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『金色の髪のお姫さま チェコの昔話集』(著:カレル・ヤロミール・エルベン、絵:アルトゥシ・シャイネル) [読書(小説・詩)]

 「イタチは、ニワトリの使いをやさしく、ゆったりと迎えました。ニワトリの仲間とのとり決めや、これまでの自由も変わらないことを約束しました。(中略)ニワトリは、これほどまでに強くて、慈悲ぶかい王さまを迎えたことを喜んでいました」(単行本p.120、121)

 チェコで良く知られている民話や伝承を13話収録し、美しい挿絵を入れた絵本。単行本(岩波書店)出版は、2012年11月です。

 美しいお姫様と結婚するために試練に立ち向かう若者の話、動物寓話、三つの願い、といった昔話の普遍的パターンに沿った物語が並びますが、よく読んでみると、何だかとてつもないことになっているのに衝撃を受けました。

 例えば、『イタチの王さま』。

 他の動物から侵略を受けないよう強い王さまが必要だと考えたニワトリたちが、よりによってイタチを王さまにする、という動物寓話です。自由は保証する、国民の安全を守る、というイタチの約束を信じた純朴なニワトリたち。もちろんあっという間に全員食われてしまった、というオチだろうと思っていたら。

 イタチはニワトリを一羽一羽呼び寄せて、政権について忌憚なく意見するように求めます。正直に答えたニワトリは処刑、怯えておべんちゃらを言ったニワトリも処刑、姑息な言い訳で政治的発言を避けたニワトリだけが処刑をまぬがれ、こうして国の統治は強固になりました。めでたしめでたし。

 チェコよ・・・。

 他の物語も、その多くがとてもシニカルです。

 例えば、『この世に死があってよかった』では、ある男が、死神を騙して拘束することで死を免れることに成功します。ところが、死神が仕事をしないため、家畜が不死になって肉が食べられなくなり、田畑は害虫の大発生で荒れ果て、川は魚やカエルであふれ、空は虫に満ち、この世は目茶苦茶になってしまいます。あわてて死神を解放してやった途端、男の首は死神の鎌でばっさり刎ねられてしまいました。権力者に楯突くと、どういう結果になるかよく分かりますね。

 『知恵と幸運』では、「知恵」と「幸運」が、どちらが人間にとって大切な資質であるかをめぐって議論を始め、じゃあ試してみようということになります。まず「知恵」が一人の若者を支援すると、若者はどんどん出世します。ところが、目立ったせいで政権に目をつけられた若者は、捕えられ処刑されることに。そこで「幸運」が介在して若者を助け、他の人が処刑されてしまいます。このように、下手に知恵など見せる者は、長生きできないのです。

 『オテサーネク』では、子どもに恵まれないことを嘆いていた夫婦が森で赤ん坊の形をした木の根を拾い、オテサーネクと名付けて育てることにします。すくすくと育ったオテサーネクは、家の食料を食いつくし、家財道具もたいらげ、母親を食べ、父親も食べ、村の娘を食べ、労働者を食べ、家畜も食べて・・・。望んでいたものが手に入るということは、それは何かの罠に違いありません。

 『火の鳥とキツネのリシカ』では、三人の王子が王位継承のために試練の旅に出ます。長男は失敗、次男も失敗。しかし三男は心の優しい若者だったので、途中でキツネを助けてやったおかげで恩返しを受け、艱難辛苦の末に美しい姫と宝物を手に入れて帰還します。そして待ち伏せていた二人の兄にぶっ殺されバラバラに切り刻まれ、長男と次男はそれぞれ姫と宝物を山分けしました。

 いくつかの話では、最後に付け足しのように強引にハッピーエンドに持ってゆきますが(例えば、特に理由はないけど殺された人々もみんな生き返りました、めでたしめでたし、みたいに)、そのおざなりというか、とってつけた感からは、「昔話とはいえ、あまり本当のことを語ると色々と危険だからね。分かるね?」というメッセージが伝わってくるようです。

