『短篇ベストコレクション 現代の小説2016』(日本文藝家協会:編) [読書(小説・詩)]
2015年に各小説誌に掲載された短篇から、日本文藝家協会が選んだ傑作を収録したアンソロジー。いわゆる中間小説を軸に、ミステリからハードSFまで幅広く収録されています。文庫版(徳間書店)出版は、2016年6月です。
[収録作品]
『さようなら、妻』(朝倉かすみ)
『分かれ道』(大沢在昌)
『成人式』(荻原浩)
『線路脇の家』(恩田陸)
『辺境の星で』(梶尾真治)
『おっぱいブルー』(神田茜)
『茶の痕跡』(北村薫)
『降るがいい』(佐々木譲)
『わが町の人びと』(高村薫)
『涙の成分比』(長岡弘樹)
『寿命』(新津きよみ)
『ヴァンテアン』(藤井太洋)
『持出禁止』(本城雅人)
『胡蝶』(三浦しをん)
『鞄の中』(宮木あや子)
『頼れるカーナビ』(両角長彦)
なお、収録作品のうち『ヴァンテアン』(藤井太洋)は『アステロイド・ツリーの彼方へ 年刊日本SF傑作選』にも収録されています。紹介はこちら。
2016年07月12日の日記
『アステロイド・ツリーの彼方へ 年刊日本SF傑作選』(大森望、日下三蔵、藤井太洋、宮内悠介、上田早夕里)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-07-12
その他、個人的に気に入った作品を紹介します。
『線路脇の家』(恩田陸)
――――
見通しの悪い住宅街では、歩いているうちに思わぬ場所に出ることがある。まさにこの時がそうだった。
へえ、こんなところに出るんだ。
そう思った私は、すぐそばに異様な気配を発するものがあることに気付いた。
なんだろう、これ。
私は顔を上げ、思わずハッとして立ち止まった。
そこには、あの家があったのだ。
「線路脇の家」が。
――――
文庫版p.134
出張で電車に乗るたびについつい見てしまう線路脇の家。その部屋の窓から、いつも三人の家族が見えるのだ。しかし、平日の昼間、同じ部屋に、同じ三人が、いつも同じ姿勢でいるのは変ではないだろうか……。ホラーなのかミステリなのか判然としないまま、エドワード・ホッパーの名画『線路わきの家』と、それにインスパイアされたという映画『サイコ』、その不穏なイメージが付きまとう印象深い短篇。
『茶の痕跡』(北村薫)
――――
「でも、警察もあきれたでしょうね。本の汚れで喧嘩だなんて」
「いやいや。愛書家の本への執着というのは侮れないぞ。火をつけたとか、人まで殺したなんて話は、他にもある」
――――
文庫版p.224
昭和初期、本に茶の染みがついたというささいなことで喧嘩になり、人死にが出る騒ぎになった、という話を聞いた語り手。後に父親にそのことを話すと、父親は事件の背後にある意外な動機と真相を推理してみせる。愛書家の心理を巧みに織り込んでなるほどと思わせる、日常ミステリ短篇。
『わが町の人びと』(高村薫)
――――
とまれ、そんなやり取りがある一方では、人間は何を成したかではなく何になったかだ、そうだ、俺は部長になった、俺は係長になった、わたしは母親になった、わたしはおばあちゃんになった、ぼくはヘルニアになったなどと、それぞれに得心する人びとがいて、お別れ会はしばし怪しげな自己肯定の充実感に包まれるが、まあ陰気よりはマシとしよう。土台、代議士秘書の挨拶自体が喪主のそれではないし、話の中身もどこに身が入っているのか分からない冷凍カニほどスカスカだが、腐ってもカニはカニ。生臭さは一昔前の自己啓発セミナーなど足下にも及ばない、まさに政治の世界のそれではある。
――――
文庫版p.267
どこにでもありそうな地方都市。どこの地方都市にもいそうな人々が集まって、いかにもありがちなイベントに参加している。新入りの住民がつぶやく。「この町の人びと――つまり皆さんのことですが、せいぜい十数人の劇団員が一人何役もこなして住民を演じているような感じというか――」(文庫版p.266)。
地方都市とその住民の、類型的というか無個性ぶりを風刺した作品ですが、語りの調子が素晴らしく、個人的には本書収録作品中で最もお気に入り。
『胡蝶』(三浦しをん)
――――
千夜太にとっての現実は、未千の夢の世界だ。では、世界が終るという千夜太の夢見も、未千にとっての現実にまでは影響しないのだろうか。それとも、未千の体を通して、未千にとっての現実にも侵食してくるのだろうか。
わからない。培ってきたはずの理性や常識がまるで通用しない世界は、いったいいつからはじまっていたのか。千夜太を妊娠したときか、高熱をきっかけに夢を見るようになったときか。祖母の夢の話を聞いていた子ども時代か。いや、未千も祖母も生まれるまえ、遠い遠い先祖がアフリカの大地で生まれたときから、夢の世界と現実は互いに影響しあい入れ子になって、地球も宇宙も神も人間もその狭間で生じた幻影のごときものにすぎないのかもしれない。
――――
文庫版p.480
予知夢、いやむしろ現実を侵食してくる夢を見る「夢見」の力を持つ女性が、夢のなかで妊娠・出産する。朝、目が覚めると子どもはいない。夜、眠りに落ちると、子育てという毎日。やがて、母よりも強い「夢見」の力を持つようになった子供は、繰り返し「世界が滅びる夢」を見るようになる。夢のなかの他人が見る予知夢は、何を侵食してゆくのだろう。数多く書かれてきた「夢と現実が逆転する話」のなかでも、忘れがたい強い印象を残す傑作。
『鞄の中』(宮木あや子)
――――
そのあとも何度か奈々はごめんなさいと繰り返した。美和子は娘の謝罪の言葉に胸を満たされたあと、振り返って再びベッドに戻った。そして再び大根の刺さったフォークを奈々の口の前に運んだ。
奈々の柔らかな唇が開き、白い歯が厚い大根に刺さる。んん、と小さな呻き声と共に奈々は大根を噛み切った。よく噛んで食べなさいよ、と言うと奈々は頷き、恐る恐るといった表情でそれを口の中で咀嚼した。何度もえずいて背中を震わせる奈々の口を美和子は手のひらで押さえ、嚥下させる。ほら、全部食べなさい。まだ残ってるわよ。奈々は両の目から涙を溢れさせ、大根に歯を立てる。愛しくてたまらなかった。
――――
文庫版p.533
