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『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』(イーサン・ウォッターズ) [読書(教養)]

 「グローバル化が速度を増して進むなかで、何かが変わってしまった。かつて異文化の狂気の概念に見られた多様性は、急速に姿を消しはじめた。アメリカで認識されて社会に広められたいくつかの精神疾患----うつ、PTSD、拒食症など----は、今や文化の壁を越えて世界中へ伝染病のように広がっている」(単行本p.8)

 精神医療のグローバル化は、世界に何をもたらしたのか。アメリカの精神医学が異なる文化圏で引き起こしている深刻な問題に焦点を当てた衝撃の一冊。単行本(紀伊國屋書店)出版は、2013年07月です。

 「他国の文化に及ぼしている厄介な影響の象徴はマクドナルドではなく、人の心に対する見方を均質化させようとする潮流であるということだ。我々アメリカ人は、世界における人間の心についての理解の仕方をアメリカ流にしようという壮大な陰謀に加担しているのだ」(単行本p.6)

 アメリカ人によるアメリカ人のための精神医療が世界標準となり、その診断基準と療法が、歴史や文化の違いを無視して地球全域に広げられた結果、各地で新たな精神疾患が作られ、治癒を阻害し、コミュニティを破壊している・・・。本書はこのような憂慮すべき「精神医学のグローバル化」の弊害を、四つの事例を通して明らかにしてゆきます。

 最初の「第一章 香港で大流行する拒食症」では、中国返還が近づいた香港で、それまでほとんど症例がなかった新型の拒食症が爆発的に広がった背景を探ります。

 「医師は異例の事態に遭遇した。 短期間で香港の拒食症の姿が変わってしまったのだ。香港の患者特有の症候群は姿を消しはじめ、かつては香港で珍しかった病気が、アメリカ版拒食症に席巻された」(単行本p.18)

 「初期の患者にみられた病態は、その文化的な要点、すなわち内面の痛みを伝える力を失ってしまった。欧米の診断基準の輸入によって、医者や患者が以前と違った形で病気について話すようになっただけでなく----病気の体験自体が変わってしまったのである」(単行本p.62)

 精神疾患はその地域の文化や社会システムと強く結びついたもので、普遍的なものではない。その事実を無視して導入された「アメリカ精神医学」が、まるで住民が免疫を持っていない疫病が上陸したかのように新たな精神病を生み出してゆく様には、戦慄を覚えます。

 続く「第二章 スリランカを襲った津波とPTSD」では、この問題がさらに大規模に積極的に押し進められた事例を取り上げます。大津波の後、大量のカウンセラーがスリランカに押し寄せたのです。

 「アメリカ人は、PTSDがどこの文化圏でも便利に使える診断なのか、という疑問を持たずに、大挙してトラウマを負った人々の心の傷の治療を支援しようとする。 異なる文化圏では、トラウマになるような出来事への心の反応の仕方が根本的に違うかもしれないという考えは、アメリカ人には理解しがたいのだ」(単行本p.87)

 「欧米の専門家が何度も繰り返す、スリランカ人はカウンセリングに必要な技術を有していないという見方は、スリランカ人がずっと信じてきた文化的伝統や信念や儀式をただ無視しているだけに思えた」(単行本p.110)

 「一年後に測定すると、デブリーフィングを受けた人のほうがなんの支援も受けなかった人よりもPTSDの診断に当てはまり、敵意を示したり、不安感や抑うつ感があったり、生活の満足度も低かった。つまり、早期の介入が心の自然な治癒プロセスを妨げたといえる。 早期介入は時に、被害者が特定の症状を経験するように方向づけてしまっているのだ」(単行本p.144)

 「第三章 変わりゆくザンジバルの統合失調症」では、アフリカ東海岸地域における統合失調症の「悪化」を引き起こしているものについて取り上げます。

 「地球上いたるところに統合失調症らしき症状があるが、そこには純粋に遺伝的または生物学的なもの以外の何かがこの病気を引き起こすと考えるに足るだけの多様性が見られるのだ」(単行本p.163)

 しかし、アメリカ流の精神医学においては、統合失調症は脳の機能障害であり、文化や社会とは無関係な生化学的・遺伝的な疾患だという前提で、投薬治療を進めます。結果はどうでしょうか。

