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『オルガン -呼吸する物理学-』(勅使川原三郎、佐東利穂子、KARAS) [舞台(コンテンポラリーダンス)]

 昨日(2012年04月15日)は、両国のシアターχに行って勅使川原三郎さんの新作『オルガン』を観てきました。勅使川原三郎、佐東利穂子、他KARASメンバー4名によるコンテンポラリーダンス公演です。

 照明効果と舞台床の上下動(迫、セリ)を効果的に用いたクールな演出が素晴らしい。張りつめた緊迫感。舞台上にある舞台のようにせり上がり、あるいは沈み込むステージ。“この世のものならぬ”感に満たされた場がいとも簡単に作り出されてしまう様には驚かされます。

 開演後しばらくは、ダンサー達がオブジェのように配置され、明暗が切り替わるたびにフォーメーションが変わってゆきます。やがて佐東利穂子さんが、続いて勅使川原三郎さんが踊るのですが、これがやはり凄い。

 登場しただけで意識がそこに集中して呼吸が止まる感じがするのですが、両腕がふらりと持ち上がり、腰を落としたかと思うと、魚類のようになめらかに泳ぎ回る。意識がおかしなことになって、手が宙を斬ってゆく軌道が目に見えるような錯覚を起こします。

 いくつかコミカルな演出もあったのですが(個人的には、バレエ『薔薇の精』をやろうとしてしくじる場面が可笑しかった)、舞台を覆うきりきりと引き締まった空気のためか実際に笑うまでは至らず。他に、床に倒れたダンサーがもがきながら芋虫のように舞台を往復するシーンも印象的。

 次に何が起こるか。どきどきしながら見守っているうちに、ふと気がつくと終演に至っていてびっくり。一時間の公演ですが、主観的には半分くらいに感じました。

[キャスト]

演出・振付: 勅使川原三郎
出演: 勅使川原三郎、佐東利穂子、川村美恵、ジイフ、鰐川枝里、山本奈々


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『オカルト  現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』(森達也) [読書(オカルト)]

 追求すればするほど「わからなく」なってゆくオカルト現象の、その「わからなさ」に迫ったルポルタージュ。オウム真理教信者達の日常を追ったドキュメンタリー映画『A』が大きな話題となり、さらには『A3』で第33回講談社ノンフィクション賞を受賞した著者による受賞後第1作。単行本(角川書店)出版は、2012年04月です。

 直視されることを嫌う。でもまとわりつく。見つめようとすると視界から逃げる。探索をあきらめかければ視界の端に現れる。

 「ある/ない」「本物/捏造」といったレベルで語られることの多い不可解な現象の数々に、講談社ノンフィクション賞受賞作家が切り込んでゆく。先入観を排し、ひたすらオカルト界隈にいる人々の話を聞いて回る著者。

 超能力者に取材し、恐山のイタコに会う。オカルト探索サイトX.51の管理人と対話したかと思えば、『新耳袋』の著者と一緒に心霊スポットを尋ね、『週刊金曜日』の編集長と墓場を探索。

 超心理学の研究者と共にダウジング実験に参加し、TVのオカルト番組プロデューサーと話し、霊視を受け、永田町の陰陽師にインタビュー。UFOを呼ぶ儀式に立ち会い、メンタリストに翻弄され、臨死体験者が作った「太古の水」を飲む。

 次から次へと“その世界”では有名な人物が登場し、境界へ、さらに異界へと、著者を導いてゆきます。それなのに、どこまで踏み込んでも、取材の過程で驚くような体験をしても、やっぱり「わからない」オカルト現象。その「わからなさ」「割り切れなさ」から逃げられない著者。

 いわゆるオカルト現象に対する著者の立ち位置は、肯定派でもなく、否定派でもなく、かといって懐疑派でもありません。あえて云うなら、困惑派ということになるでしょうか。ひたすら困惑し、迷い続けるのです。

 「基本的には否定する。怪異だの心霊だのと呼ばれる現象のほとんどは、勘違いかトリックの類だと思っている。ただし「基本的には」だ。すべてではない。勘違いやトリックだけでは説明しきれないことが時おりある。時おり起こる。多くの超能力者たちにかつて取材をして、その後も彼らとずっと付き合いのある自分の実感だ」(単行本p.159)

