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『クェーサーの謎 宇宙でもっともミステリアスな天体』(谷口義明) [読書(サイエンス)]


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 私は銀河スケールの現象は単純であるように感じている。しかし、銀河がそれを単純だと思うかは、また別問題である。私のアイデアも人類の試みの一つに過ぎない。正しい答えは活動銀河中心核だけが知っている。
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新書版p.144


 太陽1兆個分という異常に明るい天体、クェーサー。それほどの高エネルギーを放出するメカニズムは。どのように誕生したのか。なぜ遠くにしか存在しないのか。そして、クェーサーは死ぬのだろうか。謎の電波源から巨大ブラックホール降着円盤まで、クェーサー探求の歩みを解説してくれる一冊。新書版(講談社)出版は2004年11月、Kindle版配信は2016年4月です。

 最も明るく、最も遠い天体、クェーサー。個人的な話で恐縮ですが、私が生まれた年に発見されたということで、昔から何となくクェーサーには惹かれるものを感じていました。子供の頃に読んだ宇宙本やSF小説には、正体は銀河爆発だ、いや反物質に違いない、もしやホワイトホールでは、などと心ときめくようなヨタがばんばん書かれていましたし。

 その正体が巨大ブラックホールだと知ったときにはびっくり。誰よりも明るく輝いている人の、心の闇を見たような気がしました。

 本書はその魅惑のクェーサーについて判明したことを一般向けに紹介してくれるものです。出版は2004年なので必ずしも最新情報ではありませんが、次々と得られる驚くべき知見と、それでも解けない謎が残る展開は、まるでミステリを読んでいるようで興奮させられます。

 全体は6つの章から構成されています。


「第1章 謎のクェーサー」
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 クェーサーの明るさは太陽1兆個分もの明るさに匹敵する。(中略)今までに10万個も発見されてきている。したがって、現在では珍しい天体ではなくなった。しかし、発見から40年の時を経て、これほどの数のクェーサーが見つかってきていても、クェーサーはまだ多くの謎に包まれている。
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新書版p.12

 まずはクェーサーについて概説。名前の由来、銀河に関する基礎知識、銀河中心核と巨大ブラックホール、宇宙の歴史、そしてクェーサーに関する謎が示されます。


「第2章 クェーサーの発見」
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1962年8月5日、運命の日がやってきた。人類がクェーサーを認識したという意味で、この日は特別な日になった。3C 273と呼ばれる謎の電波源が月に隠される日がきたのだ。
(中略)
クェーサーの発見の経緯は本当にドラマティックであった。謎の電波源の正体を突きとめていく過程で、クェーサーが見つかったのは既に紹介したとおりである。したがって、ほとんどの人は「クェーサーは全て強い電波源に違いない」と思い込みがちだが、それは間違っていたのである。
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新書版p.57、82

 電波銀河の謎から始まり、クェーサーが発見されるまでの歴史を振り返ります。


「第3章 クェーサーの種類」
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 しかし、活動銀河中心核にはどうしてこんなにバラエティがあるのだろうか? これらの活動銀河中心核の活動の源は、全て銀河中心核にある超大質量ブラックホールなのだろうか? そんなシンプルなエンジンでこれだけのバラエティを本当に説明できるのだろうか?
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新書版p.113

 セイファート銀河、ライナー、そしてクェーサー。次々と発見される銀河中心核の活動を整理し、これらを統一的に説明するモデルの議論に向けた地ならしをします。


「第4章 クェーサーの起源」
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 クェーサーなどの活動銀河中心核のエンジンがブラックホールであると聞くと、やはり驚く。しかも、その質量は太陽質量の100万倍以上だという。クェーサーの場合は、最低でも太陽質量の1億倍の質量の超大質量ブラックホールが必要になる。
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新書版p.122

 様々な活動銀河中心核を支えているエネルギー源としての巨大ブラックホール。それを取り巻く、いわばエンジンである降着円盤。膨大なエネルギーが放出されるメカニズムと、ブラックホールへの「ガス補給メカニズム」に関する議論が紹介されます。