 「同研究における2年と5年の追跡調査には、世界中の12ヶ所で10ヶ国の都市部および地方に住む1000人以上の統合失調症患者が参加し、結果として(中略)先進国の患者の40パーセント以上が、時間の経過とともに「重症である」とされたのに対し、発展途上国では24パーセントに留まった。 以上の結果は比較文化精神医学の分野では有名な知見であり、物議を醸してきた」(単行本p.166)

 「研究者は、衝撃的な関連性を見出した。精神疾患に関して生物医学的で遺伝的な説明を受け入れている人は、患者との接触を望まず、彼らを危険で予測不可能だとみなす率が一番高いことがわかったのだ。(中略)驚くべきことに、精神疾患を脳内の生化学的な変化だとする考え方が、患者に汚名を着せるという事実が示されてきたにもかかわらず、欧米の専門家はこれを40年以上も精力的に広めつづけている」(単行本p.208、210)

 そしていよいよ「第四章 メガマーケット化する日本のうつ病」では、製薬会社による大規模キャンペーンにより、日本で「うつ病」が爆発的に広まったという経緯が詳しく紹介されます。

 「「うつ病」は珍しい病気だとみなされていたのだ。 パキシルを日本でヒットさせるためには、「うつ病」と診断された患者向けの小さな市場だけでは不十分であり、根本的なレベルで、悲しみや抑うつ感に関する日本人の考え方に影響を与えなければならない。つまるところ製薬会社の面々は、病気を日本に売りこむ方法を求めていたのだ」(単行本p.231)

 「アメリカの臨床試験の根幹を支える科学は確固たるものであり、日本人がやろうとしているものより優れているはずだ、というのがその前提となっていた。新薬の再試験をしなければならないことに対する苛立ちが激しいのも当然で、日本でのSSRIの臨床試験はいくつかやってみてどれも好ましい結果が出ていなかった」(単行本p.265)

 「SSRIに関して最も影響力のある研究論文の多くが、著名な研究者が書いたように見せかけて、実際は製薬会社の雇った民間会社のゴーストライターの手によるものであることが発覚するまでのことだった。のちに、多くの研究者が何十万ドルもの(特には何百万ドルもの)顧問料や講演料を受けとる代わりに、効果検証したように装って、否定的なデータを隠したり、捏造したりしていることも知られるところとなった」(単行本p.278)

 「初期の草稿では、重大な副作用(入院や自殺企図など)がプラセボを飲んだ10代よりも、パキシルを飲んだほうで2倍以上高い傾向にあり、さらにパキシルを飲んだ患者のほうが、神経系に重度でしかも往々にして正常な機能を損なわせる問題が生じる傾向が4倍も高かった。にもかかわらず、出版用に提出された論文の第一稿は、深刻な副作用について触れていなかった」(単行本p.286)

 「SSRIをうつ病の治療薬とするメガマーケティングキャンペーンに感化されてきた日本人は、このお粗末な結果に驚くはずだ。(中略)製薬会社が出資する活動のあと押しを受けながら、情報が文化の境界を越えるとき、商品に関して消費者が思っているような科学的根拠は実はその薬の背後にはない、ということが起こりうる」(単行本p.284)

 パキシル(に代表されるSSRI)の日本におけるメガマーケティングキャンペーンがどのようなものだったか、そしてそれがどのようにして「うつ病」患者の大量発生に成功したのかは、皆様もよくご存じでしょうから、特に引用する必要はないでしょう。

 というわけで、精神医療のグローバル化と、それを後押しする製薬会社が、日本を含む「非アメリカ文化圏」に住む人々に何をするのか、それがどのような結果を招くのかを、具体的な事例を通して見せてくれる驚くべき一冊です。精神医療に興味がある方はもちろん、TPPへの参加が日本の医療にどのような影響を与えるか気になっている方にもお勧めします。

 「阪神大震災後、欧米、特にアメリカが、PTSDやうつ病といった病的な心の状態の科学的理解においてはるかに進んでいるという世論が幅をきかせるようになった。(中略)利益の上がるアメリカ市場は、ほかのすべての市場を計る物差しになっていた。アメリカの文化は最も「進化」しており、我々の仕事は「この進化を加速させる」こと、つまり、他国にも自分たちと同じような道を歩ませることであると、ある役員はアップルバウムに語った」(単行本p.272、274)


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『SFマガジン2013年9月号 特集:サブジャンル別SFガイド50選』 [読書(SF)]

