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『NOVA10 書き下ろし日本SFコレクション』(大森望:責任編集、山本弘、森奈津子) [読書(SF)]

 「とりあえずの最終巻ということで、ごらんのとおり、大幅増ページとなりました。最後だけ急に分厚くてすみません。(中略)第一クールの最終回、拡大スペシャルということで、ひとつご寛恕ください」(文庫版p.3)

 おばちゃんになっても、 頭の中にカブト虫がいても、ゾンビ社員になっても、地獄に落ちても、メルボルンでひとりぼっちになっても、キモオタと結婚しても、それでも続く人生の切なさ。全篇書き下ろし新作の日本SFアンソロジー『NOVA』、12篇を収録した最終巻。文庫版(河出書房新社)出版は、2013年07月です。

 さて、季刊『NOVA』 もついに最終巻。山野浩一さんの33年ぶりの新作、倉田タカシさんの「普通の小説」デビュー作、会社員、おばちゃん、ラノベ、落語、という具合に幅広い作品が集まっています。


『妄想少女』(菅浩江)

 「五十五歳の肉体。しわがれた声、枯れた手足。 けれど、このトレーニングプログラムをしている間、菜緒花は誰気兼ねなく「楓子」という十八歳のヒロインになりきることができる。(中略)心の中の妄想少女がみずみずしくある限り、自分はまだまだ頑張れる」(文庫版p.18、19)

 中年おばさんになってしまった語り手が、心の中にいる妄想少女になりきることで何とか辛い生活をやり過ごしてゆく。敵の組織とか、右手の力を封印しているとか、いわゆる中二病の空想なんですが、中学生と違って、もうあんまり未来がない歳。現実との対比があまりに痛々しく、同じ年代の読者としてひどく切ない気持ちに。


『メルボルンの想い出』(柴崎友香)

 「さびしい、と思ったことが、自分には今までなかった気がしてきた。ほんとうに、心の底から、さびしくてしかたがないという感情にとらわれたことがなかったし、今、この状況でも、まだそうじゃないと思った」(文庫版p.66)

 オーストラリア大陸、メルボルン。世界の南の果てにある都市に出かけた語り手は、そこに一人取り残されてしまう。周囲は、なぜか色とりどりのゼッケンをつけた人々ばかり。英語がうまくないので事情もよく分からず、インターネットもつながらない。あちこち歩き回るうちに、ゼッケンをつけてない人が少数ながら存在することに気付いて・・・。

 言葉が通じない海外で、事件か事故かイベントか、何かの異常に巻き込まれているのに事情がさっぱり分からない。そんなときに感じるあの心細さ、疎外感、もう二度と戻れないのではないかという予感が、見事に表現された作品です。個人的に、本書収録作のうち最も気に入りました。他の著作も読んでみようと思います。


『味噌樽の中のカブト虫』(北野勇作)

 「じゃあさ、五年も前から頭の中にカブト虫がいたってこと? よくそれで、ものを考えたりできたわね。 妻の妹が不思議そうにつぶやく。 どうやらカブト虫がおれの代わりに思考してたらしいんだよな」(文庫版p.104)

 会社の健診で、頭の中にカブト虫がいて脳味噌を食っている、と知らされた会社員。どうも異星人の仕業らしいが、「だって地球人によって頭の中に何かを入れられて困っている異星人も大勢いるんだから。もうずいぶん前から入れたり入れられたりになってて、そういうのはお互いさまだからね」(文庫版p.92)ということで納得しろと言われても。

 いつもと比べて、ブラックな笑いより、もの悲しさが先に立つ会社員SF。『蟻塚の中のかぶと虫』(ストルガツキー兄弟)とはあんまり関係ありません。


『ライフ・オブザリビングデッド』(片瀬二郎)

 「会社員としての習性は、溶けかかった脳のなかに根強く残っていて、いまでも浜田を追い立てている」(文庫版p.112、113)

 満員電車に乗って、コンビニで週刊誌のグラビア見てから弁当買って、職場で机の前に座って、今日もサービス残業。ゾンビになってもそれまでの習性をひたすら繰り返している会社員たち。非哲学的ゾンビだらけの日本は、一見して普通の日常が続いているのだった。

 ゾンビ企業に勤めるゾンビ社員のゾンビ生活を淡々とつづった短篇。アクション映画風の活劇シーンも、単に「人身事故により電車が遅延」くらいの感じで流して、ひたすら会社に向かおうとするゾンビ社員たち。もはやSFでもホラーでもなく、リアリズム小説になっちゃってるのが哀しい。


『百合君と百合ちゃん』(森奈津子)

 「少子化対策として、特別な事情がないかぎりは満二十八歳までに結婚する義務が国民に課せられたのが、三年前。 まったくもって非人道的な政策だと思うが、自由愛国党なる右翼の中でも特にバカでダメな政党が政権をとってしまったのが間違いだった」(文庫版p.293)

