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『国歌を作った男』(宮内悠介) [読書(小説・詩)]

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 自分が半端者だという意識が常にある。だから変わりたくて、短編ごとにいろいろな工夫をやっている。でも今回、七年くらいにわたって散発的に書いたミステリやらSFやら純文やらを眺めてみて、「あんまり変わってないな」という印象を受けた。
 三つ子の魂なんとやら、というやつだろうか。
 それとも、ぼくが自覚していないだけで、少しずつ上達しているのか。できればそうあってほしい。これからも、たくさん小説を書いていきたいので。
――――
「あとがき」より


 ユーモアミステリから奇想小説、長編『ラウリ・クークスを探して』の原型まで、13篇を収録した短編集。単行本(講談社)出版は2024年2月です。




収録作品

『ジャンク』
『料理魔事件』
『PS41』
『パニック ―― 一九六五年のSNS』
『国歌を作った男』
『死と割り算』
『国境の子』
『南極に咲く花へ』
『夢・を・殺す』
『三つの月』
『囲いを越えろ』
『最後の役』
『十九路の地図』




『料理魔事件』
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 わたしたちが追っているのは、通称“料理魔”事件――もう少しお堅い言いかたをするなら、T市連続家宅侵入事件だった。犯行がなされるのは、たいていお昼どき。犯人は家主の不在時に部屋に侵入し、冷蔵庫の食材で勝手に料理をして帰っていく。(中略)
 料理は各家庭の冷蔵庫にあるもので作られる。だから基本的にメニューは一定しない。魚かもしれないし、肉かもしれない。“本日の定食”というやつだ。
――――

 留守宅に侵入しては勝手に料理を作って去る謎の犯人、通称“料理魔”。いったいなぜそんなことをするのか。ユーモアミステリの傑作。




『国歌を作った男』
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 人一人が生きた軌跡は要約できない。要約可能なもの以外は存在しない世界にあっては。それにしたがうなら、ジョンはどこにもいなかったということになる。あるいは、国歌というフレーズだけがある。
 要約された世界において、ジョンは十一年生のときに『ヴィハーラ3』を開発し、そしてユダヤ人少年が入手難のソフト目当てに殺され、それも含めて社会現象となった。要約された世界において、「ヴィハーラ」のさまざまなモチーフが下位文化に染み出て、電子耽美主義(Digital Aestheticism)と呼ばれる文化圏を作るに至った。要約された世界において、ジョンという高校生プログラマの姿が、新たな時代の精神のアイコンとなった。
――――

 コンピュータゲームとその音楽によって時代のアイコンとなった一人の若者の姿をえがく力作。長編『ラウリ・クークスを探して』の原型となる作品。




『夢・を・殺す』
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 納期まで一ヶ月を切った。
 ぼくは、本格的に夢を殺す作業にとりかかった。(中略)
 最初は一進一退だった。
 ある幽霊を隠すと、今度は別の場所に幽霊が現れる。けれど、ぼくは力ずくでのプログラミングを進めていった。彼らは一人ひとり……いや、一つずつ姿を消し、ひょんなタイミングで現れたりしながらも、総体としては、徐々に数を減らしていった。
 昔、手のなかで新たな宇宙が生まれてくるそのことが、ただ純粋に楽しかったいっとき。そのころ作ったキャラクタたちは、声もなく姿を消していった。
――――

 かつて純粋にプログラミングが楽しかったあの頃の夢。だが小さな会社で納期に追われてソフト開発を進めている今、その夢の欠片がどこからともなく幽霊のようにバグとして混入してくる。仕事のために、納期のために、生活のために、若き日の夢を殺し続けるうちに語り手の心には大きな負担がかかってゆく。プログラム開発の喜びと苦しみが切実にえがかれる。




