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『深紅の碑文(上)(下)』(上田早夕里) [読書(SF)]

 「〈大異変〉があってもなくても、人間社会は闘争を求めるだろう。悲しいかな、それが人間の本質である。自分たちは、それを人類の歴史から葬り去ることに失敗した。(中略)長い闘争の果てに自分たちが得たのは、血潮に汚れた醜い碑文だけだ。沈黙の檻に真実を閉じ込め、悲しい人々の声を封印し、口当たりのよい虚飾を身にまとった----血まみれの深紅の碑文」(単行本下巻p.333)

 海面上昇により陸地がほとんど失われた25世紀の地球。迫り来るホットプルーム噴出とそれに続く氷河期、そして全球凍結。人類絶滅の危機を前にして、それでも血で血を洗う憎悪の連鎖が止まる兆しは見えなかった。『華竜の宮』から三年、ついに刊行された続篇。単行本(早川書房)出版は、2013年12月です。

 高く評価された本格SF巨編、『華竜の宮』の続きです。あのラストに至るまでの数十年に起きた出来事がついに詳しく語られるのです。前作について、単行本読了時の紹介はこちら。

  2010年12月28日の日記:『華竜の宮』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2010-12-28

 〈大異変〉が近づくにつれて資源の奪い合いが始まり、陸上民と海上民の対立はエスカレート。生活に困窮した一部の海上民は、新手の海賊「ラブカ」となって陸上民の輸送船を襲撃するようになっています。

 「陸上民による過度の生産と備蓄の繰り返しは、陸地の資源を食い潰して、海洋資源を根こそぎ収奪する方向へ突き進んでいった。この行為は、海洋資源だけに頼って生活している海上民の暮らしを脅かした。急激に困窮していく海上社会に配慮して、彼らの行く末を心配してくれる陸上企業は皆無だった」(単行本上巻p.57)

 主人公の一人は、ラブカのリーダーであるザフィール。そしてもう一人は、前作でも主役の一人だった青澄。あくまで陸に対する闘争を続けようとするザフィールと、今や救援団体の理事長として陸と海の対立を解消させるために奔走する青澄。二人の信念と行動が物語を激しく駆動してゆきます。

 「あんたにはわからないだろうな。陸上民同士の差別は、人間に対する差別だ。だが、陸上民が海上民に対して行う差別は、違う生物に対する蔑みだ」(単行本下巻p.12)

 「生命の仕組みに手をつけることで、人間は人間の定義を拡張した。この拡張に限度はない。(中略)形態の差によって人間とそうでないものが分けられる----そういう時代は、もう終わったんだ。比喩ではなく真の意味で、生命の価値はフラットになった。科学がそう変えた」(単行本下巻p.14)
 
 どこまでも和解することがない二人。陸と海の間で、血が流れるたびに深まってゆく憎悪の連鎖。どこかでそれを断ち切ることが出来るのでしょうか。それとも、絶滅を前にしても、人間は互いに殺し合いを続けるだけなのでしょうか。

 「他者との共通項を探すだけではなく、まったく異質な考えを持つ者を、なんとしてでも、お互いに排除し合わないようにする----。人類は、たったそれだけのことも未だに成し遂げられていない。他者とのつながりを得てすら、容赦なく相手を叩き潰すのが人間だ」(単行本下巻p.347)

 「この世に正義の闘いなどありはしない。あるのはお互いの私欲のぶつかり合いだけだ。海の民も陸の民も、自分が正しいと信じることを、粛々と進めているに過ぎない。そこには憎悪と呼べるほどの高尚な人間的感情すらないのだ。情けないほどの自己保身と自己愛があるだけだ」(単行本下巻p.169)

 同胞のために最後まで戦う決意をした男、彼を止めるために全力を尽くす男。互いに深く理解しあいながらも、絶望的な対立構図から逃れられない「陸」と「海」を象徴する二人。

 「これが人間の本質だとしても、それに逆らうのも人間の性質だ。極限状況に陥っても、なるべく人が人を殺さずに済む社会を作りたい。勿論、こんな望みは部分的にしか叶わないだろう。だが、そういう場所を少しでも多く作りたい」(単行本上巻p.78)