娘の鞄の中身を周到に確認し、携帯の着信履歴を執拗にチェック。GPSを使って地図上で娘の行動を監視する。過保護を通り越してストーカーまがいの行動に走る母親。愛情と一体化した支配欲の暴走。子供に対する精神的虐待を冷徹な筆致で描いて読者の肝を冷やすサイコホラーの逸品。
『頼れるカーナビ』(両角長彦)
――――
“やってください”
「ええっ!?」
“あの男は逃走のさまたげになります。排除しなければなりません”
「そんな!」
ポルシェが再びパッシングをしてきた。
“あなたが運転できなければ、私がかわりに運転しましょうか?” カーナビの声には、嘲りがまじっているように感じられた。彼はもう何が何だかわからなくなった。それと同時に、自分でも思いがけないほど強烈な暴力への衝動がわいた。彼は叫んだ。
「自分でやる!」
――――
文庫版p.547
カーナビの機能はどんどん向上。いまや自動運転機能はもとより、轢き逃げの際の逃走経路ナビ、目撃者始末アドバイス、捜査攪乱オプションまで、何でもサポート。頼れる相棒。だが、最後に運命を分けるのはドライバーの覚悟だ! ……いや、違うよね。
カーナビやスマホなどのデジタル機器にこき使われているうちに判断力を喪失してしまった現代人を鋭く風刺するユーモア短篇。
[収録作品]
『さようなら、妻』(朝倉かすみ)
『分かれ道』(大沢在昌)
『成人式』(荻原浩)
『線路脇の家』(恩田陸)
『辺境の星で』(梶尾真治)
『おっぱいブルー』(神田茜)
『茶の痕跡』(北村薫)
『降るがいい』(佐々木譲)
『わが町の人びと』(高村薫)
『涙の成分比』(長岡弘樹)
『寿命』(新津きよみ)
『ヴァンテアン』(藤井太洋)
『持出禁止』(本城雅人)
『胡蝶』(三浦しをん)
『鞄の中』(宮木あや子)
『頼れるカーナビ』(両角長彦)
なお、収録作品のうち『ヴァンテアン』(藤井太洋)は『アステロイド・ツリーの彼方へ 年刊日本SF傑作選』にも収録されています。紹介はこちら。
2016年07月12日の日記
『アステロイド・ツリーの彼方へ 年刊日本SF傑作選』(大森望、日下三蔵、藤井太洋、宮内悠介、上田早夕里)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-07-12
その他、個人的に気に入った作品を紹介します。
『線路脇の家』(恩田陸)
――――
見通しの悪い住宅街では、歩いているうちに思わぬ場所に出ることがある。まさにこの時がそうだった。
へえ、こんなところに出るんだ。
そう思った私は、すぐそばに異様な気配を発するものがあることに気付いた。
なんだろう、これ。
私は顔を上げ、思わずハッとして立ち止まった。
そこには、あの家があったのだ。
「線路脇の家」が。
――――
文庫版p.134
出張で電車に乗るたびについつい見てしまう線路脇の家。その部屋の窓から、いつも三人の家族が見えるのだ。しかし、平日の昼間、同じ部屋に、同じ三人が、いつも同じ姿勢でいるのは変ではないだろうか……。ホラーなのかミステリなのか判然としないまま、エドワード・ホッパーの名画『線路わきの家』と、それにインスパイアされたという映画『サイコ』、その不穏なイメージが付きまとう印象深い短篇。
『茶の痕跡』(北村薫)
――――
「でも、警察もあきれたでしょうね。本の汚れで喧嘩だなんて」
「いやいや。愛書家の本への執着というのは侮れないぞ。火をつけたとか、人まで殺したなんて話は、他にもある」
――――
文庫版p.224
昭和初期、本に茶の染みがついたというささいなことで喧嘩になり、人死にが出る騒ぎになった、という話を聞いた語り手。後に父親にそのことを話すと、父親は事件の背後にある意外な動機と真相を推理してみせる。愛書家の心理を巧みに織り込んでなるほどと思わせる、日常ミステリ短篇。
『わが町の人びと』(高村薫)
――――
とまれ、そんなやり取りがある一方では、人間は何を成したかではなく何になったかだ、そうだ、俺は部長になった、俺は係長になった、わたしは母親になった、わたしはおばあちゃんになった、ぼくはヘルニアになったなどと、それぞれに得心する人びとがいて、お別れ会はしばし怪しげな自己肯定の充実感に包まれるが、まあ陰気よりはマシとしよう。土台、代議士秘書の挨拶自体が喪主のそれではないし、話の中身もどこに身が入っているのか分からない冷凍カニほどスカスカだが、腐ってもカニはカニ。生臭さは一昔前の自己啓発セミナーなど足下にも及ばない、まさに政治の世界のそれではある。
――――
文庫版p.267
どこにでもありそうな地方都市。どこの地方都市にもいそうな人々が集まって、いかにもありがちなイベントに参加している。新入りの住民がつぶやく。「この町の人びと――つまり皆さんのことですが、せいぜい十数人の劇団員が一人何役もこなして住民を演じているような感じというか――」(文庫版p.266)。
地方都市とその住民の、類型的というか無個性ぶりを風刺した作品ですが、語りの調子が素晴らしく、個人的には本書収録作品中で最もお気に入り。
『胡蝶』(三浦しをん)
――――
千夜太にとっての現実は、未千の夢の世界だ。では、世界が終るという千夜太の夢見も、未千にとっての現実にまでは影響しないのだろうか。それとも、未千の体を通して、未千にとっての現実にも侵食してくるのだろうか。
わからない。培ってきたはずの理性や常識がまるで通用しない世界は、いったいいつからはじまっていたのか。千夜太を妊娠したときか、高熱をきっかけに夢を見るようになったときか。祖母の夢の話を聞いていた子ども時代か。いや、未千も祖母も生まれるまえ、遠い遠い先祖がアフリカの大地で生まれたときから、夢の世界と現実は互いに影響しあい入れ子になって、地球も宇宙も神も人間もその狭間で生じた幻影のごときものにすぎないのかもしれない。
――――
文庫版p.480
予知夢、いやむしろ現実を侵食してくる夢を見る「夢見」の力を持つ女性が、夢のなかで妊娠・出産する。朝、目が覚めると子どもはいない。夜、眠りに落ちると、子育てという毎日。やがて、母よりも強い「夢見」の力を持つようになった子供は、繰り返し「世界が滅びる夢」を見るようになる。夢のなかの他人が見る予知夢は、何を侵食してゆくのだろう。数多く書かれてきた「夢と現実が逆転する話」のなかでも、忘れがたい強い印象を残す傑作。
