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『なぜ男は笙野頼子を畏れるのか』(海老原暁子) [読書(教養)]

 「本気で戦うデブでブスでしつこくて目つきの悪い短髪のおばはんを男は嫌い、恐れる。(中略)生涯性交しないと宣言し、精神的にも経済的にも男に依存しないおっかないおばはん。あー、溜飲が下がる。すっきりする。笙野頼子の気持ちの良さは女にしかわからない」(「まえがき」より)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第62回。

 フェミニズムの観点から笙野頼子さんの『水晶内制度』、『母の発達』を読み解いてゆく評論集。単行本(春風社)出版は、2012年08月です。

 タイトルもそうですが、最初から「笙野頼子の気持ちの良さは女にしかわからない」(単行本p.5)と力強く断言され、さらには、

 「極私言語の許容と受容には一定の基礎力が要るが、基礎となるブラックボックスは多くの場合女にしか備わっていないように思われる」(単行本p.73、74)

 「笙野に徹底攻撃される男がわけがわからず混乱するのもよくわかる。しかし(中略)極私言語と妄想は男仕立ての神話や宗教に代わって多くの女たちに支持されることを彼らも知っておいて損はないだろう」(単行本p.75)

 「笙野頼子の文学がほとんど女によってのみ支持されることを彼女の文学の瑕疵としてとらえるのは間違いである」(単行本p.78)

という感じで、男性読者としては思わずたじろいで、というか、お前に笙野頼子の何が分かる男のくせに、と罵倒されたような気分で、しょんぼりしてしまうのですが、でもでも畏怖しつつも笙野頼子さんの作品を読んで痛快(文字通り)に思っている男もいますよ、いますよ、と小声で。

 さて、本書は3つのパートに分かれています。

 最初のパートである「1. なぜ男は笙野頼子を畏れるのか」では、笙野頼子さんの代表作を主にフェミニズムの観点から読み解いてゆきます。「女の見る夢  『水晶内制度』における極私的神話世界」および「言語・宗教・性別規範  『水晶内制度』試論」で取り上げられているのは、代表作の一つ『水晶内制度』。

 女人国物語の系譜からはじめて、フェミニズムSFの歴史をざっと眺めてから、中篇『幻視建国序説』(単行本『硝子生命論』収録)を経て『水晶内制度』に至る流れが解説されます。舞台であるウラミズモのお国事情、作中で創造されるウラミズモ神話が詳しく分析され、そして「女が語る」ということの意義へと繋がってゆきます。

 「言語を奪われた存在としての女は(中略)、言語そのものだけでなく語る場や語ろうとする意志そのものをも奪われてきたのである」(単行本p.59)

 「『母の発達』以降の笙野頼子の小説群を特徴づけるポリフォニックな語りは、単一言語使用者としての自己を疑わずにすむ楽天的な男性諸氏には必要のない語りの手法である」(単行本p.59)

 続く「おかあさんのその後  『母の発達』の破壊力」では、『母の発達』が取り上げられます。とかく女抑圧のために使われがちな「母」という言葉を、「それが負わされてきたイメージもろともめちゃくちゃに破壊しつくした過激な小説」(単行本p.131)と位置づけ、その内容を詳しく見てゆきます。

 ちなみに、『母の縮小』において、母が「七センチ位には縮ん」で「コショウの瓶とちんまりならんどる」という描写が、『二百回忌』に登場する死者が「七センチ程になって醤油差しと並び」と書かれているのとそっくりであることから、「笙野のイメージのなかでは、邪悪なゴブリン的な存在は身長が七センチらしいことが分かって興味深い」(単行本p.134)と指摘するところに意表をつかれました。いやまあ、評論の道筋とは関係ない余談なんですけど。

 次のパートである「2. 私をおまえと呼ばないで  マンガにみるジェンダー」では、少女漫画が評論の対象となります。

 まず「おまえ」という呼称がはらむもの  やまだ紫『しんきらり』をテキストとして」では、『しんきらり』(やまだ紫)を題材にして、夫から妻への呼びかけとして用いられる(逆はまずありえない)「おまえ」という言葉が、何を背景として、どのような意図の元に使われているのかを、細かく分析してゆきます。

 「なぜ夫婦の間でこの呼び方が生きているのだろうか。それは、現代の主従関係が社会的な枠組みのなかでのみ機能する、つまり対等であることが憲法に保証されている人間どうしの約束事であるのに対し、夫婦という関係が憲法の精神からもっとも遠い、掛け値のない主従関係だからなのである」(単行本p.159、160)

 次の「単性生殖」をキーワードに萩尾望都『マージナル』を読む  男女共同参画は種レベルの命題か?」では、『マージナル』を題材にして、少女漫画が「理想の男と恋愛して家庭を持って子供を産み育てる」という性役割分担をどのように打破してきたのかを分析します。

 「男女の関係がもろくなった第一の要因はやはり女が教育と経済力を身につけたことにあり、その裏返しで、今まで女が男と一緒に家庭を築いてそれを「守って」きたのはひとえに食い扶持の確保のためであったことが露呈し、さらに男の優越のゆえとされてきた家庭内での男の横暴、専横、代表権と財産権の独占などおおよそすべての現象が経済力というキーワードのもとにはらはらと解きほぐされて実体をなくしてしまった」

 最後のパートである「3. 「ものがたり」の試み」には、短編小説『樽の中』が収録されています。

 「おまえは大学に行くんだよ。男だの神様だのに振り回されないで生きられるからね」(単行本p.217)

 戦後すぐの田舎の農家を舞台に、横暴な父、耐え忍んできた祖母、母、叔母の思い出を娘が語る、という物語です。読者は途中で真相に気づくでしょうが、ラストの短い会話でその後の展開を薄々予感させるあたりが巧み。

 というわけで、女性読者を対象としていると思しき評論集ですが、「彼らも知っておいて損はないだろう」(単行本p.75)ということで男性読者が読んでもいいはず。ただ、丁寧に内容が紹介されているとはいえ、出来れば『水晶内制度』と『母の発達』をあらかじめ読んでおくことをお勧めします。

 それにつけても、『水晶内制度』を文庫化してほしい。


タグ:笙野頼子
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