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『日本俗信辞典 動物編』(鈴木棠三、カバーイラスト:石黒亜矢子) [読書(教養)]

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 本書は、1982年に出版された『日本俗信辞典』の「動物編」を文庫化したものである。この辞典は、動植物にまつわる予兆・占い・禁忌・呪いを中心に、民間療法、自然暦を幅広く収集して分類し、解説を施した初めての試みである。もちろん、伝承の全てを網羅しているわけではないが、動植物に関する俗信の実態を全国的な視野から把握できる辞典として評価が高く、今もその真価を失っていない。
「動物編」に登場するのは、蚤虱といったごく小さな虫から牛馬まで多様である。
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文庫版p.736


「猫が顔を洗うと雨がふる」「ナマズがあばれると地震がおきる」「ねずみがいなくなると火事がおきる」。日本全国に伝わる俗信のうち、動物に関わるものを約2800例も集めた俗信辞典。文庫版(KADOKAWA)出版は2019年4月、Kindle版配信は2019年4月です。

 まず収集された俗信の圧倒的な量に驚かされますが、それぞれの項目が解釈も総括もしないで語られたまま記載されているのが嬉しい。「魚の目ができた時は、その部分に「猫」という字を三度書けば治る(長野)」とか。敬意が感じられます。


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 俗信を、なまじ総括的に叙述するときは、空疎な概念的記述に終りがちである。従来の迷信の解説などに、浅薄な常識論や、通俗科学説による説明が横行しているのは、禁忌や俗信を信じて実行している人びとのこころに対する思いやりが欠けているからである。古風な人のこころを理会するためには、十把一からげ式の扱いをしてはならない。
 少なくとも、私たちのなすべき事は、解説ではない。可及的に多量の資料を集約し、それを研究者に忠実に提供する事であった。
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文庫版p.16


 なお文庫版のカバーイラストは、妖怪画で有名な石黒亜矢子さんの作品です。これがとても素敵。参考までに、これまで紹介したことのある石黒亜矢子さんの本をリストアップしておきます。


2017年06月20日の日記
『石黒亜矢子作品集』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2017-06-20

2015年10月14日の日記
『[現代版]絵本 御伽草子 付喪神』
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2015-10-14

2015年06月18日の日記
『おおきなねことちいさなねこ』
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2015-06-18

2015年06月02日の日記
『ばけねこぞろぞろ』
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2015-06-02





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『政治的動物』(石川義正)より、笙野頼子『居場所もなかった』『金毘羅』等の読み解き [読書(教養)]

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 だが、さらに重篤な自己免疫疾患では――「超越論的吐き気」を維持するかわりに――吐き気そのものを吐き出す自己解体にいたる。「その抑えがたい激烈さは、ときによると、ロゴス中心主義的なアナロジーの権威(階層秩序化する権威)を、つまりその同一性を定める権能を、解体してしまうほどの力をふるう」、つまり自己の主権そのものを解体してしまうのだ。作家である笙野の場合、それは「文」の症状としてあらわれたといっていい。近年の比喩と現実の階層化した秩序が音を立てて崩壊したかのような、もはや私小説と呼ぶことさえ正確ではないエクリチュールの増殖は、言語の自己免疫疾患という事態をきわめて正確に表象しているのである。
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単行本p.214


 『居場所もなかった』の話者は何から排除されているのか。『金毘羅』における「私」とは何なのか。文学における政治と動物(=人間ならざるもの)について論じた評論集から、笙野頼子さんの作品を取り上げた箇所を抜粋引用します。単行本(河出書房新社)出版は2020年1月です。


 本書のなかで取り上げられている笙野頼子さんの作品は、主に『居場所もなかった』『金毘羅』の二冊。他に、『幽界森娘異聞』『未闘病記――膠原病、「混合性結合組織病」の』『海底八幡宮』への言及もあります。




『居場所もなかった』
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 つまり「投資と利回りの関係をほとんど意識せず、収支計画さえもっていなかった」零細家主によるオイディプス的な善意(パターナリズム)が日本近代文学の育まれる素地となったといってもいいのである。(中略)中上より10歳下の笙野が『居場所もなかった』で描いているのは、「私」がそうした疑似封建的なコミュニティの「補助金」からまったく切断され、排除されている、という認識なのである。
(中略)
 すでに「補助金」的フィクションを許されない世代である笙野頼子――彼女の作品の他にはほとんど類例をみない孤児性はこの断絶と無縁ではない――が試みるのはなんだろうか。
 それが動物と暮らすということである。
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単行本p.77、85