「第5章 クェーサーの進化」
「第6章 クェーサーの謎解き」
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 それまで中質量ブラックホールのような天体は見つかっていなかった。だから、太陽の数倍の質量を持つブラックホールと、100万倍以上の質量を持つ超大質量ブラックホールの間には大きなギャップがあった。中質量ブラックホールはまさに両者のミッシング・リンクだったと考えてよいだろう。まさに青天の霹靂ともいえる大発見であった。
 中質量ブラックホールの発見で俄かに超大質量ブラックホールへの道が見えてきた。
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新書版p.219

 クェーサーは、どのようにして誕生し、どのようにして消えるのか。そもそも消えるのか。消えないとしたら、クェーサーの個数密度が宇宙誕生後10億年頃をピークに単調減少しているのをどう解釈すればいいのか。銀河の合体、ウルトラ赤外線銀河、スターバースト、スーパーウィンド、中質量ブラックホール。新たな発見によって一つ謎が解ける毎に、新たに現れる謎。活動銀河中心核をめぐる謎に迫る研究の最前線が紹介されます。



『SFマガジン2016年6月号 特集:やくしまるえつこのSF世界』 [読書(SF)]

 隔月刊SFマガジン2016年6月号は、やくしまるえつこ特集に加えて松永天馬さんの新作も掲載され、相対性理論やアーバンギャルドのファンにもお勧めの一冊となりました。


『月の合わせ鏡』(早瀬耕)
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鏡の中に現在を見ることはできない。光にも速度があるので、鏡像は過去である。
もしも月に鏡があったら、そこに映るのはいつの自分だろう
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SFマガジン2016年6月号p.77

 有機素子コンピュータによって作り出された「合わせ鏡」。多数並べられた「仮想スローガラス」により可視化され、画面のなかに同居する過去と現在。過去が現在を規定するのか、それとも現在が過去を作るのか。時間の可視化に触発された「意識と時間の関係」に関する思索は、やがて思いがけない転換に至る。

 SFマガジン2016年2月号に掲載された『有機素子板の中』(早瀬耕)のストレートな続篇で、どうやら連作になるようです。前回はチューリングテスト、今回は受動意識仮説というSF直球テーマを扱いながら、一般小説のように読めるところがポイント。


『双極人間は同情を嫌う』(上遠野浩平)
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「ムビョウは、他人に褒められるのが嫌いなんだよ」
「私はあいつの弱みが知りたいのよ。あいつが嫌がることをしたいの」
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SFマガジン2016年6月号p.234

 製造人間ウトセラ・ムビョウと同居する少年が出会った奇妙な二人の少女。ウトセラは彼女らを食事会に招待するが……。微妙に噛み合わない会話、背景としての銃撃戦や爆撃という、おなじみのシリーズ第三弾。


『牡蠣の惑星』(松永天馬)
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学校は秋葉原の地下に開く。秋葉原は東京の眼球だからね。見られることに特化した街。視覚だけがやたらと発達して嗅覚や味覚や触覚がほとんど麻痺した我々二十一世紀人を象徴する街。聴覚は爆音でトッカータとフーガニ短調が流れているせいでぶっ壊れているしね。そこで君たちがやるべきは二次元を三次元に変えることなんだ。立体化させることなんだよ。
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SFマガジン2016年6月号p.314

 先生に拉致監禁された少女は、日常系アニメ三次元化のための「学校」に通うことに。そこは秋葉原の地下、少女の殻のなかにあるつるっとした剥き身に触れたい小人さんが集う牡蠣の惑星。アーバンギャルド全開の濃密少女小説。


『天地がひっくり返った日』(トマス・オルディ・フーヴェルト、鈴木潤:翻訳)
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きのう目覚めたときには、この腕のなかにきみがいた。ぼくはきみの胸のあいだに、きみの心臓がある場所にそっとくちづけをした。きみはまだぼくのものだった。なのにいまぼくは、世界という船の底から下ろされた錨みたいにぶら下がっている。船はもう動こうとしない。
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SFマガジン2016年6月号p.325

 失恋の翌日、天地がひっくり返ってしまった。文字通り。地面は頭の上にあり、足元には無限の彼方まで広がる虚空。彼女が残していった金魚を届けるために、ぼくは命がけの冒険に出る。世界が終わってしまっても、どうしてもきみに会いたいんだ。

