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『寿命1000年  長命科学の最先端』(ジョナサン・ワイナー) [読書(サイエンス)]

 「私たちの平均寿命は10年に約2年、1日に約5時間の割合で延びている。言い換えれば、毎日生きるごとに5時間という余分な時間をもらえる計算になる。(中略)20世紀をとおして平均寿命はあまりに早く変わったため、人びとは自分の存命中に寿命が延びるという現象を人類史上はじめて経験した」(単行本p.20、22)

 「私たちの体は驚くほど健康で安定した状態を保つことができる。ある保険統計によれば、二番めの時代に当たる12歳くらいのころの健康状態をずっと維持できるなら、人間は平均して約1200年生きられるという。1000人に1人の割合で一万年生きるらしい」(単行本p.112)

 人間の寿命はどこまで伸ばせるのでしょうか。100年? 200年? 本書に登場する研究者は次のように主張します。500年から1000年、ことによると100万年生きることも夢ではないかも知れない。しかもそんな技術が、あと50年、もしかしたら15年で実現する可能性もある、と。

 長命科学の最先端を探る刺激的なサイエンス本。単行本(早川書房)出版は、2012年07月です。

 異端の生物学者オーブリー・デ・グレイへの取材を中心に、長命科学の現状を紹介してくれる魅力的なポピュラーサイエンス本です。人間を事実上の不老不死にする技術の確立まで私たちはあと一歩のところにいる、基本的な道筋は既に見えている、と唱えるデ・グレイ。著者は懐疑的な立場を捨てないものの、その力強い議論に次第に引き込まれてゆきます。そして読者も。

 全体は三部構成になっています。最初の「第I部 不死鳥」では、長命科学や寿命に関する研究の全体像をざっとながめます。続く「第II部 ヒュドラ」は本書の中核となるパートで、デ・グレイが唱える説を軸に、長命科学の最先端を紹介してくれます。最後の「第III部 良き生とは」では、不老不死を達成したときに生ずる問題、主に心理学や社会学のテーマを扱います。

 何といっても本書のキモは第II部。特に「第5章 老化はいかに進化したか」では、老化現象と寿命の存在は果たして自然選択による適応なのか、という問題を取り上げており、非常に興味深い内容となっています。老化と死は自分の遺伝子を引き継いだ子孫に資源を回すための適応だという説、繁殖期を終えた身体はそれ以上長生きさせる理由がないので「使い捨て」にされるのだという説など、老化の進化をめぐる議論が紹介されるのです。

 「私たちは体の各部品の寿命を世代を重ねるごとに微調整し、すべての部品がほぼ同じ速度で老いるようにした。(中略)私たちの体はほとんどの部品がほぼ同じ時期までもつよう資源を投入したため、あらゆる部品はほぼ同時に弱り衰えて死ぬ」(単行本p.132)

 「自然界では、私たちの遠い祖先は1歳から2歳まで生きるのすら難しく、12歳や20歳まで生きられるのはごく一握りの幸運な人に限られていた。そこで私たちの体はすべての資源を20歳までの健康維持につぎ込み、その後については知らんぷりを決め込んだのだ」(単行本p.112)

 では不老不死の実現はやはり不可能なのでしょうか。本書の主人公であるデ・グレイは、英雄的(あるいはドン・キホーテ的)な突撃を試みます。老化を引き起こす要因を七つに整理し、その全てを同時に解決すればいいというのです。

 生体分子の架橋結合、ミトコンドリアの衰え、細胞内にたまるゴミ、細胞外間隙にたまるゴミ、死亡した細胞とその毒素、癌化。「老化」を構成する七つの分子レベルの現象は既に解明されており、どれも解決の目処が立っている、というのがデ・グレイの主張です。

 「デ・グレイによれば、これら七つの原因にきちんと対処すれば、老化の征服は最終的にはきわめて簡単になるかもしれないという。(中略)生命が七つの弱い環をもつ鎖なら、鎖を強くするには弱い環を一つ残らず直さねばならない」(単行本p.163)

 「デ・グレイのような不死論者は老化を遅らせるだけでは飽き足らない。老化を葬り去りたいのだ。そのためには、あらゆる方面で闘いに勝利せねばならない。(中略)デ・グレイは私たちにはそれが可能だと言う」(単行本p.174)