『幽界森娘異聞』
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 笙野は『幽界森娘異聞』(2001年)で「純文学境界例異色作家」森茉莉の文学を「新しい素材を使った日本女性初の、新しくも切実な幻想の誕生」と評するのだが、その「贅沢貧乏」もまた「補助金」に依拠しているという意味では、プルーストの系譜というよりもすぐれて日本近代文学のひとつの典型であり、その正嫡と呼びうる。笙野がみずからを「ただの小市民」といい「現実をむしろ部屋の中に持ち込んでしまう」というのは、彼女自身が森茉莉にはまだかろうじて許されていた「補助金」的な文学の領域からすでに逸脱してしまっている、という切実な自覚からなのだ。
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単行本p.84




『金毘羅』
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 問題なのは、話者が名のる「私」とはいったい誰のことなのか、という謎である。(中略)「私」とはあくまでも「正体不明の深海生物」であったところのなにものかのように思える。これは一種の習合であり、「死んだ赤ん坊の体」という下位レベルの要素は上位レベル(金毘羅)に影響を与えることができないはずだからである。だが、その一方で「金毘羅の本文、高慢も孤立も人間の体で徹底する事はまず不可能です。それ故に激しく死にたくなる、同時にまた孤立の砦である体は金毘羅の大切な城になってしまう。人間に宿る時、その矛盾の上に金毘羅は生きなくてはならないのだ」というように、下位レベルの上位レベルへの影響を否定しえない。つまり少なくとも金毘羅として覚醒する以前の「私」という自称は、人間と金毘羅とが合体して構成された主体の「私」であり、厳密には金毘羅自身ではない。「ですのでこういう場合の主語を今後「人間の私」という言い方にします」という但し書きのような叙述によっても、この分裂を正確に言い当てることはできないのだ。金毘羅というデータを代入することで埋められたはずの空白(ブランク)は、「私」という主語によってふたたび露呈している。というよりも「私」という空位(ブランク)が――テキストが書かれ、また読まれつつある――今ここで、刻一刻と生成されつつあるのだ。『金毘羅』の叙述に強烈な喚起力を与えているのは、「私」のこの異様な不安定さである。「野生の金毘羅」を国家に対する「反操行」として位置づけることに成功したのは、この分割された「私」によってである。
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単行本p.204、205


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 日本を「アジア文明の博物館」と呼ぶのは、つまりそれをあらゆるデータの代入が可能な空白(ブランク)と捉えるのとおなじであり、金毘羅がシステムであるという意味でもある。金毘羅という神仏習合した神は、それ自体としてはきわめて日本的な「造り変える力」の一変種にすぎない。しかし『金毘羅』がこれらの原理主義と徹底的に分かつ「反操行」たりえているのは、「森羅万象は金毘羅になるのだ。金毘羅に食われるのだ」という、その金毘羅の空白(ブランク)がそれ自体の力によってたえず変容を強いられるからである。
(中略)
 金毘羅の習合は、それ自体が特異なひとつの加算的システムである。それはいっさいを無差別に――上位と下位、自己と他者という区分やヒエラルキーを無視して――「森羅万象」に対して作用させるのだ。これは一種の自己免疫の疾患であり、しかもたんなる比喩ではなく、文字どおり「膠原病」として発症し、作家の身体を蝕んでいく。
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単行本p.212、213





タグ:笙野頼子
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『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』(アーシュラ・K・ル=グウィン、谷垣暁美:翻訳) [読書(随筆)]

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 ル=グウィンの作品のすべてが読者へのギフト(贈り物)だ。そのギフトがよりよい形で残り、読者の心に届くように、とル=グウィンが最後の日々まで、さまざまな心配りをしてくれたことを思うと、私は胸が熱くなる。だがそれと同時に、彼女らしい清々しさも感じて、勇気を分けてもらった気持ちになる。
 ル=グウィンは力強い「声」をもっている人で、ル=グウィンの文章を読んでいると、ル=グウィンがすぐそばにいるような気がする。ル=グウィンには強い存在感がある。きっとル=グウィンの愛読者は皆、彼女は亡くなってしまったけれど、彼女の書いた本の中に彼女はいる、本を開けば彼女に会える、と思っているだろう。私もそうだ。
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単行本p.280


