『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』(アーシュラ・K・ル=グウィン、谷垣暁美:翻訳) [読書(随筆)]
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ル=グウィンの作品のすべてが読者へのギフト(贈り物)だ。そのギフトがよりよい形で残り、読者の心に届くように、とル=グウィンが最後の日々まで、さまざまな心配りをしてくれたことを思うと、私は胸が熱くなる。だがそれと同時に、彼女らしい清々しさも感じて、勇気を分けてもらった気持ちになる。
ル=グウィンは力強い「声」をもっている人で、ル=グウィンの文章を読んでいると、ル=グウィンがすぐそばにいるような気がする。ル=グウィンには強い存在感がある。きっとル=グウィンの愛読者は皆、彼女は亡くなってしまったけれど、彼女の書いた本の中に彼女はいる、本を開けば彼女に会える、と思っているだろう。私もそうだ。
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単行本p.280
年をとるということ、作品のこと、世の中のこと、そして飼い猫のこと。ル=グウィンが遺した最後のエッセイ集。単行本(河出書房新社)出版は2020年1月です。
〔目次〕
第1部 八十歳を過ぎること
第2部 文学の問題
第3部 世の中を理解しようとすること
第4部 報酬
第1部 八十歳を過ぎること
――――
私の場合、余暇というものがどういうものなのか、未だわかっていない。私の時間はすべて、使われている時間だからだ。これまでもずっとそうだったし、今もそうだ。私はいつも、生きるのに忙しい。
私の年齢になると、生きることのうち、単純に肉体を維持することが占める部分がふえてきて、まったくうんざりする。それはとにかく、私の生活の中に、何の目的にも使われていないような時間、そんな時間はどこにも見当たらない。私は自由だが、私の時間は自由ではない。私の時間はすべて、根本的に重要な目的を果たすために使われている(中略)。こういう時間のどれも、余暇ではない。それは余っている時間ではない。ハーバードは何を考えているのやら。私は来週八十一になる。余っている時間などないのだ。
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単行本p.21
「老齢は気の持ちようでどうにかなる問題ではない。それは実存する状況である」
誰もが考えないようにしているらしい「年をとる」という体験について。
第2部 文学の問題
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そのあり方でなくてもいい――それがファンタジーの主張することだ。「何でもいい」とは言わない。それは無責任だ。2たす1が5だの47だのになったら、物語の帳尻が合わなくなる。ファンタジーは「あるのは無だ」とは言わない。それはニヒリズムだ。そしてファンタジーは「こういうふうにあるべきだ」とも言わない。それはユートピア的理想主義で、ファンタジーとは別の企てだ。ファンタジーは改善を目指すものではない。ハッピーエンディングは、どんなに読者に喜ばれるとしても、登場人物たちにとってのものだ。ファンタジーはフィクションであって、予言でも処方箋でもない。
そのあり方でなくてもいいは、フィクションというコンテキストで言われるときには――つまり「現実のこと」だと主張することがない場合は――遊びを含んだ宣言だ。だが、それでもやはり、物事を転覆させる勢いをもつ。
(中略)
政治的・社会的・宗教的・文学的などのさまざまな面で、現状を維持したり、擁護したりしている人たちは、想像力の文学をけなしたり、邪悪なものとして見たり、無視したりするかもしれない。それは、想像力の文学がその本質からして、ほかのいかなる種類の書き物にも増して転覆させる勢いをもっているからだ。想像力の文学が、抑圧に対する抵抗のための有効な道具になることは、何世紀にもわたってくり返し証明されてきた。
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単行本p.112、115
読者からの質問について、ストーリーテリングについて、ファンタジーについて、書店や書評家が作りたがる「アメリカの偉大な小説リスト」のうさんくささについて、そして米国SF作家協会がレムを除名したことに抗議してネビュラ賞の受賞を辞退した(代わりに受賞したのはアシモフだった)ときのことについて。
第3部 世の中を理解しようとすること
――――
嫉妬がその汚らわしい黄緑の鼻先を突っ込んでくるのは大体、私の人生の作家としての側面だ。称賛の翼に乗って成功の高みに舞い上がるほかの作家たちに、私は嫉妬する。私はそういう作家や彼らを称賛する人たちに軽蔑混じりの怒りを覚える――その作家の書いているものが好きでない場合は。私はヘミングウェイを蹴っ飛ばしたい気がする。でっち上げをしたり、ポーズを取ったりするのが気に入らない。彼には、そんなことをしなくても成功できる才能があったのに。ジェイムズ・ジョイスは私の考えでは、いつまで経っても過大評価されていて、そういうのを目にすると私は歯をむき出してうなりたくなる。フィリップ・ロスが神様みたいに祭り上げられていることにも激怒する。けれども、この嫉妬絡みの怒りはすべて、その作家の書いているものが好きじゃない場合にだけ起こる。ヴァージニア・ウルフを高く評価したものなら、いくらでも読んでいられる。ジョゼ・サラマーゴについての良い記事を読むと、一日じゅう幸せだ。だから明らかに、私の怒りの原因は、嫉妬や羨望よりも、やはり恐れなのだ。ヘミングウェイやジョイスやロスがほんとうに、もっとも偉大な作家たちであるなら、私がとても良い作家であることも、高く評価されることもありえない