 SFマガジン2013年9月号は、夏休みに向けてSFサブジャンル毎の読書ガイドを特集すると共に、ラヴィ・ティドハーの短篇を翻訳掲載してくれました。


『ナイト・トレイン』(ラヴィ・ティドハー)

 「彼女の名前はモリーではなかったし、ミラーシェードであれ何であれ眼鏡はしていなかった。(中略)もちろんフライデーでもなかった」(SFマガジン2013年09月号p.67)

 舞台は黄昏時のバンコク。蒸気を吐く巨大ナメクジ列車に乗り込む昆明蟇蛙団の大ボス(もちろん巨大ヒキガエル)を護衛する女戦士が主人公となり、異形世界で激しいサイバーアクションを繰り広げる。

 蒸気駆動(スチーム)サイバーパンクというか、まあそういう趣向の軽快アクション小説。冒頭から弾けまくる挑発的な姿勢も、元気があっていいんじゃないでしょうか。


『犬を連れた男』(草上仁)

 「やっと、驚くべき話が聞ける。依頼人が本当に探したがっている相手とその理由。陰謀と殺意と欲望に彩られたおぞましい秘密が」(SFマガジン2013年09月号p.172)

 名前も素性も分からない男を探してほしい。謎めいた老婦人から奇妙な依頼を受けた、うだつの上がらない探偵。ハードボイルドな展開を期待しつつ、地道な捜査にとりかかるが・・・。SF要素ほぼ皆無のユーモアミステリ。


『フェアリー・キャッチ[後篇]』(中村弦)

 「夏休みはまだはじまったばかりだというのに、一足飛びに夏の終わりになってしまったような気がして、昭太郎はむしょうに寂しかった」(SFマガジン2013年09月号p.273)

 田舎にやってきた不思議な旅芸人。その秘密を探る少年は、こっそり備品を持ち出してフェアリー・キャッチを試してみるが、うっかり知人の女子を消してしまった、さあ大変。というのが先月号に掲載された[前篇]でした。

 [後篇]では、少年は女の子を救うために妖精の国(?)へ行くことになります。そこで出会った美しい女性の正体とは。前篇はブラッドベリ風のホラーかなという印象でしたが、意外と普通の冒険ファンタジーに落ち着きました。


[掲載作品]

『ナイト・トレイン』(ラヴィ・ティドハー)
『犬を連れた男』(草上仁)
『フェアリー・キャッチ[後篇]』(中村弦)


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『ファンタジー』(プロジェクト大山、振付・演出:古家優里) [ダンス]

 2013年07月27日(土)は、夫婦でシアタートラムに行って、プロジェクト大山の新作公演を鑑賞しました。女性ダンサー8名が踊る80分の公演です。

 前回公演『ホルスタイン』と同じく、体力自慢なダンスシーンを、くすっと笑えるコント的な演出でつないでゆき、最後は体力を振り絞るような長い群舞で終るという構成です。

 全体的に前作よりも洗練された印象で、開演20分前から舞台に登場する人魚(おもむろに胸元からスルメを取り出して食べたり)、背景として使われる浮遊クラゲのような謎のオブジェ、意図不明なことを大真面目にやって(しかもくり返したりして)観客を困惑させる演出など、個人的にかなり好み。

 二人で工事現場のノリで衝立を移動させる(背後では女性が脱衣してシャワーを浴びている)とか、床に敷いた赤い布の上で「ギエムのボレロ」ごっこ(何回もくり返す)、出演メンバーの生首オブジェごろごろ、ビジネススーツでびしっとキメた眼鏡美女が真面目な口調で「陰茎」について力強く語る(語りながら片手でハサミをこう、シャキッと)、など印象に残るシーンは前作より増えています。

 何しろ出演者たちに色気というものがなく、露出高めの奇抜な衣装でも、きわどい演出でも、ちいとも性的メッセージを感じさせず、むしろ困惑と薄笑いを誘ってしまうという、これは彼女たちの強みでしょう。

 高い身体能力と技術を存分に活かしたダンスシーン、特に群舞は爽快ですが、動きの要素がシンプルで構成が単調な(一連のシーケンスを何度もくり返す振付が多い)せいか、どうも間延びして感じられるのが残念でした。

 ラストの長丁場群舞は素晴らしく、同じシーケンスをくり返す振付がここでは劇的な効果をあげています。BATIKのように死力を尽くすにつれ凄みが増してくる、というような感じではありませんが、残り少ない体力を振り絞って懸命に踊っている感じが胸に迫ります。本日、二回目の公演なんだよなあ。

