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『「世界最速の男」をとらえろ! 進化する「スポーツ計時」の驚くべき世界』(織田一朗) [読書(教養)]

 「2012年のロンドン五輪でオフィシャルタイマーを担当したスイスタイミング社は、450人のスタッフと合計420トンの機材をロンドンに送り込んだ。その器材には、70台の観客向けのスコアボードや総延長で180キロにも達するケーブル(一部は光ファイバー)も含まれていた。大会期間中の操作には、同社のスタッフのほか、約800人のランティアも動員された」(単行本p.168)

 百分の一秒、千分の一秒に名誉と巨額利権がかかるスポーツ競技の世界。そこで活躍している計時システムとその運営はどのようなものなのか。単行本(草思社)出版は、2013年07月です。

 「計時を完璧にこなすには、一つのミスも許されない。うまく行って当たり前の世界であって、「想定外」の事態が起きても、タイムをとることをあきらめるわけにはいかない」(単行本p.178)

 灼熱のグラウンドでも、極寒の雪山でも、輸送中に激しく振動しても、豪雨で水浸しになっても、電源がとれなくても、隙あらば盗んでやろうと手ぐすね引いてる人々に取り囲まれていても、千分の一秒単位で正確に時をはかり、速やかに最終結果を提示する機器。失敗は許されず、再試行も許されず、ミスをすれば大問題となって社会的責任を問われる。それがスポーツ計時という世界です。

 本書は時計メーカー出身の著者による、この興味深いスポーツ計時の世界を紹介した一冊です。その歴史、苦労話、最近の話題、というように全貌を見せてくれるのが魅力的。

 全体は5つの章に分かれています。

 まず序章に続いて、「第1章 二位が一位のタイムを上回る?」では、手動計時(ストップウォッチを使って人間が計時する)の時代が紹介されます。

 「手動計時による運営で重要なことは、目視による着順があくまでも優先され、タイムは記録用と考えられていることだ。着順審判が順位を決め、タイムが整理されて正式記録が確定する」(単行本p.54)

 従って、二位が一位よりもタイムが良いというケースもあったそうです。そういう場合、矛盾が生じないように、一位のタイムを「修正」して二位に合わせていたとのことで、今から思うと何ともおおらかな時代でした。

 またマラソンなど、経過時間を知らせるために、走っている選手の視界内に計時車を走らせていました。計時車には当然ながら企業名がばばーっんと表示されており、例えばNHKの中継車としては中継画面に映したくないわけです。

 「こちらとしては「テレビ側が避けきれず計時車がテレビに映ってしまう」ように行動したいのだ。 ほんのわずかの時間でも映るために、報道車両との駆け引きや好位置の確保が必要になる。そこで必要なのが「0.5秒遅れてカーブを曲がる」「コーナーを近回りする」など、通常の運転とはまったく異なる「神業」の運転テクニックなのだ」(単行本p.69)

 昔、マラソン中継で、一位の選手の前に時間を掲示する車がいて、車体にSEIKOなどと誇らしげに書いてあるのがちらりと見えましたが、あの一瞬の映像の背後にこのような凄まじい暗闘が隠されていたとは。

 「第2章 公式計時(オフィシャルタイマー)を勝ち取れ!」では、東京オリンピックの公式計時担当としてセイコー社が選ばれるまでの悪戦苦闘を解説されます。

 スイスの時計会社が独占してきたオフィシャルタイマーの地位に挑む日本の時計メーカー。圧倒的な実績不足を、どのようにして挽回するのか。

 「もしも失敗していたなら、SEIKOのブランドは、間違いなく世界から消えていただろう。(中略)グループで85人の技術者と890人の作業者が製作にかかわり、2億円もの直接製作費をつぎ込んで、18競技のために36機種1278個の時計および得点表示装置を製作した」(単行本p.107)

 史上初めてクオーツ時計が計時に使われた東京オリンピック。そして、「着順・競技時間に関してのクレームが発生しなかった初めてのオリンピック」(単行本p.110)と公式報告書に書かれることになったその成果。まるで『プロジェクトX』みたいなノリに、読者も興奮します。

 「第3章 電子計時がスポーツを変える!」では、計時が手動から自動式になり、さらに電子化・精密化されたことによるスポーツへの影響が語られます。

 「1972年のミュンヘン五輪の400メートル男子個人メドレー決勝は、まさに1000分の1秒単位の勝負となった。(中略)場内は「ワオー!」の歓声に包まれた。その差はなんと1000分の2秒だった」(単行本p.115)