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単行本p.186
フェミニズムについて、経済について、世論について、信仰について、怒りと嫉妬について、そして自分が書いたことのない文章が自分の言葉としてインターネット上に流布していることについて。
第4部 報酬
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手助けの必要な人たちがいる。
そのことを否定する人たちがいる。天は自ら助くる者を助くと彼らは言い、貧しい者や失業者は、過保護な政府に寄生する無能な怠け者に過ぎないとのたまう。
貧困があることを否定しないが、貧困について知りたがらない人たちがいる。あまりにひどすぎる状況だし、どうせ自分には何もできないし、と言うのだ。
そして、手を差し伸べる人たちがいる。
この場所は、私が見てきた中で、そういう人たちの存在の証拠としてもっとも強力なものだ。ここを見ていると、彼らの存在、彼らの有能さ、彼らの影響力がよくわかる。この場所は、人間のもつ親切心の表われにほかならない。
(中略)
必要としているところは、至るところにある。フードバンクはオレゴン州のすべての郡と、ワシントン州のひとつの郡において配達をおこなっている。遠くに目を向けて探さなくても、食べる物に事欠いていて手助けの必要な人は身近で見つかる。
まずは子どもたちのいるところ。私たちの郡でも、町でも、市でも、一日三食、いや二食すら食べられない学齢期の子どもがたくさんいる。今日、何か食べられるのかどうかもわからない子どもが大勢いる。
いったいどのくらいいるのだろう? 子どもたちの三分の一。三人の子どものうち、ひとり。
こんなふうに考えてみるのはどうだろう? あなたが、あるいは私が、統計上の三人の学齢期の子の統計上の親であるとしたら、私たちの三人の子のひとりは腹をすかせていることになる。その子は栄養不良だろう。朝も空腹で、夜も空腹だろう。それは子どもに常に寒いと感じさせるような種類の空腹だ。子どもを愚かにし、病気にするような空腹だ。
私たちの子どものうち、どの子がそうなるのだろう? いったいどの子が?
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単行本p.230、231
音楽について、演劇について、友人について、貧困について、そして人生について。アーシュラ・K・ル=グウィンが私たちに遺してくれた言葉。
ル=グウィンの作品のすべてが読者へのギフト(贈り物)だ。そのギフトがよりよい形で残り、読者の心に届くように、とル=グウィンが最後の日々まで、さまざまな心配りをしてくれたことを思うと、私は胸が熱くなる。だがそれと同時に、彼女らしい清々しさも感じて、勇気を分けてもらった気持ちになる。
ル=グウィンは力強い「声」をもっている人で、ル=グウィンの文章を読んでいると、ル=グウィンがすぐそばにいるような気がする。ル=グウィンには強い存在感がある。きっとル=グウィンの愛読者は皆、彼女は亡くなってしまったけれど、彼女の書いた本の中に彼女はいる、本を開けば彼女に会える、と思っているだろう。私もそうだ。
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単行本p.280
年をとるということ、作品のこと、世の中のこと、そして飼い猫のこと。ル=グウィンが遺した最後のエッセイ集。単行本(河出書房新社)出版は2020年1月です。
〔目次〕
第1部 八十歳を過ぎること
第2部 文学の問題
第3部 世の中を理解しようとすること
第4部 報酬
第1部 八十歳を過ぎること
――――
私の場合、余暇というものがどういうものなのか、未だわかっていない。私の時間はすべて、使われている時間だからだ。これまでもずっとそうだったし、今もそうだ。私はいつも、生きるのに忙しい。
私の年齢になると、生きることのうち、単純に肉体を維持することが占める部分がふえてきて、まったくうんざりする。それはとにかく、私の生活の中に、何の目的にも使われていないような時間、そんな時間はどこにも見当たらない。私は自由だが、私の時間は自由ではない。私の時間はすべて、根本的に重要な目的を果たすために使われている(中略)。こういう時間のどれも、余暇ではない。それは余っている時間ではない。ハーバードは何を考えているのやら。私は来週八十一になる。余っている時間などないのだ。
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単行本p.21
「老齢は気の持ちようでどうにかなる問題ではない。それは実存する状況である」
誰もが考えないようにしているらしい「年をとる」という体験について。
第2部 文学の問題
――――