[キャスト]

演出・振付:
 古家優里

出演:
 梶本はるか、菅彩夏、西田沙耶香、長谷川風立子、松岡綾葉、三浦舞子、三輪亜希子、古家優里


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『厭な物語』(クリスティー、ハイスミス、シャーリィ・ジャクスン、訳:中村妙子、他) [読書(小説・詩)]

 「羽毛で包み込むように読み手の心を癒す小説があれば、傷口に塩をなするような読後感で心を逆撫でする小説もある。本書は、後者を愛する読者----そう、今この本を手に取っているあなたのためのアンソロジーである」(文庫版p.255)

 人間の心に秘められている狂気や冷酷さ、ほんのささいな出来事がきっかけで起こる悲劇など、読後に厭な後味を残す名作短篇ばかりを集めたアンソロジー。文庫版(文藝春秋)出版は、2013年02月です。

 厭な小説といっても色々ですが、本書には、超自然的な脅威が登場するホラーや、どぎつい残酷描写を見せびらかすような小説は含まれていません。クリスティ、ハイスミスから、ソローキン、カフカ、オコナーといった具合に、どちらかといえば古典的、文学的といってよい、人間の暗い面を描いた作品が大半です。

 名作として知られている短篇が多いので、海外小説の入門書としてもお勧め。


『崖っぷち』(アガサ・クリスティー)

 「これからはあの人、すっかり落ち着いて幸せに暮らせると思いますわ」(文庫版p.43)

 密かに想っていた男を奪った美女を憎む語り手の女性。ふとしたきっかけで美女の浮気を知った彼女は、他人を破滅させることが出来る立場に酔いしれて・・・。誰にでも覚えがある心理を巧みに描き、破局に向けてサスペンスを高めてゆく手際はさすがミステリの女王だけのことはあります。


『すっぽん』(パトリシア・ハイスミス)

 「彼はとてもおとなしく、言われるままに何でもしたし、きかれたことにもちゃんと答えた。が、答えたのはきかれたことだけだった。すっぽんのことはきかれなかったので何も言わなかった」(文庫版p.70)

 自分の言うことをちっとも聞いてくれない母親に不満を覚えていた少年が、ある日、母親が買ってきた「すっぽん」に心ひかれる。厭短篇の名手、ハイスミスによる心理スリラー。実際にこういう事件はありそうだと思わせるリアリティが凄い。


『フェリシテ』(モーリス・ルヴェル)

 「彼女はフェリシテという名前だった。貧しい女で、美人でもなく、若さももう失われていた」(文庫版p.73)

 絶望に慣れ、逆境に耐えてきた女性を、ついに打ち負かした出来事とは。薄幸の女性が辿る悲劇的運命を淡々とした筆致で書いた古典。


『ナイト・オブ・ザ・ホラー・ショウ』(ジョー・R.ランズデール)

 「デイリークイーンの駐車場でレナードのインパラのボンネットにもたれ、ウイスキー・コークをちびちび飲みながら、退屈と憂鬱と性欲を持てあまし、ニガー主演の映画を観にいく以外とくにすることもないまま犬の死骸を眺めていた」(文庫版p.88)

 退屈を持て余していた二人の白人少年に襲いかかる狂気と暴力。米国の南部を舞台とし、登場人物すべてが厭な奴という、理不尽な人種差別と暴力に満ち満ちたマキシマム厭短篇。


『くじ』(シャーリイ・ジャクスン)

 「サマーズ氏は、おりにふれて村人たちに、新しい箱をつくってはどうかと持ちかけているのだが、その黒い箱に代表される程度の伝統をすら、だれもくつがえしたがらないのだ」(文庫版p.119、120)

 村人たちが全員集まって、くじを引くという儀式を執り行う。長年くり返されてきたその伝統行事のクライマックスとは。シャーリイ・ジャクスンの代表作で、真相を知ってから再読しても、そのブラックユーモアに感心させられます。どんな時代のどんな社会にも存在するであろう一面を見事に描き出した古びることなき名作で、個人的には「わが国の伝統」といった言葉を目にするたびに、この短篇のことが脳裏をかすめるのです。


『シーズンの始まり』(ウラジーミル・ソローキン)

 「初猟おめでとう、セリョージュ」(文庫版p.153)

