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『偽詩人の世にも奇妙な栄光』(四元康祐) [読書(小説・詩)]

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詩が書けないということさえ度外視するならば、昭洋は宿命的に詩人であった。たしかに彼が書いた詩は偽物であった。しかしその人自身は限りなく詩人であった。そこにこそ真の悲劇(と滑稽)が存在するのである。
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単行本p.28


 宿命的な詩人でありながら詩が書けない吉本昭洋は、思わぬ成り行きで詩人として脚光を浴びてしまう。詩作の不思議を扱った偽私小説。単行本(講談社)出版は2015年3月、Kindle版配信は2015年4月です。


 高名な詩人である四元康祐さんが書いた小説です。テーマはもちろん詩。主人公が詩と出会ってから、偽詩人となるまでの顛末が語られます。はじまりは、とある中学校の図書室から。


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彼にとっての文芸とは物語であった。そして小説本を開いて彼が読むのは筋書きであり、その紆余曲折の顛末であった。逆に言えば、それまでの昭洋は生まれて一度も、書物のなかの言語を言語そのものとして読んだことはなかったのである。
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単行本p.5


 そんな平凡な中学生が出会ってしまった不思議な言葉。中原中也とかいう人が書いた、短い言葉の連なりが、彼に多大なるインパクトを与えたのでした。


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それは物語ではなかった。かと言って事実でも情報でもなかった。意味でもなかった。喜怒哀楽の情感ですらなかった。あえて言えば口からでまかせに近かったが、別段嘘をついているわけでもない。要するにそれは言葉であった。ただの言葉の連なりとしか、当時の昭洋には言えぬ代物であった。
(中略)
 まさしくそんな風にして、詩は吉本昭洋の内部へ侵入してきた。それは一種の感染であった。血液のなかに潜り込んだ細菌が細胞を冒すような、隠微にして不可逆的な変化であった。
(中略)
何度くり返して読んでも、そこのところはぼうっと霞んだままだ。十三歳のとある放課後から、昭洋がその生涯を終えるまで一貫して朧に煙っていて、未来永劫にそうなのである。だがまさにその不明瞭な部分において宿命的な出会いは生じていた。気づいたときにはもはや手遅れだった。
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単行本p.5、6


 こうして詩に取りつかれた吉本昭洋は、古今東西の詩を読みあさり、詩を自らに取り込んでゆくことに血道をあげることに。しかし、これほど詩を愛しているのに、自分では詩がまったく書けない、という悲劇。


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 一方では詩が書けぬことに苦しみ、苦い挫折を味わいながら、もう一方ではまさに詩が書けないというそのことによって、自らが真の詩人であることを知る。言葉を持たぬがゆえにこその詩人。そこに韜晦や欺瞞や自己憐憫はなかった。ただ純粋な詩への愛と、それゆえの痛みだけが溢れていた。
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単行本p.12


 やがて昭洋は、詩のイベントを通じて世界各地にいる詩人たちと知り合うことになります。詩人たちの世界が鮮やかに、そしていくぶん皮肉めいた調子も混ぜ混みながら、描写されます。


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 普段生活している分にはつゆとも気づかぬ、広大にして緊密な詩のネットワークがそこにはあった。あたかも秘密の地下組織のごとく、それらは隠微に張り巡らされ、この惑星を幾重にも包みこんでいるのであった。
(中略)
現実を貪欲に取りこんでいた。それでいて現実に隷属するのではなく、凝縮され精妙な工夫の凝らされた言語によって、むしろ現実を変容し支配していた。その変容は物語でも論考でもなく、結局はもどかしげに〈詩〉としか呼びようのない独特のものなのだった。そのような詩が世界中で、マスメディアには知られることなく、ひっそりと、しかし毎日数限りなく作られている。今この瞬間にも、誰かが、どこかで、言葉を組み合わせている。
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単行本p.56


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 読者の不在ということの当然の帰結として、経済の影もまた希薄である。
(中略)
 つまり詩は金にならない。だから世評の確立した詩人の場合を除いて、著作権なんかもいい加減だ。そもそも出版すらされないのだから、著作権以前の話である。詩人たちはむしろ金を払ってでも自分の詩を読んで貰う機会を欲しがっているかのようだった。
(中略)
そこは経済原則の及ばぬ世界、せいぜいが原始共産制の物々交換か、襤褸は着てても心はポトラッチ、詩集飛び交う贈与合戦で、貨幣はいまだ発明されてもいないのだった。
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単行本p.60、61


 物々交換、ポトラッチ、贈与合戦、貨幣はいまだ発明されてもいない。読んでいて思わず苦笑してしまう詩人も多いのではないでしょうか。

 そうして、世界中の詩を読みあさることに満足していれば、昭洋もそれなりに幸福な人生を送ることが出来たはずです。しかし、彼は見つけてしまったのです。自分だけの〈詩〉をこの世に現出せしめる魔法を。


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異なる言語からの翻訳という輪廻転生と、心身の奥の声から肉筆そして活字への変換という流浪遍歴を経た、キマイラのごとき言語の妖怪変化。だがそこにたしかに昭洋は詩を見出した。生まれて初めて、自分の筆の先から迸り出た詩であった。
(中略)
彼がそれを所有しているのではなかった。むしろそれが、その不思議な日本語の連なりが、彼を所有していた。言語とのそのような倒錯して断絶した関係こそが、これまで彼が求めてきたものだった。それこそが彼にとっての詩なのであった。
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単行本p.76


 世界中の詩人たちの作品を素材に変性と錬成を繰り返し、自分だけの〈詩〉を生み出す。昭洋が言語の錬金術に熱中するうちに、思わぬ成り行きで、詩人としての彼の評価はぐんぐんと高まってゆきます。気づいたときにはもう手遅れ。彼は名声と引き換えに大きな犠牲を払うことに。


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 今昭洋が失おうとしているのは精神の平安であると同時に、詩そのものだった。詩を愛する心であり、詩を味わう喜びだった。もはや書くことができないだけではなく、彼には読むことすらできなくなった。
(中略)
皮肉なことに昭洋が詩を恐れるようになるにつれ、詩人としての彼の名声は高まり、日本の文学史上におけるその地歩は揺るぎなきものとなっていった。
(中略)
彼は自らに見張られた囚人だった。その厳しい監視のもとで、詩人を演じ続けるほかなかった。それでいてどんな囚人にも許された最低限の心の自由、目を閉じて記憶の中の詩句を口ずさむほどのことも、彼にはもはや出来ないのであった。
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単行本p.116


 偽詩人、吉本昭洋が歩み続ける後戻りできない道。その先に待っているものは。

 というわけで、滑稽さと悲惨さが一緒になった小説です。詩を書く、詩を創る、という行為に関する切実な問いかけ(例えば、昭洋が行った言語錬金術と、詩作は、その本質において何が違うのか等)と、ほとんど熱血スポーツ漫画みたいな怒濤の展開(因縁のライバルとの即興詩対決とか)。しっかりエンタメ小説にもなっているところが素晴らしい。詩に興味がない読者も楽しめると思います。



タグ:四元康祐
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