 二次元にしかキョーミないキモオタ青年と強制結婚させられたレズビアンの女性。子作りは国民の義務だが、死んでも互いにセックスなんてしたくない二人、そこは性交代理アンドロイドに任せて人工受精。しかし、その「性交時の感覚記録データ」を脳内再生して「体感」することが義務づけられている(なんでか知らんけど、親としての自覚と責任感を持たせるためとか何とか、たぶん親学)。こうして二人は仮想的に性交するはめに。

 「お姉様に組み敷かれて、恥ずかしいのに感じちゃって、ぼくは・・・ぼくは・・・ああっ・・・」
 「黙れ、キモオタ童貞」
 「でも、ちょっと萌えちゃった。アニメ化希望、って感じ」
 「アニメ化されてたまるか、バカ・・・」

 森奈津子さんのセクシャリティコメディはいつも辛辣で面白いのです。『接続された女』(ジェイムズ・ティプトリー・Jr.)から40年、このジャンル(?)も遠くまで来たものだなあと。でも、社会における女性の扱われ方は本質的に変わってないというか何というか・・・。


『(Atlas)3』(円城塔)

 「流れ(フロー)を地図化するのが僕らの仕事で、そこに潜むものを包囲するのが僕らの仕事だ。歪みは一枚の地図からだけではみつけられない。そいつは地形じゃないからだ。複数の地図を突き合わせて矛盾する場所に棲みつく何かのものだ。(中略)いや事情は本当のところもっと悪い。この世には大規模不整合の底から粘液まみれの触手をのたつかせて這い上がってくる、「映り込み」が存在するから」(文庫版p.430、432)

 私たちがそれぞれが見ている「主観的な世界」をつなぎ合わせることで「客観的な世界像」が作れるかというと、そこには矛盾と不整合が山ほど出てくるに違いないわけですが、その矛盾と不整合に隠れ潜む「なにか」が襲ってくるという、まるで『ティンダロスの猟犬』的なホラー設定。にも関わらず、饒舌で、スタイリッシュで、理屈っぽい、いつもの円城SFになってしまうのが凄い。


『ノヴァ休報』(理山貞二)

 「第3回創元SF短編賞受賞の理山貞二氏から、「ノヴァ休報」と題する原稿がいきなり投稿されてきたが、これまた一読ノータイムでボツにさせていただいた。(中略)それにしても、こんな原稿が(本物の)『NOVA10』に載る(かもしれない)と思っていたとは、理山貞二もいい年をしていったいなにを考えているのか。それ以前に『NOVA』をどんなアンソロジーだと思っているのかと」(文庫版p.638、639)

 これ、読んでみたいなあ。


[収録作品]

『妄想少女』(菅浩江)
『メルボルンの想い出』(柴崎友香)
『味噌樽の中のカブト虫』(北野勇作)
『ライフ・オブザリビングデッド』(片瀬二郎)
『地獄八景』(山野浩一)
『大正航時機綺譚』(山本弘)
『かみ☆ふぁみ! ―彼女の家族が「お前なんぞにうちの子はやらん」と頑なな件』(伴名練)
『百合君と百合ちゃん』(森奈津子)
『トーキョーを食べて育った』(倉田タカシ)
『ぼくとわらう』(木本雅彦)
『(Atlas)3』(円城塔)
『ミシェル』(瀬名秀明)


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『五年、生存』(島野律子) [読書(随筆)]

 「そうだ、この治療は死なないために受けていたんだ。すいません。忙しすぎて、すっかり忘れてました」(something 17、p.111)

 女性詩人25名の自薦詩とエッセイを掲載する詩誌"somethig 17"(編集:サムシングプレス/鈴木ユリイカ、出版:書肆侃侃房)に、島野律子の新作エッセイが掲載されましたので、ご紹介いたします。

 昨年、私の配偶者でもある島野律子が第一詩集『むらさきのかわ』(ふらんす堂)を出しました。もちろん今のこのようなご時世、無名詩人の詩集など売れるはずもなく、あちこち知り合いの詩人さんたちに献本した後、残り部数は箱詰めのまま我が家に積み上げられ、猫のアスレチックフィールドになっています。

 その詩集が、どうやらサムシングプレスの目にとまったらしく、詩集から抜粋された自薦作品いくつか+新作エッセイ書き下ろしが、詩誌"somethig 17"に掲載されたのです。エッセイの内容は、乳がん治療体験記。