 しかし、この結果は多くの批判にさらされます。なぜか。

 「400メートルレースでの1000分の2秒差は距離にしてわずか2.96ミリ。プールの建築精度がそれ相応のレベルでできあがっていたかは、はなはだ疑問だ。当時は、公式競技に使用された長さ50メートルのプールの建築精度は、3センチ程度の誤差が許されていたようだ」(単行本p.116)

 かつて0.1秒を正確に測定することも困難だったスポーツ計時は、今や意味を失うほどの正確さに到達したのです。このため、国際水連は、計時単位を100分の1秒に戻し、その精度で同タイムなら同じ色のメダルを授与することにしたそうです。

 スキー競技で、ゴール前で軽くジャンプする選手がいるのはなぜか。

 「94年のリレハンメル冬季五輪では、1秒の間に、なんと15人の選手が集中する大接戦になっていた。トップと二位の差が0.04秒。(中略)100分の1秒は距離20センチに相当する。したがって、脚よりも40センチ前にある板面でビームを切れれば、タイムを100分の2秒縮められることになる」(単行本p.122)

 もはや何を競っているのかよく分からないところまで進んでしまったスポーツの世界ですが、それも正確この上ない計時が可能になったことが原動力なのです。

 「第4章 計時ミス・ゼロをめざして」では、計時システムを運営するスタッフの苦労が紹介されます。

 50度の高温からマイナス30度までの気温、スコールによる豪雨、すぐセンサを覆ってしまう雪、監視してないとすぐ盗まれる機器、電源ケーブルをかじるネズミ、電源トラブルなど、スポーツ計時の世界では、ありとあらゆる困難がつきまとうということがよく分かります。

 「バルセロナのプレ五輪では、器材の設置後にテストしたところ、スイッチを押していないのに、スタート信号やゴール信号が入ってしまうことがあった。慎重に配線をチェックしてみると、タイマーへの電源がコーラの自動販売機を経由していた。選手が競技をしていないにもかかわらず、誰かが自動販売機で購入するたびに発する「ガシャ」という雑信号を拾ってしまっていたのだ」(単行本p.175)

 他人の仕事を決して信じず、愚直に自らの目ですべてを確かめなければならない、しかも成功しても誰からも注目されない、失敗すれば巨額の賠償金、そんな仕事です。もちろん、オリンピックなどの公式競技ですから、まったくの無償。社内でさえ「海外旅行でスポーツ観戦までして、それで給料がもらえて良い身分」などと思われているスタッフ。企業イメージ向上のためとはいえ、ちょっと気の毒になってきます。

 最終章「第5章 これからのスポーツ計時」では、今後のスポーツ計時が向かうべき方向についてまとめます。

 「スポーツ計時の技術レベルが「公平・公正」の域にほぼ達した今、スポーツ関係者に「これから望まれていること」を聞くと、異口同音に返ってくるのは、「エンターテイメント性」との答えだ」(単行本p.210)

 競技の愛好者が増えれば、収益が増えて、情報発信も多くなり、競技人口も増えて、スター選手が登場してさらに盛り上がってゆく。この好循環に乗れないと滅びてしまいかねないスポーツ界。計時システムにも、観戦者やテレビ視聴者を惹きつけるような魅力が欲しいというわけです。

 さらに、フライングの規定見直し問題や、「アスリートに格別の制約や負荷をかけることなく、ありのままの姿でスポーツに励む最高の状態を数値化する」(単行本p.230)という究極のスポーツ計時を目指したアイデアなど、様々な話題が詰まっています。

 というわけで、よく目にしていながら、その意義や苦労を想像したこともなかったスポーツ計時。その技術や運営について教えてくれる興味深い本です。スポーツ関係者、時計技術者、そしてメディア関係者にお勧めしたい一冊。


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『今のピアノでショパンは弾けない』(高木裕) [読書(教養)]

 「その時代の国や文化の変化に応じて、ピアノだけにとどまらず、管楽器、打楽器その編成に至るまでわずか50年ほどのあいだに大きく変化してきた西洋音楽の歴史に学ばず、何も変えてはいけないと思い込み、我々が、クラシックの進化を止めてしまったのです。(中略)形を変えずに同じことを繰り返していくことは芸術ではありません。芸術は、常に新しいことに挑戦していかなければなりません」(新書版p.105、107)