 「君がいなくなって世界は何もかもひっくり返ってしまった」というありがちな言いぐさをそのまま書いた短篇。重力の向きが逆転し、空に向かって落ちてゆく人々。しんみり切ない読後感を残す短篇。


『失踪した旭涯人花嫁の謎』(アリエット・ドボダール、小川隆:翻訳)
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 アメリカ人で旭涯にいるということは――本物のアメリカ人という意味だ、教会にいくプロテスタントであって、道教や仏教に改宗したような手合いではない――自分の力でやっていかなければならないということだ。どんな会社からも雇ってもらえない。部屋を貸してくれる数少ない家主はとんでもない家賃をふっかけてくる。やっていくのはたいへんだった――だから、分別には目をつむって何嬋李の事件を引き受けたのだ。
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SFマガジン2016年6月号p.342

 わけありでアメリカからロッキー山脈を越えて旭涯(中国)に逃げてきた探偵が、失踪した花嫁を探してほしいという依頼を受ける。背後にちらつく犯罪組織の影。彼は娘の足取りを追って大メヒカ(インカ帝国)に向かうことになるが……。

 SFマガジン2012年7月号に掲載された『奇跡の時代、驚異の時代』(アリエット・ドボダール)と同じく、北米大陸が米国・中国・インカ帝国の三国に分かれた歴史改変世界を舞台にしたシリーズの一篇。


タグ:SFマガジン

『ロックイン -統合捜査-』(ジョン・スコルジー、内田昌之:翻訳) [読書(SF)]


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「この事件はわけがわかりません。殺人は殺人じゃないかもしれず、被害者は身元がわからず、その男が会っていた統合者のほうは、すでに統合されていたかもしれず、しかもおぼえているはずのことをおぼえていないという。めちゃくちゃですよ、ほんとに」
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単行本p.57


 多くの人々が疫病の後遺症により「ロックイン」と呼ばれる全身麻痺状態になっている近未来。遠隔操縦ロボットにリンクして捜査を行う新任FBI捜査官は、人使いの荒いパートナーと共に奇妙な殺人事件に挑む。次第に明らかになってゆく巨大な陰謀、そして二人に迫る暗殺者の影。『老人と宇宙』シリーズや『レッドスーツ』の著者によるSFミステリ長篇。単行本(早川書房)出版は2016年2月、Kindle版配信は2016年2月です。


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 全世界に新たな疫病が蔓延、その結果、多くの人々が亡くなった。しかもこの病気は、生き残った人々にも恐るべき後遺症をもたらしていた。意識ははっきりとしたまま、身体機能を喪失、罹患者の精神をその肉体の中に閉じ込めてしまったのである。人々はその状態を「ロックイン」と呼んだ。
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単行本p.323


 患者を全身麻痺させる症状「ロックイン」、そのような状態に陥った人々を指す「ヘイデン」、ヘイデンが代理身体として使うために開発された脳・マシン・リンク型の遠隔操縦ロボット「スリープ」、そしてヘイデンの脳とリンクすることで相手に自分の身体を使わせることが出来る「統合者」。

 様々な用語が登場して最初は混乱しますが、すぐに慣れるのでご安心。こうした特殊な設定のおかげで、単純に思える殺人事件の捜査がやたらと面倒になるというのが本書のミソ。

 何しろ、普通のミステリなら「容疑者Aが被害者Bを殺害した」ことを証明すれば犯人は容疑者Aということになるわけですが、この世界では「統合者である容疑者Aの身体を犯行時に動かしていたのは誰か」ということが問題になるのです。現場にいなかった容疑者の有罪を証明する証拠をつかむのがまた大変。

 一方、語り手となる捜査官もヘイデンであり、常にスリープを使って捜査を行うので、あるスリープから別の(それも遠く離れた場所にある)スリープに「乗り移る」ことで、遠隔地間を素早く移動するといった裏技が使えたりします。あと銃弾くらったりナイフでさされたりしても、すぐに別のスリープで復活できるというのもメリット。しかし、そのおかげで大変な激務に。


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「今日は、忍者スリープと格闘をしたし、ふたりの女性が亡くなった家族からの最後のビデオを鑑賞するのを見たし、二十フィート先で女性がひとり爆死したし、父さんが侵入者をショットガンで撃ち殺すのを目の当たりにした」コップをひとり取り出して、そこにバーボンを注ぐ。「少しでもまともな感覚が残っているなら、このボトルを自分の摂取チューブにつなぐだろうな」
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単行本p.238