 年をとるということ、作品のこと、世の中のこと、そして飼い猫のこと。ル=グウィンが遺した最後のエッセイ集。単行本(河出書房新社)出版は2020年1月です。


〔目次〕

第1部 八十歳を過ぎること
第2部 文学の問題
第3部 世の中を理解しようとすること
第4部 報酬




第1部 八十歳を過ぎること
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 私の場合、余暇というものがどういうものなのか、未だわかっていない。私の時間はすべて、使われている時間だからだ。これまでもずっとそうだったし、今もそうだ。私はいつも、生きるのに忙しい。
 私の年齢になると、生きることのうち、単純に肉体を維持することが占める部分がふえてきて、まったくうんざりする。それはとにかく、私の生活の中に、何の目的にも使われていないような時間、そんな時間はどこにも見当たらない。私は自由だが、私の時間は自由ではない。私の時間はすべて、根本的に重要な目的を果たすために使われている(中略)。こういう時間のどれも、余暇ではない。それは余っている時間ではない。ハーバードは何を考えているのやら。私は来週八十一になる。余っている時間などないのだ。
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単行本p.21


「老齢は気の持ちようでどうにかなる問題ではない。それは実存する状況である」
誰もが考えないようにしているらしい「年をとる」という体験について。


第2部 文学の問題
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 そのあり方でなくてもいい――それがファンタジーの主張することだ。「何でもいい」とは言わない。それは無責任だ。2たす1が5だの47だのになったら、物語の帳尻が合わなくなる。ファンタジーは「あるのは無だ」とは言わない。それはニヒリズムだ。そしてファンタジーは「こういうふうにあるべきだ」とも言わない。それはユートピア的理想主義で、ファンタジーとは別の企てだ。ファンタジーは改善を目指すものではない。ハッピーエンディングは、どんなに読者に喜ばれるとしても、登場人物たちにとってのものだ。ファンタジーはフィクションであって、予言でも処方箋でもない。
 そのあり方でなくてもいいは、フィクションというコンテキストで言われるときには――つまり「現実のこと」だと主張することがない場合は――遊びを含んだ宣言だ。だが、それでもやはり、物事を転覆させる勢いをもつ。
(中略)
 政治的・社会的・宗教的・文学的などのさまざまな面で、現状を維持したり、擁護したりしている人たちは、想像力の文学をけなしたり、邪悪なものとして見たり、無視したりするかもしれない。それは、想像力の文学がその本質からして、ほかのいかなる種類の書き物にも増して転覆させる勢いをもっているからだ。想像力の文学が、抑圧に対する抵抗のための有効な道具になることは、何世紀にもわたってくり返し証明されてきた。
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単行本p.112、115


 読者からの質問について、ストーリーテリングについて、ファンタジーについて、書店や書評家が作りたがる「アメリカの偉大な小説リスト」のうさんくささについて、そして米国SF作家協会がレムを除名したことに抗議してネビュラ賞の受賞を辞退した(代わりに受賞したのはアシモフだった)ときのことについて。


第3部 世の中を理解しようとすること
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 嫉妬がその汚らわしい黄緑の鼻先を突っ込んでくるのは大体、私の人生の作家としての側面だ。称賛の翼に乗って成功の高みに舞い上がるほかの作家たちに、私は嫉妬する。私はそういう作家や彼らを称賛する人たちに軽蔑混じりの怒りを覚える――その作家の書いているものが好きでない場合は。私はヘミングウェイを蹴っ飛ばしたい気がする。でっち上げをしたり、ポーズを取ったりするのが気に入らない。彼には、そんなことをしなくても成功できる才能があったのに。ジェイムズ・ジョイスは私の考えでは、いつまで経っても過大評価されていて、そういうのを目にすると私は歯をむき出してうなりたくなる。フィリップ・ロスが神様みたいに祭り上げられていることにも激怒する。けれども、この嫉妬絡みの怒りはすべて、その作家の書いているものが好きじゃない場合にだけ起こる。ヴァージニア・ウルフを高く評価したものなら、いくらでも読んでいられる。ジョゼ・サラマーゴについての良い記事を読むと、一日じゅう幸せだ。だから明らかに、私の怒りの原因は、嫉妬や羨望よりも、やはり恐れなのだ。ヘミングウェイやジョイスやロスがほんとうに、もっとも偉大な作家たちであるなら、私がとても良い作家であることも、高く評価されることもありえない
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単行本p.186