『三つの月』
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 それからもわたしは足繁く香月のもとへ通いつづけた。半分は、無視できない事実として、心身の調子がよくなっていくから。残りの半分に、見極めてやりたいという気持ちがあった。つまりは、自分がなんらかの奇術めいたものにかけられているのか、それとも、本当にこれまで知らずにいた、見えていなかった世界があるのかを。(中略)わたしにとって香月の施術は、いや、ことによると香月という存在そのものが、刃の切っ先のようにわたしに問いをつきつけてくるのだった。
 おまえは真の意味で患者を治療しているのか、と。
――――

 メンタルクリニックの医師である語り手は、あるとき中国整体の店で施術を受け、とてもプラセボ効果とは思えないほどの効果に驚く。エビデンス重視の西洋医学とは異なる治療に興味を持つとともに、自分が行っている治療が本当に病気を治しているのかという迷いも生まれるのだった。心身を癒すという行為をテーマとした作品。





タグ:宮内悠介
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『口訳 古事記』(町田康) [読書(小説・詩)]

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 武装してテンションがあがりきった天照大御神は、弓の腹(内側)を振り立てて、意味の訣らないことを喚き散らしながら御殿の階を駆け下り庭に降り立った。
 庭の土は強く固められてあった。ところが。
「うおおおおおおおおおおっ」
 と咆哮しながら天照大御神が左足を大きくあげ、そして勢いよく、堅い地面をストンピングした。そうしたところ、なんということであろうか、あまりにも勢いが強いため、足が太腿のところまで地面にめり込んだ。
 そうしておいてまたぞろ、
「うおおおおおおおおおおおおおっ」
と咆哮しながらこんだ、右足を大きくあげ、同じようにストンピングした。そうしたところ右足も太腿のところまでめりこんだ。それはいいが、こんな風に埋まった状態では身動きが取れず、闘いにおいて不利である。いったいどうするのか、と思って周囲の者が見ていると、
「だらあああああああっ」
 と絶叫しながら、足を蹴り上げた。そうしたところ、なんということであろうか、あの堅い土が、まるで雪のように蹴散らかされて舞った。
「ぺっぺっぺっ」
「そこまでしなくても」
「ちょっとテンションやばくないですか」
「やばいっすね」
 と周囲の者は小声で言った。
 けれども天照大御神はますます興奮し、さらに土を蹴散らかして、咆哮し、暴れたくっていた。
――――
単行本p.49


 シリーズ“町田康を読む!”第74回。

「人間からするとまったくもってなんちゅうことをさらすのかと思うが神なので仕方ない」(単行本p.109)

 『ギケイキ』『宇治拾遺物語』の町田康が、日本神話を私たちの言葉で語り直す。現代口語や方言を駆使し、活き活きと伝わってくる神々のやらかし、不始末、沙汰の外。単行本(講談社)出版は2023年4月。

 というわけで天地開闢から国家統一までの道のりを「ん、まあ、そんな感じやったんやろーな、実際。今とそう変わらんし」という距離感で現代に伝えてくれます。




 外交はこんな感じ。

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 そのとき兄宇迦斯・弟宇迦斯は自宅で寛いでいた。
「兄貴、暇やからその辺のボケかなんかしばきにいこか」
「めんどいから明日にしょうや」
「ほなそうしょうけ」
 そんなことを言ってダラダラしていたのである。そこへ八咫烏が来た。
「ごめん」
「なんじゃ、この鳥。なめとんのか。しばいたろか」
「まあ待て、なんぞ言うとるがな。なんや、おまえなんか用か」
「用があるから来とんにゃろがい」
「なんやねん。儂ら忙しいねん。早よ言えや」
「いま暇や言うとったやんけ」
「なんや聞いとったんかい。兎に角、聞かなわかれへん。言え」
「言わいでかよう聞け。いま、天つ神の御子がそこまで来てはんねん。おまえらどないすんねん。服属すんのんかい。それとも喧嘩すんのんかい。どっちや。よう考えて返事せえ」
 と八咫烏が権高に言うのを聞いて弟宇迦斯がせせら笑って言った。
「けらけらけらけら。兄貴、服属するかどうか聞いとるぞ」
「わらわしよんの。返事したれ」
「りょーかーい」
 そう言って弟宇迦斯は鏑矢を射た。
――――
単行本p.211




