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『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(米原万里) [読書(随筆)]

 「嘘つきアーニャは、どうしようもない嘘つきであることも含めて私たちに愛されていた。それは、アーニャが優しくて友達を大切にする女の子だったからだ」(Kindle版No.1355)

 プラハの中学校に通っていた著者は、友人たちの消息を探す旅に出る。米原万里さんの作品が電子書籍化されたので、Kindle Paperwhiteという電子書籍リーダーで読んでみました。文庫版(角川書店)出版は2004年06月、電子書籍版の出版は2012年06月です。

 三篇の短編から構成されています。いずれも世界各国の共産党大物の子女が集まるプラハの中学校の思い出から始まり、そこで知り合った友人のことが述べられ、彼女たちがその後どうなったのか消息を確かめるために旧共産圏の国々へ足を運ぶ、という展開になります。

 共産党の有力者を父親に持つというのがどういうことか。例えば、幼い頃の著者とアーニャが交わした会話はこんな感じ。

 「私の父も戦前から戦中にかけて16年間も地下に潜って活動していたのよ。いろんな職業や偽名を使い分けて、母に逢ったときの偽名は、ヒロセ・テツオだったんだ」

 「へえー。私のママもパパに出逢ったのは、非合法時代でね。一番上の兄をおんぶして、おむつの中にビラを隠して運んだそうよ」(Kindle版No.1096)

 女子中学生のあどけない日常会話がこれですよ。また、後に親友となる女の子が故国について説明するシーンにおける著者の感想はこう。

 「他民族に蹂躙された自国の歴史を語るときに、他の国の子どもたちは、もっと怒りや悲しみや憎しみの感情を露わにするのだった。それを見慣れていた私には、淡々と冷静に事実を突き放して語るヤスミンカがとても新鮮に映った」(Kindle版No.2284)

 教室内の子どもたちには、歴史問題だけでなく、もちろん政治問題が常につきまといます。

 「毎日、ソ連人の子どもたちと机を並べて学んでいた私は、ソ連共産党機関紙『プラウダ』と日本から半月遅れで届く日本共産党機関紙『アカハタ』とを目を皿にして読み較べた。お互いを罵り合う、その憎悪の激しさにショックを受けた」(Kindle版No.2449)

 「私がヤースナに近付きたかったのは、ヤースナ自身の魅力もさることながら、もうひとつの理由が明らかにあった。世界の共産主義運動の中で、左派に位置すると見られる日本共産党員の娘である私が、最右翼に位置すると思われているユーゴスラビア共産主義者同盟員の娘のヤースナと仲良くなることで、論争と人間関係は別なのだということを、なんとしても自分と周囲に示したかった」(Kindle版No.2479)

 友達を作るだけで、13歳の少女がここまで「政治的」に考えて行動しなければならない状況というのも、ちょっと想像を絶しています。

 しかし、状況がどうあれ、そこは13歳の女の子。やがて何人か友達が出来て、親交を結ぶことになります。つらいこともあるけどやっぱり楽しい学校生活。やがて著者は両親とともに帰国して、それから長い歳月が流れます。

 プラハの春、ワルシャワ条約機構軍のチェコ侵攻、ソ連崩壊後の混乱、各国の共産党政権の瓦解、吹き荒れる民族紛争、勃発する内戦。

 「再びプラハ時代の学友たちのことが、むやみに心をかき乱すようになったのは、80年代も後半に入ってからのことである。東欧の共産党政権が軒並み倒れ、ソ連邦が崩壊していく時期。もう立派な中年になっている同級生たちは、この激動期を無事に生き抜いただろうか。いつのまにかクラスメート一人一人の顔が浮かんでいることが多くなった」(Kindle版No.387)

 「無事に生き抜いただろうか」というのは軽々しい言葉ではありません。何しろ両親ともども反政府軍の手で処刑されたとか、空爆で吹き飛ばされたとか、強制収容所に収監されてそれっきりとか、そういうことがあっても少しも不思議ではない境遇の学友たちなのです。

 ロシア語の通訳になった著者は、こうして旧共産圏の国々を回ってかつての友達の消息を尋ね歩くことになります。ユーゴやブカレスト、日本人にはあまりなじみのない都市の様子がつぶさに描写され、息をのむような迫力を生み出しています。

 やがて再会した友人たち。かつて 「男の善し悪しの決め手は歯である」(Kindle版No.147)と教えてくれた快活なリッツァ。共産主義に心酔し「大げさな革命的言辞を異常に好む」(Kindle版No.1055)アーニャ。 「常に冷静で誰に対しても何事に対しても程良い距離を保った覚めた目で、ちょっと嘲笑するように見つめる」(Kindle版No.2387)ヤスミンカ。

 彼女たちはその後、どのような人生を送り、どのように変わったのか、あるいは変わってないのか。何気ないエピソードで登場人物の昔と今を表現してみせる手際は素晴らしく、一人の人間としての彼女たちのイメージが生き生きと伝わってきます。だからこそ、著者がアーニャに語る次の言葉が身に染みるのです。

 「抽象的な人類の一員なんて、この世にひとりも存在しないのよ。誰もが、地球上の具体的な場所で、具体的な時間に、何らかの民族に属する親たちから生まれ、具体的な文化や気候条件のもとで、何らかの言語を母語として育つ。どの人にも、まるで大海の一滴の水のように、母なる文化と言語が息づいている。母国の歴史が背後霊のように絡みついている。それから完全に自由になることは不可能よ。そんな人、紙っぺらみたいにペラペラで面白くもない」(Kindle版No.2189)

 というわけで、どうしても縁遠く感じられてしまいがちな旧共産圏の国々やそこに住む人々のことが、身近に感じられるようになる好著です。ルーマニア革命、ユーゴ多民族戦争など、旧共産圏の激動を「内側」から見た作品としても素晴らしい。それにしても、日本がぬるーい国で良かった。

[収録作品]

『リッツァの夢見た青空』
『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』
『白い都のヤスミンカ』


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