『政治的動物』(石川義正)より、笙野頼子『居場所もなかった』『金毘羅』等の読み解き [読書(教養)]
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だが、さらに重篤な自己免疫疾患では――「超越論的吐き気」を維持するかわりに――吐き気そのものを吐き出す自己解体にいたる。「その抑えがたい激烈さは、ときによると、ロゴス中心主義的なアナロジーの権威(階層秩序化する権威)を、つまりその同一性を定める権能を、解体してしまうほどの力をふるう」、つまり自己の主権そのものを解体してしまうのだ。作家である笙野の場合、それは「文」の症状としてあらわれたといっていい。近年の比喩と現実の階層化した秩序が音を立てて崩壊したかのような、もはや私小説と呼ぶことさえ正確ではないエクリチュールの増殖は、言語の自己免疫疾患という事態をきわめて正確に表象しているのである。
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単行本p.214
『居場所もなかった』の話者は何から排除されているのか。『金毘羅』における「私」とは何なのか。文学における政治と動物(=人間ならざるもの)について論じた評論集から、笙野頼子さんの作品を取り上げた箇所を抜粋引用します。単行本(河出書房新社)出版は2020年1月です。
本書のなかで取り上げられている笙野頼子さんの作品は、主に『居場所もなかった』『金毘羅』の二冊。他に、『幽界森娘異聞』『未闘病記――膠原病、「混合性結合組織病」の』『海底八幡宮』への言及もあります。
『居場所もなかった』
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つまり「投資と利回りの関係をほとんど意識せず、収支計画さえもっていなかった」零細家主によるオイディプス的な善意(パターナリズム)が日本近代文学の育まれる素地となったといってもいいのである。(中略)中上より10歳下の笙野が『居場所もなかった』で描いているのは、「私」がそうした疑似封建的なコミュニティの「補助金」からまったく切断され、排除されている、という認識なのである。
(中略)
すでに「補助金」的フィクションを許されない世代である笙野頼子――彼女の作品の他にはほとんど類例をみない孤児性はこの断絶と無縁ではない――が試みるのはなんだろうか。
それが動物と暮らすということである。
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単行本p.77、85
『幽界森娘異聞』
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笙野は『幽界森娘異聞』(2001年)で「純文学境界例異色作家」森茉莉の文学を「新しい素材を使った日本女性初の、新しくも切実な幻想の誕生」と評するのだが、その「贅沢貧乏」もまた「補助金」に依拠しているという意味では、プルーストの系譜というよりもすぐれて日本近代文学のひとつの典型であり、その正嫡と呼びうる。笙野がみずからを「ただの小市民」といい「現実をむしろ部屋の中に持ち込んでしまう」というのは、彼女自身が森茉莉にはまだかろうじて許されていた「補助金」的な文学の領域からすでに逸脱してしまっている、という切実な自覚からなのだ。
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単行本p.84
『金毘羅』
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問題なのは、話者が名のる「私」とはいったい誰のことなのか、という謎である。(中略)「私」とはあくまでも「正体不明の深海生物」であったところのなにものかのように思える。これは一種の習合であり、「死んだ赤ん坊の体」という下位レベルの要素は上位レベル(金毘羅)に影響を与えることができないはずだからである。だが、その一方で「金毘羅の本文、高慢も孤立も人間の体で徹底する事はまず不可能です。それ故に激しく死にたくなる、同時にまた孤立の砦である体は金毘羅の大切な城になってしまう。人間に宿る時、その矛盾の上に金毘羅は生きなくてはならないのだ」というように、下位レベルの上位レベルへの影響を否定しえない。つまり少なくとも金毘羅として覚醒する以前の「私」という自称は、人間と金毘羅とが合体して構成された主体の「私」であり、厳密には金毘羅自身ではない。「ですのでこういう場合の主語を今後「人間の私」という言い方にします」という但し書きのような叙述によっても、この分裂を正確に言い当てることはできないのだ。金毘羅というデータを代入することで埋められたはずの空白(ブランク)は、「私」という主語によってふたたび露呈している。というよりも「私」という空位(ブランク)が――テキストが書かれ、また読まれつつある――今ここで、刻一刻と生成されつつあるのだ。『金毘羅』の叙述に強烈な喚起力を与えているのは、「私」のこの異様な不安定さである。「野生の金毘羅」を国家に対する「反操行」として位置づけることに成功したのは、この分割された「私」によってである。
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単行本p.204、205
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日本を「アジア文明の博物館」と呼ぶのは、つまりそれをあらゆるデータの代入が可能な空白(ブランク)と捉えるのとおなじであり、金毘羅がシステムであるという意味でもある。金毘羅という神仏習合した神は、それ自体としてはきわめて日本的な「造り変える力」の一変種にすぎない。しかし『金毘羅』がこれらの原理主義と徹底的に分かつ「反操行」たりえているのは、「森羅万象は金毘羅になるのだ。金毘羅に食われるのだ」という、その金毘羅の空白(ブランク)がそれ自体の力によってたえず変容を強いられるからである。
(中略)
金毘羅の習合は、それ自体が特異なひとつの加算的システムである。それはいっさいを無差別に――上位と下位、自己と他者という区分やヒエラルキーを無視して――「森羅万象」に対して作用させるのだ。これは一種の自己免疫の疾患であり、しかもたんなる比喩ではなく、文字どおり「膠原病」として発症し、作家の身体を蝕んでいく。
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単行本p.212、213
