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『深紅の碑文(上)(下)』(上田早夕里) [読書(SF)]

 「〈大異変〉があってもなくても、人間社会は闘争を求めるだろう。悲しいかな、それが人間の本質である。自分たちは、それを人類の歴史から葬り去ることに失敗した。(中略)長い闘争の果てに自分たちが得たのは、血潮に汚れた醜い碑文だけだ。沈黙の檻に真実を閉じ込め、悲しい人々の声を封印し、口当たりのよい虚飾を身にまとった----血まみれの深紅の碑文」(単行本下巻p.333)

 海面上昇により陸地がほとんど失われた25世紀の地球。迫り来るホットプルーム噴出とそれに続く氷河期、そして全球凍結。人類絶滅の危機を前にして、それでも血で血を洗う憎悪の連鎖が止まる兆しは見えなかった。『華竜の宮』から三年、ついに刊行された続篇。単行本(早川書房)出版は、2013年12月です。

 高く評価された本格SF巨編、『華竜の宮』の続きです。あのラストに至るまでの数十年に起きた出来事がついに詳しく語られるのです。前作について、単行本読了時の紹介はこちら。

  2010年12月28日の日記:『華竜の宮』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2010-12-28

 〈大異変〉が近づくにつれて資源の奪い合いが始まり、陸上民と海上民の対立はエスカレート。生活に困窮した一部の海上民は、新手の海賊「ラブカ」となって陸上民の輸送船を襲撃するようになっています。

 「陸上民による過度の生産と備蓄の繰り返しは、陸地の資源を食い潰して、海洋資源を根こそぎ収奪する方向へ突き進んでいった。この行為は、海洋資源だけに頼って生活している海上民の暮らしを脅かした。急激に困窮していく海上社会に配慮して、彼らの行く末を心配してくれる陸上企業は皆無だった」(単行本上巻p.57)

 主人公の一人は、ラブカのリーダーであるザフィール。そしてもう一人は、前作でも主役の一人だった青澄。あくまで陸に対する闘争を続けようとするザフィールと、今や救援団体の理事長として陸と海の対立を解消させるために奔走する青澄。二人の信念と行動が物語を激しく駆動してゆきます。

 「あんたにはわからないだろうな。陸上民同士の差別は、人間に対する差別だ。だが、陸上民が海上民に対して行う差別は、違う生物に対する蔑みだ」(単行本下巻p.12)

 「生命の仕組みに手をつけることで、人間は人間の定義を拡張した。この拡張に限度はない。(中略)形態の差によって人間とそうでないものが分けられる----そういう時代は、もう終わったんだ。比喩ではなく真の意味で、生命の価値はフラットになった。科学がそう変えた」(単行本下巻p.14)
 
 どこまでも和解することがない二人。陸と海の間で、血が流れるたびに深まってゆく憎悪の連鎖。どこかでそれを断ち切ることが出来るのでしょうか。それとも、絶滅を前にしても、人間は互いに殺し合いを続けるだけなのでしょうか。

 「他者との共通項を探すだけではなく、まったく異質な考えを持つ者を、なんとしてでも、お互いに排除し合わないようにする----。人類は、たったそれだけのことも未だに成し遂げられていない。他者とのつながりを得てすら、容赦なく相手を叩き潰すのが人間だ」(単行本下巻p.347)

 「この世に正義の闘いなどありはしない。あるのはお互いの私欲のぶつかり合いだけだ。海の民も陸の民も、自分が正しいと信じることを、粛々と進めているに過ぎない。そこには憎悪と呼べるほどの高尚な人間的感情すらないのだ。情けないほどの自己保身と自己愛があるだけだ」(単行本下巻p.169)

 同胞のために最後まで戦う決意をした男、彼を止めるために全力を尽くす男。互いに深く理解しあいながらも、絶望的な対立構図から逃れられない「陸」と「海」を象徴する二人。

 「これが人間の本質だとしても、それに逆らうのも人間の性質だ。極限状況に陥っても、なるべく人が人を殺さずに済む社会を作りたい。勿論、こんな望みは部分的にしか叶わないだろう。だが、そういう場所を少しでも多く作りたい」(単行本上巻p.78)

 「誰かを助けるという行為は、世界地図を高みから見おろして冷静に何かを配分するのではなく、現場で血まみれになりながら、ひたすら日常を生きていくことであるべきだ。たとえ自分の行動がひどく限定的なものだったとしても、それによって誰かを救えたら……。そう考えなければ人間でいる意味がない」(単行本上巻p.292)