『鞄の中』(宮木あや子)
――――
そのあとも何度か奈々はごめんなさいと繰り返した。美和子は娘の謝罪の言葉に胸を満たされたあと、振り返って再びベッドに戻った。そして再び大根の刺さったフォークを奈々の口の前に運んだ。
奈々の柔らかな唇が開き、白い歯が厚い大根に刺さる。んん、と小さな呻き声と共に奈々は大根を噛み切った。よく噛んで食べなさいよ、と言うと奈々は頷き、恐る恐るといった表情でそれを口の中で咀嚼した。何度もえずいて背中を震わせる奈々の口を美和子は手のひらで押さえ、嚥下させる。ほら、全部食べなさい。まだ残ってるわよ。奈々は両の目から涙を溢れさせ、大根に歯を立てる。愛しくてたまらなかった。
――――
文庫版p.533
娘の鞄の中身を周到に確認し、携帯の着信履歴を執拗にチェック。GPSを使って地図上で娘の行動を監視する。過保護を通り越してストーカーまがいの行動に走る母親。愛情と一体化した支配欲の暴走。子供に対する精神的虐待を冷徹な筆致で描いて読者の肝を冷やすサイコホラーの逸品。
『頼れるカーナビ』(両角長彦)
――――
“やってください”
「ええっ!?」
“あの男は逃走のさまたげになります。排除しなければなりません”
「そんな!」
ポルシェが再びパッシングをしてきた。
“あなたが運転できなければ、私がかわりに運転しましょうか?” カーナビの声には、嘲りがまじっているように感じられた。彼はもう何が何だかわからなくなった。それと同時に、自分でも思いがけないほど強烈な暴力への衝動がわいた。彼は叫んだ。
「自分でやる!」
――――
文庫版p.547
カーナビの機能はどんどん向上。いまや自動運転機能はもとより、轢き逃げの際の逃走経路ナビ、目撃者始末アドバイス、捜査攪乱オプションまで、何でもサポート。頼れる相棒。だが、最後に運命を分けるのはドライバーの覚悟だ! ……いや、違うよね。
カーナビやスマホなどのデジタル機器にこき使われているうちに判断力を喪失してしまった現代人を鋭く風刺するユーモア短篇。
タグ:短篇ベストコレクション 両角長彦
『へんな星たち 天体物理学が挑んだ10の恒星』(鳴沢真也) [読書(サイエンス)]
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ブルーバックス・シリーズを手にされるような方は「宇宙」といえば、ダークマター、ブラックホール、ビッグバン、マルチバースといった、いかにも最先端をいくような話題を好まれるのかもしれません。恒星というと、夜空のどの星を見ても、明るさに違いはあってもどれも点。配列が変わるわけでもなく、どうにも地味――そんな感じを持たれているかもしれません。
「恒星なんてつまらない」
でも、そう思われている方にこそ、本書を読んでいただきたいのです。
――――
新書版p.14
ダークだブラックだと騒いでいるようではまだまだ子供、違いの分かる大人の話題はずばり「恒星」! 異星文明の仕業かと騒がれた恒星、10光年もの尾を生やした恒星、表面の半分以上が黒点に覆われている恒星、そして規格外の超巨大恒星。天文学者が厳選した個性派恒星を紹介する「へんな星」カタログ。新書版(講談社)出版は2016年6月、Kindle版配信は2016年6月です。
――――
この本は恒星の中でも、とくに変わったものたちに登場してもらいます。SF映画にも出てこない二つの円盤を持ち、しかも一つが反り返ってしまった星! 大気の組成がかなり異常!? 地球外知的生命のしわざか!? といわれた星! なんとなんと恒星のくせに10光年もの長いしっぽを生やした星! おまえは彗星か!? 墨を吐き出して姿をくらます、まるでタコな星! どんどん膨らんで一時は天王星(いや、ひょっとすると海王星)の軌道ほどにも大きくなったバケモノ星! 爆発したら人類が絶滅するかもしれない星? などなど、奇想天外な恒星たちのオンパレード。おおげさにいえば、星の数ほどもある恒星のなかから私が厳選した、10個の超・超変わり者の星たちです。
――――
新書版p.15
というわけで、他に類を見ない特徴を持った個性派恒星を10個紹介してくれる本です。解説を読み進むにつれて、天体物理学の基礎を知ることが出来るように工夫されている好著、なのですが。
前述の引用文を読んで頂くだけでも分かる通り、昭和のおじさんが若者にウケようとして無理やりテンション上げてはしゃいでいるような痛々しさが感じられる文章が、ちょっと……。目次を見るとその印象はますます強まってゆきます。
[目次]
「第1章 プレオネ イナバウアーする二重円盤」
「第2章 プシビルスキ星 宇宙人が核兵器を捨てたのか?」
「第3章 ミラ サプライズだらけの彗星もどき」
「第4章 かんむり座R星 初心者におすすめの宇宙ダコ」
「第5章 いっかくじゅう座V838星 すべてが規格外の美しき怪物」
「第6章 りゅうこつ座イータ星 「天の川No.1」を誇ったあの星はいま」
「第7章 WR104 本当は危険な宇宙の蚊取り線香」
「第8章 おうし座V773星 世界が追いかけた恋人たちの熱いキス」
「第9章 ケフェウス座VW星 ひょうたんは究極の愛のかたち」
「第10章 ぎょしゃ座イプシロン星 世界中で大激論!幽霊の正体を明かせ!」
「第2章 プシビルスキ星 宇宙人が核兵器を捨てたのか?」
――――
その後の研究で、プシビルスキ星のくわしい化学組成がわかってきました。鉄は太陽に存在する量の1割しかないのに、希土類は何千倍、何万倍もあるのです。とくにホルミウムという元素は、地球以外ではこの星で初めて見いだされ、なんと太陽の10万倍もあります。(中略)この異常な化学組成、いったいどう説明したらいいのでしょうか?
ここで出てきたのが、「地球外文明によるしわざではないか?」というたぐいの話です。
――――
新書版p.56
「異星文明が核廃棄物を恒星に廃棄した結果ではないか」という論文が発表され話題になった、あまりにも異常な化学組成の星。その謎解きに挑む天文学者たちの挑戦が紹介されます。