 読者の期待通り、捜査が進むにつれて、事件は背景社会を根底から揺さぶるような陰謀へとつながってゆきます。謎解きよりも、むしろロックインやそのために急激に発達した脳内埋め込み型の人工ニューラルネットワーク、それによるブレイン・マシン・インタフェース、といった技術がどのような社会を作り出し、そこではどんな問題が起きるか、という思考実験に力点が置かれているように感じます。そういう意味では、ミステリ色よりもSF色の方が濃い作品です。

 というわけで、真面目でタフな新任FBI捜査官、人使いは荒いがリーダーシップに優れた女性上司、仕事が異様に早い有能な技術者、といった「いつものスコルジー登場人物たち」が軽口や愚痴を頻発しながら難題解決に挑む、といういつものスコルジー作品。他の作品に比べると地味ではありますが、最後まで確実に楽しめます。


『異類婚姻譚』(本谷有希子) [読書(小説・詩)]


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 ソファに寝そべるその姿を見るたび、私はまるで自分が、楽をしないと死んでしまう新種の生きものと暮らしているような気分になる。(中略)どうしてここまで後ろめたさを感じないでいられるのか。聞いてみたいが、その質問に答えることさえ、この生きものはめんどくさいと言うに違いない。いつの間に、私は人間以外のものと結婚してしまったのだろう。
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単行本p.44


 異質な存在との生活によって変質し同化されてゆく不安を生々しくえがく四編を収録した短篇集。単行本(講談社)出版は2016年1月、Kindle版配信は2016年1月です。


『異類婚姻譚』
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蛇ボールの話をハコネちゃんから聞かされて、私はこれまでずっともやもやしていたことが、ようやく腑に落ちたと感じた。恐らく私は男たちに自分を食わせ続けてきたのだ。今の私は何匹もの蛇に食われ続けてきた蛇の亡霊のようなもので、旦那に呑み込まれる前から、本来の自分の体などとっくに失っていたのだ。
(中略)
 旦那はむしろ、一刻も早く、私と蛇ボールになりたがっているように見える。バラエティ番組を観る時も、一人で観るより楽しいからと、しつこいぐらい私を付き合わせるのは、自分に注がれる私の冷やかな視線を消してしまいたいからに違いない。私と旦那が同化すれば、もう他人はいなくなるとでも思っているのだろう。
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単行本p.53、55

 あるとき自分の顔が夫とそっくりになってゆくことに気付いた妻。面倒なことはすべて妻に押しつけ、そのことを意識さえしていない夫。家でやることといえばゲームとTVのバラエティ番組。他には、何もしない、何も聞かない、何も考えない。子供じみた甘えとスネだけで生きるうちに顔がだんだん溶けて人としての体裁も保てなくなる。妻は、そんな夫にずぶずぶと同化されてゆくのだった。ドメスティック生物都市。

 「ガキ夫あるある」を介して、夫婦という関係の不可解さ不気味さが吹き出してくる中篇。個人的に、隣人の猫捨てエピソードがつらくてつらくて。


『〈犬たち〉』
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「昔、サンタクロースにお願いしたことがあるの。朝起きたら自分以外、誰もいない世界。」
 大きく〈犬〉と赤いスプレーで殴り書きされている道路を横切り、車に乗り込んだ。白い犬たちは一度も離れず、車の後を走ってついてきた。
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単行本p.133

 知人から借りた山小屋に引きこもり、誰にも合わない生活を満喫する人嫌いの女性。生活を共にしているのは、餌をやる必要もなく、排便排尿もしない、純白の不思議な犬たち。いつしか外部との通信は途絶え、麓の町は無人になっている。だが彼女にとってそれは望むところだった。