 「怠りなく努力すれば、私たちは生命の七つの弱い環のうち六つを修理できると納得のゆくまで立証した」(単行本p.213)

 最大の難関である「癌」について、デ・グレイは驚くべき解決案を提示してきます。「人体からテロメラーゼ遺伝子を取り除く」(単行本p.218)ことで細胞の複製を抑制し、その上で「定期的に体内に幹細胞を注入し、これらの消耗の激しい部分を再生しようというのだ」(単行本p.218)。何というクレイジーな発想でしょう。SF者、大喜び。

 デ・グレイが唱える(異端の、過激な)主張と対比させるように、「第8章 メトセラ戦争」では主流派の医学・生物学の長命研究を概説。例えば「サーチュイン」や「ラパマイシン」といった広く知られるようになった話題もとりあげられています。

 長命研究の最先端を広く紹介する本というよりは、個性豊かな(つまり変人の)異端研究者とその学説を紹介する本、という印象が強い一冊です。何しろあごひげを長く伸ばした、酒びたりの「異端の科学者」が、酒場でビールをあおりながら、あと15年やそこらで人間は誰も死ななくなる、子供という存在はこの世から消える、とわめくのですから。

 長命科学の主流については多くの本が出版されているのでそちらを参照して頂きたいのですが、こういう癖が強いけどハマると異様に面白いサイエンス本を好む人にはお勧めです。私のように「異端の研究者が唱える過激なビジョン」というのが好きな読者や、ハードSFのネタを探している方などにお勧めします。


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『言えないコトバ』(益田ミリ) [読書(随筆)]

 人気イラストレーターが漫画と文章でつづる「言ってもいいはずなのになぜか気恥ずかしさを覚えて口に出せない言葉」にまつわるエッセイ集。単行本(集英社)出版は2009年08月、私が読んだ文庫版は2012年06月に出版されています。

  「言えないコトバってないですか? 人が言うのはいいけど、自分はなんか言えない、みたいな」

  「たとえば、お店で「おあいそ」って言うのが照れくさいとか」
  「別に、オレ言うけど?」

  「うーん、たとえば、「おふくろ」って、なんか、言いにくいとか」
  「別に、オレ言うけど?」

  「・・・。この質問の意味がどうやっても通じない人が必ずいます」

 というわけで、上の質問の意味が通じる方なら、思わず「そうそう」と膝を打つであろう共感系エッセイ集です。「おひや」、「おもてなし」、「遠慮のかたまり」、「ギャラ」、「彼氏」、「おばさん」などの単語、「思ってたより」、「結婚しないんですか?」、「育ちが悪い」、「元気だけが取り柄です」、「親にもらった大事なカラダ」、「今の子供はかわいそう」、「元気をあげる」などのフレーズが収録されています。

 著者にとって気恥ずかしくて口に出しにくい言葉、には大雑把に三つあるようです。ひとつ目はその言葉そのものが恥ずかしいケース(例えば自転車のことを「チャリ」と言う)、二番目は相手に変な誤解をされそうで思わずひるんでしまうケース(例えばズボンのことを「パンツ」と言う)、最後に子供の頃から馴染んでいる言葉があるのに今風に言い換えるのに抵抗があるというケース(百貨店のことを「デパート」と言う)。

 よく耳にする「遠慮のかたまり」という言葉が言えない、というエッセイを読んで驚きました。そんな言葉、まったく聞いた覚えがないからです。不安な気持ちで読み進めると、最後に「この言葉が大阪弁ということをこの本を出してから知りました」という註釈が付いていてひと安心。きっと単行本を読んだ非関西圏の読者から「そんな言葉、聞いたことありません」という声が殺到したんだろうなあ。

 編集者から「益田さん、プレゼンフィーはもう少しお待ちいただけますか」という連絡があり、「どういう意味ですか」と尋ねたら、抗議されたと思ったらしく、大いにうろたえていた。「プレゼンフィー」が「原稿料」のことだと知らなかっただけなのに。というエッセイにもびっくり。「プレゼンフィー」って、知らんよそんな言葉。