 軍事はこんな感じ。

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 いよいよ本番、
「練習通りにやれば大丈夫だから」
「練習だと思ってやればいいから」
 などと言いながらやったところ驚くほどうまく行き、土蜘蛛を滅ぼすことに成功した。
(中略)
「おどれ」
「ヘゲタレがっ」
 軍勢はおめきながら突撃した。敵の反撃は凄まじかった。しかしみんながとても頑張って最終的にはこれを打ち破り、逃げ隠れした奴も見つけ出して鏖(みなごろし)にした。
「ざまあみさらせ、アホンダラがっ」
 と言ってよろこんでみんなで唄を歌った。
(中略)
 軍勢は殺害しながら、
「ころすぞ、ボケ」
「もう殺してるがな」
「あ、ほんまや。ゲラゲラゲラ」
「ゲラゲラゲラ」
 など言って笑った。
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単行本p.221




 政治はこんな感じ。

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「いやさ、すっくり行きましたねぇ。さすが皇后さまですわ。御子ですわ」
「ええ。だけど心配なことがあります」
「なんですか。もうなにもかもすべて完璧に大丈夫でしょう」
「天地茂。謀叛の輩がいるやも知れません。そうなると御子の命が危ない」
「マジですか。僕は怖い、とても怖い」
「あなたは、大臣として自ら対策するという考えがないのですか」
「はいっ。ないですっ」
「わかりました。じゃあ、私が考えます。あなたは後日、殺します」
「ありがとうございます。お言葉の後半部分は聞かなかったことにします。どうすればよいでしょうか」
「御子を殺しなさい」
「えええええっ、マジですか。怖い。僕は怖い」
「またか。いや、本当に殺すのではない。喪船を仕立てて、御子、薨り給いぬ、と噂を流すのです」
「そうしたらどうなりますでしょうか」
「謀叛の輩はこちらが喪中で戦ができない、と考え、我々が帰り着いたところを襲ってくるでしょう。そこを返り討ちにするのです」
「あー、それでいいですね。すごいと思います。是非、やってください」
「おまえがやらんかー」
「すみません。いまのボケです。じゃあ、喪船の準備します。情報戦も開始します」
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単行本p.363





タグ:町田康
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『ギケイキ3 不滅の滅び』(町田康) [読書(小説・詩)]

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 私の話は殺伐としすぎただろうか。しかしまあ昔も今も上下貴賤の別なく人間はこんなものだ。美しく歌ったところで、根底にあるものは同じ。私は美しい言葉を弄ぶ奴の心の奥で常に銭と欺瞞のフェスティバルが開催されていることを知っている。えへへ。
――――
単行本p.351


 シリーズ“町田康を読む!”第72回。


 室町時代初期に成立したという軍記物『義経記』。いわゆる義経伝説を確立させたことで名高い古典を、主人公である義経さんご本人が今の言葉で語り直すぶっちぎり現代文学パンク長篇『ギケイキ』。タイトルからして原典に忠実。もちろん話の筋も原典に忠実。ネタバレ多数流通につきご注意。

 というわけで、現代を生きる私たちのために、分かりやすい言葉、生きた口語、というか、声が聞こえてくるような文体で、義経さんが語りまくってくれるシリーズの第三弾です。単行本(河出書房新社)出版は2023年3月。




 義経の活躍っぷりと人気に危機感を抱いた頼朝、このままでは自分の地位が危ういというか、後の世に「判官贔屓」みたいな言葉が流布されたら嫌というか、下手すりゃ「後のチンギス・カンである」なんて言いふらす奴が出てこないとも限らない、ということで、義経討伐の手をゆるめることなく。さあ、吉野山に潜伏した義経一行、はたしてその運命やいかに……。




――――
 ある時代の、ある時点を見るとき、その先の結果を知っていて見るのと、結果を知らないで見るのとはぜんぜん違う。
 そしてその当事者は、当然の如くにその瞬間を生きているから先のことはわからない。
 結果を知っていて、結果から逆算して考えるからこそ、「義経はこの時点で既に落ち目」とか或いは「平家はダメダメ」とか言うのであって、(中略)結果を知らない当時の人は私が一時的に退いたとは思っていても、もう終わったとは誰も思っていなかった。
――――
単行本p.264




