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『日本語に生まれて 世界の本屋さんで考えたこと』(中村和恵) [読書(随筆)]

 「目で文字を追うだけでなく、その土地にいって、土地を読む、ということを、できればすこししてみたいとおもった。脚で読む、とでもいうような。(中略)なにしろ、どこでも本屋さんを探した。見つからないところもあった。随分変わった本屋さんもあった」(単行本p.7、8)

 世界のあちこちを旅して、そこで本屋さんを探す。そして考える。ことばとは、文化とは、そして日本とは。私たちの文化を外側から見つめるエッセイ集。単行本(岩波書店)出版は、2013年11月です。

 「あちこちに行って飯を食う」ことで世界の文化的多様性を語る『地上の飯 皿めぐり航海記』の著者が、今度は世界のあちこちに行って本屋に入って本を探しまくる一冊です。といっても珍本、稀覯本を紹介するのではなく、本と書店を起点に、文化のあり方を考えるのです。

 「英語で書かれた文学、というと、いまだにイギリスとアメリカ合衆国、そのどちらかのものと考える人が多い。それは現在の世界の実情とはかなり、かけ離れている。(中略)いまや国別の文学史はかつて以上に書きにくくなり、比較文学的な視野をもたずにはことばの文化を語れないというのが現状だ」(単行本p.6)

 海外文学というと、すぐに欧米の小説か、そうでなくても「主要国」の作品を連想する私たちの視野の狭さを打ち砕くかのように、まず登場するのはカリブ海の島々。

 「ドミニカ島の黒いちいさい本が、わたしはいまでも見たくてしかたがない。そのためだけに借金をして飛行機を乗り継ぎ、あの島までいってもいい。(中略)文字以前からのことばの呪術的な力にふれられるような、グローバル化と合理化に根づよく抗いつづけるような、直截なことばにふれたい」(単行本p.27)

 「ポルノグラフィの言語というのは、特定の言語体系の身体化、親密化のバロメーターとして、複数の言語文化が併存・混淆する社会においては特別意義深いものだというわけだ(といったまるでエロくない漢字の多いことば遣いでなければ性について真面目な話をしているとは理解されにくい日本語の状況も、じつは混淆文化の現象として考えると興味深い)」(単行本p.40)

 ドミニカ島で古くから伝承されているという呪術書、そしてマルティニーク島のクレオール(混成言語)で書かれたポルノ小説。読者の意表をつく二冊の話題から、ことばと文字、ポストコロニアル文化と言語、植民地主義とグローバル化、など様々な考察ポイントが提示されます。

 続いてインドの地方都市で翻訳の意義について、オーストラリアではアボリジニ文化(そして例えばウラン鉱石の輸入という形で日本がどう関与しているか)を考えます。

 こうして「周縁」とされがちな文化に視野と想像力を広げたところで、なぜそこから生み出される文学が私たちにとって大切なのか、ということがストレートに語られることに。ここが前半の山場、大きな感銘を受けます。

 「進歩と物量と速度と強度(暴力性といってもいい)を誇る西欧発の近代神話がもはや絶対ではないことは、多くの人々が感じている。別の物語が聞きたい、侵略と征服の正当化以前の古い物語の中に新しい意味を見いだしたい。同時に日常の率直な思いを丹念に正確なことばであらわす作家の物語に別の発想を見つけたい。だからかつての植民地の文学、否定と暴力と混淆をくぐりぬけた非西洋発の混成文化が興味深いのだ」(単行本p.90)

 後半に入ると、日本文化、それも外から、異文化を通して、眺めた日本の姿が話題の中心に。

 まずはメルボルンの書店で見つけた自然史本に載っている「野蛮人標本写真」のなかに、「ちょんまげを結ってふんどしだけ締めた格好」(単行本p.95)の日本人男性の写真を見つけた話から。

 「非ヨーロッパ人をすべて素っ裸の写真標本にして並べ、「われわれの物差し」で正確に測り、比較対照して特徴を把握したい。こういう西欧中心的な「世界制覇=世界理解」の欲望と、西洋式学問の体系・方法論はがっちりと根のところでからみあっていて、しかもいまだに日本を含め世界各地の大学や研究施設というものがこの世界観からほんとうの意味では抜け出せずにいるからたちがわるい」(単行本p.97)

 さらにロンドンやエストニアでの体験、あるいは日本の原発事故が他国からどのように見られているのか、といった話題を通じて、私たちが無意識に持っている西洋中心主義的な世界観(しかも自分たちは西洋の側に立ってるつもりだったり)をえぐってゆきます。

