『ドクターぶたぶた』(矢崎存美) [読書(小説・詩)]
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高い技術が必要とされる手術だが、それでもこれだけ速い人は見たことがなかった。正確だが躊躇もなく、大胆に、だが的確に腫瘍を切除していく。
モニターだけ見ていると、ぬいぐるみがやっているとはとても思えない。しかし視線を下に落とすと、彼にとっては重そうというか、持ち上げるのすら無理そうな内視鏡のハンドルのレバーを巧みに操る山崎先生が。あの指すらないひづめのような手先で、どうしてこんなに繊細な手術ができるのか。(中略)彼はぬいぐるみである以外は本当に完璧だった。
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文庫版p.67
大人気「ぶたぶた」シリーズ最新作。今回の山崎ぶたぶた氏はお医者さん、それも外科医ですよ。ばりばり手術しますよ。でも、ぬいぐるみに手術される患者は心中とても穏やかではなく……。文庫版(光文社)出版は2016年7月です。
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さて、今回のぶたぶたに関しては、ついに――と思う方もいらっしゃるのではないかと。私としても「ついに!」ですよ。(中略)
とにかく、今まで何度か書こうと思いながら先延ばしにしてきたドクターぶたぶたの話をみなさまにお届けできることとなりました。
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文庫版p.211
見た目は可愛いぶたのぬいぐるみ、心は普通の中年男。山崎ぶたぶた氏に出会った人々に、ほんの少しの勇気と幸福が訪れる。「ぶたぶた」シリーズはそういうハートウォーミングな物語です。
ドクターぶたぶた。もし彼の姿をどこかで見かけたら、たぶん、そのときは彼はメスをにぎって奇跡を生みだしているはずである……。みたいな話を想像する読者も多いでしょうが、大丈夫、山崎先生は医師免許を持ってます。いや当然ですが。それと、ぶたぶたがメスを握る姿は想像しがたい、というか想像したくないなあ、と思っていたのですが、山崎医師の専門は内視鏡・腹腔鏡手術。なるほど、そうきたか。
どうせ手術中は意識ないし、すべて任せる他はないのだから、執刀医がぬいぐるみだろうと何だろうと同じこと。理屈ではそうなんですが、実際に「執刀医はぬいぐるみです」と説明された状況を想像してみて下さい。それはやはり躊躇するというか、葛藤があると思います。拒絶反応を示す患者がいるのも無理ない。でも、人間の医師なら信用できるのに、ぬいぐるみだと駄目だというのなら、それはなぜなのでしょうか。
全四篇(+ショートショート一篇)から構成される連作短篇集ですが、ほぼすべての話が前述のような葛藤をテーマにしています。悩む患者、決断する患者、あるいは拒絶されたときの山崎医師のストレス。様々な物語を通じて、読者は改めて考えることになります。私たちが「他者を信頼する」ということについて。
まあ、白衣に聴診器のぶたぶた、若い研修医たちをつき従えて教授回診するぶたぶた、バッティングセンターで吹っ飛ばされるぶたぶた(今作最大の見せ場、だと思う)、といった名シーンの数々を楽しめばいいんですけどね。
『窓際の人形劇』
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「あの……本当にこの……山崎先生が手術をなさるんでしょうか?」
おそらく誰でも訊くだろうことを言う。
「はい、わたしが行います」
「山崎先生はこの病院の内視鏡と腹腔鏡手術の八割を行っておりまして、ほぼ成功させています」
「ほぼ!」
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文庫版p.29
執刀医がぬいぐるみだと知って動揺する患者。しかし、写真を見て思い出した。以前、ケーキ店の窓際にいるのを見たことがある。ケーキ、美味しそうに食べてた。それだけのことでなぜか生まれてくる謎の信頼感。手術前は不安と葛藤と迷いでいっぱいだったのに、終ったとたん「はっきり言って期待はずれだった。だって、手術中の山崎先生を全然見られなかった!」(文庫版p.39)と思ってしまう、その心の動きの説得力。
『妄想の種』
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手洗い(?)をし全身手術着というか、布やシリコンやゴーグルなどにくるまれた山崎先生が入ってきた。
ち、ちっちゃ! 何これ、おくるみかよ、と心の中でツッコむ。ゴーグルの向こうの点目の凶暴なまでのかわいさに、桃香は悶絶しそうになった。写真撮りたい! SNSに載せたら、ものすごいことになりそう!
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文庫版p.65
新米看護師の立場から見た山崎医師の手術。関係者なら誰もが信頼する腕前。だが「そんな……ぬいぐるみに手術されるなんて……」と不安と動揺で泣き崩れる患者を安心させることが出来ない自分。ちょっと落ち込んだ彼女は、気分転換のためにうなぎ屋に向かう。そこでばったり山崎先生と出くわして……。「うなぎとバッティングセンターはけっこう鉄板だよ」(文庫版p.92)と語るぶたぶたのストレス解消法とは。患者に拒絶されると山崎ぶたぶたも落ち込むのだという、当たり前の事実に気付いてはっとする短篇。
『優しい人』
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今「怖い」と思うのは、またそれをくり返してしまうことだった。気持ちだけで行動したくない、でも割り切れない。正しく選択したとしても、それを信じられなかったら、やっぱり「失敗」だ。
自分の弱さがいやだった。誰かのせいにしたかった。あの病院をすすめた大叔母の、菜実子の話を聞いてくれない夫の、そして、ぬいぐるみなのに手術なんかする山崎医師のせいに。
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文庫版p.129
四年前、山崎医師の執刀を拒絶して別の病院に移った患者。再発して再び手術が必要になったとき、担当として割り当てられた執刀医は、あのときと同じぬいぐるみだった。また同じことをくり返すのか、でも別の道を選んでもやはり後悔するのではないか。心の中で増殖してゆく「後悔」という病巣を、はたして摘出できるのか。自らの決断と他者を信頼することをめぐる葛藤をえがく、連作の中核として全体を引き締める物語。
『恋かもしれない』
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あ、あれはぶたぶた先生が乗ってるんだ。
あまりにも遠くて、合図もできなかったが、今日もああやって田舎の道を走っていくんだ。
祖母は、こんなことを言っていた。
「ぶたぶた先生に会いたいと思っても、丈夫だと会えない。でも、その方がいいんだよね」
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文庫版p.196
田舎に住んでいる祖母の様子がおかしい。電話で「ぬいぐるみの医師が家にやってくる」などと口走る。認知症の初期症状ではないか。就活ストレスで胃を傷めていた大学生が、母に言われて様子を見に祖父母の家にやってくる。そこで胃痛発作を起こした彼は、山崎医師に胃カメラを飲まされるはめに。「癒しの化身という感じ」(文庫版p.169)という山崎医師が患者から厚く信頼されている理由は、手術の腕前でも、ぬいぐるみの外見でもないことを、しみじみと理解するのだった。
『祖母の決断』
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その黒い点目を見ているうちに、以前見たケーキ店の窓際を思い出した。
いや……いや、まさか。そんな偶然はないだろう。あったとしても、この状況は……あまりにもファンタジーだ。ありえない。別のぬいぐるみだ。
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文庫版p.207
エピローグ的に配置された「おまけのショートショート」。祖母の付き添いでやってきた主人公は、そこにいる医師が以前ケーキ屋の窓際で見かけたぬいぐるみにそっくりだということにショックを受ける。「ありえなさ」の基準が一瞬ぶっとんでしまう上の引用シーンに思わず笑ってしまいました。
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