 そこで語られるは、リアルな政治。




――――
「やっぱあれっすよね、こういうやり方やってたら、これだから東国は駄目だ、って言われるんじゃないですか」
「ですよね、やはり世論というものが黙ってませんよ」
「静御前、っていう象徴的存在を殺したら、鎌倉殿個人だけじゃなくて東国武士全体の人権感覚を疑われますよね」
「ほんとですよね、やはりここは道理と礼節と慣習を弁えた、冷静かつ慎重な議論が望まれるところですね」
 などと、無責任な建前論を言い合って、自分が良識派だということを確認し合っていた。
 その、まるで全員が自分を非難しているような空気に頼朝は大いに不満であった。頼朝は思った。
 これじゃなんか僕がとてつもなく非道いことをしているみたいじゃないか。じゃあ、助ければいいのか。助けて、その腹の子が成長して、僕と同じことをやったらどうなるんだ。おまえらみんな滅びるんだよ。それを防止するために僕は子供を殺せって言ったんだよ。なのになんだ。まるで僕を血も涙もない殺人鬼を見るような目で見て。そんなねぇ、可哀想とか、謀反人の人権が、とか、ワイドショーのコメンテーターみたいなこと言ってたら現実の政治はやれないんだよ。じゃ、俺、この場で出家するからおまえら代わりに将軍やってみろよ。三日で滅びるよ。っていうかさあ、女はいいとしておまえら戦場でいつも自分らがなにやってるのか忘れたのかよ。ダブスタ、えぐいんだよ。
――――
単行本p.384




 さらには、リアルな宗教。




――――
 はっきり言って頼朝さんと義経さんの私戦ですよね。っていうか、兄弟喧嘩ですよねぇ。もちろんね、僕らだって仏法を護るためだったら武器とって戦いますよ。甲冑着て。でも単なる兄弟喧嘩の、一方の味方して殺生戒を破るってどうなんだろう? って僕、思うんですよ。っていうとね、いやいやいやいや、わかってますよ、いまからそれ言おうとしてるんだから最後まで聞いてくださいよ。いや、だから僕がそれ言うとすぐ観念的な議論だとか理想論だとか批判受けますけどね、いや僕が言ってるのは具体的な戦略としてね、そんなことして鎌倉一辺倒でいいのか、とね、そう言うと、じゃあどうするんだ、っていう議論になりますけど、それはもう、なにもしない。つまり曖昧戦術ちゅうことでね、誰かからなんか言われても、あ、仏の教えは尊いものですわ、みたいな屁理屈で乗り切ってどっちの味方もしない、っていうのがね、結局のところ、殺生をしないという意味では仏道にも適う、的な、そんな感じでいった方が僕はいいと思うんですよ。
――――
単行本p.5




――――
「あほか、でけへん理由はなんぼでもあんねん。でけへん理由を探してばっかしおったらいつまで経ってもなんにもでけへんねん。一生、しょうむない奴のままで終わんねん。いけよ、いって黄金の刀奪ったれよ。根性、見したれよ。根性みしてビッグになったれよ。それともここでびびって逃げて、蛆虫みたいな一生、送るか。さあ、どうすんね。ビッグか。それとも蛆虫か。どっちにすんねん」
 迫られて弁の君が言った。
「ビッグがいい」
「俺も」
「俺も」
「奪ってこまそ。奪ってビッグになろ」
「ほんまほんま。なにが義経じゃ、奈良、なめんな。仏、なめんなっ」
「ヘゲタレがッ」
「あああ、あああああっ」
「うおおおおおおおおおっ」
――――
単行本p.275