 「どうしても核心に近づけない。「ある」という断定もできないし、「ない」と切り捨てることもできない。重なり合う同心円の周囲を回るばかりだ」(単行本p.87)

 「ありえないと一刀両断はできない。でもそのまま援用するには無理がある。あきらめようと思えば視界の端にちらりと何かが動く。凝視しようとすると二度と見えなくなる。この繰り返しを、僕はずっと続けている」(単行本p.269)

 「もちろんできることなら、肯定であれ否定であれ、断定したい。曖昧さを維持することは、実のところけっこうつらい。楽になりたいと時おりは本気で思う。でも断定できない。どうしても片端に行けない。専門家になれない」(単行本p.46)

 肯定するには根拠がなさ過ぎ、否定するには体験し過ぎている。だからいつまでも断定できず、ひたすら迷い続ける。著者はそんな曖昧な苦しさから逃れようとするかのように取材を繰り返し、さらに混迷を深めてゆきます。

 取材を進めるうちに次第に境界に近づいてゆく感覚が生々しいのも本書の魅力でしょう。客観的に取材しよう、対象から距離を置こうとしながらも、気がつけば“巻き込まれていた”という実感がこもっています。

 「ただし、「よりによってそのときに」や「たまたまカメラが別の方向を」式の話法が、このジャンルにとても多いことは確かだ」(単行本p.48)

 「この領域には、なぜかそんなことがとても多い。後から考えれば、なぜあのときに異常に思わなかったのだろうとか、なぜ確認しなかったのだろうとか不思議になるけれど、そのときはなぜか、普通であるかのように感じてしまう」(単行本p.191)

 「まったく納得できない。でも確かに現実だ。二人は僕の意識を操作した。テレパシーとか透視でないのなら、残された可能性はそれしかない。(中略)それほどに細かな操作ができるのなら、人の自由意志など存在しないに等しくなる」(単行本p.333-335)

 日常がするりと滑って異質なロジックに支配されている領域に踏み込んでしまう感覚。オカルト現象の有無は別にして、それを視てしまった、体験してしまった者が感じるという、あの気分。それが濃厚に立ち込めていて、読んでいて何とも云えない異様な興奮を覚えます。

 全体的にはシリアスですが、あまり深刻になり過ぎないようにとの配慮からか、随所にユーモラスな文章が散りばめてあり、楽しく読むことが出来ます。単純にオカルト業界インタビュー集としても興味深く、またある種の伝奇ミステリ、あるいは異色冒険譚として楽しむことも出来ます。

 肯定/否定の二元論争に飽き足りず、オカルト現象のまわりに漂っている、あの“気配”あるいは“気分”に不可解なほど魅了されてしまう、という方には特にお勧め。骨太のオカルト本です。


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『ペンギンのしらべかた』(上田一生) [読書(サイエンス)]

 ペンギンに記録装置(ロガー)を装着しようとして、フリッパーで顔を強打される。さらに噛まれる。蹴られる。親ペンギンの吐き戻しを横取りしようとする鳥からさらに横取りする。白髪染めを何箱も購入して不審者扱いされる。ペンギン研究者たちの涙ぐましい努力と苦労を専門家が語った一冊。単行本(岩波書店)出版は、2011年07月です。

 「エンペラーペンギンは564メートルもの深度に達し、27分36秒も潜水することが確認された。(中略)海中を下降していくときは翼(フリッパー)を強く激しく振り続け、上昇(浮上)するときはフリッパーをほとんど動かさず、水中を「グライディング」していることがわかった。しかもそのとき、ペンギンたちは潜水の前にあらかじめ潜ろうとする深度を想定し、吸い込む空気量を調整することで、適正な浮力を得ているらしい」(単行本p.27-28)

 こういったペンギンの驚くべき能力を示すデータが沢山出てきて、それだけでも魅力的なのですが、やはり本書の特徴は、そういった発見の背後で「文字通り日々ペンギンと格闘する」(単行本p.20)研究者たちの奮闘努力について率直に語っているところ。