 静かな終末感ただよう短篇。語り手は得体の知れない異質な存在に同化してゆきますが、相手が「夫」でなく「犬」であるというだけで、どこかほのぼのとした雰囲気に。


『トモ子のバウムクーヘン』
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どうすればいいか分からず、トモ子はリビングのあらゆる変化を見逃すまいと息を殺した。しばらくすると、しっかりと閉め切っていたはずのサッシ窓が足音を忍ばせる泥棒のように動いて、数センチの隙間を作ったのが分かった。もう十年は洗っていないレースのカーテンが風で膨らみ、ソファを優しく撫で始めている。我が家のリビングが、まるでカタログの表紙になりそうなほど心地よさげに見えて、トモ子はうろたえた。リビングが自分を誘惑し、恐ろしい罠に嵌めようとしてょく気がしてならなかった。
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単行本p.140

 人もうらやむ幸福な家庭生活、幸せな主婦。しかしどこか変。騙されているのではないか。いったん気になり始めるとすべてのものが嘘くさく思えてくる。夫、子供たち、飼い猫まで、全員がグルになっている。パラノイア。寒々しく、とげとげしく、心を侵食してゆく家庭という罠に、トモ子は必死で気がつかないふりをする。しかし心の中では「どこまでも続く荒野で、大地の裂け目の前に強制的に並ばされている」のだった。


『藁の夫』
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 気づくと、太陽の下に干したタオルのように愛おしかった彼の匂いが、家畜に出される飼料の臭いに変わっていた。トモ子は立ち上がり、背を向けて横たわったままの中身のない夫を見下ろした。
 もう一人の自分が、どうしてこんなものと結婚したんだろうと頭の中で呟いた。どうして藁なんかと結婚して幸せだと喜んでいたんだろう。(中略)この体を何かで強く打ってみたら、本当に中身がからっぽなのか、確かめられるだろうか。その時、夫を見下ろしているトモ子の頭の中に、真っ赤に燃え上がる火のイメージが生々しく浮かび上がった。
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単行本p.165

 『トモ子のバウムクーヘン』では、家庭というものがバウムクーヘンのように中空であることに気づいたトモ子。だが、こちらのトモ子は中身が空っぽであることを承知の上で藁人形と結婚する。最初は満足できる生活だったが、やがて夫はささいなことでガキのようにスネて、モラハラに走る。これ、火をつけたら勢いよく燃え上がるかしら、だって藁なんだもの。他の夫は粗大ゴミ扱いするしかないのに、燃えるゴミとして処理できるところが藁の夫のいいところ。



タグ:本谷有希子

『ラグランジュ・ミッション』(ジェイムズ・L・キャンビアス、中原尚哉:翻訳) [読書(SF)]


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今回のミッションは最高にかっこよくやるのだ。意表をつき、巧妙で、大胆で、エレガントで、宇宙海賊キャプテン・ブラックは宇宙一の大悪党と万人を感服させるのだ。
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文庫版p.106


 地球と月の間にあるラグランジュ・ポイントL1。宇宙海賊キャプテン・ブラックの海賊機はそこで獲物を待ち構えていた。月面から打ち上げられた、貴重なヘリウム3を満載した貨物ユニットを強奪するのだ。今回のミッションも楽勝のはずだったが……。2030年という近未来を舞台に宇宙海賊が活躍する波瀾万丈のテクノスリラー活劇長篇。文庫版(早川書房)出版は2016年2月、Kindle版配信は2016年2月です。


 宇宙海賊。何とも古めかしい響きですが、これを近未来の軌道上で実行するというのが本書のキモ。もちろん有人宇宙船で乗り込み戦闘するわけではなく、すべて地上からの遠隔操作とハッキングでターゲットを「乗っ取り」、軌道を変更して、仲間が待ち構えている海域に着水させ貨物を強奪するというわけです。宇宙海賊といっても、実際にはホテルの一室に閉じ籠もってやる地味なお仕事。


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キャプテン・ブラックは完全戦闘装備に着替えた。すなわちパンツ一丁でVRゴーグルをかけ、コンピュータがハンドジェスチャを認識しやすい白いグローブをはめて、ホテルの部屋のベッドにすわって枕によりかかった。(中略)ゴーグルのなかでは甲板で剣を振りまわす白兵戦がはじまった。デビッドが書いた解読ソフトウェアが、ヘリウム貨物のデータ保護システムと戦っているのだ。デビッドの肉体ははるか遠くのベッドにすわっているが、精神はL1で活動していた。
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文庫版p.8、20