 そして、リアルな戦闘。




――――
「待てとはどういうことだ」
「はああああ? どういうことって、なに言ってんすか? っていうか意味わかって言ってますぅ? あのねぇ、これはねぇ、お互いトップ同士の一対一の勝負なんすわ。男の戦いなんすわ。英雄伝説なんすわ。それにセコンドが乱入してくるってあり得ないっしょ。なんか俺が卑怯みたいになるじゃないすか。普通、やんないでしょ、そんな格好悪いこと。あのー、考えて動いてくださいね。頼むんで。っていうか、もし乱入してきたら死ぬまで怨むし、死んでも怨みますわ。はっきり言って」
 卑怯と言われるのを承知の上で加勢しようとして、こんな言われようをしたので当然、一同は白けた。
「だったらいいよね」
「討たれても仕方ないよね」
 そんなことを言いながら一同はダラダラ引き返し、元の位置から戦況を見守った。けれどもその心の内は先程までとは違っていた。というのは。
 先程までは川連法眼の恥を雪いで、自分たちのグループ・一党が義経(実は佐藤忠信)を討つという名誉を共有しようという思いがあり、心の底から覚範を応援していた。しかし、右のように言われてより後は、「死ね」「早く討たれろ」という感じになっていた。
――――
単行本p.99




 そしてついにやってくるクライマックス。静御前、狂熱のライブ!!




――――
 静はまるで雑人が芋ケンピを買いに行くような何気ない足取りで人の領域から神の領域へ入っていった。
 最高のバンドと最高の歌手は人間の感受性を根底から揺すぶった。群集は不安と恍惚を同時に感じながら一体化して揺れた。前後もなかった。左右もなかった。上下もなかった。貴賤もなかった。全鎌倉が一斉に発狂していた。群集は咆哮し、涎を垂らし、白目を剥いてぶっ倒れた。げらげら笑いながら脇差で自分の腹を突く者。隣の者とひしと抱き合って腰をスクスクする者。硬直してブルブル震える者。多くの者がもはや人間として成立しなくなりかけていた。
(中略)
「静あああっ」
「静ああああああっ」
 という群集の叫び声は、初めのうちこそバラバラであったが次第次第に一体化して、

しっ、ずっ、かっ。
しっ、ずっ、かっ。
しっ、ずっ、かっ。
しっ、ずっ、かっ。

 という、六万人の叫喚と相成った。アンコールを求めるその声は上空に木霊して響き、また、群集は叫ぶと同時に、足も踏み鳴らし、若宮八幡宮がぐらぐら揺れた。
――――
単行本p.480




 千年近く前も、今も、人間にはそんなに根本的な違いはないし、ご大層なこといってるわりにしょうむなく生きてしょぼく死んでゆくのは同じこと。その様がリアルに書かれていて胸に響きます。時代を越えて読まれる古典のその真髄にわたしたちの言葉で迫ってゆく現代の名作、なかでも、見せ場たっぷりのこの第三巻が、正直、いっちゃん面白いと思う。思うのですよ。





タグ:町田康
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『忘れられるためのメソッド』(小川三郎) [読書(小説・詩)]

――――
そうは言っても
やっぱり私は
馬がいい。

パイプをくわえて青空の下を
走ることなく
ゆっくり歩く
まじめな顔した馬がいい

片目はつぶれていても構わない。
歯も抜けていて構わない。
だけど耳は
ピンと立っていて
私という馬がいるだけで
ただそれだけで
天気が変わってしまうくらいの
馬がいい。

明日はもう春か。
――――
『もの思う葦』より




 小川三郎さんの最新詩集。
 単行本(七月堂)出版は2023年11月です。




――――
みんな私が
もう死んでいると言った。
みんな私のことを
ちゃんと理解していると言った。

私は服を脱いでしまいたい。
服をぜんぶ脱いでしまいたい。

今年の夏
私はたくさん
笑いすらしたのだ。
――――
『ベンチ』より




――――
線路は机の端まで伸びたあと
机の裏へと消えていた。
教師が私の机を見おろし
なにか
ひどいことを言った。

それからもう四十年も
生きてきたのだけれど
私は誰かにあれと同じ苦しみを
与えることができただろうか。
――――
『机』より




――――
ある日
傘がなくなっていた。
真っ青に晴れた日だった。
みんな気がついていたが
口にする者は誰もいなかった。

その日の夜
余所の国で争いがあり
大勢人が殺されたと
ニュースが短く伝えていた。

次の日
傘は傘立てに戻っていた。
――――
『傘』より




――――
狂うべきものが狂わないときにだけ
意味を失う言葉があり
だからいくら狂おしくても
きらめくものはきらめいていたし
静かに過ぎ去っていくものは
私たちの胸を満たしていった。
樹上のひとは目を細めて
私たちを見下ろしている。