 いよいよ狩猟シーズン到来。二人の男が森へハンティングに出かけ、首尾よく獲物を倒す。大自然のなかで行われる爽やかな狩猟シーンを丁寧に描写した短篇で、ある一点だけが厭。この筆致と内容の乖離が素晴らしい効果をあげていて、ロシア文学さすがです。


『判決―ある物語』(フランツ・カフカ)

 「だから、よく聞け。これよりおまえに刑を言い渡す。溺れて死んじまえ!」(文庫版p.172)

 年老いた父親とのささいな言い争い。ありふれたそんな出来事が、平穏無事な日常という欺瞞を突き崩し、語り手を不条理な状況に追い詰めてゆく。日常生活や人間関係のあれこれが、実は自分の思い込みでしかないのでは、という誰もが抱いている不安をえぐる古典。


『赤』(リチャード・クリスチャン・マシスン)

 「彼は身をかがめて拾えるものを広い、先を注視しながら歩き出した。陽光は叩きつけるように降り、彼はシャツの背と脇を汗が濡らしているのを感じた」(文庫版p.176)

 暑いなか、何かを拾い集めて袋につめながら道を歩き続ける男。どういう状況で何をしているのか読者には分からないまま曖昧な主観描写が続き、状況が分かったとき、突然、赤い色が。数ページのショートショートで、ラストの衝撃はお見事。


『言えないわけ』(ローレンス・ブロック)

 「復讐は愉しいかい? 世間で言うほどそれは甘いものかい?」(文庫版p.224)

 獄中で死刑執行を待つ殺人犯が、被害者の兄に手紙を書く。サイコパス特有の人をたらし込む能力を駆使して、相手を懐柔して死刑回避を狙ったのだ。思惑通りに事は運んだのだが・・・。見事な心理サスペンスで、二転三転するラストの攻防戦は手に汗握る迫力。小説としての面白さという点では、収録作品中、これが一番かも。


『善人はそういない』(フラナリー・オコナー)

 「森から銃の発射音が聞こえてきた。一発、続けてもう一発。そのあと、あたりは静まりかえった」(文庫版p.247)

 旅行に出かけた家族が、ささいなことからトラブルに。事態はどんどん悪化してゆき、その先には理不尽な悲劇が待っていた。運命というものの酷薄さを切れ味するどく描いた名作で、このプロットは様々な映画に流用されています。猫が助かるのが救い。


『うしろをみるな』(フレドリック・ブラウン)

 「まあ楽に坐って、ゆっくりくつろげばいい。そしてこの話を愉しむといい。あんたがこの世で読む最後の小説になるんだから」(文庫版p.265)

 ブラウンの代表作の一つ。タイトルと「仕掛け」があまりに有名になっているので、初めて読む人も、最初の段落を読んだだけで、ああ「あの話」か、と気付くんじゃないでしょうか。

 日本語に翻訳されているという時点で「仕掛け」が破綻しているのが悲しいところ。ましてや電子書籍化されたら、話として成立しないことに。何の予備知識もなく原著を新刊で読んだ米国の読者がどんな厭な気持ちになったか、何とか想像してみようとして、ただただ羨ましい気持ちに。


[収録作品]

『崖っぷち』(アガサ・クリスティー)
『すっぽん』(パトリシア・ハイスミス)
『フェリシテ』(モーリス・ルヴェル)
『ナイト・オブ・ザ・ホラー・ショウ』(ジョー・R.ランズデール)
『くじ』(シャーリイ・ジャクスン)
『シーズンの始まり』(ウラジーミル・ソローキン)
『判決―ある物語』(フランツ・カフカ)
『赤』(リチャード・クリスチャン・マシスン)
『言えないわけ』(ローレンス・ブロック)
『善人はそういない』(フラナリー・オコナー)
『うしろをみるな』(フレドリック・ブラウン)


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『宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論』(青木薫) [読書(サイエンス)]

 「そのころのわたしにとって人間原理は、無内容で非生産的な、宗教的な願望にまみれたトートロジーのように思われたのである。----人間が現に存在しているこの宇宙が、人間が存在できるような宇宙だからといって、だからどうだというのだろう?」(新書版p.5)

 宇宙は観測者たる人間の存在を許容するものでなければならない。「強い人間原理」と呼ばれる主張は、果たして無意味なトートロジーなのか、それとも万物理論の存在を揺るがす新しい宇宙観なのか。ポピュラー・サイエンス本の翻訳で名高い著者が、人間原理が持つ意義を平易に解説。新書版(講談社)出版は、2013年07月です。