「第3章 ミラ サプライズだらけの彗星もどき」
――――
NASAの紫外線衛星GALEXが撮影したミラの姿です。そこには、なんとミラから長いしっぽが出ている様子が写っていたのです。まるで彗星ではないですか。超ド級衝撃。驚嘆。ミラ! ミラ!
しかし彗星は直径数Kmほどの氷のかたまりなので、ミラとは大きさも物理的な性質もまったく違います。なのに、撮影されたその姿は彗星にそっくりなのです。尾の長さは、約10光年にもなると書かれています。
――――
新書版p.87
最初に発見された脈動変光星、伴星のガス降着円盤、そして10光年ものびている尾。恒星ミラの謎と驚異に迫ります。
「第5章 いっかくじゅう座V838星 すべてが規格外の美しき怪物」
――――
V838の表面温度はついに2000度を下回り、核融合をしているものとしては、これまで観測されたなかで最も低温の星の一つになりました。
11月には、なんとそのサイズが6000太陽半径(約28天文単位)にもなったと考えている研究者もいます。これは太陽基準表面でいえば、な、な、なんと、海王星の軌道半径に相当します! バケモノ的大きさ、悪魔的巨大さです。まじかよ? と言いたくなります。
――――
新書版p.122
最大で太陽の100万倍という光を放った謎の爆発を起こして赤色超巨星となった星、通称「赤い新星」。この謎だけをテーマとした研究会が4日間も開催され、諸説入り乱れていまだ解決されていないという、V838をめぐる熱い論争を紹介します。
「第9章 ケフェウス座VW星 ひょうたんは究極の愛のかたち」
――――
だってこの星、主星も伴星も、黒点だらけじゃないですか! とくに主星のほうは、黒点で覆い尽くされています。星の表面全体に対して黒点が占める割合は、なんと、なんと、なんと! 伴星で55パーセント、主星はじつに66パーセントにもなるのです!
こういったものを、本当に黒「点」といえるのでしょうか? これは黒点というより「黒い大陸」です。
――――
新書版p.216
二重連星が互いに膨張することでくっついてしまった接触連星系。それがさらに膨張を続け、ついに誕生した「ひょっこりひょうたん星」(著者命名)、「かなり関係が進んだカップル」(著者形容)。巨大黒点に覆われた過剰接触連星系、その形状が判明するまでの観測と議論の歴史を紹介します。
タグ:その他(サイエンス)
『戦地の図書館 海を越えた一億四千万冊』(モリー・グプティル・マニング:著、松尾恭子:翻訳) [読書(教養)]
――――
本は武器であるという言葉は、決しておおげさな言葉ではないと思う。ヒトラーは無類の読書家だったそうだ。おそらく彼は、本の力をよく知っていたのだろう。だからこそ、一億冊もの本を燃やしたのではないか。そして、アメリカの図書館員や戦時図書審議会構成員もまた、本の力を知っていた。だからこそ、一億四千万冊もの本を戦場へ送ったのである。
――――
単行本p.257
第二次世界大戦で従軍したアメリカ軍兵士にとって、書籍は食料や弾薬と同じく重要な戦略物資だった。兵舎の中で、艦艇の上で、塹壕の底で、彼らは本を読んでいた。それはファシズムと戦うための「武器」だったのだ。世界中の戦場に送られた、兵士のための特製ペーパーバック「兵隊文庫」、その全貌を明らかにする感動の一冊。単行本(東京創元社)出版は2016年5月、Kindle版配信は2016年5月です。
――――
「この戦争の現時点での最強の武器は、飛行機でも爆弾でも凄まじい破壊力を持つ戦車でもない――『我が闘争』である。この一冊の本が、高い教養を備えた国民を焚書へと向かわせ、人の心を自由にしてくれる偉大な本を灰にした。アメリカが勝利と世界平和を目指すなら、私たち一人一人が、敵よりも多くのことを知り、敵よりも深く考えなければならない……この戦争には本が必要である……本は私たちの武器である」
――――
単行本p.97
――――
私たちは皆、本が燃えることを知っている――しかし、燃えても本の命は絶えないということも良く知っている。人間の命は絶えるが、本は永久に生き続ける。いかなる人間もいかなる力も、記憶を消すことはできない。いかなる人間もいかなる力も、思想を強制収容所に閉じ込めることはできない。いかなる人間もいかなる力も、あらゆる圧制に対する人間の果てしなき戦いとともにある本を、この世から抹殺できない。私たちは、この戦いにおける武器は本であることを知っている。
――――
単行本p.77
第二次世界大戦は、単に戦力の戦いだけではなく、思想の戦いでもありました。ファシズムvs自由主義、思想統一vs思想の多様性。一億冊もの本を焼き払ったナチスに対して、アメリカは一億四千万冊もの本を戦場に届け、兵士たちに読ませたのです。それは本と思想をめぐって争われたもう一つの世界大戦。そしてやはり物量作戦でした。
本書は、アメリカ軍が兵士たちに支給した「兵隊文庫」と呼ばれる特製ペーパーバックと、それを製作した戦時図書審議会の功績について書かれた一冊です。過酷な戦場で兵士たちを支え、戦後アメリカ社会に大きな影響を残した兵隊文庫。その知られざる歴史が明らかになります。
――――
ページの隅が折ってある。かび臭くて湿気でぐにゃぐにゃになった本を持って、兵士は前線へ向かう。この南西太平洋の戦場の思いもよらない場所で、兵士は本を読んでいる。なぜなら、それが兵隊文庫だからだ。なぜなら、尻ポケットにも肩掛け袋にも忍ばせておけるからだ。兵士はいつも兵隊文庫を持っている……ホーランディアの海岸堡を確保してから三日後、若い兵士たちは腹をすかしていた……非常用の携帯食しか食べていなかったから。恐ろしく暗鬱なホーランディアの沼地は泥深く、兵士は尻まで埋まった。でも、彼らには兵隊文庫があった。鹵獲した日本軍機を略奪されないように見張りながら、あるいは浜辺の基地のベッドの上で、あるいは食事の後でぶらぶら歩きながら、兵士は本を読んでいる。
――――
単行本p.124
――――
