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『貞久秀紀詩集』(貞久秀紀) [読書(小説・詩)]


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 ある文によって暗示されることがらがすでにその文に明示されている――そのような文があるだろうか。ゆれている枝によってよびおこされるものが、ほかでもないそのゆれている枝であるように。
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『明示法について』より


 知覚対象ではなく知覚体験をそのまま表現するにはどうすればいいだろうか。意表をつく技法により知的眩暈を引き起こす詩集。単行本(思潮社)出版は2015年4月です。


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 壁のしみがいろいろにみえてくるのと同じく、ひとつ同じものとしてそこにうごかずにある図形が、見え方としては六角形から立方体へ、立方体から六角形へと動くのは、目は一カ所をみていながらたえず目移りがしているかのようで、うごかないもののなかにうごきを生み出す知覚の複雑なはたらきが感じられる。
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『うごきうごかぬもの』より


 『リアル日和』『空気集め』『石はどこから人であるか』『明示と暗示』の四冊を全篇収録、さらに『ここからここへ』と『昼のふくらみ』からの抜粋、詩論、などを収録した一冊です。

 「目の前に明示されているものが、そこから暗示される何かをへてようやくその明示されているものそのものであることがわかるという遠まわりな体験により、生き生きとした停滞の体験を記述する」(『明示法について』より)という試み。それはいったいどういうことなのか。

 まずは読んでみましょう。


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 いつかみた夢に、

「この括弧内の文には何が書かれてあるか、それを説明してみよ」

 という文があらわれて、それをわたしが夢でみずから述べ、書きとり、説明しようとして、
「いまここに書きとられたこの文には何が書かれてあるか、それをわかりやすく述べてみよとこの文には書かれてある」
 といい表した。
 それは説明のつもりでいて、原文に明らかに示されてあることのおよそのくり返しにほかならず、
 きょう、この夢を思いおこし、夢とおなじふるまいで窓辺の机にすわってこの文を述べ、書きとり、説明しなおしていると、おなじくり返しでしなおされており、この窓からは、やはりむこうの丘にあたり一面をもつ木がながめられて、その場で風にゆれた。
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『演習』より全文引用


 個人的な話で恐縮ですが、幼い頃は「この文は偽である」という記述のありかたに面白みを感じていたのに、歳をとってくると「この文は真である」という記述の方に、むしろ、何ていうんだろうか、寂しさというか、抒情のようなものを感じてしまう謎の錯覚。

 この世のあらゆることは象徴でも暗示でもなく結局のところそれ自体でしかないという不思議に気づく瞬間が並んでいます。


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 この石はひとよりもまえからこの世にあり、ながめていてあきることがない。思いがわいてくるでもなく、
 みていてこの石でなしにみえることもない。
 ここに石としてひろがり、
 みえるもの、ふれうるものとしておおい隠されずにありながら、この石でないところではひろがらない。
 にもかかわらずあきない。そして、思いがわいてこない。
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『石のこの世』より全文引用


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 横木としてさしわたすにはこの棒はやや長く、それだけで測ればやや五十二・三センチであるとわかるのに、わたしはこの日、なぜ古い梯子からひとつの家具を造るためにこの世にいて、与えられたこの木を正確に測ろうとしていたのだろう。
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『椅子』より全文引用


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 栗林から人があらわれ、その人から道が出ている。
 それは、私から出ている道とはべつでありながら、前方へ、目をうごかしてゆくにつれてふたつはひとつの道としてつながり、私はそのようなところで人とすれ違いながら、こんにちはと云っている。
 人にこんにちはと云うのは、自分のどこかにこんにちはというものがあり、それが、こんにちはと云ってくれとたのんでいるから、私はこんにちはと云っていた。
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『栗』より


 知覚体験そのものを正確に描写しようとするうちに、何やら、おかしさが際立ってきます。限りなく真面目で正直で明示的な描写から生まれる独特の滑稽さ。けっこう習慣性が強いので要注意です。


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帽子には中と外があり
中はせまく
外は
無限大に広かった
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『帽子』より


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この世はやはり、その、在りもしないもののまわりにふくらんでおり、そこにひとつ、風鈴がつるされてある。十一月なのに蜂が飛んでいる。飛んでいる蜂は転ばない。というふうに決めつけたり、蜂がいるくらいなのだから、風鈴があるのも仕方がない。と決めつけることはできない。
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『この世は黒子のまわりにある』より


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ときおり、私の中から、勉強があらわれてくることがあった。自転車に乗ることと畳に寝そべることの区別ができないために曖昧な乗り方をする友だちが、自転車に乗って遊びにきたとき、乗ることと寝そべることがそこでは同時に起きていることがありありとわかり、友だちがどこか遠くからやってきた不思議なもののように思われて、私にはそのとき、勉強がこみあげていた。
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『石の発育』より


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遠くから
竹林がさわさわしてきて
電燈はパッにかぎる。ほかはダメである
充足とはどんな足であるのか

つながりのないことを
並べてかんがえている
ふとんの中にはなぜ
手摺りがついていないのか
足元はどこから足元でなくなるのか
というようなことが
きりもなく
並び
竹林がさわさわしている
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『竹』より


 本質的に他人と共有できない知覚体験というものを、何とか他人にもつたわるように表現しようとすること、その試み自体が、どこか滑稽さおかしさを含んでいるのではないかしらん。こういう混乱によるおかしさは独特の味わいがあり、読み進むにつれて知的眩暈のようなものが引き起こされます。不思議な詩集です。



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