 提唱直後、激しく拒絶された「強い人間原理」。しかし、私たちの宇宙観が大きく変わりつつある現在、それを受け入れる科学者が増えているといいます。なぜなのでしょうか。

 本書は、コペルニクスに始まる宇宙観の変遷を辿りながら、人間原理がどのようにして登場したのか、それがどのような意義を持っているのかを、予備知識のない読者にも分かるように易しく解説したものです。

 何しろ、カール・セーガンやサイモン・シンなど翻訳し、「この人が選んで訳したポピュラー・サイエンス本なら、とりあえず読む」という読者も多い青木薫さんが執筆した一冊なので、その面白さは保証つき。

 まず、天動説からコペルニクスの地動説へ、という天文学のおなじみの歴史がおさらいされ、それが人類の宇宙観にどのような影響を与えたのかが解説されます。

 「コペルニクスの仕事に対するこうした評価にもとづいて、「宇宙における人間の居場所は、なんら特権的なものではない」という考えや、そこから引き出された、「宇宙には特権的な場所はない」という考えのことを、「コペルニクスの原理」と呼ぶことがある」(新書版p.47)

 続いて、ニュートンの宇宙論、アインシュタインの宇宙論、定常宇宙論、ビッグバン宇宙論、という流れを概説。いよいよ後半になって、「この宇宙を規定している物理定数は、なぜこのような(人間の存在を許容する)値になっているのか」という問いかけに対する考察から、ブランドン・カーターによる「「コペルニクスの原理」に対する「行きすぎた屈従」に対抗する」(新書版p.130)論文に到達します。

 「カーターが「弱い人間原理」で説明しようとしたコインシデンスは、さきほど見たように、観測選択効果で説明できるようになった。 しかし彼が「強い人間原理」で説明しようとしたコインシデンスは、それではすまない」(新書版p.156)

 「カーターの提案は多くの物理学者の神経を逆なでするものだったが、それと同時に、黙殺してすませられないだけの問題を提起してもいたのである」(新書版p.130)

 しばしば「強い人間原理」のことを、「この宇宙は人間が存在するように作られている」という目的論(それも宗教的な匂いのする)であるかのように紹介している解説書がありますが、実はカーターはそんなことは言っておらず、むしろマルチバースを認めれば、「強い人間原理」も「観測選択効果」で説明できる、と主張していたということは、本書で初めて知りました。

 「われわれは、無数にある宇宙の中で、たまたまわれわれの存在を許すような宇宙に存在している、というだけのことであって、目的論のレッテルを貼って拒絶しなくてもよかろう、というのが、カーターの「コグニザブル・ゾーン」の議論の中身なのである」(新書版p.161)

 「しかし、強い人間原理が観測選択効果であるためには、無数の宇宙がリアルに存在している必要がある。さもなければ、強い人間原理はあくまでも観測選択効果のようなものでしかなく、観測選択効果そのものではありえない」(新書版p.161)

 つまるところ、「強い人間原理」は、意味のある、少なくとも原理的には真偽の判定が可能な予想をしているわけです。私たちの宇宙だけではなく、無数の(そして物理定数の組み合わせが様々に異なる)宇宙がリアルに存在している、という予想です。

 そして風向きが変わったのは、当初は夢想に過ぎなかったマルチバースが、複数の異なる分野で認められるようになってきたからだといいます。

 「いったいなぜ、真空のエネルギーはそんな微妙な値なのだろうか? なぜきれいさっぱりゼロにならないのだろう? ワインバーグの論法によれば、その理由は、「われわれの存在と矛盾しないために」だった。つまり、人間原理のアプローチが、観測結果に支持された格好になったのである。それはひとつの事件であり、これをきっかけに、人間原理も悪くないかもしれないと考える物理学者が増えはじめた」(新書版p.220)

 「はっきりしているのは、この新しい多宇宙ヴィジョンは単なる思いつきや空想の産物ではないということだ。「宇宙論の標準モデル」は、「エキゾチックな」理論ではない。それは「コンベンショナルな」理論にもとづき、観測と実験によって支持されているモデルなのである。(中略)こうしてインフレーション・モデルから多宇宙ヴィジョンが自然に出てきたということが、人間原理にとっては大きな転換点となった」(新書版p.187)