 「誰かを助けるという行為は、世界地図を高みから見おろして冷静に何かを配分するのではなく、現場で血まみれになりながら、ひたすら日常を生きていくことであるべきだ。たとえ自分の行動がひどく限定的なものだったとしても、それによって誰かを救えたら……。そう考えなければ人間でいる意味がない」(単行本上巻p.292)

 さらに本作では、「陸」と「海」に加えて、「空」を代表する人物が登場します。それは、若き女性エンジニア、星川ユイ。SF読者の多くが、最も親近感を覚える登場人物でしょう。

 さらに短篇『リリエンタールの末裔』で空を目指したあの少年が、今や老エンジニアになってユイを導く役回りとして登場します。なお、『リリエンタールの末裔』を含む短篇集について、文庫版読了時の紹介はこちら。

  2011年12月19日の日記:『リリエンタールの末裔』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2011-12-19

 「人類を宇宙へ逃がすのは無理でも、深宇宙へ向かって何かを打ち出すことはできる。人類という生物がこの星に生きていた証(あかし)を、我々は、地球外のどこかに残せるのではないか」(単行本上巻p.63)

 人類の文化と地球生物の種を、アシスタント知性体と共に、25光年先にある地球型惑星に届けるための宇宙船開発プロジェクトが始動します。しかし、この夢は激しい非難を浴びることに。宇宙船を飛ばす金と資源があるなら、一人でも多くの人命を救うために使うべきだ、と。

 「人間を救うのが大切だってことはわかる。でも、私には夢のない人生も耐えられない」(単行本上巻p.144)

 「ユイは自分の夢を疑ったことがない。それだけに、宇宙に興味を持たない人間を想像するのは難しかった」(単行本下巻p.100)

 多くのSF読者も「宇宙に興味を持たない人間を想像するのは難しい」と感じているのですが、実はそういう人間の方が多数派なのです。おかげで、テロを含む様々な妨害、事故、政治状況により、中断を余儀なくされる宇宙船打ち上げプロジェクト。

 「人類全体の前に、〈大異変〉という巨大な壁が立ち塞がっている。そんなときに宇宙船を打ち上げるだの、遠くの星へ地球の文化と生命の種を届けるなど、冗談もたいていにしろと怒られても仕方がない。私は、本当は、この時代にいてはいけない人間だったのかもしれない。でも、この時代に生まれてしまった。この時代で夢を見てしまった」(単行本下巻p.125)

 「アキーリ号は政府の船ではありません。政治だの人種だのを超えた、人類全体のものなんです。個人の想いを二十五光年先まで届けようというんだ」(単行本下巻p.358)

 「私たちの代わりに、どうか素敵な星々の輝きを見て頂戴。私たちは必ず、あなたたちに追いついてみせるから。絶対に、そう信じているから……」(単行本下巻p.387)

 それぞれ人間が持つ特定の側面を象徴しながら、その運命を交差させてゆく三人の主役たち。その物語だけでも充分に面白いのですが、さらに本書をSFとして優れたものにしているのは、随所に見られる「人間とは何か」という厳しい問いかけ。

 マシンでありながら人間の精神と文化を受け継いでいる知性体、意識構造が改変されている「救世の子」たち、陸上民とは異なる文化を持つ海上民、人類とDNAを共有しながらその発現形態が極端に異なる海舟、人類の遺伝子を保存するために人為的に創られた深海生物ルーシィ。

 誰が「人類」で、誰がそうでないのか。未来に遺すべきは、遺伝子なのか、文化なのか、それとも静かに滅びを受け入れることこそが「人間的」なことなのか。

 迫り来る最後のときを前に、激化する血まみれの闘争と、顕在化する「人類」という概念のゆらぎ。今を生きるために死力を尽くす者たち、数千メートルの厚さの氷で覆われた地球をなおも生き延びようと計画する者たち、そして、25光年の彼方に、光の届かぬ深海の暗闇に、それぞれ未来を託そうとする者たち。

 というわけで、人間とは何か。人間性とは何か。人間らしい営みとは何か。それらの問いをめぐって、モザイク状に入り組み拡散してゆく「人類」の姿を、圧倒的なスケールで描いたSF長編です。前作『華竜の宮』を読んだ方なら、ラストがどうなるか分かっているわけですが、それでも決して失望することはないでしょう。

