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『記憶する体』(伊藤亜紗) [読書(教養)]

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 本書が扱うのは、出来事としての記憶そのものではありません。特定の日付をもった出来事の記憶が、いかにして経験の蓄積のなかで熟し、日付のないローカル・ルールに変化していくか。
 つまり、この本で注目したいのは、記憶が日付を失う過程です。
 川が川の動きによって作られていく。同じように、体も経験によって作られていきます。そのようにしてできあがった、としか言いようがない体の歴史と固有性を記述していきます。

 具体的には、12人の方の体の記憶、11のケースを取り上げます。
 彼らは、医学的あるいは社会的には、視覚障害、四肢切断、麻痺、吃音、難病、二分脊椎症などと呼ばれる障害を持っている方々です。ですが、本書の関心は、個々の障害そのものではなく、それぞれの体の固有性です。(中略)記憶は様々に位置付けられますが、どの場合においても共通しているのは、本人とともにありながら、本人の意志を超えて作用することです。日付を持った出来事が、いつしか日付を失い、やがてローカル・ルールとして体の固有性を形づくるようになるまで。その「ともにありながらともにない」プロセス、体が作られる11の物語を、これから語ってみたいと思います。
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単行本p.10


 私たちの身体はどのような記憶を持っているのか。様々な障害者のケースを通して、過去の体験が「体の記憶」として定着し身体の固有性を形作ってゆく様を探求した本。単行本(春秋社)出版は2019年9月です。


〔目次〕
エピソード1 メモをとる全盲の女性
エピソード2 封印された色
エピソード3 器用が機能を補う
エピソード4 痛くないけど痛い脚
エピソード5 後天的な耳
エピソード6 幻肢と義肢のあいだ
エピソード7 左手の記憶を持たない右手
エピソード8 「通電」の懐かしさ
エピソード9 分有される痛み
エピソード10 吃音のフラッシュバック
エピソード11 私を楽しみ直す
エピローグ 身体の考古学




エピソード1 メモをとる全盲の女性
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 見えていた10年前までの習慣を惰性的に反復する手すさびとしての「書く」ではなくて、いままさに現在形として機能している「書く」。私がまず驚いたのはそこでした。全盲であるという生理的な体の条件とパラレルに、記憶として持っている目の見える体が働いている。まさにダブルイメージのように二つの全く異なる身体がそこに重なって見えました。(中略)プロローグでお話したように、そこにあるのは、見える体と見えない体の二つを使いこなす「多重身体」とでもいうべき状態でした。視覚の喪失という身体的条件の変化によってすることのない、現在形の「書く」。それはまるで10年という長さをショートカットして、ふたつの時間が重なったかのような、不思議な感覚でした。
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単行本p.32


 話をしながら正確にメモをとり、後から必要な箇所にアンダーラインを引いて強調することも出来る全盲者。そのとき、主観的には何を見ているのか、何を感じているのか。身体の記憶が長期的に安定し定着することがよく分かるケースを紹介します。


エピソード5 後天的な耳
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 木下知威さんは、生まれつき耳が聞こえません。しかし聞こえる人とともに育ち、生活してきた方であり、そしてとりわけ多くの本を通じて、聞こえる人の文化に精通しています。そんな木下さんと筆談で話していると、「あれ、この人聞こえるんじゃないのかな?」と思えるような不思議なエピソードが出てきます。
(中略)
 つまり、木下さんにおいては、読書などで知った「聞く」をめぐる知識が、補聴器で聞くノイズ混じりの音や振動についての具体的な経験に補完される形で、「後天的な耳」という不思議な現象を生み出していると考えられます。これが、文化的に構築された後天的な耳です。木下さんは、この耳で音を「聞いて」います。
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単行本p.126、134


 生まれつき耳が聞こえない人が、読書を通じて得た知識により「後天的な耳」を獲得して音を「聞く」。そんなことがあり得るのだろうか。文化的に構築された感覚器官という身体拡張のケースを取り上げます。


エピソード6 幻肢と義肢のあいだ
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 最初にこのことを聞いたとき、私はかなり驚いてしまいました。なぜなら、一般に幻肢はもとの腕や脚の記憶と関係していると考えられているからです。しかし倉澤さんの幻肢は、明らかに、もとの腕のあり方とは違っています。
 当たり前ですが、手を物理的に胴の中に入れることはできません。つまり、倉澤さんの幻肢は、もとの腕の記憶と異なるどころか、経験していないはずの感覚までをも含んでいるのです。
 興味深いのは、にもかかわらず、倉澤さんが幻肢の位置を迷いなく答えられることです。まるでカバンの中に入った鍵でも探すかのように、自分の体に探りを入れて、そして明確に答えることができる。
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単行本p.143


 失われた腕の存在を感じ、多くの場合に痛みを伴う、幻肢という現象。体の記憶である幻肢が、しかし、物理的にあり得ない形状や位置に「存在」するケースをどう解釈すればいいのか。幻肢を通じて、「記憶する体」の働きについて考察してゆきます。





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