 「わたしはヨーロッパを中心とする世界史の視点を根底から疑うようになり、近代ヨーロッパの評価基準を理由もなく標準とみなす西欧正統のハイ・カルチャーにほぼまったく興味を失った」(単行本p.136)

 「大国の姿は小国を通して見るにかぎる。おまえの書くような世界の果ての小国の話まで考えている暇がない、とある批評家にいわれたことがあるが、「世界の真ん中」にあぐらをかいている方々の内実は、「世界の果て」こそ、よくわかっているのである」(単行本p.161)

 上で引用した「とある批評家」のような考えは、日本では決して珍しいものではないでしょう。むしろ、世界を動かしている「主要国」の情勢を把握することにしか興味のない人々が大多数ではないでしょうか。そして日本における海外報道は、そういった「意識の高いグローバル人材」な方々しか想定してないのではないでしょうか。

 「わたしはいまヴェトナムでなにが起こっているのかをよく知らない。(中略)だがすくなくともいまは、わたしがなにも知らなかったということはわかっている。これから先、わたしはもっと多くを知るだろうか。なにを通じて? 日本のメディアから?」(単行本p.199)

 ヴェトナムにおける苛烈な言論統制の実態について聞いたとき、著者はそうつぶやきます。私たちは世界について何も知らない。知らないことすら知らない。いや、世界だけでなく、私たちの文化についても、私たち自身についても。

 「日本には複数のマイノリティがいて、かれらの声は日本の文学史にもはっきりと刻まれているが、アイヌによって書かれたものを読んだことのある日本人大学生は圧倒的少数者であると、ニュージーランド・マオリの前でわたしは断言せざるをえない----いくらかれらが信じられない、ショックだといってもそれは事実である。日本では差別は注意深く隠そうとされる、それが「ヤサシイ」行いとされる」(単行本p.205)

 「遠慮、気配り、我慢、善良さを尊ぶ人々が、穏やかに和やかに、共通の正しさ、倫理観をみんなで共有することを望むあまり、都合のわるい、居心地のわるい事実を照らしだし、オーソリティに立ち向かわねばならないと明言して、穏やかならざる空気を生む人や状況への、過剰なほど鋭敏な拒否反応を示す」(単行本p.176)

 「気遣う気持ちが、大切なのだ。遠慮する気持ち、慮る態度、明快に対立構造を認識し利害関係を前面に押し出すことを避けて、自分を好いてもらい、内輪になって、その絆ゆえに多少のことは和やかに許してほしいと願う気持ち。西洋近代的な対人関係とは異なる、むしろアボリジニ・コミュニティに見られるような、村落的、原始共産主義的調和」(単行本p.178)

 「じつは日本の世界観は、欧米発の世界観とはかなり違ったまま、別の文化の外皮の中でとぎれとぎれのマーブル模様を描き、わたしたちの内にいまも生きているのに、この分裂した精神状態の詳細は時間が経つほどにうやむやにされてきた。日本人の輪郭が国外にとって、またしばしばわたしたち自身にとって「あいまい」なのはこのせいだとおもう」(単行本p.88)

 というわけで、グローバル化とは別の世界観、比較文学的な視点、世界の多種多様な文化と文学を想像する力について、分かりやすく語ってくれる本です。もちろん、世界のあちこちに旅して珍しい本屋さんを尋ね歩いたことを書いたエッセイとして気軽に読んでも充分に面白い。

 個人的に強く心に残ったのは、読書ということの意義について。「ひとつの声、ひとつの形式、ひとつの原理、ひとつの価値基準だけが響いている世界など、フィクションであるということを認識し、表現して」(単行本p.14)いることばを、たんねんに誠実に読むことの大切さです。そのことは、ぜひ多くの人に伝えたいと、私もそう思うのです。

 「ことばで、ひとは動かされる。ヒト属ヒト科とはそういう動物である。 だからいま読む教育ほど大切なものはないと、先生稼業も20年近くなったわたしはおもっている。迂遠なことと笑われるかもしれない。だが読む。丁寧に。読む習慣のないひとと一緒に読む。深いことばを苦労して読んでもらう」(単行本p.125)

 「思慮深く力あることばを伝える、大切なことばに丁寧に耳を傾ける。それはひとが生きのびるために必要な、根源的な営みである」(単行本p.127)


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