そのあり方でなくてもいい――それがファンタジーの主張することだ。「何でもいい」とは言わない。それは無責任だ。2たす1が5だの47だのになったら、物語の帳尻が合わなくなる。ファンタジーは「あるのは無だ」とは言わない。それはニヒリズムだ。そしてファンタジーは「こういうふうにあるべきだ」とも言わない。それはユートピア的理想主義で、ファンタジーとは別の企てだ。ファンタジーは改善を目指すものではない。ハッピーエンディングは、どんなに読者に喜ばれるとしても、登場人物たちにとってのものだ。ファンタジーはフィクションであって、予言でも処方箋でもない。
そのあり方でなくてもいいは、フィクションというコンテキストで言われるときには――つまり「現実のこと」だと主張することがない場合は――遊びを含んだ宣言だ。だが、それでもやはり、物事を転覆させる勢いをもつ。
(中略)
政治的・社会的・宗教的・文学的などのさまざまな面で、現状を維持したり、擁護したりしている人たちは、想像力の文学をけなしたり、邪悪なものとして見たり、無視したりするかもしれない。それは、想像力の文学がその本質からして、ほかのいかなる種類の書き物にも増して転覆させる勢いをもっているからだ。想像力の文学が、抑圧に対する抵抗のための有効な道具になることは、何世紀にもわたってくり返し証明されてきた。
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単行本p.112、115
読者からの質問について、ストーリーテリングについて、ファンタジーについて、書店や書評家が作りたがる「アメリカの偉大な小説リスト」のうさんくささについて、そして米国SF作家協会がレムを除名したことに抗議してネビュラ賞の受賞を辞退した(代わりに受賞したのはアシモフだった)ときのことについて。
第3部 世の中を理解しようとすること
――――
嫉妬がその汚らわしい黄緑の鼻先を突っ込んでくるのは大体、私の人生の作家としての側面だ。称賛の翼に乗って成功の高みに舞い上がるほかの作家たちに、私は嫉妬する。私はそういう作家や彼らを称賛する人たちに軽蔑混じりの怒りを覚える――その作家の書いているものが好きでない場合は。私はヘミングウェイを蹴っ飛ばしたい気がする。でっち上げをしたり、ポーズを取ったりするのが気に入らない。彼には、そんなことをしなくても成功できる才能があったのに。ジェイムズ・ジョイスは私の考えでは、いつまで経っても過大評価されていて、そういうのを目にすると私は歯をむき出してうなりたくなる。フィリップ・ロスが神様みたいに祭り上げられていることにも激怒する。けれども、この嫉妬絡みの怒りはすべて、その作家の書いているものが好きじゃない場合にだけ起こる。ヴァージニア・ウルフを高く評価したものなら、いくらでも読んでいられる。ジョゼ・サラマーゴについての良い記事を読むと、一日じゅう幸せだ。だから明らかに、私の怒りの原因は、嫉妬や羨望よりも、やはり恐れなのだ。ヘミングウェイやジョイスやロスがほんとうに、もっとも偉大な作家たちであるなら、私がとても良い作家であることも、高く評価されることもありえない
――――
単行本p.186
フェミニズムについて、経済について、世論について、信仰について、怒りと嫉妬について、そして自分が書いたことのない文章が自分の言葉としてインターネット上に流布していることについて。
第4部 報酬
――――
手助けの必要な人たちがいる。
そのことを否定する人たちがいる。天は自ら助くる者を助くと彼らは言い、貧しい者や失業者は、過保護な政府に寄生する無能な怠け者に過ぎないとのたまう。
貧困があることを否定しないが、貧困について知りたがらない人たちがいる。あまりにひどすぎる状況だし、どうせ自分には何もできないし、と言うのだ。
そして、手を差し伸べる人たちがいる。
この場所は、私が見てきた中で、そういう人たちの存在の証拠としてもっとも強力なものだ。ここを見ていると、彼らの存在、彼らの有能さ、彼らの影響力がよくわかる。この場所は、人間のもつ親切心の表われにほかならない。
(中略)
必要としているところは、至るところにある。フードバンクはオレゴン州のすべての郡と、ワシントン州のひとつの郡において配達をおこなっている。遠くに目を向けて探さなくても、食べる物に事欠いていて手助けの必要な人は身近で見つかる。
まずは子どもたちのいるところ。私たちの郡でも、町でも、市でも、一日三食、いや二食すら食べられない学齢期の子どもがたくさんいる。今日、何か食べられるのかどうかもわからない子どもが大勢いる。
いったいどのくらいいるのだろう? 子どもたちの三分の一。三人の子どものうち、ひとり。
こんなふうに考えてみるのはどうだろう? あなたが、あるいは私が、統計上の三人の学齢期の子の統計上の親であるとしたら、私たちの三人の子のひとりは腹をすかせていることになる。その子は栄養不良だろう。朝も空腹で、夜も空腹だろう。それは子どもに常に寒いと感じさせるような種類の空腹だ。子どもを愚かにし、病気にするような空腹だ。
私たちの子どものうち、どの子がそうなるのだろう? いったいどの子が?
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単行本p.230、231
音楽について、演劇について、友人について、貧困について、そして人生について。アーシュラ・K・ル=グウィンが私たちに遺してくれた言葉。
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