 個人的には、「深紅の碑文」というタイトルに込められた皮肉と苦々しさに驚くと共に、それと対比するようにそっと置かれた別の「深紅」に、つい涙腺が弛んでしまいました。どんなに現実が過酷で容赦なくても、むしろそれゆえにSFを読む意味はあるのだと、そんな気持ちに。

 「まだ見ぬ世界、見るはずのない世界を、人間の想像力は易々と形にして、私たちの深紅の血を騒がせる。 人間の想像力を否定できるものなど、この世のどこにも存在しない。私たちは想像力ひとつで、どこまでも飛び続ける」(単行本下巻p.396)


タグ:上田早夕里
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『死なないやつら 極限から考える「生命とは何か」』(長沼毅) [読書(サイエンス)]

 「何も食べず、光合成もせずに地中深くでメタンを生産しつつ自分の体をつくる超好熱菌、あらゆる濃度の塩分や低温、高温にも耐え、世界中にはびこるハロモナス、2億5000万年も岩塩の中で生きつづけたバチルス、そしてムダとしか思えない耐放射線能、耐高圧能や耐重力能をもつデイノコッカス・ラジオデュランスや大腸菌……。(中略)極限生物が私たちに示しているのは、「生命」というものの「わけのわからなさ」ではないでしょうか」(新書版p.96)

 高温、高圧などの極限環境下でも死なない、それどころか活動を続け、増殖する生物がいる。極限生物を通して「「生命とは何か」とは何か」を考えるメタバイオロジー入門。新書版(講談社)出版は、2013年12月です。

 生命とは何か、という問題の難しさは、つまるところ、この問題が正確には何を問うているのかという点にある。「第1章 「生命とは何か」とは何か」というクールなタイトルの導入部で、著者はそう語り始めます。

 「生物学=バイオロジーが「生命とは何か」を探求する学問であるのに対して、さきほど述べた「生命とは何か----とは何か」という問いを考える「メタバイオロジー」という分野があるのです。私はこれを、物理学に対する形而上学にならって「命而上学」と訳してもいます」(新書版p.15)

 メタバイオロジー、命而上学。そんな魅惑的な研究分野があることを初めて知りました。

 続いて著者は、生命が誕生したのはもちろん不思議なことだが、そんな現象が40億年も継続してきたこともまた不思議なことだと、言い出すのです。

 「この宇宙で炭素化合物が安定して存在するには、メタンか二酸化炭素になるしかなく、それ以外の炭素化合物は、どれも不安定な状態にあるのです。(中略)不安定な状態ですから、長続きしません。この宇宙にそのまま置いておくと、必ずメタンか二酸化炭素になります」(新書版p.29)

 「ところが地球上の生物は、それが生きているかぎり、二酸化炭素にもならず、メタンにもならずに、不安定な炭素化合物のまま存在しつづけるのです。地球生命という総体を見れば、40億年前に発生して以来、そんな不安定な状態にもかかわらず途絶えることなく存在していたのです。ある現象がこれほど長続きすることは、地球史でもきわめて稀です。実に不思議です」(新書版p.30)

 還元反応の末にメタンとして安定するわけでもなく、酸化反応の末に二酸化炭素として安定するわけでもなく、化学的に不安定な炭素化合物が40億年も地球上に存在し続けているのは「実に不思議」なことだ、という指摘には興味深いものがあります。まるで自然の法則に逆らっているような「生命現象」の不可思議さに、改めて驚きを感じることに。

 「第2章 極限生物からみた生命」は、本書の白眉といってよい章です。ここでは、摂氏122度の高温でも増殖するアーキア、殺菌灯レベルの紫外線にも平気で耐える微生物など、極限生物が次々と紹介されるのです。

 「ふつうのバクテリアである「大腸菌」を少しずつ高圧に馴らすようにして培養したところ、意外にも簡単に適応して、なんと2万気圧でも生きていることが確認されたのです。(中略)現実の地球には存在しない「水深16万メートルや20万メートルの深海」に相当する圧力にも耐えられるのです」(新書版p.51、52)

 「大腸菌とパラコッカス・デニトリフィカンスは、なんと遠心機の性能の限界に達しても、平気で細胞分裂し、増殖したのです。そのときの重力とは----驚くなかれ、40万G。いうまでもなく、自然界にはこんなばかげた重力は存在しません。地球生命として、過剰にもほどがあるでしょと言いたくなるような耐性です」(新書版p.80)

