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『深淵と浮遊 現代作家自己ベストセレクション』(伊藤比呂美、穂村弘、町田康、他、高原英理:編集) [読書(小説・詩)]

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 これまでいくつかアンソロジーを編んできて、ほぼどれもありがたい反響をいただき、よい仕事をしたと自負もしているが、ただ、ときに内心忸怩たる思いがないではなかった。どこまでいってもこの自分の視点からしか見られないことの無念である。自分のまるで考えもしなかった視界を開く方法はないか。
 こうして当アンソロジーのプランは生まれた。参加していただける個々の作家の決定にお任せする。それは私などの狭い先入観を裏切って思いもよらない豊穣な結果を生むだろう。ご覧いただきたい。
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文庫版p.317


 シリーズ“町田康を読む!”第69回。

 町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、作家が選んだ自己ベストを集めたアンソロジーに収録された作品。文庫版(講談社)出版は2019年12月です。


〔収録作品〕

『読み解き「懺悔文」 女がひとり、海千山千になるまで』(伊藤比呂美)
『愛犬ベネディクト』(小川洋子)
『ブルトンの遺言』(高原英理)
『胞子』(多和田葉子)
『ペニスに命中』(筒井康隆)
『瓦礫の陰に』(古井由吉)
『いろいろ』(穂村弘)
『のぼりとのスナフキン』(堀江敏幸)
『逆水戸』(町田康)
『間食』(山田詠美)




『読み解き「懺悔文」 女がひとり、海千山千になるまで』(伊藤比呂美)
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 経本の何にひかれたかといって、あたしの場合は書かれた音だ。こうよみなさいと何も知らぬ人々に、教えしめすそのふりがなだ。
 それはもう何語でもない。ことばですらないかもしれない。翻訳に翻訳をかさね、人の声に声をかさねて、実体のわからなくなってしまった音。そこに、人の心、悔いる心だけが残る。
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文庫本p.16


「歩いてきた道を振り返れば、死屍累々。貪もあった。瞋もあった。つまり、もっと欲しいとむさぼる心と、思いのままにならぬをいかる心が、いつもあった」
 自身の人生に重ねるように、血を流しながら般若心経を読み解いてゆく『読み解き「般若心経」』の一部。罵った、殺した、見捨てた、ひどいことをした。最低であった。自身の業を吐露するようにして「懺悔文」を語り直してゆく。


『愛犬ベネディクト』(小川洋子)
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 ベネディクトの背中は滑らかで、ふかふかして、お茶よりも暖炉よりも温かい。このままいつまででも撫でていたい、と思わせてくれる種類の温かさがそこにある。ベネディクトは少しも迷惑そうにしない。それどころか、
「ええ、いいのです。いつまででもいいのです。私の背中はそのためにあるのですから」
 というかのように、じっとされるがままになっている。
 ベネディクトさえいれば、何の心配もいらない。妹はそんな気分になる。体はおくるみに包まれている。一針一針レースで編まれた、妹の全身をぐるりとくるんでもまだゆとりのある、たっぷりとしたおくるみだ。編目には母親の指の感触が残っている。妹は目を閉じる。どこまでも深くおくるみの奥で、小さく小さくなってゆく。
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文庫本p.51


 自室に引きこもってひたすらドールハウスを作り続けている妹が、数日間の入院のあいだ、兄である語り手に愛犬ベネディクトの世話を頼む。ベネディクトは陶器の犬だが、兄は餌をやったり散歩させたりと真面目に世話をする。やがて読者のなかに「もしや妹など存在せず、妹やベネディクトを含むドールハウスを作っているのはこの兄ではないのか」という疑念が芽生えてくる。あるいは逆に兄こそが妹の妄想の一部ではないのかと。だがどこかに着地するような無粋なことはなく、物語は幻想のなかをふわふわと幸福に漂い続ける。


『いろいろ』(穂村弘)
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「共感(シンパシー)」と「驚異(ワンダー)」、言語表現を支えるこれらふたつの要素のうち、「泣ける」本、「笑える」本を求める読者は、圧倒的に「共感」優位の読み方をしているのだろう。言葉のなかに「驚異」など求めていないのだ。
 そして詩歌は「共感」よりも「驚異」との親和性が高い。だから敬遠される。例外的に読まれるのは、作品の背後に、「共感」しやすい物語がある場合である。作者が不治の病とか心中したとか獄中の死刑囚とか、それらが「共感」面での補強要素として作用するわけだ。
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文庫本p.212


 短歌とエッセイの詰め合わせセット。自選短歌を二百首以上も収録した上に、エッセイ「奈良と鹿」「シラタキ」「来れ好敵手」「トマジュー」「共感と驚異」を収録。入門書としても最適。


『のぼりとのスナフキン』(堀江敏幸)
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 どんな土地を歩きまわろうと、帰るべき場所を必要としている私が憧れのスナフキンになれないのはもはや明らかだ。「塔の家」ならぬ「ムーミンやしき」の間取りが気に掛かるのも、こちらが本質的には定住者に属するからなのだろう。あのつつましい屋敷は、捨て子だったムーミンパパを代表格とする魂の冒険者たちにとって、いかにも快適な係留地なのである。小説を書いているらしい夢想家のムーミンパパも、かつては大いなる旅に身を任せた漂泊者だった。だが帰るべき場所があるかぎり、漂泊は甘えにすぎない。たとえ文章のなかであれ甘えの別名である漂泊の真似事を許した身に、スナフキンの孤独を理解できるはずもないのである。
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文庫本p.230


「「のぼりとでおりる」という語義矛盾を実践したいから」「町への入口ではなくたんなる通過点に貶められている風情の、どことなく不遇な匂いの漂う駅」に下りた語り手は、ムーミンに登場するスナフキンのことを考える。自分は、憧れのスナフキンにはなれないという諦念。


『逆水戸』(町田康)
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 田垣は迷妄の淵に迷いこんで戻ってこられなくなったのであろうか。しかし誰が知ろう神の心、誰が知ろう仏の心を。そんなこととは無関係に、誰もがわめき散らしたくなるような貞享三年の四月の夜は更けていき、翌日になるとふざけたような太陽が昇って、箸にも棒にもかからぬ呆れ果てた里山に新緑のどあほうがまた芽吹いてきやがるのだ。なにやってんだまったく。
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文庫本p.277


「誰もがむやみに人を殴りたくなるような貞享三年四月。腐ったような里山に新緑のぼけが芽吹いていやがった。なめているのか」
 安心して思考停止できることがウリのテレビ番組を題材に、どんどん暴走させてゆくパンク時代劇。水戸黄門の定型を外すことから生ずる何とも言えない気まずさ。そこからすべてをぶっ千切ってゆく狂騒へと突き進み、ふと我にかえって、なにやってんだまったく、と。





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