 権威と敷居が特に高いと思われている日本のクラシック音楽業界。だがそれは思い込みと勘違いからきているのではないか? 一流のピアノ調律師として活躍する著者が、ピアノという楽器の来し方行く末を熱く語る一冊。新書版(日本経済新聞出版社)出版は、2013年06月です。

 ピアノという楽器はどのように進化してきたのか。その歴史を概説すると共に、その進化を停滞させてしまっている現状を批判します。

 「ヨーロッパからアメリカにクラシック音楽が渡ってピアノは大幅に進化しました。ところが、戦後、世界的に音楽ファンの嗜好が変わってしまい、ほとんどのピアノメーカーは楽器により音楽的表現力を求めることをあきらめてしまいました。それが結果的にクラシックのピアノ音楽をつまらなくしてしまい、進化を止めたのは結局、我々ピアノ業界なのかもしれません」(新書版p.5)

 ピアニストは、他の楽器演奏者と違って、コンサート会場に「自分の楽器」を持ち込むことは出来ず、他人が用意した「借り物」を弾くしかありません。しかも調律にじっくり時間をかけることが出来ることはまれで、その性能を十分に引き出すことが出来ない。こんな状況がピアノという楽器の進化を停めてしまったのだ・・・。著者はそのように語ります。

 「調整一つでこんなに音やタッチが変わるのかと驚かれると、技術屋としては嬉しい半面、裏返していえば調整に十分な時間をかけていられず、性能を十分出し切れてないピアノに慣れてしまって、いつの間にかピアノはこんな楽器だと諦めてしまっているようにも思えたのです」(新書版p.73)

 「調律師の仕事があまりにも理解されていないことに加え、調律師にしてもどうせ借り物の楽器で調律調整の時間も与えられないのに全ての責任を負わされるなら、ピアノのせいにしてしまえばよいという逃げ道があるから、難しいピアノの調律調整技術を覚えるよりもピアニストに気に入られるように努力するほうが楽だと思うようになるのです」(新書版p.73)

 「共同ピアノで妥協した安全運転のコンサートでは、才能も磨かれません。重要なコンサートにはピアニストたちにぴったり合った専用の楽器を持ち込んで、アーティストの全てが出し切れるような環境を用意してあげたいと思います」(新書版p.214)

 こうした考えから、ピアノを安価に安全にコンサート会場まで輸送する仕組みを作り上げたり、歴史の頂点に立つ名器を手に入れてステージ演奏までこぎ着けたり、といった自身の様々な取り組みを紹介してゆきます。

 ピアノのオーバーホールについて知らない調律師が多い、伴奏ピアニストや作曲科出身のピアニストがソリストより低く評価されてきたのは「思い込みと勘違い」だ、などピアノに関する批判が多いのですが、さらにはクラシック音楽業界についてもかなり辛辣な物言いが飛び出します。

 「欧米では観客はコンサートを「楽しもう」と思ってチケットを買い、コンサートホールにやってくるのに対して、日本では何かあらを見つけて「批判する」ために来ているような人も多く見受けられることです。「自分はこの曲をこんなに知っているんだぞ!」という潜在意識が、そういう幼稚な態度に現れるのでしょう」(新書版p.56)

 「本当に実力のある人は意外と気さくで、柔和な人が多いのです。どの世界でもそうですが、才能に行き詰まったり、コンプレックスのある人が、表面的に偉そうな態度をとることで威嚇してごまかしているのだと私は思います」(新書版p.59)

 こんな感じで、ピアニスト、音楽評論家、楽器メーカー、聴衆、それぞればっさばっさ斬ってゆく。業界内の読者の方々にとっては色々と、刺激的だろうなと、そのように思われます。

 というわけで、コンサートチューナーとして活躍する著者が、ピアノについて歯に衣着せず率直に語った新書です。構成には難があるし、文章も洗練されているとは言い難いのですが、自身の体験に基づく現状批判には迫力があり、また音楽性や芸術性という方向からではなく「楽器の技術的側面」を中心にクラシック業界の改革を提言した一冊として、興味深く読むことが出来ます。音楽関係者はもとより、似たような技術職にある方も共感を覚えるのではないでしょうか。