 極限生物というと非常に珍しい、特定の厳しい環境にしかいないようなイメージがありますが、何と私たちの体内にもうようよしている大腸菌が、実は極限生物だったなんて。

 「デイノコッカス・ラジオデュランスは、なぜこのようなケタ違いの放射線に耐えることができるのか? そのメカニズムがわかったのは、最近のことです。彼らが「ゲノム」を4セットもっていることに、その理由があったのです。(中略)この驚くべき修復能力に敬意を表して、デイノコッカス・ラジオデュランスのことを私は極限生物の「癒し系」と呼んでいます」(新書版p.73、74)

 「2億5000万年は、極限生物の生存期間のレコードです。バチルスは「紫外線」部門とともに「長寿」部門の王者でもあるのです。この驚くべき耐久力に敬意を込めて、私はバチルスを極限生物の「ガマン系」と呼んでいます」(新書版p.76)

 ゲノムを相互四重バックアップしておき、放射線で一つや二つ破壊されても上書き修復してしまう球菌、恐竜が地球上に出現するより前に出来た岩塩の中から生きて発見されたバクテリア。地球生命としてオーバースペックとしか思えないその能力には大いなる感銘を受けます。もっとも、著者が彼らに敬意を評するやり方は少々オヤジ臭いとは思いますが。

 特定の極限環境にだけ強い生物ばかりではありません。極限生物しぶとさ部門とでも言うべき分野には、驚くべき例が存在するのです。

 「高濃度の塩分にも、真水にも、高温にも、低温にもへっちゃらで、食べ物がないところでは従属栄養から独立栄養に切り替えて自分で栄養をつくりだす----ハロモナスこそは「究極のジェネラリスト」といえます。(中略)どれだけ広範囲の環境変動に耐えられるか、という視点は「極限」という概念に新しい意味づけを与えるものです」(新書版p.69)

 この第2章があまりにも面白いため、続く「第3章 進化とは何か」および「第4章 遺伝子からみた生命」は、ちょっと退屈してしまいます。そして「第5章 宇宙にとって生命とは何か」では、第1章で提示した問題に答えようとします。しますけど、既に読者も予想している通り、話は発散してゆくのでした。なお、個人的には、生命の起源を彗星に求めるパンスペルミア説がプッシュされているのが印象的。

 全体を通読すると、ややとっちらかった印象を受けます。これは著者も自覚的にやっているらしく、「おわりに」には次のように書かれているのです。

 「この本は、当初は「極限生物の博物学」あるいは「極限生物のカタログ」をめざしていました。少なくとも、この本の編集者である山岸浩史さんはそう目論んでいましたし、私にも山岸さんの意図に応えようという気持ちはありました」(新書版p.228)

 「編集者の山岸さんが抱いていた「極限生物の博物学」という野望は、私の非力のために崩れ落ちてしまいました。しかし、それで私はむしろ気が楽になり、好きなことを好きなように書かせてもらいますよ、と開き直ることができました」(新書版p.230)

 というわけで、極限生物やメタバイオロジーについて、専門家が開き直って好きなことを好きなように書いた本。まとまりは悪いものの、驚きの話題満載で楽しめます。読めば生命のことがよく分かるようになるわけではなく、むしろ生命のことがわけ分からなくなる一冊です。


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『日本SF全集3 1978-1984』(日下三蔵 編) [読書(SF)]

 「まさに新世代の作家が大挙して出てきた時期だね」(単行本p.453)

 半世紀に渡る日本SFの歴史を、一作家につき一短篇を厳選して収録することで、六冊にまとめてしまうという『日本SF全集』、その第三巻。単行本出版は2013年12月です。

 この巻に収録されている作品の多くが書かれたのは80年代前半で、SFが娯楽小説のメインストリームに躍り出た時代でした。従って収録作品にも、スペースオペラ、ヒロイックファンタジー、少女漫画、海外SFオマージュ作品など、SFの可能性を探求するというよりは軽やかにSFとたわむれるような作品が多く含まれています。


『あたしの中の…』(新井素子)

 「一回や二回の事故なら幸運ってこともあるだろうけど……一週間たらずのうちに二十九回も事故に遭いやがってからに……」(単行本p.12)

