
――――
話し手の意図を理解するために、聞き手は話し手の文脈を見つけなくてはならないのですが、これは簡単ではありません。会話の場面には何百何千というモノやコトが身の回りにあるからです。(中略)私達は一体どうやって、そんな短時間に話し手の文脈を見つけだし、隠れた意図を理解することができるのでしょう?
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単行本p.7、8
推論の収束の問題
――――
「チケットが2枚ある」と言われても、誘いとは受け止めない人もいます。一方、「私は求婚された」と受け止める人がいたら、深刻な事態になるかもしれません。大多数の人は「デートに誘われているかもしれない」とは思っても、「プロポーズされた」とか「5万円貸してくれと言われた」とは解釈しませんが、中にはひどく深読みする人がいます。「あの人は、あの時、ああ言った、あんな顔をした」と記憶を遡り、解釈を膨らませれば「プロポーズ」や「5万円」に可能性はないとは言えません。
それでも、多くの場合、含意の解釈は、ほどほどのところで止まるのです。なぜ「ほどほどのところ」で解釈は止まるのでしょう? また、「ほどほど」とは、どれくらいなのでしょう?
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単行本p.10
間接的表現の存在理由
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他者に対して丁寧であろうとして、遠回しな表現を好むという考え方は、美しく、魅力的です。でも、「言語表現が丁寧である」ことが、正確にはどういうことなのかがよくわかりませんし、残念ながら、遠回しな表現が丁寧とは言えないことも多いようなのです。
丁寧であることが理由でないとしたら、人はなぜ遠回しな話し方をするのでしょうか?
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単行本p.13
〔目次〕
第1章 言わないことが伝わる不思議
第2章 会話は助け合いである
第3章 人間は無駄が嫌い
第4章 体面が大事
第5章 うやむやにした方が得
第6章 謎はどこまで解かれたか
第1章 言わないことが伝わる不思議
――――
この本では、適切な文脈の検索、推論の収束、間接的表現の存在理由の3つの不思議を念頭において、20世紀後半からの代表的理論を見直し、この不思議がどのように研究されてきたかを再検討します。最後に、最近の脳研究の成果から、3つの不思議への手がかりを探します。
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単行本p.18
まず「含意が伝わる」ということの不思議さを明らかにし、それを3つの謎に整理して提示します。
第2章 会話は助け合いである
――――
単語の意味と文法以外にも約束があると考えたらどうでしょうか。実際に言われたことと伝えたいことをつなぐ約束があると考えるのです。
イギリス出身の哲学者ポール・グライスは、この約束を協調の原理として提案しました。グライスの考えでは、会話に参加している人は暗黙の内にお互いが協調の原理に従っていることを前提にします。(中略)グライスが、会話とは話し手から聞き手へ向かう一方向の情報伝達ではなく、聞き手の積極的な関わりと努力があって初めて成り立つ協調作業だと指摘したことの意義は大変大きいと思います。
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単行本p.21、27
まずグライスの協調原理を紹介し、会話が単なる情報伝達ではなく参加者間の協調作業だということの意味を考えてゆきます。
第3章 人間は無駄が嫌い
――――
人間の感覚や記憶、推論の働きには限りがあるので、心はその時々で自分に最も関わりの深い物事に自動的に注意を払うようにできているに違いありません。これがスペルベルとウィルソンが1986年の著書『関連性理論――伝達と認知』で提案した関連性理論の立場です。(中略)関連性理論は言葉の理由を、注意や記憶、処理コストといった言葉以外の心の働きにも求めました。著者は、関連性の原理によって言葉の仕組みとヒト種の進化の関わりが考えられるようになったと感じています。初めて関連性理論に触れた時は正に目からウロコが落ちた思いでした。
――――
単行本p.32、35
会話をとりまく背景情報は無数に存在するのに、含意を推測するためにその一部だけを取り出すとき、私たちはどのような基準でそれを選んでいるのだろうか。スペルベルとウィルソンの関連性理論を紹介します。
第4章 体面が大事
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ブラウンとレビンソンは、言葉が相手を傷つける可能性を中心的なアイディアとして、コミュニケーションにおける丁寧さを説明するポライトネス理論を提案しました。(中略)ブラウンとレビンソンが、大胆で、それでも人間の本質を突いたかもしれないと感じさせるのは、対人距離や社会的上下関係、また、個々の発話や行動をどう受け止めるかについて文化差があるとしても、「距離」「力」「負荷度」で「顔をつぶす危険度(丁寧さ)」が決まる仕組みがあると主張したところです。
――――
単行本p.46
会話は、うっかり相手の面子をつぶしてしまう危険性を含んでいる。このリスクを無意識に計算した上で、私たちはわざと遠回しな表現を使うのだ。ブラウンとレビンソンによるポライトネス理論を紹介します。
第5章 うやむやにした方が得
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会話を協調行動と捉えたグライスや対人配慮の普遍性を主張したブラウンとレビンソンの志は尊く、美しいと感じます。でも、残念ながら、協調的とは言いがたい発話や行動も人間社会には多くあります。人間の醜い面を見つめることになるかもしれませんが、幅広い人間の言語コミュニケーションについて、もっと私達を納得させてくれるアイディアはないでしょうか?
アメリカの心理学者ピンカーは、非協調的な発話例を視野に入れ、ゲーム理論を枠組みとして利用し、戦略的話者の理論を提案しました。ゲーム理論とは、利害が対立する人やグループが、それぞれ自分の利益が最大になるように行動する状況において、人がどのように行動し、意思を決定するかを説明しようとする理論です。(中略)戦略的話者の理論は、人類学、行動経済学、進化心理学の研究にも根拠があって、大変包括的であると同時に説得的でもあります。
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単行本p.57、66
会話は本当に協調的なのだろうか。丁寧さは相手への配慮から生じるのだろうか。会話を利害の対立するプレイヤー間の戦略的競争と見なし、ゲーム理論を応用するピンカーの戦略的話者の理論を紹介します。
第6章 謎はどこまで解かれたか
――――
この本では話し手の含意がほとんどの場合、話し手の意図通りに理解され、極端な深読みが起こらないことを大きな不思議だと考えたのですが、言葉の意味が話し手の間で共有されているなら、概念や意図に対応する神経回路の安定状態も多くの場合、共通しているのかもしれません。だとすると、含意理解の推論がほどほどのところで収束するのは、デジタルな性質を持った神経細胞からできている回路に安定状態があるからだということになりそうです。
――――
単行本p.105
技術の発展により、発話中の脳の状態を詳しく調べることが可能になってきた。はたしてこれまで言語学が主張してきた様々な理論を、脳科学の知見と結びつけることが出来るのだろうか。またそこから含意解釈の謎にどこまで迫ることが出来るのだろうか。著者自身の論文を含む最新の研究成果を紹介します。
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