 黙って静かにやればいいのに、わざわざ「キャプテン・ブラック」と名乗ってネットで自分の戦果を吹聴したり挑発したりするデビッド。傲慢で、世の中を見下し、他人を操るのが大好き。典型的な「知能指数が高いサイコパス」のクソ野郎です。


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「モラルってのは人々が同意したルール集にすぎない。おれはそのルールブックに同意しない」
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文庫版p.44


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デビッドは不道徳で利己的で、不正行為ばかりの悪党だが、ばかを嫌う。人々が合理的であれば、デビッドはチェスのプレイヤーのように彼らを正確に動かすことができる。しかし人々が非合理的で愚かだと、デビッドはその行動を予測できず、苛々しはじめるのだ。
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文庫版p.311


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「おれの目標はなにかって? 宇宙一の大悪党になることさ!」
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文庫版p.54


 宇宙一の大悪党に、おれはなる!

 最初はただのクソ野郎に思えるデビッドですが、何しろ他の登場人物も多くがイカれたクズなので、読み進むにつれて段々とこいつがイカしたクズ野郎に思えてきます。最後には、行け行け宇宙海賊キャプテン・ブラック、クールなクズ野郎。

 一方、キャプテン・ブラックの野望を叩き潰すべく立ちあがった宿敵。かつてのデビッドの恋人にして今や空軍大尉として軌道上の治安を守る仕事についているエリザベス。走る爆弾娘。上官も扱いに困るほどの事故物件。


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「だめだ。大尉……いや、リズ、きみは優秀な士官だが、好戦的すぎる。このプロジェクトの最終的な目標は法の執行なのだ。起訴するための証拠集めであって、宇宙での銃撃戦ではない」
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文庫版p.25


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「くそったれのキャプテン・ブラック! まだ終わってないわよ! 地獄の底から這い上がってあんたを串刺しにしてやる!」
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文庫版p.27


 軍から追い出された彼女は、個人的にキャプテン・ブラックを倒すべくローンチ開始。誰にも制御できないロケットブースター。しかも切り離し不能。


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「そもそも最後の一線はもう越えているわ。あとは刑務所暮らしが長くなるか短くすむかのちがいだけ。空軍からは除隊させられた。理由は攻撃的すぎるから。そのうえたぶんアル中で、二カ月セックスしてなくて、いまは感情的に混乱し、強烈なストレスにさらされ、そして生理前。いつでも引き金を引くわよ!」
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文庫版p.344


 一方こちらは、雇い主に裏切られ、消されそうになって必死に逃げ回るデビッド。それを追う殺し屋とFBI捜査官。飛び交う銃弾、ばんばん殺られる脇役。その頃、軌道上では前代未聞のテロ計画が進行していた。止められるのはキャプテン・ブラック、ただ一人。

 FBI、地元警察、軍、殺し屋、テロ組織、ぜーんぶまとめて敵に回して暴走するエリザベス。やむなく協力するはめになるデビッド。迫るタイムリミット。四面楚歌のなか、どうやって軌道上の衛星にアクセスするのか。さらに敵のコントロール下にある宇宙機をどうやって無力化するのか。

 「エリザベス、ここまでだ。武器を捨てて投降しろ!」ぶちやぶられるドア。


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 デビッドは周囲の騒ぎをまったく無視していた。(中略)精神は宇宙の静寂と星々の輝きに満たされたラグランジュ・ポイントにある。専用インタフェースがなくても、画面上の数字を脳裏で映像におきかえられた。貨物はもう目のまえにある。しかしそこまでいく燃料がない。
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文庫版p.396


 目まぐるしく変わるテレメトリデータ。宇宙空間で激しく争う二人のハッカー。はたして間に合うのか。ラグランジュ・ポイントの彼方、ついに宇宙海賊キャプテン・ブラックの最終ミッションが始まる……。


 というわけで、『オービタル・クラウド』(藤井太洋)をもっと活劇中心にしたような、軌道上テクノスリラーです。登場人物たちのイカれ具合も楽しく、地上、海上、軌道上で進行するアクションシーンには手に汗握る緊迫感があります。期待通りの展開と予想外の展開の混ぜ方が見事、伏線の張り方も巧みで、最後まで楽しめました。