 何者かに命を狙われているらしい少女。その驚異的な治癒能力により、何度殺されても無傷で復活するのだが、困ったことに、巻き添えになって死んだ犠牲者の魂が「あたし」の中にどんどん取り込まれて、霊魂ホイホイ状態に。

 星新一氏の強力プッシュを受けた高校生作家デビュー作。「今読んでもよくこれ受賞させたなって思うよね」(単行本p.453)とは牧眞司さんのコメント。


『蒼い旅篭で』(夢枕獏)

 「もう現在(ここ)では、いろんなものが必要なくなってしまった。ほんのわずか、〈古〉のきれぎれのものがどうにかここへたどり着き、その片(かたわれ)だけを残して、意味だけが帰(い)ってしまったのですよ」(単行本p.60)

 世界が終末を迎えるなか、どこにあるとも知れぬ旅籠にやってくる者たち。意匠を凝らした文章で叙情的な雰囲気を醸し出す短篇。


『言葉使い師』(神林長平)

『火星鉄道(マーシャン・レイルロード)一九』(谷甲州)

 この二作品については、『てのひらの宇宙 星雲賞短編SF傑作選』にも収録されています。文庫版読了時の紹介はこちら。

  2013年03月29日の日記:
  『てのひらの宇宙 星雲賞短編SF傑作選』(大森望:編)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-03-29


『そして誰もしなくなった』(高千穂遙)

 「できれば、きみたちなんかに頼みたくない。李酔竜はWWWAの星だ。切札だ。そのかれの運命をダーティペアに委ねたくない」 「ダーティ……」 「ペア!」 「ぶちょー!」(単行本p.137)

 WWWAのトラコン「ラブリーエンジェル」の二人組、ユリとケイ。ひとたび事件解決に乗り出すや惑星一つくらい軽ーく破壊してしまうことから、人は彼女たちをこう呼ぶ。ダーティペア、と。

 人気スペースオペラの読み切り短篇。宇宙カジノに殴り込みをかけたユリとケイは、「トラコンカンフー」こと李酔竜をWWWAに連れ戻すために、彼とギャンブル勝負することになる。燃えよトラコン、あちょーっ、で、死者・行方不明者推定1880万人。まあ、そういうわけ。


『時の封土』(栗本薫)

『流星航路』(田中芳樹)

『われても末に』(式貴士)

 亡霊だらけの城に迷い込んだマリウスとグイン、流星群に突っ込んだ宇宙船、謎めいた少女との時を越えた出会い。この三作品については、牧眞司さんのコメントの通りです。

 「あれだけ先行作品そのままに書けるというのも才能だと思う。(中略)躊躇いがないよね。栗本薫はハガード、ハワードでしょ。田中芳樹は「地球の緑の丘」でしょ。式貴士は「たんぽぽ娘」でしょ。もう、もろ見えるじゃん」(単行本p.461)


『若草の星』(森下一仁)

 「ぼくはバケナメのことを何も知らないことに気付いた。いったいこいつはどうしてぼくに近付いて来たのだろう。何でいつもあんなに優しい想いをぼくに送り続けていたのだろう」(単行本p.258)

 恋人を失い、自暴自棄になって暴れた男が無人惑星に島流しにされる。そこで彼が出逢ったのは、巨大なナメクジ状の異星生物、バケナメ。最初は互いに警戒していた二人だが、やがてバケナメは男の記憶を読み取って恋人の姿に化けて近づくようになってゆく。異星生物との不思議なコンタクトを描いたリリカルな短篇。


『夜明けのない朝』(岬兄悟)

 「いったい、その白い部屋が何で、どうして頭に思い描いた物が出現するのかは判らなかったが、それらは現実の世界に戻ってからも、幻などではなく、確かに存在するのだった」(単行本p.266)

 頭に思い描いたものが実体化するという能力を身につけた男。様々なものを実体化しているうちに、死んだ恋人を復活させることに挑戦したのだが・・・。収録作には意外に少ない「オチのあるショートショート」の典型例。


『オーガニック・スープ』(水見稜)

 「突然、鍋の中でごぼごぼという音がしたかと思うと、中から白い手が現れた。火傷をしてところどころ醜くただれてはいたが、細くすんなりした腕であった」(単行本p.299)

 母親が家出して一人取り残された少女。キッチンに置かれた巨大な鍋の中では、原始スープから生命の発生と進化が起きており、やがて鍋から魚が、恐竜が、ついには母親が現れるのだった。

