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『星座と文学』(福永信) [読書(随筆)]

    字は星、文は星座。
    鍵盤は星、楽譜は星座。
    現実は星、夢は星座。
    犯人はホシ、イタズラした子供は正座。

 得体の知れない不可思議な作品で小説の可能性を広げつつ多くの読者を困惑させてきた福永信さんのエッセイ集、なのか? 単行本(メディア総合研究所)出版は、2014年01月です。

 小説の常識をてんで無視した奇天烈なナニカを書く福永信さんが、これまで発表してきた様々な文章を収録した一冊です。

 様々な豪華ゲストを招いて美術館めぐりをしながら、福永信が記者として彼または彼女に取材して、新聞記事風にまとめるという『現地集合!! 福永信と行く美術館』。あちこちで有名ゲストと黙々と「筆談」する『福永信の京風対談』。この二本の連載を中心に、様々な随筆、エッセイ、評論、その他の奇天烈なナニカが集められています。

 個人的に気に入ったのは、『福永信の京風対談』。何しろゲストと二人で黙って「筆談」した原稿をそのまま文字起こしして載せてしまうというナイス着想。着想はいいけど実際にやるなよと言われる事態をも恐れぬ著者。というよりゲストの付き合いの良さ。巻末にはその「手書き原稿」がそのまま掲載されているという豪華付録つき。

 いきなり「筆談」するといっても、想像してみると、これ結構ツラそう。相手が待っている間に、アドリブで「自分のセリフ」を手書きするという、この間の持たなさというか、気づまりな感じというか。

 試しに、長嶋有さんとの筆談の一節を引用してみます。

 「なるほど(←とりあえず)。いきなり半ページ以上書いたね。それでいて怪人二十面相ぽさもブレない。早熟でないとしたら晩成型なのだろうね。なんか語尾がひきずられてきた。(あと十分位か?)」

 「そのとおり。カツオと同じだ。僕はね、自分の三十代、四十代、五十代には全く興味ないんだけど、それ以降の年齢の自分が何を思うか、気になって仕方ない」(単行本p.0128)

 どうですか。250ページ足らずの単行本のページ数に四桁の数字を使うという、この贅沢。じゃなくて、私が言いたいのはそんなことではなくて、京都駅のプラットホームで乗車直前まで黙々とこんな「筆談」を続けている二人の姿を想像すると世の中まんざらではないという気持ちになるということなのです。

 しかし、円城塔さんとの筆談になるとこれが厳しい。何しろ円城さんの提案により、SFフェスの席上で、通常の対談を続けながら、それとはまったく無関係な内容の筆談を同時にやるという、何の罰ゲームかという過酷な執筆環境。

 「円城さん,読めないよ~。でも文字であることが分かるから、ま、いいか!円城さんよ! ←こんなのが画面に出てました」

 「今、自分でも読めないなと思いました。と書いているうちに形式の話なりましたが…この間に5、6分はさまりました」(単行本p.0156)

 もう会話になってません。

 そして、法貴信也さんとの筆談になると極悪で、「互いの背中にひと文字ひと文字書いては相手がそれを原稿用紙に書き写す」という無茶苦茶な条件で筆談するというチャレンジャー号大爆発。

 「臼でころんで、はぁ、筆談を提案した、と。父母はちくわもんでいる。水。筏をすばやくしまって、とめ、Wでしょ?」(単行本p.0142)

 もう日本語になってません。

 こんな具合に、よく言えば実験的な、悪く言えば失敗した実験的な、文章をいっぱい収録。もちろん、少なくとも形式的にはごく普通の随筆も入っています。

 「私はもし道端にオチが落ちていたらどんなに遠くにそれがあるとしても拾いに行く者である」(単行本p.0006)

 「そもそも、いいかな、この小説は死んでからこそ、再読したい小説なんだぜ」(単行本p.0168)

 「どうか、そうさせてくれ。おじいさんだと、そう呼ばせてくれ。たのむ……。父親だと、いずれ対決しないと、つまり子は父を乗り越えねばならないようだから、世界的な慣例によると、どうやら」(単行本p.0182)

 「そろそろ実現されてもいいものの一つにバリアーがある。硬質な半球型や平面状のものなどその形状はさまざまだが、だいたいは透明で発光しており、重要なものを保護するのが目的である」(単行本p.1240)

 「彼が素晴らしい日本語の書き手であることを私は積極的に認める者である(中略)この本を読んで私は深い感銘を受けている。脱帽する。 この本には、福永信のエッセンスがある。拙者が推すゆえんである。  ----福永信(小説家)」(帯)

 最後の引用箇所を(帯)としたのは、これが本書の帯に書かれた、いわゆるアオリ文、宣伝文の一節だからです。帯領域を目一杯に使って、著者をひたすら褒めたたえ、帽子が足らなくなる勢いで何度も脱帽しておられます。

 ページ数表記が四桁だというのは前述した通りですが、さらに各文章のタイトルが西暦四桁または四桁二つに統一されていたり、カバー表が四コマ漫画だったり、カバー裏は八コマ漫画だったり、カバーを外しても四コマ漫画だったり、背表紙が四コマだったり、帯の紹介文が四コマだったり、なぜか四への執拗なこだわりが随所に見られるのも謎。

 というわけで、小説作品から感じられる福永信テイストのまま、美術について、芸術について、文学について、書かれている不思議な一冊。謎は尽きませんが、福永信さんが多くの作家や芸術家から愛されていることは分かりました。

 「華やかなゲスト陣(中略)は、ひとえに彼の人望によるものであろう。編集者に必須の条件である。脱帽する思いである」(帯)


タグ:福永信
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