 フェミニズムについて、経済について、世論について、信仰について、怒りと嫉妬について、そして自分が書いたことのない文章が自分の言葉としてインターネット上に流布していることについて。


第4部 報酬
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 手助けの必要な人たちがいる。
 そのことを否定する人たちがいる。天は自ら助くる者を助くと彼らは言い、貧しい者や失業者は、過保護な政府に寄生する無能な怠け者に過ぎないとのたまう。
 貧困があることを否定しないが、貧困について知りたがらない人たちがいる。あまりにひどすぎる状況だし、どうせ自分には何もできないし、と言うのだ。
 そして、手を差し伸べる人たちがいる。
 この場所は、私が見てきた中で、そういう人たちの存在の証拠としてもっとも強力なものだ。ここを見ていると、彼らの存在、彼らの有能さ、彼らの影響力がよくわかる。この場所は、人間のもつ親切心の表われにほかならない。
(中略)
 必要としているところは、至るところにある。フードバンクはオレゴン州のすべての郡と、ワシントン州のひとつの郡において配達をおこなっている。遠くに目を向けて探さなくても、食べる物に事欠いていて手助けの必要な人は身近で見つかる。
 まずは子どもたちのいるところ。私たちの郡でも、町でも、市でも、一日三食、いや二食すら食べられない学齢期の子どもがたくさんいる。今日、何か食べられるのかどうかもわからない子どもが大勢いる。
 いったいどのくらいいるのだろう? 子どもたちの三分の一。三人の子どものうち、ひとり。
 こんなふうに考えてみるのはどうだろう? あなたが、あるいは私が、統計上の三人の学齢期の子の統計上の親であるとしたら、私たちの三人の子のひとりは腹をすかせていることになる。その子は栄養不良だろう。朝も空腹で、夜も空腹だろう。それは子どもに常に寒いと感じさせるような種類の空腹だ。子どもを愚かにし、病気にするような空腹だ。
 私たちの子どものうち、どの子がそうなるのだろう? いったいどの子が?
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単行本p.230、231


 音楽について、演劇について、友人について、貧困について、そして人生について。アーシュラ・K・ル=グウィンが私たちに遺してくれた言葉。





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『プラスマイナス 171号』 [その他]

その他、同人誌
『プラスマイナス 171号』

 『プラスマイナス』は、詩、短歌、小説、旅行記、身辺雑記など様々な文章を掲載する文芸同人誌です。配偶者が編集メンバーの一人ということで、宣伝を兼ねてご紹介いたします。

[プラスマイナス171号 目次]
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巻頭詩 『各駅停車の旅』(琴似景)、イラスト(D.Zon)
短歌  『宇宙温泉 59』(内田水果)
エッセイ『台湾トマトは果物です』(島野律子)
詩   『深雪のフレーズから 「晶子」』(深雪、みか:編集)
詩   『朝』(琴似景)
詩   『零』(多亜若)
詩   『プラスマイナス。それぞれの』(多亜若)
詩   『ふたつの幟』(島野律子)
小説  『一坪菜園生活 54』(山崎純)
エッセイ『香港映画は面白いぞ 171』(やましたみか)
イラストエッセイ 『脇道の話 110』(D.Zon)
川柳  『二、三の空にも』(島野律子)
編集後記
 「行きたいところ」 その3 山崎純
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 盛りだくさんで定価300円の『プラスマイナス』、お問い合わせは以下のページにどうぞ。

目黒川には鯰が
http://shimanoritsuko.blog.so-net.ne.jp/





タグ:同人誌
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『記憶する体』(伊藤亜紗) [読書(教養)]

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 本書が扱うのは、出来事としての記憶そのものではありません。特定の日付をもった出来事の記憶が、いかにして経験の蓄積のなかで熟し、日付のないローカル・ルールに変化していくか。
 つまり、この本で注目したいのは、記憶が日付を失う過程です。
 川が川の動きによって作られていく。同じように、体も経験によって作られていきます。そのようにしてできあがった、としか言いようがない体の歴史と固有性を記述していきます。