そして死が
理由なく訪れることを
それをほんとうにできることを
私たちは木の上に向かって
何度も何度も願ったのだ。
――――
『樹上』より





タグ:小川三郎
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『会いに来てくれた』(『季刊文科』94号掲載)(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

――――
 というのも、――自分の肉体が女である事とそれが不本意であるという事、その葛藤の中で、私にとっては、女性作家に押しつけられる、期待されるテーマ、文章、女ジェンダーはどうしても無理だったから。若い頃それは特に辛く、しかし肉体も現実も女である事を否定できなかった。
 それもあってその後も私は小説がうまく行かず、そんな中、師匠は気がつくと長く、入院されていた。
 でもその頃から私は彼に「会う」ようになった。自分から師匠を勝手に理想化して、ずっと彼について考えるというのではなく、自然と向こうから「会いに来てくれた」。
――――
『季刊文科』94号 p.116


 シリーズ“笙野頼子を読む!”第142回。


「心に性別はないが、人は肉体に縛られる。言語はそこからだ。」
『季刊文科』94号 p.121


 鳥影社刊『季刊文科』94号の小特集『藤枝静男 没後三十年』に寄稿された作品。タイトルは2020年に出版された長篇『会いに行って 静流藤娘紀行』と対になっています。


2020年06月19日の日記
『会いに行って 静流藤娘紀行』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2020-06-19


 この長篇をベースに、その内容を振り返りつつ、さらに「その後」を書いてゆくのです。ここ数年ずっと書いてきた新自由主義やグローバリズムへの批判と、性自認至上主義への批判が、私小説という領土のなかでひとつにまとまってゆく。原点、出発点を振り返りつつ、次の展開への予感に満ちた、重要な作品だと思います。


――――
 ――そもそも私の落選作は、師匠の評伝、または作家論と呼ぶにはあまりに厚かましい。それは自分と師匠のあるやらないやら判らない関係性を、ひたすら追求して、心の中の師匠、その真の姿を発見する。それで自分だけが良い気分になってゆくという仕組みになっている。作品と彼を支えた土地、人々等を媒介にして、自分側からの心の宝として残してゆく文、自分からも師匠に会いにいく目的で書いている。書くよりもそうして会う方が大切というか。
 その上でグローバル化が人類をことに女や子供を危機に追い込んでいく今、私小説の自己、領土について、これから今よりも一層重要になって行く師匠の私小説について考えるものだった。
――――
『季刊文科』94号 p.127


――――
 まあそれでも自分が女に生まれたという困難に掛けて、私は書いていて、それで一点越えられるかもしれないと微かな希望はまだ、持っている。ただそれをやったらラディフェミ系と言われ、師匠の読者とはもう一切、縁の切れる世界になる(と予想している)。
――――
『季刊文科』94号 p.117


――――
 そもそも私小説とはまさにジェンダーとセックス(性交という意味ではない、体の性別、医学的な男女の、身体・性別)が違うという前提で書かれるべきものだ。肉体を魂に従属させていては書きえないものだ。その一方でグローバル化は肉体や地面を数字に化けさせて、本来の個々の人間の、文化の生命を奪っていく。文学も海外に通じにくいだけで私小説は消される。通じにくいからこそ貴重なその領土性は軽んじられてしまう。翻訳しやすいものは海外に売って部数が増やせるからと、グローバル化は文学をも劣化させようとする。
――――
『季刊文科』94号 p.121





タグ:笙野頼子
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