 「バイオロギングサイエンスは、ハイテクを駆使することによってペンギンの「泳ぎかた」を最もリアルかつ詳細に解明しつつある。しかし、それはハイテク・ギアをいかに素早くペンギンにとりつけ、いかに確実に回収するかという、生身の生きものどうしの駆けひきを抜きにしては成立しないのである」(単行本p.20)

 ペンギンの片足に鉤突き棒をひっかけて引っ張り、「おっとっと」とケンケンしながら近づいてくるペンギンを小脇に抱えこんだり、かと思うとフリッパーで力一杯どつかれたり、逆さにして胃の内容物をバケツにぶちまけさせたり、口うつしで餌を与えている最中の親鳥とヒナのクチバシの間に強引に割り込んで餌の横取りを狙うサヤハシドリの「おこぼれ」を奪って逃げたり、といったペンギン研究者たちの涙ぐましい努力の数々に、思わず笑いが込み上げてきます。

 国際会議で「フリッパーバンドの安全な装着方法」が話題となり、世界各国の研究者たちが「互いをペンギンに見立てて、こうしようああしようと議論しあった」(単行本p.73)といった記述など、さらりと読みとばしてしまいそうですが、まあ想像してみて下さい、いい歳した偉そうな学者さんが両手をぱたぱたさせている同僚に抱きついて腕にバンドを取り付けようと奮闘しながら「いや、そこはこうした方が、でないとこんな風に蹴られるぞ」などと真剣にやっている光景を。

 というわけで、ペンギンというより、「ペンギン研究者」の生態を教えてくれる本。遠隔テレメトリー、バイオロギング、そういった先進的な研究手法の背後で、地味に頑張っている研究者の顔が見えてくる好著です。


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『架空の球を追う』(森絵都) [読書(小説・詩)]

 女だけの同窓会で白熱する議論、仲違いしかけたのにUFO一発で修復される姉妹の絆。ハチの巣を退治しておくよう言い残して出かけた上司。なにげない日常的な光景から一瞬のドラマが生まれる様を鮮やかに切り取った短篇集。単行本(文藝春秋)出版は2009年01月、私が読んだ文庫版は2011年08月に出版されています。

 直木賞受賞作『風に舞いあがるビニールシート』に続く短篇集です。11篇が収録されており、どれも短い作品ばかり。野球練習、同窓会、写真撮影、買物、旅行、タクシー乗車、といったごくありふれた日常的な光景を扱ったものが多く、そこにふと小さなドラマが生ずる様を丁寧に描いています。

 30代になった女性だけが集まる同窓会で、銀座と新宿がどちらがいいか、というどうでもいい議論がやたら白熱しまくる。(『銀座か、あるいは新宿か』)

 事務所の裏に出来たハチの巣を退治しておくよう言い残して出かけてしまった上司。誰もハチの巣に挑む勇気がない。やがてハチの巣は語り手の中で「どう頑張っても無くすことの出来ない人生のつまずき」の象徴のように感じられ、絶望感まで漂わせてくる。いやそんな大層な問題じゃないのに。(『ハチの巣退治』)

 少しだけ贅沢しようかしらと思ってちょっとお高いスーパーに出かけた主人公がなりきりセレブ幻想に陥って勢いに任せて高級品(といってもパパイヤとか牛肉とか)を買いまくり、あわやというところで、駄菓子のおかげで正気を取り戻す。(『パパイヤと五家宝』)

 ドバイに旅行に出かけた二人。語り手の女性は、せっかく見つけた金持ちの御曹司を何としても捕まえるべくずっと猫をかぶっていたが、苛烈な日差しや街そのものの虚構感が、薄っぺらい嘘をひっぺがしてゆく。ついにキレた彼女は、彼のハゲを指さして「てめえはカッパか」と言い放ってしまう。(『ドバイ@建設中』)

 幼い頃は仲がよかった姉妹。しかし今や心の距離が広がり、亀裂が入りつつある。何とか関係修復しようと試みるものの、ついに破綻。だがその瞬間、「UFOが出た!」という子供の声。いきなりUFOマニアの血がたぎり、瞬時に結束を固める二人。(『二人姉妹』)

 主人公の多くは30代くらいの女性で、恋愛も仕事も一段落というか、何だか人生にちょっと疲れてきたというそんな年頃。そんな彼女らが、ささいなことで心ざわめいたりじたばたしたりする様を、ユーモラスに書いた作品がメインとなっています。