オマハ・ビーチへ最初に上陸した部隊は、壊滅の憂き目に遭った。隊員は揚陸艇のランプから浜へ出ようとしたところで、ドイツ軍の機銃掃射を浴び、不幸にも、あえない最期を遂げた。第一波上陸部隊の隊員の死亡率は、100パーセントに近い。(中略)怪我をして先へ進めなくなり、疲弊した体を砂の上に横たえ、衛生兵が来るのを待った。同じ日に遅れて上陸した隊員の多くが、印象深い光景を目にしている。重傷を負った隊員たちが、崖のすそに体をもたせかけて、本を読んでいたのだ。
――――
単行本p.140
兵士に愛され、彼らを支え、彼らを変えた「兵隊文庫」。それはどのようにして生まれ、どのような成果を挙げたのでしょうか。全体は11の章から構成されています。
「第1章 蘇る不死鳥」
――――
この部隊は、東ヨーロッパの375の公文書館、402の博物館、531の施設、957の図書館を焼き尽くしている。チェコスロバキアとポーランドではそれぞれの国が有する書籍の半分を、ロシアでは5500万の書籍を処分したと言われている。支配された地域の図書館は、閉鎖を免れても、ナチスの計画の実現に奴立つように改変された。
――――
単行本p.33
最初の章は、ナチスの蛮行のうち特に焚書に焦点を当て、それがどれほどの破壊行為だったのかを明らかにします。
「第2章 八十五ドルの服はあれど、パジャマはなし」
――――
陸軍と海軍の兵士に書籍が供給されたのは、第二次世界大戦の時だけではない。しかし、第二次世界大戦の時のように極めて多くの書籍が供給された例は後にも先にもない。
――――
単行本p.47
「第3章 雪崩れ込む書籍」
――――
もっと多くの書籍が必要だった。海外の戦地へ向かう兵士に、訓練基地の書籍を持っていくように勧めていたため、訓練基地のものは減る一方だった。任務に向かう海軍の艦艇にも、寄付されたものが何千冊も積み込まれた。埠頭では、書籍を入れた箱がずらりと並ぶ光景が良く見られるようになった。(中略)膨大な量の書籍が兵士とともに海を渡るため、膨大な量の書籍を集めて補充しなければならなかった。
――――
単行本p.75
大きな反響を生んだ図書の寄付運動。しかし、それだけでは限界がありました。より効率的で、より戦略的な、新しい書籍供給プロジェクトが必要とされた背景を明らかにします。
「第4章 思想戦における新たな武器」
――――
寄付される書籍の数には限界があり、役に立たないものも多かった。そのため、厳選した作品を兵士のために出版するという大々的な取り組みが始まっていた。(中略)書籍は求められていた――ただし、ハードカバーではないものが。陸海軍が必要としたのは、携行に便利な小さくて軽い書籍だった。
――――
単行本p.91、
「第5章 一冊掴め、ジョー。そして前へ進め」
――――
兵隊文庫は、アメリカで大量生産されたペーパーバックの中で、最も小さいペーパーバックだ。戦時図書審議会は、アイデアを考え付き、それから七か月の間に「計画を立て、準備を整え、効果的に実行した」。契約書を作成し、署名し、契約を履行した。兵隊文庫を製作し、兵士に届けた。
このプロジェクトは、すばらしい協力態勢の下で進められた、戦時の製作プロジェクトとして、歴史に残るべきものである。
――――
単行本p.119
多くの人々の尽力により、ついに実現した兵隊文庫。本を、それも良書を、前線に送る。ただそのために、どれほどの努力が払われたのかが示されます。最終的に1200もの作品を厳選して収録することになる兵隊文庫。乏しくなる紙資源、膨れあがるコスト。次から次へとあらわれる難題に立ち向かう図書館員たち、戦場に届いた本を争って読む兵士。本に対する敬意に涙を禁じ得ないエピソードが続出します。
「第6章 根性、意気、大きな勇気」
――――
軍が上陸作戦に関する情報を秘匿したため、戦時図書審議会は、集結地に兵隊文庫を送るという特別業務部の計画を知らなかった。(中略)委員の中には、兵隊文庫がそれほど関心を持たれていないのではないかと心配する者もいた。しかし、近く実行に移されるノルマンディ上陸作戦に向けて集結地から船に乗る兵士のために、軍が大量の兵隊文庫を取っておいているのだということを後で知り、委員は安心した。軍は、兵隊文庫を極めて重視していたのだ。
――――
単行本p.134
「第7章 砂漠に降る雨」
――――
世界各地から届いた手紙により、兵隊文庫が、戦時図書審議会の期待通りの役割を果たしていることが明らかになった。兵隊文庫によって、兵士は退屈を紛らし、元気になり、笑い、希望を持ち、現実から逃れることができた。(中略)兵隊文庫がぼろぼろになっても、兵士は大事にした。「僕たちは、おばあちゃんを打つことなどできません。それと同じように、兵隊文庫をごみ箱に捨てることなどできないのです」
――――
単行本p.175
戦略物資として優先的に取り扱われた本。アメリカ軍がどれほど本の配給を重視していたかが書かれるとともに、戦場から寄せられた手紙の数々により、兵士にとって本がどれほど大切なものだったかが分かります。
「第8章 検閲とフランクリン・デラノ・ルーズヴェルトの四期目」
――――
1944年の夏、兵隊文庫を称賛する声が続々と寄せられていた。その一方で、戦時図書審議会はひとつの戦い――検閲との戦いに直面していた。(中略)これは、戦時図書審議会が成し遂げた、最大級の功績のひとつである。
――――
単行本p.178、196
兵士たちが本とともに前線で戦っていたとき、銃後でも戦いが繰り広げられていました。アメリカの社会問題を告発する本、性的な内容を含む本、戦争遂行にとって望ましくないと判断された本を、兵隊文庫に入れさせまいとする政府の圧力。検閲法との戦い。図書館戦争。戦時図書審議会もまた国内に広がるファシズムに立ち向かい、一歩も引かず勇敢に戦い、そして勝利したのでした。
「第9章 ドイツの降伏と神に見捨てられた島々」
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太平洋戦線への派遣に対する不満が兵士の間に広がると、陸海軍は、戦時図書審議会に助けを求めた。甚だしい士気の低下を確実に防げるのは、兵隊文庫しかなかった。(中略)兵隊文庫は世界の隅々まで届けられており、兵士はそれを大事にしていた。そして、ほうぼうから不満の声が上がっていた。「まだ、本が全然足りない」