 さらに本作では、「陸」と「海」に加えて、「空」を代表する人物が登場します。それは、若き女性エンジニア、星川ユイ。SF読者の多くが、最も親近感を覚える登場人物でしょう。

 さらに短篇『リリエンタールの末裔』で空を目指したあの少年が、今や老エンジニアになってユイを導く役回りとして登場します。なお、『リリエンタールの末裔』を含む短篇集について、文庫版読了時の紹介はこちら。

  2011年12月19日の日記:『リリエンタールの末裔』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2011-12-19

 「人類を宇宙へ逃がすのは無理でも、深宇宙へ向かって何かを打ち出すことはできる。人類という生物がこの星に生きていた証(あかし)を、我々は、地球外のどこかに残せるのではないか」(単行本上巻p.63)

 人類の文化と地球生物の種を、アシスタント知性体と共に、25光年先にある地球型惑星に届けるための宇宙船開発プロジェクトが始動します。しかし、この夢は激しい非難を浴びることに。宇宙船を飛ばす金と資源があるなら、一人でも多くの人命を救うために使うべきだ、と。

 「人間を救うのが大切だってことはわかる。でも、私には夢のない人生も耐えられない」(単行本上巻p.144)

 「ユイは自分の夢を疑ったことがない。それだけに、宇宙に興味を持たない人間を想像するのは難しかった」(単行本下巻p.100)

 多くのSF読者も「宇宙に興味を持たない人間を想像するのは難しい」と感じているのですが、実はそういう人間の方が多数派なのです。おかげで、テロを含む様々な妨害、事故、政治状況により、中断を余儀なくされる宇宙船打ち上げプロジェクト。

 「人類全体の前に、〈大異変〉という巨大な壁が立ち塞がっている。そんなときに宇宙船を打ち上げるだの、遠くの星へ地球の文化と生命の種を届けるなど、冗談もたいていにしろと怒られても仕方がない。私は、本当は、この時代にいてはいけない人間だったのかもしれない。でも、この時代に生まれてしまった。この時代で夢を見てしまった」(単行本下巻p.125)

 「アキーリ号は政府の船ではありません。政治だの人種だのを超えた、人類全体のものなんです。個人の想いを二十五光年先まで届けようというんだ」(単行本下巻p.358)

 「私たちの代わりに、どうか素敵な星々の輝きを見て頂戴。私たちは必ず、あなたたちに追いついてみせるから。絶対に、そう信じているから……」(単行本下巻p.387)

 それぞれ人間が持つ特定の側面を象徴しながら、その運命を交差させてゆく三人の主役たち。その物語だけでも充分に面白いのですが、さらに本書をSFとして優れたものにしているのは、随所に見られる「人間とは何か」という厳しい問いかけ。

 マシンでありながら人間の精神と文化を受け継いでいる知性体、意識構造が改変されている「救世の子」たち、陸上民とは異なる文化を持つ海上民、人類とDNAを共有しながらその発現形態が極端に異なる海舟、人類の遺伝子を保存するために人為的に創られた深海生物ルーシィ。

 誰が「人類」で、誰がそうでないのか。未来に遺すべきは、遺伝子なのか、文化なのか、それとも静かに滅びを受け入れることこそが「人間的」なことなのか。

 迫り来る最後のときを前に、激化する血まみれの闘争と、顕在化する「人類」という概念のゆらぎ。今を生きるために死力を尽くす者たち、数千メートルの厚さの氷で覆われた地球をなおも生き延びようと計画する者たち、そして、25光年の彼方に、光の届かぬ深海の暗闇に、それぞれ未来を託そうとする者たち。

 というわけで、人間とは何か。人間性とは何か。人間らしい営みとは何か。それらの問いをめぐって、モザイク状に入り組み拡散してゆく「人類」の姿を、圧倒的なスケールで描いたSF長編です。前作『華竜の宮』を読んだ方なら、ラストがどうなるか分かっているわけですが、それでも決して失望することはないでしょう。

 個人的には、「深紅の碑文」というタイトルに込められた皮肉と苦々しさに驚くと共に、それと対比するようにそっと置かれた別の「深紅」に、つい涙腺が弛んでしまいました。どんなに現実が過酷で容赦なくても、むしろそれゆえにSFを読む意味はあるのだと、そんな気持ちに。

 「まだ見ぬ世界、見るはずのない世界を、人間の想像力は易々と形にして、私たちの深紅の血を騒がせる。 人間の想像力を否定できるものなど、この世のどこにも存在しない。私たちは想像力ひとつで、どこまでも飛び続ける」(単行本下巻p.396)


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