 なんかこう、チェコの過酷な歴史をしみじみと思いやるというか、チェコの子どもたちはこういう昔話を聞いて育つのかーと。作家のカレル・チャペックやアニメーション作家のヤン・シュヴァンクマイエルのことを思い出して納得したり。


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『夢の実現するところ 郵便配達夫シュヴァルの理想宮に捧げる』(編:宮脇豊、福永信、山崎ナオコーラ、いしいしんじ、他) [読書(随筆)]

 「ただ一瞬だけ与えられた私たち各々の生。その痕跡をこの宇宙のどこかに永遠に刻み込むため、私たちは想像力とことばを持った。それを使って夢の実現するところへ行く方法を、シュヴァルは教えてくれている」(単行本p.127)

 一人の郵便配達夫が33年の歳月をかけ手作業で作り上げた奇怪な宮殿、「シュヴァルの理想宮」。その完成百年を記念して出版された一冊。単行本(ギャルリー宮脇)出版は、2012年12月です。

 「シュバルは郵便配達員として歩き回りながら無想し、四十三歳のときの配達途中に石につまずいた。その石に着想を得て、理想の城を作り始めた。そして三十三年間、ひとりで石を運び、セメントを塗り、もくもくと作業を続けた。村の皆から変人扱いされながらも完成させ、最後には墓まで作り、その中に眠る。この人生は、多くの人を魅了する」(単行本p.59、60)

 シュヴァルの人生とその「作品」に魅せられた人々からの寄稿、オマージュ絵画、そして数多くの写真を集めた「シュヴァルの理想郷完成百年記念」の一冊です。

 「この手紙は今日オートリーヴを離れ、日本のキャルリー宮脇へと送られます。これは本当のことなのですよ。地球の裏側にあるギャルリー宮脇があなたの夢想の宮殿の事を耳にして、今年、それにオーマジュを捧げることになったのです。信じられないような出来事ではないですか!」(単行本p.118)

 「宮脇氏が、ほかにも多くの芸術家を招待してくれました。いずれも、あなたの想像力に惹かれ、あるいは、世界に比べるもののないあなたの作品にインスピレーションを受けた人たちばかりなのです」(単行本p.119)

 こうして、作家、画家、写真家、音楽評論家など様々な人々から寄せられた文章は、芸術論だったり、身辺雑記だったり、小説だったり、詩だったり、エッセイだったり、まさしく千差万別。しかしながら、いずれもシュヴァルへの憧憬や感嘆の念がストレートに表現されています。

 「時代、非難、年月、すべてに挑みかかり、地上にこのおとぎ話の城を出現させた、この郵便配達以上に自由な者がいただろうか?」(単行本p.16)

 「言葉が生きつづける、言葉のためのたてものを建てる。だれがそんなこと、これまで、考えついたろう!」(単行本p.21)

 「天体をとめることはできないか。永遠を、一瞬のうちに封じ込めることはできないか。移り変わる日付をかばんに収め、同じ道を行き来しながら、人間のなかに、そんな思いがむくむくとたちのぼる。拾った石のかたちが語りかけ、すべてをあかす」(単行本p.114)

 この「全くの手作業によって建てられ、プランもなければ測量もなく、前もって立てられた何らかの明確な意図すらない」(単行本p.66)奇怪な巨大建造物が放つ魅力には抗いがたいものがあり、後に、アウトサイダー・アートだ、ヴィジョナリー・エンヴァイアランメントだと高い評価を受け、ついにはフランスの重要建造物に指定され保護されることになったといいます。

 シュヴァルの理想宮がこれほどまでに人々を惹きつけるのは、その芸術性よりも何よりもまず、この魅力的な「物語」への憧れではないか。読後、そのように感じられました。個人的に最も共感したのが次の一節です。