 と思ったら、やはり最後に註釈が。「この言葉はもう聞かなくなりました」。業界用語って、はかないですよね。

 口に出しにくい言葉とは逆に、平気で口にするけど、それでいいのか気になる言葉というのも登場します。

  「なんかさ、自分の使ってるコトバが古くなった気がするんだけど」
  「たとえば?」

  「ノリノリ」
  「普通じゃない?」

  「「ドキッ」とか」
  「あー、ちょっとわかる気がする」

  「「マジ?」とかも、今はどうなんだろ」
  「若者との接点がないからわかんないよね」

  「不正解のときの擬音語は?」
  「「ブブーッ」じゃないの?」

  「そういうのも、もう古いのかもよ?」
  「「ガーン」」

 言葉の話とは別に、恋人と一緒に住んでいるのにやたらと「ひとり暮らしの楽しみ方」みたいなテーマで仕事の依頼が来る、インタビューで「ひとりで生きて行くと覚悟を決めた理由は?」と聞かれたり、男といっしょに旅行にいったのに何のためらいもなく「ひとり旅もいいですよね」と言われたりする、という愚痴にはちょっと笑ってしまいました。おそらく世間では、著者のイメージと『すーちゃん』あたりが一緒くたになってるんでしょうね。

 なお、文庫化にあたって、「つかえない」、「降りてくる」、「男前」、「元気をあげる」、「忙しい」の項目を追加しているそうなので、単行本を読了した方もチェックしてみて下さい。


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『気象を操作したいと願った人間の歴史』(ジェイムズ・ロジャー・フレミング) [読書(サイエンス)]

 「気象・気候制御が明暗入り交じる歴史を持つことをわれわれは知っている。傲慢さから生まれ、ペテン師と、誠実だが道を誤った科学者たちを育んできた歴史である」

 雲に砲弾を撃ち込む、高いやぐらの上で怪しげな薬品を蒸発させる、航空機からドライアイスの粉やヨウ化銀を散布する・・・。レインメーカー(雨乞い師)から気候兵器、そしてジオエンジニアリング(地球工学)まで、大気への干渉による気象・気候制御の(失敗の)歴史を振り返り、気候変動対策の議論に求められる歴史的視野を提供してくれるサイエンス本。単行本(紀伊國屋書店)出版は、2012年07月です。

 軌道上に巨大な鏡を配置して太陽光を反射させる、成層圏にエアロゾルを注入して太陽光を遮断する、海洋肥沃化により植物プランクトンを増加させ二酸化炭素を吸収する、上昇下降海流を制御して二酸化炭素を深海底に閉じ込める・・・。温暖化対策として議論されているジオエンジニアリング(地球工学)は、果たして信頼に足る科学技術なのでしょうか。本書の立場は、極めて懐疑的なものです。

 「地球規模の気候エンジニアリングは実証されていないし、実証可能でもないうえ、信じられないくらい危険なのだ」(単行本p.19)

 「ほとんどの研究は、地球工学にまつわる重要な倫理的問題について、無視するか、矮小化するか、言及を避けるかしてきた」(単行本p.395、396)

 「この種の提案を支えているのは、思いつき的な計算や、十分とは言えない単純なコンピューター・モデルの操作であることが多い。こうしたアプローチで忘れられているのは、人間が天気や気候を支配しようとしてきた波瀾万丈の歴史なのである」(単行本p.15)

 科学技術史の専門家である著者は、歴史に学ぶべきだと指摘します。大気に干渉することで気象・気候を制御する、雨を振らせ、霧を消し、嵐の進路を変える、という試みには長い失敗の歴史があり、そこから何の教訓も得ることなく同じ過ちを繰り返すべきではないと。

 本書は、この気象・気候制御の歴史を概観した一冊。全体は八つの章に分かれています。

 第一章「支配の物語」から第四章「霧に煙る思考」では、気候制御を扱った神話やフィクションからはじまり、レインメーカー(雨乞い師)、レインフェイカー(雨乞い詐欺師)、そして病的科学(疑似科学)を信じ込んだ科学者たちの歴史が語られます。悲しいことに、これら三者のやってきたことは、事実上、同じなのです。

 生贄や祈祷や鐘などの儀式、雲に向けて撃つ大砲、大気を「刺激」して「トリガー」を引き水分凝縮の「種」となる化学物質を散布する。これまでに信じられてきた様々な気象制御の試みが次々と登場します。そして、レインメーカーの基本原理はどれも同じであることもまた明らかになります。