 「リンパ節転移が六つも見つかり、結局ホルモン治療もありで、フルセットの治療コースへ。それっていったいおいくらですか。交通費だけでもしゃれにならないですよ」

 深刻にならないようおちゃらけた雰囲気のエッセイとなっていますが、治療について非常に具体的に書かれています。

 「三週間毎の抗ガン剤治療四回、さらに一週毎の抗ガン剤投与十二回、その後放射線照射を週に五回で、合計三十回。排卵を止めるホルモン剤を三ヶ月に一回投与で五年、服薬は毎日一錠を五年。やらかす、きっと。このスケジュールを滞りなく自分がこなせるはずがない」

 タイトルは、治療打ち切りの目安となる「五年生存」を意味していますが、乳がんの場合、五年生存でも再発転移の可能性が消えたわけではなく、生存年数に沿って再発率がだらだらとゆるやかに下がってゆく傾向にありますので、これからもずっと不安と共に生きるしかありません。

 といいつつ、自覚症状も軽微で、ホルモン療法のおかげで生理がなくなってラッキー、このまま閉経逃げきり狙えるか、みたいな。

 「これがガンと共に生きるなのか。そうなのか。なにかが、間違っているような気もするのですが、今はまだ生存中です」

 というわけで、「治療より、そもそも通院がめんどう」、「うっかり者にとっては治療より治療スケジュール厳守の方がきつい」、「抗ガン剤を服用してもなぜかダイエットできない」、といった、他の乳がん治療体験記ではあまり言及されないポイントに的を絞ったユニークな体験記。生活と詩作を支えている(少なくとも積極的に邪魔はしていない)夫への感謝とか愛情表現とか書かれていればもっとよかったのにと思います。

 他の詩人さんのエッセイも読みごたえがあります。いくつか引用しておきます。気になった方は、ぜひsomethig 17をお買い求め下さい。

 「「あなたにも出来るわ。目を瞑って、宇宙から頭の上にパワーが下りてくるイメージをするの。」 昼下がりの喫茶店で、スプーンを持って、私は意識を集中させていた」(柳内やすこ『私と宇宙』より)

 「いいねえ、というのはひとが猫を眺めているときになにも考えずについ発してしまう言葉である」(川上亜紀『灰色猫的日乗』より)

 「ピクトさん「被苦人さん」といういつも酷い目に遭っている形代のようなものがいる。ヒトの姿を簡略化したもので、いまピクティストというマニアまでいる人気ものだが、私が転んだときにはピクトさんは居合わせなかった。(中略)どうして額から転んだのかわからなかった/わからないから事故は起こるのだとしても/ゆっくりゆっくりと地面が顔に近づいて/それからメガネが潰されて/血が噴き出してきたのだった」(苅田日出美『ピクトさん』より)


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『シレンシオ』(振付・演出:小野寺修二) [ダンス]

 2013年07月07日(日)は、夫婦で東京芸術劇場に行って、小野寺修二さんの新作公演を鑑賞しました。原田知世さんと首藤康之さんが共演するというので話題になった舞台です。

 名作『空白に落ちた男』を発展させたような作品です。『空白』の出演者+原田知世、という豪華メンバー。特にストーリーはなく、次々と場面が切り替わり、小野寺流マイムとダンスが展開する80分の公演です。

 遺体と第一発見者の「担当者」が次々と入れ替わりながらもシチュエーションだけは維持されている遺体発見シーンとか、食堂で食事している小野寺さんが妙な状況に巻き込まれ焦っているうちに殺されるとか、特定アイテム(今回は額縁や帽子)を出演者が奪い合うように次々と受け渡してゆくとか、『空白に落ちた男』の断片がクリアに再現されます。

 首藤康之さんが踊るシーンが意外に多く、どれもすごくカッコいいのです。机の上で動物めいた動きをするダンスとか。『空白』にも首藤康之さんが机の上で踊るシーンがありましたが、今回は作品のシリアスな雰囲気に溶け込みながらも、思い切りよく伸びやかに動いていて、爽快でした。

 梶原暁子さんの動きも魅力的。こう、ぐっと威圧した次の瞬間かくっと片膝を折り、旋回しながらへなへなーと地面に転がりつつダンスに入る、という振付は全員(原田知世を除く)がやるのですが、梶原暁子さんの動きが一番印象的でした。彼女のダンスシーンには見とれてしまいます。あと、藤田桃子さんとの相性がよく、舞台上に二人がいるとそれだけで変なことが起きるという期待がぐいぐい盛り上がったり。

 何を考えているのかよく分からない、無表情にたたずんでいる女、という役柄を貫いた原田知世さん。他の出演者が踊っているときも、黙って立っているその不思議な存在感で、舞台全体の不条理さを際立たせてくれました。

