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『蛸足ノート』(穂村弘) [読書(随筆)]

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「管轄が違うっていうのはありますよね。僕もこの前そう対応しました」と云ったのは役所務めの男性だ。「どんな案件だったんですか」と尋ねたら、「『隣の家のおじさんが目から赤いビームを出して私の掃除機を壊したから取り締まって欲しい』という希望だったんです」とのこと。
 その場の全員が「ほう」と声を漏らした。現実って凄いな、という気持ちである。
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「ごらん、窓の外を」より


「世界中の人間がみんな私じゃなくて、本当によかった」
「何にも持たず、布団を着ていた頃、私たちは無敵だった」
「自分は何かの間違いで地球に生まれてきてしまったのかもしれない。遠い故郷の星では、人々は今日もアイスモナカを一口齧っては、大事に冷凍庫にしまっているのだ」

 歌人の穂村弘さんによる最新エッセイ集。新聞連載のため一篇が見開き2ページという短いフォーマットでたくさん詰め込んであります。単行本(中央公論新社)出版は2023年11月。


 いつも通り面白いのですが、今回は新聞連載ということもあっておそらく締め切りが厳しかったのか、それにしても歳をとった(思い出話まえふり)というパターンが多いような気がします。私も同い年なので、その気持ちはよく分かる。




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 牛乳の蓋開け器って、○の中に針で合ってるよな。「私の詩集を買って下さい」少女は大きな駅に立ってたよな。インターネットで調べるのは簡単だけど、なんとなく不安だ。もし全くヒットしなかったらどうしよう。
 以前そういうことがあったのだ。ところてんを箸一本で食べるという子ども時代の実家の風習を調べようと思い立った時、検索しても何も出てこなかった。私は動揺した。
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「ぎりぎりの記憶」より




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 子ども時代は一日がとんでもなく長く、その味も濃かった。大人になった今もあんな感覚で日々を過ごしたい、と思うことがしばしばある。でも、今回の件で、それは無理だと思い知った。当時と今とでは、なんというか、世界と自分の命との距離感が違う。子どもの頃は世界という舞台の真ん中で生きていた。それに較べると、今は目の前の世界がなんだか遠い。観客席に座ってるみたいだ。
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「「アタリ」が出た」より




 もちろん短歌の引用というか評論がさりげなくが含まれているエッセイも多く、短歌の読み方を知るうえでも役に立ちます。




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「体力が落ちたなあ」と友だちが云った。うんうんと私は頷く。ところが、その続きの彼の台詞はこうだった。「若い頃は朝まで遊んで、そのまま会社に行ったもんだけどなあ」
 今度は頷けない。どんなに若い頃だって、私にはそんなことは無理だった。

 土曜日も遊ぶ日曜日も遊ぶおとなは遊ぶと疲れるらしいね    平岡あみ

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「みんな体力あるんだね」より




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 居場所などない夏休み図書館に行くことだけにささげた素足     東こころ

 夏休みの「素足」が似合うのは、例えばきらきらした海辺の灼けた砂浜だろう。でも、作中の〈私〉は、そんな青春とは無縁なのだ。毎日、ただ近所の図書館に通っていた。
 この歌を初めて見た時、自分だけじゃないんだ、と思ってほっとした。「ささげた」という言葉の虚しさが美しい。
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「何もない夏が過ぎてゆく」より





タグ:穂村弘
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