 「シュヴァルの人生は、まるでもうひとりの「私」のようだ。「私」にも、こんな風に生きる道があるのではないか。(中略)ほとんどの人が、自分の理想の城を作りたいと思っているし、まだ本当の仕事ができていないと思っているし、周りからの無理解に苦しんでいるからだ。枷を外して、シュヴァルみたいに生きたい」(単行本p.60)


タグ:福永信
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『SFマガジン2013年3月号 2012年度英米SF受賞作特集』 [読書(SF)]

 SFマガジン2013年3月号は、毎年恒例の英米SF受賞作特集ということで、主要なSF賞を受賞した英米作家の短篇を掲載してくれました。

 『選択』(ポール・J・マコーリイ)。海面上昇により海洋面積が広がった近未来、手作りヨットに乗り込んで異星人テクノロジー見物に出かけた二人の少年を待っていた運命とは。

 「ドラゴンの一部が、ルーカスが植えた種から育ったのだ。ほかのなにかになったのだ」

 つまるところ「墜落した円盤から謎の金属片を持ち帰ったら、あとから黒服の男たちがやってきた」という話なんですが、読後感はちょっとバチガルピ風。前半の明るい少年冒険物語と、後半の重く暗い展開との対比が鮮やかです。

 『紙の動物園』(ケン・リュウ)。中国の貧しい農村から「買われて」きた母親と、そのことを恥じて母を疎んじる息子。命ある折り紙に込められた母の想いは、彼に届くのだろうか。

 「ぼくらは鶴がぴんと張った紙の翼をはためかせ、はるか西へ、太平洋に向かって、中国に向かって、母さんの一族の墓に向かって旅立つのを眺めた」

 中国には古くから折り紙の風習があります。このへん日本と混同しているようですが、英米のSF読者にそんなことが分かるはずもないので、細かいことは気にしないように。中国出身の母が作る折り紙は特別で、それらは命を持って動くのでした・・・。母と息子の葛藤と和解をえがいた泣かせるファンタジー。

 『ベティ・ノックスとディクショナリ・ジョーンズ、過ぎ去りしティーンエイジに立ち返っての奇譚』(ジョン・G・ヘムリイ、というかジャック・キャンベル)。世界を救うべく若い時代の自分に精神転移した二人。だが、一介の高校生に歴史を変えることなど可能なのだろうか。

 「歴史が進んでいく圧力の強さに対して、わたしたちが手にしてる梃子は小さすぎるのよ。ほんのちょっと流れを変えるだけでさえ、とても長い時間がかかるの」

 主人公となる男女は老人なのですが、15歳のホルモンたぎるぴちぴち肉体に転移した途端、いきなり始まるラブコメ世界。しかも女子は眼鏡っ娘、男子はいつもロールプレイングゲームのルールブックを持ち歩いているという、まああれだ、ひたむきにオールドSFファンのウケを狙った作品。

 「SFこそが世界を変えるんだ!」と本気で信じていたあの15歳の夏を懐かしむ愛すべきSFファンたちの熱い支持を集め、アナログ誌読者賞に輝いた作品。

 『霧に橋を架けた男<前篇>』(キジ・ジョンスン)。広大な帝国を二分する霧の大河。一人の建築技師が、この危険極まりない「霧」を横断する橋の建造に取りかかったが・・・。

 「どんなものでも安全よ。そいつにあなたが殺されるまでは」

 腐食性で、底がどうなっているか誰にも分からない霧の大河。霧の中を泳ぐ魚、霧に浮かぶ渡し船、そして深霧に潜む巨大な怪物。土木建築SFですが、何といっても印象的なのは、この霧の設定です。今号には前篇が掲載されており、来月号の後篇が楽しみです。

[掲載作品]