 「日本は今、モーツァルトやショパンの時代の「ヒストリカルピアノ」まで遡り、再検証し、戦後の、音楽家ではなくメーカー主導で行き過ぎた、万人に好まれるピアノの設計をリセットすることで、本当のクラシック音楽を取り戻すときであり、それができるのは日本のメーカーだけのような気がします」(新書版p.219)


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『世界が認めたニッポンの居眠り 通勤電車のウトウトにも意味があった』(ブリギッテ・シテーガ) [読書(教養)]

 「あるドイツのテレビの生番組では、「私たちドイツ人もイネムリの方法を学べるのでしょうか?」という視聴者からの質問がありました。勤勉で長寿の国である日本から、電車の中や会議中の居眠りについて学ぶことができるのであれば、それはとても有益なことだと多くの視聴者が思ったのです」(単行本p.1)

 神秘の国ニッポンには、シエスタ(昼寝)ともパワーナップ(仮眠)とも違う不思議な睡眠習慣があるという。それが"Inemuri"だ。勤勉さ、経済成長、長寿を同時に実現できた秘密は、イネムリにあるのだろうか? ケンブリッジ大学の文化人類学者が日本の不思議な睡眠習慣をドイツ語圏の一般読者向けに紹介した一冊。単行本(阪急コミュニケーションズ)出版は、2013年06月です。

 「日本を訪れる外国人が再三目にすることだが、日本人には人前で昼間に眠ってしまうという特有の習性がある。電車内を見れば眠っている人だらけだし、道端のちょっとした段差の上では、くたくたに疲れたとおぼしき人たちがまどろんでいる。(中略)それどころか、勉強や仕事の合間、プレゼンを聞いているさなか、図書館内、さらには会議や授業中にも日本人は当たり前のように眠っている」(単行本p.10)

 そんなの「当たり前のように」ではなく「当たり前」だと思えるのですが、少なくともドイツ語圏ではそうではないらしいのです。このような睡眠形態は「想像もできない」ような新発見であり、わざわざ「イネムリ」という言葉を外来語として取り込む必要があったというのです。

 「居眠りは----生理学的にはどうあれ----社会的には睡眠とは見なされていない。居眠りしている当人は「睡眠とは異なる状況」において「社会に参加しながら」眠っているのであり、まさに文字どおり「居+眠り」しているのである」(単行本p.206)

 こういう硬い説明からも感じられる驚異の念に、日本人としては戸惑いを覚え、揶揄しているのではないかと疑うのですが、文章は大真面目です。何しろ著者は「日本人はどのような文脈で居眠りをしているのかという研究に20年あまりを費やしてきた専門家」であり、このテーマで博士号を取得したとのこと。学者人生を賭けた真剣な研究対象なのです。ニッポンの神秘、イネムリは。

 「日本の古典文学研究を参照すれば、居眠りが平安・鎌倉の時代にすでに広まっていたこと、現代社会だけの現象ではないということが分かる。貴族の日常生活においても、また仏教界においても----身分の上下を問わず、つまり僧侶であろうと一般の信者であろうと----居眠りはごくふつうになされていたのだ。仕事中や公式儀礼中だけでなく、遊びにおいても居眠りは行われていたのである」(単行本p.46)

 中世におけるイネムリの実態を求めて、仏教説話から絵巻物まで様々な文献を調査。軽めのエッセイかと思っていたら、本気の学術研究成果報告になっていて、ちょっと引いてしまいます。

 歴史研究に続いて、次は睡眠パターンの国際比較です。なんだか、おおごとになってゆきます。

 「睡眠についてのデータやいくつかの独自調査を見ていると、睡眠パターン(文化圏)には基本的に次の三タイプがあると推測される」(単行本p.78)

 三タイプというのは、単相睡眠文化圏(睡眠は一日に一回だけ夜間にとる)、シエスタ文化圏(昼寝が社会的に制度化されている)、仮眠文化圏(各個人が気ままにうたた寝・居眠りする)です。

 「第三タイプはさらに細分化される。昼寝(成員がプライベートに眠るタイプ)と、居眠り(成員が「起きている他人」の目の前で眠るタイプ)である。この二タイプは実際には同一社会内に存在することが多いが、理論的には区別する」(単行本p.79)

 そして日本の各種統計データから、様々な知見が引き出されてゆきます。例えば、日本人の睡眠時間減少は仕事時間の増加が原因ではなく、余暇時間の激増によりもたらされた、といったこと。