だが、さらに重篤な自己免疫疾患では――「超越論的吐き気」を維持するかわりに――吐き気そのものを吐き出す自己解体にいたる。「その抑えがたい激烈さは、ときによると、ロゴス中心主義的なアナロジーの権威(階層秩序化する権威)を、つまりその同一性を定める権能を、解体してしまうほどの力をふるう」、つまり自己の主権そのものを解体してしまうのだ。作家である笙野の場合、それは「文」の症状としてあらわれたといっていい。近年の比喩と現実の階層化した秩序が音を立てて崩壊したかのような、もはや私小説と呼ぶことさえ正確ではないエクリチュールの増殖は、言語の自己免疫疾患という事態をきわめて正確に表象しているのである。
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単行本p.214
『居場所もなかった』の話者は何から排除されているのか。『金毘羅』における「私」とは何なのか。文学における政治と動物(=人間ならざるもの)について論じた評論集から、笙野頼子さんの作品を取り上げた箇所を抜粋引用します。単行本(河出書房新社)出版は2020年1月です。
本書のなかで取り上げられている笙野頼子さんの作品は、主に『居場所もなかった』『金毘羅』の二冊。他に、『幽界森娘異聞』『未闘病記――膠原病、「混合性結合組織病」の』『海底八幡宮』への言及もあります。
『居場所もなかった』
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つまり「投資と利回りの関係をほとんど意識せず、収支計画さえもっていなかった」零細家主によるオイディプス的な善意(パターナリズム)が日本近代文学の育まれる素地となったといってもいいのである。(中略)中上より10歳下の笙野が『居場所もなかった』で描いているのは、「私」がそうした疑似封建的なコミュニティの「補助金」からまったく切断され、排除されている、という認識なのである。
(中略)
すでに「補助金」的フィクションを許されない世代である笙野頼子――彼女の作品の他にはほとんど類例をみない孤児性はこの断絶と無縁ではない――が試みるのはなんだろうか。
それが動物と暮らすということである。
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単行本p.77、85
『幽界森娘異聞』
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笙野は『幽界森娘異聞』(2001年)で「純文学境界例異色作家」森茉莉の文学を「新しい素材を使った日本女性初の、新しくも切実な幻想の誕生」と評するのだが、その「贅沢貧乏」もまた「補助金」に依拠しているという意味では、プルーストの系譜というよりもすぐれて日本近代文学のひとつの典型であり、その正嫡と呼びうる。笙野がみずからを「ただの小市民」といい「現実をむしろ部屋の中に持ち込んでしまう」というのは、彼女自身が森茉莉にはまだかろうじて許されていた「補助金」的な文学の領域からすでに逸脱してしまっている、という切実な自覚からなのだ。
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単行本p.84
『金毘羅』
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問題なのは、話者が名のる「私」とはいったい誰のことなのか、という謎である。(中略)「私」とはあくまでも「正体不明の深海生物」であったところのなにものかのように思える。これは一種の習合であり、「死んだ赤ん坊の体」という下位レベルの要素は上位レベル(金毘羅)に影響を与えることができないはずだからである。だが、その一方で「金毘羅の本文、高慢も孤立も人間の体で徹底する事はまず不可能です。それ故に激しく死にたくなる、同時にまた孤立の砦である体は金毘羅の大切な城になってしまう。人間に宿る時、その矛盾の上に金毘羅は生きなくてはならないのだ」というように、下位レベルの上位レベルへの影響を否定しえない。つまり少なくとも金毘羅として覚醒する以前の「私」という自称は、人間と金毘羅とが合体して構成された主体の「私」であり、厳密には金毘羅自身ではない。「ですのでこういう場合の主語を今後「人間の私」という言い方にします」という但し書きのような叙述によっても、この分裂を正確に言い当てることはできないのだ。金毘羅というデータを代入することで埋められたはずの空白(ブランク)は、「私」という主語によってふたたび露呈している。というよりも「私」という空位(ブランク)が――テキストが書かれ、また読まれつつある――今ここで、刻一刻と生成されつつあるのだ。『金毘羅』の叙述に強烈な喚起力を与えているのは、「私」のこの異様な不安定さである。「野生の金毘羅」を国家に対する「反操行」として位置づけることに成功したのは、この分割された「私」によってである。
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単行本p.204、205
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日本を「アジア文明の博物館」と呼ぶのは、つまりそれをあらゆるデータの代入が可能な空白(ブランク)と捉えるのとおなじであり、金毘羅がシステムであるという意味でもある。金毘羅という神仏習合した神は、それ自体としてはきわめて日本的な「造り変える力」の一変種にすぎない。しかし『金毘羅』がこれらの原理主義と徹底的に分かつ「反操行」たりえているのは、「森羅万象は金毘羅になるのだ。金毘羅に食われるのだ」という、その金毘羅の空白(ブランク)がそれ自体の力によってたえず変容を強いられるからである。
(中略)
金毘羅の習合は、それ自体が特異なひとつの加算的システムである。それはいっさいを無差別に――上位と下位、自己と他者という区分やヒエラルキーを無視して――「森羅万象」に対して作用させるのだ。これは一種の自己免疫の疾患であり、しかもたんなる比喩ではなく、文字どおり「膠原病」として発症し、作家の身体を蝕んでいく。
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単行本p.212、213
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