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単行本p.212、213
ついに降伏したドイツ。だが兵士の多くは帰国がかなわず、そのまま太平洋戦線に投入されることに。そこは、緑の地獄。降伏よりも死を選ぶ日本軍との「無益極まりない」戦いと、過酷で無意味な犠牲。そこで兵士たちの心を支えたのは兵隊文庫でした。アメリカ軍兵士たちは、あのとき、読書をしていたのです。
「第10章 平和の訪れ」
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1947年9月、陸海軍に最後の兵隊文庫が届けられ、兵隊文庫プロジェクトは終了した。(中略)兵士は、兵隊文庫から深く影響を受け、その影響はいつまでも残り続けた。故郷に戻った時、多くの兵士が、出征した頃とは変わっていた。読書を愛するようになっていたのだ。
戦後、政府は、復員兵の社会復帰を支援するが、その時にも、書籍が兵士を支える力になる。
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単行本p.232、233
「第11章 平均点を上げる忌々しい奴ら」
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1947年から1948年には、アメリカの単科大学の学生の50パーセントを復員兵が占めている。また、単科大学と総合大学の学生の数が過去最高に達している。当初、一部の批評家は、復員兵は学問や読書に興味がなく、すぐに就職するだろうと考えていた。しかし、多くの復員兵が進学し、真面目な成人学生だと評価されるようになった。復員兵はきちんと授業に出席し、几帳面にノートを取り、一生懸命勉強し、トップクラスの成績を収めた。一般の学生は、復員兵が自分のクラスに入ってくるのを嫌がるようになるが、それは、復員兵が優秀で、平均点を上げたからだ。(中略)戦勝図書運動と戦時図書審議会の活動によって、兵士は本を読み、学ぶようになった。そのことが、戦後の兵士の人生を豊かなものにした。
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単行本p.242、245
戦場における心だけでなく、戦後の生活をも支えた兵隊文庫。読書習慣を身につけることで、どれほど人生が豊かになるかを、復員兵たちは示してみせたのです。これこそ真の勝利というものではないでしょうか。
というわけで、本に対する敬意に満ちた歴史書です。読書好きなら、きっと誰もが深い感動を覚えるはず。砲弾の雨が降り注ぐなか、塹壕の底で泥水につかりながら、命がけで本を読む。そのような真剣さで読書したことが自分にはあるだろうか。自らの読書姿勢を正したくなる、そんな一冊です。
タグ:その他(教養)
『プラスマイナス 158号』 [その他]
『プラスマイナス』は、詩、短歌、小説、旅行記、身辺雑記など様々な文章を掲載する文芸同人誌です。配偶者が編集メンバーの一人ということで、宣伝を兼ねてご紹介いたします。
[プラスマイナス158号 目次]
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巻頭詩 『鬱の薄墨を蹴って』(深雪)、イラスト(D.Zon)
短歌 『汗を拭く』(島野律子)
詩 『水に近く』(島野律子)
詩 深雪とコラボ 『洗濯シンパシー』(深雪&みか)
詩 『初夏の軌跡』(島野律子)
詩 『勲章』(多亜若)
詩 『夏前の川まで』(島野律子)
小説 『一坪菜園生活 41』(山崎純)
随筆 『香港映画は面白いぞ 158』(やましたみか)
イラストエッセイ 『脇道の話 97』(D.Zon)
編集後記
「あこがれのひと」 その3 深雪
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盛りだくさんで定価300円の『プラスマイナス』、お問い合わせは以下のページにどうぞ。
目黒川には鯰が
http://shimanoritsuko.blog.so-net.ne.jp/
[プラスマイナス158号 目次]
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短歌 『汗を拭く』(島野律子)
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詩 深雪とコラボ 『洗濯シンパシー』(深雪&みか)
詩 『初夏の軌跡』(島野律子)
詩 『勲章』(多亜若)
詩 『夏前の川まで』(島野律子)
小説 『一坪菜園生活 41』(山崎純)
随筆 『香港映画は面白いぞ 158』(やましたみか)
イラストエッセイ 『脇道の話 97』(D.Zon)
編集後記
「あこがれのひと」 その3 深雪
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盛りだくさんで定価300円の『プラスマイナス』、お問い合わせは以下のページにどうぞ。
目黒川には鯰が
http://shimanoritsuko.blog.so-net.ne.jp/
タグ:同人誌
『重力波は歌う アインシュタイン最後の宿題に挑んだ科学者たち』(ジャンナ ・レヴィン:著、田沢恭子・松井信彦:翻訳) [読書(サイエンス)]
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三人が研究に励んだ「闇の中を探しまわる年月」は、三人の誰も想像すらしなかったほど長期に及んだ。三人とも、崇高な――「一点の曇りもない理解」への突破口が開かれる――瞬間を一目見ようと努力を続けた。だが、汚点やその他もろもろが、ウェーバーの件が、どうしても付いて回った。三人はわなにはまっていた。グループ間の競争は彼らを駆り立てる一方だった。三人とも引き返せなかった。この山登りの視界は頂上に向けてしか開けていなかった。(中略)この頂へ向かう途上で、私たちはウェーバーを失い、ロン・ドレーヴァーも失ったに等しい。それでもなお、頂上を目指す者は増えていく。落伍者には目もくれず、ほかの者がその穴を埋めて、山登りは続く。探索が止むことはない。山を登る者たちは歩みを速め、衝突の音をとらえようと突き進んでいく。