 「ひも理論から出てくる青写真が、たった百万種類程度しかないうちは、「たくさんある中に、たまたまぴったりの宇宙があったのだ」という論法をとるには、まだ足りない----その論法は、まだ安直だ----と彼は考えた。(中略)しかし青写真の種類が「10の500乗」通りもあるとなって、それだけあれば十分だ、とサスキンドは腹をくくった。(中略)青写真がほとんど無数にあるということは、強い人間原理が、怪しげな目的論から、単なる観測選択効果になるということを意味するのである」

 「インフレーション・モデルとひも理論という、ウロボロスの頭と尻尾の両端から、それぞれに多宇宙ヴィジョンが出てきたことは、人間原理の意味を考えるうえで非常に示唆的だった。(中略)今日、宇宙の理論に関する限り、多宇宙ヴィジョンはほとんどデフォルトなのである」(新書版p.230)

 「わたし自身について言えば、COBEの結果が発表されたときに覚えた、「これ(宇宙誕生)が一度きりの出来事であるはずがない」という感覚は、その後一度も薄れたことがない。むしろ、「なぜ、この宇宙だけだと思い込んでいたのだろう?」と不思議な気がするほどだ」(新書版p.244)

 こうして、ユニバースからマルチバースへ、メガバースへと宇宙観が変遷するにつれて、強い人間原理は科学者に受け入れられた、というより観測選択効果というありふれたものに落ちついた、というわけです。しかし、それにより「万物理論」の夢に終止符が打たれてしまう、という皮肉な結果も生じました。

 「もちろん、今も少なからぬ物理学者は、たまたまと言わずにこの宇宙のいっさいを説明するという希望を捨てていない。しかし、その希望の根拠が疑われはじめているのも確かなのである。 もしも百年後の人びとが振り返ってみたとすれば、われわれの生きるこの時代を、宇宙像に大きなパラダイムの転換が起こった時期と位置づけるにちがいない」(新書版p.252)

 人間原理をめぐる本筋だけでもエキサイティングですが、宇宙論の歴史を扱ったポピュラーサイエンス本における「通説」が次々と覆されてゆくところも素晴らしい。

 「コペルニクスの著書『天球の回転について』が出版されたのは、1543年のことだった。それから百年ほどのあいだは、コペルニクスの仕事について、今日言われているような「宇宙の中心から追い出した」という見方はとくに出ていないようである。(中略)ともかくも、「コペルニクスは宇宙の中心から人間を追い出し、人間中心主義を打ち砕いた」という、コペルニクスの仕事に対する評価は、17世紀のフォントネル、ないしはその周辺の知識人が打ち出した新機軸だったようなのである」(新書版p.51、53)

 「アインシュタインがラムダを導入したのは、空間を閉じさせるためであって、変動する宇宙を静止させるためなのではなかったのである。(中略)この話がこれほどまでに広く流布し、ポピュラーサイエンスの書き手たちが----その中には第一級の物理学者も多く含まれている----繰り返し再生産していることを「スキャンダル」と呼んだとしても、それほど大袈裟ではないかもしれない」(新書版p.212、214)

 「物理定数が、「人間」(または「意識を持つ存在」「知性を持つ存在」「生命」など)が出現できるようにファイン・チューニングされている、という議論を詳しく調べてみると、暗黙のうちに根拠不十分な仮定が置かれていたり、論理に飛躍があったりして、じつは微調整どころか、ゆるゆると言ってよい幅が許されていることがわかってきたのである」(新書版p.166)

 ええ、わたくし、信じておりました。

「コペルニクスが打ち出した新しい宇宙観は、今日コペルニクスの原理と呼ばれている」

「静的宇宙解のために重力方程式に宇宙項ラムダを入れたことを、アインシュタインは自分の人生最大の失敗だったと語った」

「この宇宙の物理定数は極めて厳格に調整されており、もし少しでも値が違っていれば、私たちのように意識を持った観測者は存在できなかっただろう」

 これらポピュラーサイエンス本(およびテレビの科学解説番組)の定番ネタの数々が、実は都市伝説の類だったとは。衝撃です。

 というわけで、人間原理やマルチバース(多宇宙)論について興味がある方はもちろんのこと、宇宙論を扱ったポピュラーサイエンス本は飽きるほど読んだよ、という方にもあえてお勧めしたい、新鮮で魅力的な一冊です。


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