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『100の思考実験  あなたはどこまで考えられるか』(ジュリアン・バジーニ) [読書(教養)]

 構成要素が全て入れ替わっても全体の同一性は保たれるのか(テセウスの船)、抜き打ちテストを予告することは可能か(抜き打ちテストのパラドクス)、多数の命を救うために少数を犠牲にすることは正しい行為か(トロッコ問題)。

 哲学・倫理・政治における論点明確化のために使われてきた有名な「思考実験」の数々を分かりやすく紹介する本。単行本(紀伊國屋書店)出版は、2012年03月です。

 思考実験とは、主に哲学や政治上の論点を明確にするために、あえて設定した特殊な状況について考えてみるという手法です。その状況は、非現実的だったり、実現が極めて困難だったりしても構いません。だから「思考」実験なのです。

 例えば、本書の原題(直訳すると「食べられたがっている豚」)が示す思考実験とはこんなものです。動物の命を奪うべきではないから、という理由で肉を食べない、いわゆる道徳的ベジタリアンは、遺伝子に手を加えることで「屠殺され食べられることに無情の喜びを覚える」ように作られた家畜なら食べるべきか?

 そんな遺伝子改造は技術的に不可能、というのは置いといて、思考実験ではこういう想定は許されるのです。さらに「食べられず生き延びることに激しい苦痛を覚える」とまで設定してもOK。

 この問題に回答できたなら、次の設問についても考えてみて下さい。

 「ある国の独裁者が、遺伝子操作により「自由を奪われ抑圧されることに無情の喜びと幸福を感じる人間」を大量に作り出すことで、国民から“民主的な”支持を受けて圧政を敷いている。この独裁者を倒して国民を“解放”して不幸にするのは正しいことか」

 本書には、こんな感じの思考実験がタイトル通り100問も収録されています。設問は1ページ強、それぞれに2ページ強の解説が付いています。解説は、論点を明確にするための補足説明で、回答を示すものではありません。

 銀行ATMのエラーで請求より多額の現金が引き出せたとき、わざわざ申告すべきか。多くの市民の命がかかっている状況では拷問は許されるだろうか。環境問題への対策によって経済格差が広がるとしたら、それは正しい政策といえるか。もしもコンピュータが「心がある」「知能がある」としか思えない言動をとるとしたら、その内部アルゴリズムとは無関係に「心や知能がある」といえるのか。

 道徳、信仰、合理性、確率、科学、正義、公平、自由意志、記憶、芸術、言語、知能、人権、責任、人格の継続性、存在論と認識論、主観的体験(クオリア)、思考と行動の関係、といったテーマが繰り返し追求されています。それだけこれらの分野では私たちにとって切実かつ困難な問いかけが多いということでしょう。

 扱っている哲学上の問題は難しいものも多いのですが、文章は平易で、特に予備知識がない方でも「何が問題となるのか」を理解することが出来ます。有名な設問ばかりなので、哲学に興味がある読者なら、大半は既にご存じの話題ばかりでしょう。解説も突っ込みが浅くて、物足りないかも知れません。よく知られた思考実験を広く集めたカタログ本、として読んだ方がいいかも知れません。

 なお、本書で思考実験というものの面白さに目覚めた方には、三浦俊彦さんの「論理パラドクス」四部作をお勧めします。どう考えても矛盾が生じてしまうという興味深い思考実験が多数収録されており、本書に比べれば考察もかなり深く、知的興奮を覚える名作です。


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