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単行本p.104、144
14億光年かなたで衝突した太陽質量の29倍と36倍のブラックホール。レーザー干渉計重力波観測所「LIGO」は、そのとき放出された時空のさざなみ=重力波を検出したと発表した。奇しくもアインシュタインが重力波の存在を予言してからちょうど100周年だった。
陽子直径の1万分の1という極微のゆらぎを検知するLIGOの着想から完成に至るまでの困難を生々しく描いたサイエンス本。単行本(早川書房)出版は2016年6月、Kindle版配信は2016年6月です。
世界を駆け抜けた「重力波の検出に成功」というニュースの背後で、どのようなドラマが展開されていたのかを描いた一冊です。それは想像を絶するような艱難辛苦の道のりでした。例えば、予算獲得とか。
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財団から資金拠出の勧告が出されたことによって、議会の承認を目指す長い闘いが始まった。一部の議員はLIGOを攻撃の標的とした。ヴォートによると、このプロジェクト(そしておそらく科学全般)が資金の無駄遣いだと思っていたからだ。
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単行本p.171
そして設置場所をめぐる政治闘争。
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この方針転換はひとえに政治的なものだった。共和党政権が、上院の多数党院内総務を務める民主党のミッチェルを困らせてやろうと決めたのだ。メイン州のために尽力したヴォートだったが、議会で味方となってくれたミッチェルを失った。議会はまだ建設費の支出を承認していなかった。議会の基準では、金額自体は大したものではなく、国の予算全体からすればわずかな支出だった。金額よりも測りにくいが大事なのは、政治的な価値だった。
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単行本p.178
科学者である著者が政治家をどのように思っているかがよく分かります。ようやく政治の話が片づいて建設が始まってからも、トラブルは続きます。何しろ、そこはアメリカ。
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「ヨーロッパ人の目に、アメリカ人はどうかしていると映っていることでしょう。なにしろアメリカらしい事件が起こってますからね。片方の観測所ではピックアップトラックがアームのトンネルに激突し、もう片方では銃弾が撃ち込まれる。これでハンバーガーが絡む事件でも起これば完璧です」
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単行本p.225
LIGOを破壊しかねない脅威はピックアップトラックや銃弾やハンバーガーだけではありませんでした。獰猛な肉食魚やワニやクモの侵入、森の伐採による大振動、キリスト教原理主義者による反対運動、ありとあらゆる妨害がLIGOを、そこで働く人々を、そして内部の極限真空状態を、脅かしたのです。
しかし、最大の困難さは人間関係にありました。LIGOに関わった人々がお互いについて語っている言葉を並べてみるだけで、このプロジェクトの成功には奇跡が必要だったということがしみじみと分かります。
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「私は役職に就くと必ず、自分の上の役職者がバカだと感じ、最も重要な任務を負っているのは自分だと思わずにはいられませんでした。出世のはしごを上がっていっても、いつも私の上にはバカがいました」
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単行本p.182
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「ロビーほど洞察力と創造力に富んだ者はいなかった。彼ほど問題解決に秀でた者もいなかった。そして、彼ほど問題を起こすことに長けた者もいなかった」
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単行本p.170
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「人に対して理不尽な憎悪を抱きかねない男で、しかも自分の軽侮の対象がまさに軽侮に値するとほかの人たちに信じ込ませるのがとてもうまいのです。私は過去の経験からそれを知っていました」
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単行本p.205
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「彼は基本的に私のアイデアには何でも反対でした。この話に無理やり割り込んできて別なやり方を試して実行したがっているような感じで……もう一つ不愉快だったのは、合同ミーティングの場で、物事を進めるための派手な計画やら何やらを日程とかも含めてぶちまけるので、私は、なんと言うか、彼が仕切ろうとしているように感じました。ですが、機能していた技術は私たちが開発したものでした。そして、そのもとがどれも私のアイデアだったことが特に気に入りませんでした」
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単行本p.115
激しい嫉妬、競争意識、敵意、憎悪、極限のプレッシャー。絶え間ない諍いは、ついに衝突に発展し、主要研究者の一人が「追放」されるに至ります。