 「注意深い読者ならお気づきだろうが、人工降雨のテクニックが伝統的なものであれ科学技術的なものであれ、指定された地域が十分に広く、実行する者がどこまでもやりつづければ、いつかは雨が降る」(単行本p.172、173)

 第二次世界大戦中に開発されたファイドー・システム(大量のガソリンを燃やすことで一時的に飛行場の霧を消す)などごく一部の、そして非常時にしか使えないほどコストがかかる成功例を除き、これまで試みられてきた人工降雨をはじめとする気象・気候制御はいずれも効果が実証されていない、というのはちょっとした驚き。

 余談ですが、オルゴンエネルギーを応用した「クラウドバスター」を開発して自由自在に雲を出現消失させた(さらにUFOまで撃退した)ヴィルヘルム・ライヒの後継者たちは、いまでもクラウドバスターを使ってケムトレイルと戦っているそうです。

 ここまでは比較的のどかというか、牧歌的な雰囲気すら漂っているのですが、ここから先は世知辛くなってきます。

 「第五章 病的科学」と「第六章 気象戦士」は、気候制御のいわば近現代史を解説。気象制御技術の商業化から始まり、やがて軍事利用に向けた取り組みへ。気象兵器への期待と、敵国が先に開発することへの恐怖から、疑似科学的な研究に莫大な予算が投入されることになるのです。

 そしてベトナム戦争では、気象兵器による「攻撃」が実行されました。

 「第五四天候偵察中隊は、三機のWC-130と一機あるいは二機のRF-4を2600回あまりの種まきに出撃させ、約五年間に五万発近い降雨弾を消費した。その費用は年間およそ360万ドルだった」(単行本p.314)

 効果はあったのでしょうか。

 「軍による気象改変は戦術的大失敗に終わった」(単行本p.315)

 本書に登場するエピソードのうちおそらく最も気が滅入るのは、チェルノブイリ原発事故の直後、大量の放射性物質を含む雲がロシアまで到達するのを防ぐため、人工降雨によりすべてベラルーシに落下させよ、という命令を受けたソ連のパイロットが、果敢に放射性プルームに飛び込んでゆく話でしょう。気象・気候制御が持つ様々な負の側面を象徴するような話です。

 「第七章 気候制御をめぐる恐怖、空想、可能性」では地球工学をめぐる様々な構想を紹介し、「第八章 気候エンジニア」では地球工学の現状を批判した上で、温暖化に対する「対策の過剰と不足の中間に位置する、緩和と適応の「中道」を探る」(単行本p.389)べきだと強調します。

 人為的ミスによる破局、モラルハザードの引き金となる可能性、商業化や軍事利用による弊害、最終的な責任主体が誰かという問題、政治的対立や地域紛争の原因、効果が予想できず、副作用は甚大で、結果は回復不能で、途中で止めることも、やり直しも出来ない、何より知識が不足していて有効性が判断できない、そして推進者たちがこれまでの(失敗の)歴史についてほとんど何も知らない、そんな技術に地球の未来を賭けてよいのでしょうか。

 というわけで、通読すれば、著者がジオエンジニアリングに対してとっている懐疑的な立場にも納得がゆくようになります。この技術を評価するとき、歴史的視野を持つことが重要だということがよく分かる一冊です。人工降雨、気象兵器、そして地球工学に興味がある方にお勧めです。

 なお、ジオエンジニアリングの一般的な解説書としては、例えば『気候工学入門  新たな温暖化対策ジオエンジニアリング』(杉山昌広)がありますので(2011年10月05日の日記参照)、本書と合わせて読むとよいでしょう。


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[SpFX]最後の超常同人誌『Spファイル vol.10』(Spファイル友の会) [その他]

8月12日(日曜日)、東地区 Rブロック15bにて販売予定。
詳細情報はこちら。
    Spファイル友の会
    http://sp-file.oops.jp/

 Spファイル友の会から夏コミ(コミックマーケット82)に向けて新刊が出ます。UFOやら宇宙人やらの写真を見ると、それがどんなにイカガワシくても、いやむしろその方がいっそう、コ・コ・ロ・ト・キ・メ・くとおっしゃる貴方、8月12日(日曜日)、東地区 Rブロック15bにてお待ち申し上げます。

 さて、今回のSpファイルは、「超常ビジョン」および「Spレビュー」の二本立て。

[超常ビジョン]

 なんじゃこら奇妙奇天烈ヤバさフルスロットルUFO写真集。超常人形情景と懐かし超常ドラマに胸の高まり。かつて全国のチビっ子たちを心底ビビらせた「宇宙人に惨殺されたエイモス・ミラー氏の遺体写真」の謎を追う硬派ルポに感涙。フラモン(フラットウッズモンスター)さんはアイドルデビュー、センターポジションを狙う。そして、フラモンとかっぱちゃん、き、奇跡のコラボが読めるのは、Spファイルだけ!