 奇怪なイメージの奔流、まったく不条理なつながり、読者の予想を裏切り続ける展開。これがデビュー作とはとうてい思えない、迫力ある傑作短篇。すばらしい。


『ウラシマ』(火浦功)

 「体の半分に朝日を浴び、微動だにせず佇立しているティラノサウルス。その後方で、うす紅色のコスモスが今をさかりと咲き乱れ、風にゆれていた。私はふとつぶやいた。「ティラノサウルスにはコスモスがよく似合う」」(単行本p.309)

 突如、家の庭に出現した恐竜。聞けば、亀を助けたところ龍宮城に連れていってもらい、帰ってみればこわいかに、とのこと。とりあえずうちの庭から足どけてくれない? 軽いドタバタコメディで楽しめる作品。


『花狩人』(野阿梓)

 「月光は煌々と湖面に映え、森は、夜と沈黙の底にしずんだ。オージュールは目の前の美貌の花狩人を凝視め、今や自分が伝説と神話の領域に足をふみ入れたことを、完全に理解した」(単行本p.389)

 弟の死の背後に陰謀があることに気付いた銀河連邦捜査局のエージェント。謎めいた花狩人。二人が「銃殺森林」の奥で出逢ったとき、壮大な革命劇が幕を開ける。

 SF的設定、ファンタジー的雰囲気、ホラー的情景、アクション映画的展開、それらをはかなく耽美な絵柄で包み込む少女漫画の世界を、小説で表現しようとした中篇。


『ノクターン・ルーム』(菊地秀行)

 「ピアノ。五線譜。パーカー。この部屋には夜想曲のために、足りないものがひとつある。わかったら、言ってみろ」(単行本p.412)

 夜想曲を作曲するためにホテルの一室にカンヅメになっている作家。作品を生み出す過程を、瀟洒な文章で幻想的に表現した傑作。


『銀河ネットワークで歌を歌ったクジラ』(大原まり子)

 「いいか、よくおぼえとけ。人生の九十八パーセントはクズだよ。だけど、がっかりするんじゃない。残りがちゃんとあるんだからね、坊や」(単行本p.438)

 少年と少女が出逢ったのは巨大なクジラ。長年に渡って宇宙を泳いできたクジラと友達になった二人は、彼のためにある秘密の計画を立てる。ブラッドベリ風の素直なジュブナイルSF。


[収録作品]

『あたしの中の…』(新井素子)
『蒼い旅篭で』(夢枕獏)
『言葉使い師』(神林長平)
『火星鉄道(マーシャン・レイルロード)一九』(谷甲州)
『そして誰もしなくなった』(高千穂遙)
『時の封土』(栗本薫)
『流星航路』(田中芳樹)
『われても末に』(式貴士)
『若草の星』(森下一仁)
『夜明けのない朝』(岬兄悟)
『オーガニック・スープ』(水見稜)
『ウラシマ』(火浦功)
『花狩人』(野阿梓)
『ノクターン・ルーム』(菊地秀行)
『銀河ネットワークで歌を歌ったクジラ』(大原まり子)


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『えーえんとくちから 笹井宏之作品集』(笹井宏之) [読書(小説・詩)]