 具体的には、12人の方の体の記憶、11のケースを取り上げます。
 彼らは、医学的あるいは社会的には、視覚障害、四肢切断、麻痺、吃音、難病、二分脊椎症などと呼ばれる障害を持っている方々です。ですが、本書の関心は、個々の障害そのものではなく、それぞれの体の固有性です。(中略)記憶は様々に位置付けられますが、どの場合においても共通しているのは、本人とともにありながら、本人の意志を超えて作用することです。日付を持った出来事が、いつしか日付を失い、やがてローカル・ルールとして体の固有性を形づくるようになるまで。その「ともにありながらともにない」プロセス、体が作られる11の物語を、これから語ってみたいと思います。
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単行本p.10


 私たちの身体はどのような記憶を持っているのか。様々な障害者のケースを通して、過去の体験が「体の記憶」として定着し身体の固有性を形作ってゆく様を探求した本。単行本(春秋社)出版は2019年9月です。


〔目次〕
エピソード1 メモをとる全盲の女性
エピソード2 封印された色
エピソード3 器用が機能を補う
エピソード4 痛くないけど痛い脚
エピソード5 後天的な耳
エピソード6 幻肢と義肢のあいだ
エピソード7 左手の記憶を持たない右手
エピソード8 「通電」の懐かしさ
エピソード9 分有される痛み
エピソード10 吃音のフラッシュバック
エピソード11 私を楽しみ直す
エピローグ 身体の考古学




エピソード1 メモをとる全盲の女性
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 見えていた10年前までの習慣を惰性的に反復する手すさびとしての「書く」ではなくて、いままさに現在形として機能している「書く」。私がまず驚いたのはそこでした。全盲であるという生理的な体の条件とパラレルに、記憶として持っている目の見える体が働いている。まさにダブルイメージのように二つの全く異なる身体がそこに重なって見えました。(中略)プロローグでお話したように、そこにあるのは、見える体と見えない体の二つを使いこなす「多重身体」とでもいうべき状態でした。視覚の喪失という身体的条件の変化によってすることのない、現在形の「書く」。それはまるで10年という長さをショートカットして、ふたつの時間が重なったかのような、不思議な感覚でした。
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単行本p.32


 話をしながら正確にメモをとり、後から必要な箇所にアンダーラインを引いて強調することも出来る全盲者。そのとき、主観的には何を見ているのか、何を感じているのか。身体の記憶が長期的に安定し定着することがよく分かるケースを紹介します。


エピソード5 後天的な耳
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 木下知威さんは、生まれつき耳が聞こえません。しかし聞こえる人とともに育ち、生活してきた方であり、そしてとりわけ多くの本を通じて、聞こえる人の文化に精通しています。そんな木下さんと筆談で話していると、「あれ、この人聞こえるんじゃないのかな?」と思えるような不思議なエピソードが出てきます。
(中略)
 つまり、木下さんにおいては、読書などで知った「聞く」をめぐる知識が、補聴器で聞くノイズ混じりの音や振動についての具体的な経験に補完される形で、「後天的な耳」という不思議な現象を生み出していると考えられます。これが、文化的に構築された後天的な耳です。木下さんは、この耳で音を「聞いて」います。
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単行本p.126、134


 生まれつき耳が聞こえない人が、読書を通じて得た知識により「後天的な耳」を獲得して音を「聞く」。そんなことがあり得るのだろうか。文化的に構築された感覚器官という身体拡張のケースを取り上げます。


エピソード6 幻肢と義肢のあいだ
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 最初にこのことを聞いたとき、私はかなり驚いてしまいました。なぜなら、一般に幻肢はもとの腕や脚の記憶と関係していると考えられているからです。しかし倉澤さんの幻肢は、明らかに、もとの腕のあり方とは違っています。
 当たり前ですが、手を物理的に胴の中に入れることはできません。つまり、倉澤さんの幻肢は、もとの腕の記憶と異なるどころか、経験していないはずの感覚までをも含んでいるのです。
 興味深いのは、にもかかわらず、倉澤さんが幻肢の位置を迷いなく答えられることです。まるでカバンの中に入った鍵でも探すかのように、自分の体に探りを入れて、そして明確に答えることができる。
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単行本p.143


 失われた腕の存在を感じ、多くの場合に痛みを伴う、幻肢という現象。体の記憶である幻肢が、しかし、物理的にあり得ない形状や位置に「存在」するケースをどう解釈すればいいのか。幻肢を通じて、「記憶する体」の働きについて考察してゆきます。





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