[Spレビュー]

 今さら云うのも何ですが、ロズウェルには円盤が墜落しました、エリア51には秘密が隠されています、小惑星探査機「はやぶさ」の地球帰還はダウジングのおかげです、米国政府はUFO情報を隠蔽しています、その背後ではMJ-12という組織が暗躍しているのです、そういったことは超常本を読めばみーんな書いてあります。もちろんボクらは今でも実験円盤の浮上を待っています。ユミットからの手紙も引き続きお待ちしております。


 というわけで初心者にもひときわ優しいSpファイル10号が、日本の夏をさらに熱くする! 電力危機!


[収録作品]

パート1:超常ビジョン

  創作円盤PHOTO(横山雅司)
  『空飛ブ円盤』
  『超能力とUFO  雑誌の表紙という超常ビジョン』(中根ユウサク)
  『ドローンズ』(ものぐさ太郎α)
  『宇宙人かいぶつ』
  『遭遇事例におけるタコ型「宇宙人」不在の不可解』(原田 実)

  『エイモス・ミラーを追え!』(小山田浩史)
  『フラモンさん『ETB48』』(めなぞ~る♪)
  『Paranormal Vision』(林 美登利)
  『LOVEもしも学校が!?』(星野勝之)
  『かっぱちゃん漫画『遊園地』』(窪田まみ)

パート2:Spレビュー

  『シリーズ超常読本へのいざない 第一回「ロズウェルの聖杯」』(馬場秀和)
    『ロズウェルにUFOが墜落した』
    『エリア51』
    『宇宙を拓くダウジング』
  『米政府はUFO情報を隠蔽してますけど、何か? 本を二冊)(ペンパル募集)
    『アウトゼア』
    『大謀略』
    『実験円盤浮上』(おまけ)


タグ:同人誌
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『なぜ男は笙野頼子を畏れるのか』(海老原暁子) [読書(教養)]

 「本気で戦うデブでブスでしつこくて目つきの悪い短髪のおばはんを男は嫌い、恐れる。(中略)生涯性交しないと宣言し、精神的にも経済的にも男に依存しないおっかないおばはん。あー、溜飲が下がる。すっきりする。笙野頼子の気持ちの良さは女にしかわからない」(「まえがき」より)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第62回。

 フェミニズムの観点から笙野頼子さんの『水晶内制度』、『母の発達』を読み解いてゆく評論集。単行本(春風社)出版は、2012年08月です。

 タイトルもそうですが、最初から「笙野頼子の気持ちの良さは女にしかわからない」(単行本p.5)と力強く断言され、さらには、

 「極私言語の許容と受容には一定の基礎力が要るが、基礎となるブラックボックスは多くの場合女にしか備わっていないように思われる」(単行本p.73、74)

 「笙野に徹底攻撃される男がわけがわからず混乱するのもよくわかる。しかし(中略)極私言語と妄想は男仕立ての神話や宗教に代わって多くの女たちに支持されることを彼らも知っておいて損はないだろう」(単行本p.75)

 「笙野頼子の文学がほとんど女によってのみ支持されることを彼女の文学の瑕疵としてとらえるのは間違いである」(単行本p.78)

という感じで、男性読者としては思わずたじろいで、というか、お前に笙野頼子の何が分かる男のくせに、と罵倒されたような気分で、しょんぼりしてしまうのですが、でもでも畏怖しつつも笙野頼子さんの作品を読んで痛快(文字通り)に思っている男もいますよ、いますよ、と小声で。

 さて、本書は3つのパートに分かれています。

 最初のパートである「1. なぜ男は笙野頼子を畏れるのか」では、笙野頼子さんの代表作を主にフェミニズムの観点から読み解いてゆきます。「女の見る夢  『水晶内制度』における極私的神話世界」および「言語・宗教・性別規範  『水晶内制度』試論」で取り上げられているのは、代表作の一つ『水晶内制度』。