 そしていよいよ、居眠りの社会学へと研究は進みます。日本人はどのような文脈でイネムリしているのでしょうか。

 「居眠りをすれば社会的に(つまり、周囲との関係において)いわばそこにいないことが可能となるのだ。もっと正確に言えば、自分の姿を消すことができるのである。だから私は居眠りのこの働きを「社会的な隠れ蓑」と呼びたい」(単行本p.155)

 「自分が勤勉だからといって自慢してはならない。したがって、周囲から勤勉だと認められるためには、洗練された方法を身につける必要がある。居眠りはそうした方法の一つだ。(中略)「私は自分に厳しいからこそ過労と睡眠不足に陥り、結局病気になった(人間にはよくあることだ)」ということを周囲に納得させることができれば、その人の居眠りは容認され、かえって人間的・倫理的な偉大さのシンボルとされる」((単行本p.172、176)

 こんな感じで、「電車内で居眠りしながら異性にもたれかかることで、社会的に処罰される恐れなく性的な肉体接触が可能となる」、「座席を譲るなどの社会的要請に応えないで済む」など、居眠りが果たしている社会的戦略価値が次々と看破されてゆきます。

 というか、居眠りするのは眠いからではないかと個人的には思うのですが、何しろ20年に渡ってこの問題を研究してきた専門家が到達した結論ですから、謹んで傾聴すべきでしょう。

 最後にイネムリが健康によい(体調を整え、仕事の効率が上がり、アルツハイマー病の発症を抑え、ストレスを減らし、自信とひらめきと長寿と明朗快活さと創造性を得ることが出来る、等)という議論が紹介されます。それは、凄いな。ダイエット効果も追加したいところ。

 本書によってドイツやオーストリアでは、建築家が「イネムリ・スペース」を展示したり、「イネムリ」というタイトルのCDが出たり、「シエスタ、パワーナップ、イネムリ」というビジネスセミナーが開催されたり、ちょっとした「イネムリ」ブームが起きたそうです。ドイツ人が大真面目な顔つきで真剣に「イネムリ」に挑戦している姿を想像すると、微笑ましい気持ちになります。

 というわけで、日本人の居眠りという習慣が、外国人からどう見えるのかを知ることが出来る一冊です。記述はかなり真面目で学術的なので、「不思議の国ニッポン見聞録」みたいな軽いノリを期待すると戸惑うことになりますので要注意。個人的には、内容よりむしろこの「戸惑い」感覚が面白かった。


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『自分を好きになる方法』(本谷有希子) [読書(小説・詩)]

 「いつか必ず、本物の親友があらわれると信じていたこともあるけど、そんなのは、とうに諦めていた。魅力的な友達なんてあらわれない。今、目の前にいるこのしょぼくれた人たちがリンデの、まぎれもない友達だった。そして、彼らもきっと同じことを思っているに違いなかった」(単行本p.137)

 心から分かり合える親友も、一緒にいて安らぐ恋人も、結局あらわれはしなかった。いつのまに、こんなところまで来てしまったんだろう・・・。ある女性の人生から抜き出した六日間の出来事をえがく長篇小説。単行本(講談社)出版は、2013年07月です。

 『嵐のピクニック』と同じく、英米の現代小説を思わせる作品です。

 表紙にも明記されている"For six days of Linde"(リンデの六日間)といういかにもな「原題」、若い女性読者向けに強引に売れセン狙いましたといわんばかりの野暮ったい「邦題」、リンデ、エナ、マアサ、ジョウといった国籍不明のカタカナ人物名、いっさい特定されない地名や年、そして直接的な心理描写よりむしろ会話や出来事の描写を積み重ねることで都会の孤独をあぶり出す手法。「翻訳された英米の現代小説」として読んでもらおう、という意図は明らかです。

 内容ですが、3歳、16歳、28歳、34歳、47歳、63歳、それぞれの生活史からある一日を切り出し、合計六日間の出来事を書くことで、リンデという女性の人生を描きます。特に悲惨というわけではない、でも決して幸福とはいえない女性の、静かな諦念と寂寥感が、心の奥深いところに突き刺さります。

 「リンデはゆっくりと目を開けた。まっすぐにレーンの先を見つめ、それから、もう一度、目を閉じて呼吸を整えた。うしろの二人が少しも好きではない相手だということが、はっきりと分かった」(『16歳のリンデとスコアボード』より、単行本p.33)