『選択』(ポール・J・マコーリイ)
『紙の動物園』(ケン・リュウ)
『ベティ・ノックスとディクショナリ・ジョーンズ、過ぎ去りしティーンエイジに立ち返っての奇譚』(ジョン・G・ヘムリイ(ジャック・キャンベル)
『霧に橋を架けた男<前篇>』(キジ・ジョンスン)


タグ:SFマガジン
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『DESH デッシュ』(アクラム・カーン) [ダンス]

 「僕にとっては、この複雑な身体こそが“母国”であり“アイデンティティ”だから」(アクラム・カーン)

 2013年01月27日(日)は、夫婦でさいたま芸術劇場に行って、アクラム・カーンの公演を鑑賞しました。アクラム・カーンが一人で何役も踊るソロダンス公演。バングラディッシュ系英国人としての自らのアイデンティティを問う半自伝的な作品です。

 まず目を奪われるのは、洗練された映像とライブアクションを見事に同期させるシーンの数々。絵本のような線画で描かれたバングラディッシュの森の中をアクラムが彷徨う場面はひときわ記憶に残ります。

 また、ラスト近くで天井から釣り下がってくる何重もの布、巨大な白い椅子、戦闘機のエンジンなど、舞台美術も非常に印象的。

 視覚効果のセンスには大いに感銘を受けました。後から確認したら、映像だけでなく舞台美術から衣裳まで、ジョン・ウーやアン・リーの映画で高名なティム・イップが担当していることを知って納得。舞台が映画的に感じられたのも無理はありません。

 そしてアクラム・カーンのダンスがまた凄い。 公演時間80分の間、ほとんど出づっぱり踊りっぱなし。インドの古典舞踊とコンテンポラリーダンスを融合させた驚異的な動き。彼が旋回するだけで、そこはもう異空間。動きのキレは尋常ではなく、途中で戯れのように挿入されるカンフーのシーンですら、これがもうシビれて。

 ダンス、映像、美術、音楽が、高いレベルでまさしく完璧に組み合わさった舞台で、バングラディッシュから英国に移住した父とその息子の感動的な物語が展開してゆく様は、もう感涙です。ラストに近づくにつれて、じじーんときた。

[キャスト]

演出・振付・出演: アクラム・カーン
舞台美術・衣裳・映像: ティム・イップ
音楽: ジョスリン・プーク


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『どこいったん』(作:ジョン・クラッセン、訳:長谷川義史) [読書(小説・詩)]

 「ぼくのぼうし どこいったん?」
 「し、しらんよ。なんで ぼくに きくん? ぼうしなんか どこにも ないで。ぼうしなんか しらんで。ぼうしなんか とってへんで。ぼくに きくのん やめてえな」

 お気に入りの赤い帽子をなくしてしまった熊が、帽子について様々な動物に尋ねてみますが・・・。コミカルな絵と関西弁が楽しい絵本。単行本(クレヨンハウス)出版は、2011年12月です。

 愉快な動物絵本です。お気に入りの赤い帽子を捜して色々な動物を尋ね歩く熊。絵柄はまったくもって写実的ではなく、動物はみんなコミカルな造形になっています。鹿もモグラも、しっかり二本足で立ってるし。

 なぜか文章はすべて関西弁で訳されており、それが漫才のような雰囲気を醸しだしています。

 「ぼくのぼうし どこいったん?」、「ぼうしって なんや?」、「もう ええわ」。

 漫才といえば、途中で出会うウサギが、赤い帽子をちゃっかりかぶっているのが絵に描かれているのです。あからさまに挙動不審な口調で「し、しらんよ」としらを切るウサギ。「ふーん、さよか」で済ませて何も気付かずに立ち去ってしまう熊。

 このボケ、子どもは絶対笑うと思う。しかし、最後のきっついオチは予想できまい。私もこれは予想外で、思わず「そうきたかー」と。

 というわけで、とぼけた関西弁をしゃべる動物達が繰り広げる漫才のような絵本です。子ども達のウケを狙うなら、この一冊。


タグ:絵本
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