 女人国物語の系譜からはじめて、フェミニズムSFの歴史をざっと眺めてから、中篇『幻視建国序説』(単行本『硝子生命論』収録)を経て『水晶内制度』に至る流れが解説されます。舞台であるウラミズモのお国事情、作中で創造されるウラミズモ神話が詳しく分析され、そして「女が語る」ということの意義へと繋がってゆきます。

 「言語を奪われた存在としての女は(中略)、言語そのものだけでなく語る場や語ろうとする意志そのものをも奪われてきたのである」(単行本p.59)

 「『母の発達』以降の笙野頼子の小説群を特徴づけるポリフォニックな語りは、単一言語使用者としての自己を疑わずにすむ楽天的な男性諸氏には必要のない語りの手法である」(単行本p.59)

 続く「おかあさんのその後  『母の発達』の破壊力」では、『母の発達』が取り上げられます。とかく女抑圧のために使われがちな「母」という言葉を、「それが負わされてきたイメージもろともめちゃくちゃに破壊しつくした過激な小説」(単行本p.131)と位置づけ、その内容を詳しく見てゆきます。

 ちなみに、『母の縮小』において、母が「七センチ位には縮ん」で「コショウの瓶とちんまりならんどる」という描写が、『二百回忌』に登場する死者が「七センチ程になって醤油差しと並び」と書かれているのとそっくりであることから、「笙野のイメージのなかでは、邪悪なゴブリン的な存在は身長が七センチらしいことが分かって興味深い」(単行本p.134)と指摘するところに意表をつかれました。いやまあ、評論の道筋とは関係ない余談なんですけど。

 次のパートである「2. 私をおまえと呼ばないで  マンガにみるジェンダー」では、少女漫画が評論の対象となります。

 まず「おまえ」という呼称がはらむもの  やまだ紫『しんきらり』をテキストとして」では、『しんきらり』(やまだ紫)を題材にして、夫から妻への呼びかけとして用いられる(逆はまずありえない)「おまえ」という言葉が、何を背景として、どのような意図の元に使われているのかを、細かく分析してゆきます。

 「なぜ夫婦の間でこの呼び方が生きているのだろうか。それは、現代の主従関係が社会的な枠組みのなかでのみ機能する、つまり対等であることが憲法に保証されている人間どうしの約束事であるのに対し、夫婦という関係が憲法の精神からもっとも遠い、掛け値のない主従関係だからなのである」(単行本p.159、160)

 次の「単性生殖」をキーワードに萩尾望都『マージナル』を読む  男女共同参画は種レベルの命題か?」では、『マージナル』を題材にして、少女漫画が「理想の男と恋愛して家庭を持って子供を産み育てる」という性役割分担をどのように打破してきたのかを分析します。

 「男女の関係がもろくなった第一の要因はやはり女が教育と経済力を身につけたことにあり、その裏返しで、今まで女が男と一緒に家庭を築いてそれを「守って」きたのはひとえに食い扶持の確保のためであったことが露呈し、さらに男の優越のゆえとされてきた家庭内での男の横暴、専横、代表権と財産権の独占などおおよそすべての現象が経済力というキーワードのもとにはらはらと解きほぐされて実体をなくしてしまった」

 最後のパートである「3. 「ものがたり」の試み」には、短編小説『樽の中』が収録されています。

 「おまえは大学に行くんだよ。男だの神様だのに振り回されないで生きられるからね」(単行本p.217)

 戦後すぐの田舎の農家を舞台に、横暴な父、耐え忍んできた祖母、母、叔母の思い出を娘が語る、という物語です。読者は途中で真相に気づくでしょうが、ラストの短い会話でその後の展開を薄々予感させるあたりが巧み。

 というわけで、女性読者を対象としていると思しき評論集ですが、「彼らも知っておいて損はないだろう」(単行本p.75)ということで男性読者が読んでもいいはず。ただ、丁寧に内容が紹介されているとはいえ、出来れば『水晶内制度』と『母の発達』をあらかじめ読んでおくことをお勧めします。

 それにつけても、『水晶内制度』を文庫化してほしい。


タグ:笙野頼子
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