 「付けあわせの塩味の濃いブロッコリーを嚙んでいると、一人で食事している寂しさが急に襲って来て、リンデは鳥肌が立つほど彼の身勝手さに腹が立った。彼の笑顔を思い出して、虫酸が走った。これがこの旅行のすべてだという気がした」(『28歳のリンデとワンピース』より、単行本p.62、63)

 「夫の手の中で二本のスプーンが一瞬だけぶつかり合って、かちゃん、という音がした。その金属同士の重なる音が耳の奥にいつまでも残ったままリンデは夫と会話した」(『34歳のリンデと結婚記念日』より、単行本p.80)

 それまで快活で楽しそうに見えたシーンが、ふとしたきっかけで、それがうわべだけのものだったことが露呈します。自分はちっとも楽しくなんかない、ただ友達や恋人との関係を保つために、自分を偽って無理していただけ。しかも努力に値するほどの関係でもないし。そのことに気付いてしまった瞬間の、息の詰まるような孤独と絶望を、さりげなく表現してのける手際が素晴らしい。

 「明日、目が覚めたときに百年経ってしまっているのも悪くない。ベッドに乗ってきた子猫を撫でているうちに、いつのまにかうとうとしかけていた。いつものように、まだいろんなことが信じられていた頃の自分の笑顔と、取り返しのつかない幾つもの後悔に胸を引き裂かれながら」(『47歳のリンデと百年の感覚』より、単行本p.144)

 「書き終わったあと、リンデはラクダ色のメモ帳をじっと見ながら、もしこれらを今日中に済ませてしまえたら、自分のことが好きになるだろう、と思った。でもほんとうは、こういう期待を自分に課したこと自体が、大事なのだと思い直した。もし何もできなくても、まったく落ち込むことはない。自分に何かを期待するなんて、ほんとうに気力と勇気のいることなのだから」(『63歳のリンデとドレッシング』より、単行本p.165)

 どうもぱっとしない友人達との馴れ合い、自己愛的な恋人からの執拗なモラルハラスメント。家族や配達人とすら、うわべを取り繕うだけの表面的な関係しか作れない。そしてそんな自分が嫌で厭でたまらない。

 多くの読者が共感するであろう悩み、苦しみを背負いながら、リンデは生きてゆきます。歳をとるにつれて人間関係に対する希望も枯渇してゆき、でもそれ以外に何かあるかというとそういうこともない人生。

 「リンデはすうすうと眠りに落ちた。そして、朝になると、ベーコンを焼いた」(単行本p.186)

 ラスト、なにげない数行に込められた静かな悲しみに、じんわりと感傷がわき上がってきます。個人的には、けっこう泣きそうになりました。

 というわけで、『嵐のピクニック』が気に入った方、あるいは、例えばミランダ・ジュライなど、英米作家の現代小説が気に入っている方には、とにかく強くお勧めしたい。傑作です。


タグ:本谷有希子
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『プラスマイナス 140号』 [その他]

 『プラスマイナス』は、詩、短歌、小説、旅行記、身辺雑記など様々な文章を掲載する文芸同人誌です。配偶者が編集メンバーの一人ということで、宣伝を兼ねてご紹介いたします。

[プラスマイナス140号 目次]

巻頭詩 『絶対未来』(深雪)、イラスト(D.Zon)
俳句 『微熱帯 34』(内田水果)
随筆 『宮原眼科の巧克力 番外編』(島野律子)
詩 『冬の蝶がいたところ』(島野律子)
詩 『更新』(深雪)
詩 『春の雨』(島野律子)
詩 『四月の空』(琴似景)
詩 深雪とコラボ 『迷い子猫』(深雪+編集 島野律子)
詩 『黒い花』(島野律子)
随筆 『一坪菜園生活 26』(山崎純)
詩 『着物を畳む女』(多亜若)
随筆 『香港映画は面白いぞ 140』(やましたみか)
イラストエッセイ 『脇道の話 79』(D.Zon)
編集後記
 「私のオススメ」 その5 深雪


 盛りだくさんで定価300円の『プラスマイナス』、お問い合わせは以下のページにどうぞ。

目黒川には鯰が
http://shimanoritsuko.blog.so-net.ne.jp/


タグ:同人誌
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