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「誰もこの話を蒸し返したがりません。残念ながら、それが今では公式な記録に残されています。しかし、あなたの本にまで書かなくてもよいのではないでしょうか」
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単行本p.215
関係者の肉声があまりにも生々しく、読んでいて衝撃を受けます。「あなたの本にまで書かなくてもよいのではないでしょうか」と言われながら平気で書いてしまう著者も大したもの。「科学者たちを理想化することなく、欠点も含めて人間として描いている」と評されるサイエンス本は多いのですが、ここまでえげつなく赤裸々に内幕を暴露したものは少ないだろうと。
しかし、あらゆる困難を乗り越えて、レーザー干渉計重力波観測所「LIGO」はついに完成します。
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こうしたごく初期から出発して、各グループが長年にわたって労力を注ぎ込むうちに、干渉計は複雑さを増していった。私は今回ラボを訪れるまで、どこぞの干渉計の簡素な図面しか見たことがなかった。だが、実物と図面は、本物の人体と人形の絵文字くらい違う。実物は長年にわたる研究、飛躍的な進歩、試行錯誤、大量の地道な作業の末に、現実の物体として姿を現したものだ。
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単行本p.99
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「アイデアを出すことと実際に手を付けることは大違いですから。別物なんです。若い人たちがアイデアを思い付き、どこかで発表して、自分のものにしたあと、その実現のために自分では指一本動かさないのを目にすると本当に腹立たしくなります。彼らは苦労して最後まで見届けたわけではありません。称えられるべきは、そして発表すべきは、そのアイデアを実現した人たちですよ」
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単行本p.97
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改良型LIGOが設置され、較正され、運用が始まるのを誰もが待ち望んでいた。その目標期限を懐古と感傷と切りのいい10の倍数が際立たせる。アインシュタインが重力波に関する論文を発表して100周年となる2016年のことだ。
ワイスはこう語った。「2016年までに検出を達成するには働き続けなければなりません。これはとりわけ重要なことだと思います。そういう年になってほしいですからね。そんな100周年を迎えたい。呪文のように唱えています。アインシュタインの論文100周年までに検出しなければ、とね」
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単行本p.235
本文はこうして終るのですが、エピローグで最新情報が語られます。何と観測をはじめた途端に重力波が飛び込んできたのです。これまでの不遇を埋め合わせるような幸運、と言いたいところですが、おそらく私たちの宇宙は巨大ブラックホール同士の衝突といった重力波源に満ちあふれているのでしょう。
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数十億年前、二つの大きな恒星が互いのまわりを回りながら存在していた。まわりに惑星があっかもしれないが、この連星系は惑星を宿すには不安定すぎていたかもしれないし、組成が単純すぎていたかもしれない。やがて片方が死に、次いでもう片方が死んで、ブラックホールが二つできた。そして漆黒の中、おそらく10億年単位の時間、互いのまわりを回っているうち、最後の200ミリ秒で衝突・合体し、その二つに出せる最大の重力波を宇宙空間に放った。
その音は14億光年のかなたからこちらへやってきた。14億光年のかなたからだ。
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単行本p.264
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この衝突が私たちに送ってきたのは、人類がこれまで検出してきたなかでビッグバン以来最も高エネルギーの単独事象であり、重力波としてのそのエネルギーは太陽の明るさの1000億倍の1兆倍分もあった。検出器は、太陽質量の29倍のブラックホールと36倍のブラックホールからなるペアによる最後の4周回を捉えていた。わずか数百キロしか離れていなかったこの二つは、光速にかなり近い速さで互いのまわりを回っていた。相手に向かって互いに落ち込んでいくとき、二つがあまりに近づいたことから、事象の地平線が歪んで衝突・合体し、でこぼこが均され、リングダウンを経て、太陽質量の60倍を超えるおとなしいブラックホールになった。この最後の数周回から、衝突・リングダウンまでという、記録された信号の持続時間は200ミリ秒だった。干渉計が検出したのは長さ4キロのアームに生じた、陽子の幅の約1万分の1という変化で、これはソーンらが何十年も前に理論化したまさにその範囲内のずれだ。
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単行本p.261
「0.2秒」の間に二つのブラックホールが相互周回・衝突・合体し、「太陽の明るさの1000億倍の1兆倍分」のエネルギーが重力波となって放出され、それが「14億年」かけて地球に到達したまさにそのとき、稼働してわずか「2日目」の改良型LIGOがそれを「陽子の幅の約1万分の1という距離の変化」として検出した……。極大から極微まで、数字の極端さに目がくらみます。人類がこれをやってのけた、ということに感動を覚えます。
タグ:その他(サイエンス)