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『ミューズ叢書<2> トークイベント記録』(上田早夕里) [読書(随筆)]

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私はこのシリーズで「歴史」を書こうとしているんです。ただし、人間だけの歴史じゃない。生物の歴史だとか、地球そのものの歴史だとか、そういう、科学的な意味での歴史も含んでいます。人間の歴史だけじゃなくて、人間以外の歴史も同時に語っていく……これはSFでないと、なかなかやりにくいことで、こういう中で独特の人間の描き方があるというのが、SFの利点だと思うんですね。
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Kindle版No.148


 「オーシャンクロニクル・シリーズ」および『薫香のカナピウム』について、著者自身が語ったトークイベントの記録。Kindle版配信は2016年4月です。

 『妖怪探偵・百目』シリーズに続く第2弾。今回はSFあるいはSFに近い作品が取り上げられています。それぞれの作品については、以下の紹介を参考にして下さい。


  2015年03月06日の日記
  『薫香のカナピウム』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2015-03-06

  2014年01月17日の日記
  『深紅の碑文』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2014-01-17

  2011年12月19日の日記
  『リリエンタールの末裔』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2011-12-19

  2010年12月28日の日記
  『華竜の宮』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2010-12-28

  2010年05月12日の日記
  『魚舟・獣舟』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2010-05-12


 中心となるのは大作「オーシャンクロニクル・シリーズ」の解説で、文字だけで読むと冷やかに感じるほど、極めてロジカルに、定量的に分析してゆきます。


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 小説の構造を分析するときに、まず「数をかぞえる」というのをやると、意外とうまくいきます。総ページ数に対する各章の分量を調べたり、登場回数が一番多いのは誰で、全体の何分の一ぐらいページ数を費やしてあるとか。
 登場人物数のカウントも、そのひとつです。
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Kindle版No.290


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 私は筒井さんのエッセイから、こういう形で小説の読み方・書き方を教えてもらいまして、特に、小説というのは、ロジカルにテクニカルに書くことができるんだ――という、この部分は非常に大きな影響を受けました。つまり、情熱だとか才能だとかインスピレーションだとか……小説というのはそういうものだけで書くんじゃなくて、論理と技術で組み立てることが可能だという――。
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Kindle版No.101


 『華竜の宮』と『深紅の碑文』をデジタルに比較して、後者が書かれた理由を明確にしてゆくところは圧巻です。


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『華竜の宮』と『深紅の碑文』を比較しますと、構造上、エレメントが綺麗に一対一対応になります。それを、登場人物の「対応表」にしてみたのが、こちらです。
(中略)
 何がどう変わっているかというと、『深紅の碑文』のほうが、登場人物の関係性が複雑になっているんです。「構造」は相似形なんですが、細部の複雑さに、大きな段差があります。さきほどのフリドリンのパズルで言えば、組み合わさっている木材と突起の数が違うわけです。仮に『華竜の宮』を10とすると、『深紅の碑文』は30以上です。それぐらい複雑になっています。
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Kindle版No.224


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『華竜の宮』の関係性というのは、わかりやすいけれども、それは細部を削ぎ落として簡略化されたものであって、オーシャンクロニクル・シリーズという広い世界観を描くときに、必ずしもベストなスタイルというわけではない。そのスタイルでは絶対に到達できない世界がある。『華竜の宮』を書いたときにそれがよくわかりましたので、まったく別の書き方が必要だと思いました。その結果出てきたのが、『深紅の碑文』という作品です。
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Kindle版No.234


 あるいは、多くの読者が「誤解」している点の指摘には興味深いものがあります。


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読者の中には、プルームの冬が終わったあと人類が復活してくると思っている方が結構いるんですが、そういうことは一切ありません。人類は、きれいさっぱり滅びております。
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Kindle版No.124


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「娯楽としてのアクション」と「本物の暴力」の描き分けが難しい。作家の側が暴力を書いているつもりでも、読者の側が娯楽として消費してしまう場合がある。これにどういう形で抵抗しようかと、そういうことを、デビュー作のときからずっと考えていました。
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Kindle版No.252


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 私としては、この無名の人たちに、全員、名前をつけたかったんです。でも、名前がつくと、日本の読者の中には、その人が重要人物だと思い込んでしまう方が結構いる。「名前が出ているのに活躍しないのはおかしい」と仰るんですが、このあたりは、何か、呪術的な思想が背景にあるのかもしれませんね。
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Kindle版No.308


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 読者の反応を見ていて面白いなと感じたのは、青澄を、理想に燃える善人だと思っている方が非常に多いことで、私は、全然そういうつもりでは書かなかったので(中略)SFの読者なら、こういうブラックユーモア的な部分を絶対に理解してくれるだろうと思っていたんですが、ほとんどの読者がこれに気づいてくれなくて、青澄の行動を、彼の性格に由来していると思い込んでいる。
 この話は、昔、SFセミナー(東京・2011年)でも話したことがあるんですが、どうも、それでも伝わらなかったみたいで、作者としては、一番、じりじりしている部分なんですね。
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Kindle版No.328


 あー、青澄いいやつ立派な人、とか私も勝手に思い込んでいました。SFの読者としてお恥ずかしい。

 SFといえば、『華竜の宮』と『深紅の碑文』のどこが本質的にSFなのか、つまりSFでしか書けないコアな部分は何なのか、という解説がすごい。全球凍結だからSFだとか、恒星間移民だからSFだとか、そういうわけではありません。


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ザフィールを描くときには、この異質な、よくわからない部分を何よりも大切にしました。そういう意味で、『深紅の碑文』という作品は、この人物を描くためにあったと言っても過言ではありません。
(中略)
『華竜の宮』の中で、ツキソメやマキ絡みで「言語が人間を作る」という言葉が何度も出てきますが、ザフィールは、まさに、その「人間の言語」に縛られることで、魚になり損ねた人なんです。
 これが、SFでしか書けない人物だったという意味です。
 さっき、青澄の性質はSF的な発想と不可分だという話をしましたが、それと同じです。
(中略)
 私は、ある作品が「SFであるか、そうでないか」という基準には、さきほどから話している「思考方法そのものに関係する発想」が関与していると思っています。
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Kindle版No.377、394、415


 後半には『薫香のカナピウム』を題材に、ファンタジーとSFはどう違うのか、という問題が取り上げられます。


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『薫香のカナピウム』の場合、動植物に興味がある読者には、最初から地球上のどこの森なのかわかるような書き方をしました。でも、そういうことに興味がない読者には、完全に架空世界として楽しんでもらっても、まったく差し障りがないような書き方をした。前者の読者にはSF、後者の読者にはファンタジーに見えたはずなんです。そして、物語前半でファンタジーに見えていたものが、後半でSFに見えてきた……という方は、自分が何を基準にSFとファンタジーの間に境界線を引いているのか、このふたつを切り分けている基準は何なのか、一度、考えてみて欲しいんです。それによって、個々の 読み手が無意識のうちに引いている、「SFとファンタジー」の境界線が、はっきりと見えてくるはずなので。
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Kindle版No.502


 というわけで、基本的には「オーシャンクロニクル・シリーズ」および『薫香のカナピウム』の読者のための一冊ですが、小説の分析手法や、「SFとは何か」という問いに関心がある方にも一読をお勧めしたいと思います。


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