  「午前五時 すべてのマンホールのふたが吹き飛んでとなりと入れ替わる」

 夭逝した歌人がのこした作品集。単行本(パルコ出版)出版は、2011年01月です。

 優しい言葉、ユーモラスな言葉、響きの面白い言葉が組み合わされて、自然に短歌となってしまったような、無理を感じさせない不思議な作品が集められています。

 まずは、ストレートに感動できる作品の数々。

  「この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい」

  「きんいろのきりん あなたの平原で私がふれた唯一のもの」

  「食パンの耳をまんべんなくかじる 祈りとはそういうものだろう」

  「一様に屈折をする声、言葉、ひかり わたしはゆめをみるみず」


 個人的にはむしろ、あれっ、と思わせる変ちくりんな作品が好き。

  「和尚さんそんなに欠けないで あとからお弟子さんたちも続かないで」

  「冬用のふとんで父をはさんだら気品あふれる楽器になった」

  「美しい名前のひとがゆっくりと砲丸投げの姿勢にはいる」

  「つぎつぎと星の名前を言いあてるたそがれの国境警備隊」

 何と言っても「和尚さんそんなに欠けないで」とか、「たそがれの国境警備隊」とか、そのまま本のタイトルになりそうなキャッチーな言葉の使い方、シビれますよ。


 重機や建造物などの巨大な機械が登場する作品も数多くあり、しばしば擬人化されますが、こういうのもカッコいい。やっぱり巨大メカは抒情ですね。

  「ごみ箱にあし圧縮をかけるとき油田が一部爆発するの」

  「大陸間弾道弾にはるかぜの部分が当たっています」

  「ひとりでに給水塔があるきだし品川までの切符を買った」


 ユーモア感覚は独特で、なんとも言い難い、身体の内側をくすぐられるような笑いを感じさせます。

  「とてつもないけしごむかすの洪水が来るぞ 愛が消されたらしい」

  「ゆるせないタイプは〈なわばしご〉だと分かっている でてこい、なわばしご」

  「もうそろそろ私が屋根であることに気づいて傘をたたんでほしい」


 特に「死」のイメージが登場するとき、その諧謔的な鋭い感覚が冴えるような気がします。

  「クレーンの操縦席でいっせいに息を引き取る線香花火」

  「夏らしきものがたんすのひきだしの上から二段目で死んでいる」

  「音速はたいへんでしょう 音速でわざわざありがとう、断末魔」

  「別段、死んでからでも遅くないことの一つをあなたが為した」

  「天井と私のあいだを一本の各駅停車が往復する夜」


 全般的に、真っ直ぐというか、一途さを強く感じさせる作品集です。ひねくれたユーモアも意地悪な誤誘導もなく、何にせよ悪意というものを感じさせない、そんなきれいな短歌が並ぶ様は、なぜか哀しい。若さ、というものでしょうか。


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『三十二年後生きている!(「江古田文学84」掲載)』(笙野頼子) [読書(随筆)]

 「ははははは、そんなにして追い詰められて、でもそれで落ちるのだよ、ざっまあみろ若い私、わんわん泣いてやがる、そんなので出来るはずないだろうが。手放せない「御自分」が多すぎるんだよ」

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第83回。

 「江古田文学84」(2013年12月発行)に再掲された処女作『極楽』に寄せて、デビュー前の自身について語ったエッセイです。

 「一回落ちるたびにというか発表を待っている間中憔悴したりして、それもまさに内臓が半分もげ落ちたようで立って歩けず、全身の血が下がり、人中でもひとりきりでも、殺されると叫びそうで。(中略)誰に命ぜられてのこの小心と傲慢」

 新人賞に応募しては落選を繰り返していたデビュー前、若き日の苦悩を振り返るエッセイです。その頃に書いていた作品について、今の目で評するわけですが、これが。

 「幻想的で「美しい」ものを書こうとして小説を語るポーズだけを取りつづけた。自分の生命をその上に乗せていない。むろん人に読まれる緊張を想定もせず」

 「自分にとっては自明の小さい場所や集団内の葛藤を「味方してくれて当然でしょ」と言葉足らずに、懐手で書いている」

 き、厳しい。過去の自分を甘やかすどころか、手厳しく叱りつけてきます。「若い頃はあたいもやんちゃでさあ」的なぬるさ一切なし。

 そういえば、今や大学で創作指導にあたっている先生なのでした。

 「小説書く動機がどうだって書いている本人の態度が見苦しくたってそんなの作品とは何の関係もないから。迷惑でも食えなくても生まれるところからしか小説は生まれて来ない。死ぬまで嫌われてて死んでから読まれてるとしても小説は小説だ。あさましく気取ってやがったよ私、今も昔も、見苦しいだけの私だからこそ」

 語られているのは、小説を書くということの覚悟について。特に作家志望の方々は襟を正して読むとよいかと。あと新人賞選考委員の方々も。

 「私を産んでくれて、生き延びさせてくれた親と選考委員には感謝している。だって長い苦節の時私の持ち込みを読んで貰える理由「何? 藤枝静男が褒めた新人だと」一番大事な名前」

 なお、再掲された『極楽』について、Kindle版読了時の紹介はこちら。

  2013年10月25日の日記:
  『極楽 大祭 皇帝 笙野頼子初期作品集(電子書籍版)』(笙野頼子)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-10-25


タグ:笙野頼子
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