 本人にとっては深刻だが、読者から見るとどこか滑稽な状況の下で、大真面目に頑張っている主人公。そもそも個人的にこういうタイプの作品には弱いのです。どの短篇も気に入りました。

[収録作]

『架空の球を追う』
『銀座か、あるいは新宿か』
『チェリーブロッサム』
『ハチの巣退治』
『パパイヤと五家宝』
『夏の森』
『ドバイ@建設中』
『あの角を過ぎたところに』
『二人姉妹』
『太陽のうた』
『彼らが失ったものと失わなかったもの』


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『名被害者・一条(仮名)の事件簿』(山本弘) [読書(ファンタジー・ミステリ・他)]

 名探偵が存在するように、この世には名被害者だって存在する。ただ、殺されてしまうため世に知られないだけだ・・・。次から次へと殺人未遂事件の被害者になる女子高生、一条(仮名)を主人公としたコメディ連作短篇集。新書版(講談社)出版は、2012年04月です。

 本作のヒロイン、一条(仮名)はラノベによくある無感動タイプの美少女だが、一つだけ際立った属性を持っている。それは彼女が「名被害者」であること。彼女がいるだけで、まるで引き寄せられるように命を狙ってくる犯人たち。ただし、きちんとした犯人はやはり名探偵の方に引き寄せられるようで、彼女に寄ってくるのはマヌケで駄目な犯人ばかり。

 「私を殺そうとする人って、みんなしょぼいんですよねえ。美学がないし、計画はずさんで、ろくなトリックも用意してないし・・・・・・あんなんじゃ殺され損ですよ」(新書版p.90)

 こうして今日も、カルト教団の教祖が奇跡を見せるために、トンデモ本の著者が自説の正しさを証明するために、オカルトマニアのおじさんが魂の重さを測るために、そして陰謀論者が女子高生に化けている爬虫類人の正体を暴くために、一条(仮名)の命を狙うのであった。

 というわけで、全五話を収録した連作短篇集です。ユーモアミステリだと思って読み始めたのですが、謎解きとか、意外な真相とか、そういうのはほとんどありません。ほぼ純粋なコメディ小説です。

 毎回、ヒロインが襲われるのですが、犯人のあまりのマヌケっぷりに不憫になって、殺害計画の穴を指摘したり、助言したり、色々と協力するものの、どうにもうまくゆかず、結局は犯人が勝手に自滅しちゃておしまい、というような展開が繰り返されます。

 あと、言うまでもないかも知れませんが、ヒロインの脱ぎっぷりがハンパなく。ほぼ毎回、何やかや理由をこじつけては裸にされます。さらに、氷漬け全裸美少女にされかかったり、コスプレ緊縛されて巨大タコの触手にいたぶられたりと、作者の、いや犯人の、趣味嗜好がストレートに炸裂。

 「どうも「自己表現」と「恥知らず」の境界が分かっていないように感じます」(新書版p.134)

 それと当然ながら漫画やアニメや特撮やSFやオカルトのネタが頻出しますが、いくら何でも昭和すぎるだろうというか、今どきの女子高生が知っているというのは設定に無理があるのではないか、とも思うのですが、そもそも設定に無理がある、というようなことを言っても仕方ありません。

 ミステリの「お約束」をからかった作品というのは多くのミステリ作家が手がけているのですが、例えば東野圭吾さんの著名作あたりと比べたときの、このマイナー感ときたら。

 最終話でSFにもってゆきますが、こうきたか、というか、最初からこのネタを出すためにこれまでの話を用意したのか、というか。ニーヴン的なネタで強引にまとめてきます。まぎれもなくバカSFなので、そういうのがお好きな方は最後まで読み通して下さい。

 というわけで、ミステリ要素は極めて希薄、コメディ要素は山盛りだけど方向性がちょっとアレ、バカSF好きは黙って最後まで読め、という一冊。話がSFになだれ込むと途端に活き活きと弾ける感じがして、この作者はやっぱりミステリ畑じゃなくてSF沼の人なんだなあ、と感じます。


タグ:山本弘
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