 決して踊らず(ラストシーンでちょっとだけ)、決して歌わず(わざとクチパク熱唱シーンを入れる小野寺修二さん性格悪し)、決してしゃべらず(「しーっ」など一部を除いて、本作品はセリフなし。ときどき原田知世さんの録音音声によるセリフが効果音のように入るのみ)。原田知世さんを使って謎めいた雰囲気を作り出した小野寺修二さんの采配はお見事ですが、彼女目当てに来た観客の方々はちょっとがっかりしたかも知れません。

[キャスト]

作・演出・振付: 小野寺修二
出演: 原田知世、梶原暁子、川合ロン、藤田桃子、小野寺修二、首藤康之


タグ:小野寺修二
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『パリ・オペラ座バレエ学校創立300年記念ガラ、他』(パリ・オペラ座) [ダンス]

 2013年07月01日(月)0:00から4時間30分、NHK BSプレミアム『プレミアムシアター』にて、パリ・オペラ座バレエ団の舞台映像を放映してくれました。放映されたのは、次の三つの公演です。

  [パリ・オペラ座バレエ学校 創立300年記念ガラ]
   2013年4月15日 パリ・オペラ座ガルニエ宮

  [マリ・アニエス・ジロ/マース・カニングハム プログラム]
   2012年11月7日、9日 パリ・オペラ座ガルニエ宮

  [ウィリアム・フォーサイス/トリシャ・ブラウン プログラム]
   2012年12月6日 パリ・オペラ座ガルニエ宮

 最初の一本はテレビ番組として制作されたバージョンらしく、記録映像やインタビューなども挟み込まれます。パリ・オペラ座舞踊監督のブリジット・ルフェーヴルさんへのインタビューでは、2014年に舞踊監督の地位をバンジャマン・ミルピエに譲るという話題なども。


『今から』(振付:ベアトリス・マッサン、ニコラ・ポール)

 舞台上に設置された巨大な額縁の前後で、バレエ学校の男子生徒たちが躍ります。ルイ14世時代のバロック舞踊と現代バレエ風の動きを対比させることで、300年の歴史を表現するという趣向。


『ワルプルギスの夜』(原振付:レオ・スターツ、振付:クロード・ベッシー)

 次は女子生徒たちの群舞をたっぷり見せる作品。そこはかとなく漂うおぼつかなげな風情も見どころ。


『祝典』(振付:ピエール・ラコット)

 パリ・オペラ座バレエ団メンバーによる端正で優雅な作品。主演二人(マチュー・ガニオ、リュドミラ・パリエロ)のパ・ド・ドゥは素敵。


『青春の罪』(振付:ジャン・ギヨーム・パール)

 舞台背景には巨大な月。深い群青の夜空をバックに生徒たちが赤い衣装で踊る。躍動感あふれる楽しい作品。


『ス・ザパランス』(振付:マリ・アニエス・ジロ)

 上半身をカラフルな亀甲縛りにされたり、樹や虫や葡萄やスリッパのようなわけわからん着ぐるみを着せられたりしたダンサーたちが、幾何学的立体の周囲やら壁際やらでわらわら踊る作品。個々の動き(特に「すべる」「ひきずる」)が魅力的で、ラスト近くの群舞は感動的です。

 ちなみにジロさんは振付のみで自身は躍りませんが、カーテンコールで(お馬鹿なドレス姿で)舞台に登場してくれました。


 『アン・ジュール・ウ・ドゥ』(振付:マース・カニングハム)

 ポストモダンダンスの巨匠、カニングハムの作品。

 ジョン・ケージのノイズ音楽が流れる薄暗い舞台上、散らばったダンサーたちが、てんでバラバラな感じで機械的・無機的に動きます。まるでレッスン場でダンサーたちが気まぐれに自分の動きの断片を練習しているかのようでいて、ふいにシンクロしたり、関係性があらわになったり、無秩序の中から秩序が生まれたり、不思議な統一感と緊迫感が舞台を支配します。

 ダンサーの個々の動き自体は意外に伝統的なのに、配置と構成の妙で、印象はとても現代的。古いとは感じられません。今やカニングハム作品が上演される機会も少ないので、貴重な舞台映像だと思います。


 『オ・ズロゾニ/オ・コンポジト』(振付:トリシャ・ブラウン)

 カニングハムに強い影響を受けた著名コレオグラファの一人、トリシャ・ブラウンの作品です。星空をバックに白い服を着て踊る三人。静と動の対比が鮮やかで、宇宙遊泳みたいなリフトがやたらかっこいい。てっきり往年の名作かと思ったら、比較的最近(2004年初演)にパリ・オペラ座のために振り付けられた作品とのこと。

 [ウィリアム・フォーサイス/トリシャ・ブラウン プログラム]の記録映像なのに、大胆にもフォーサイス作品をばっさり省略。放映されませんでした。残念です。


[キャスト]

放映日 2013年07月01日早朝0:00-4:30
NHK BSプレミアム『プレミアムシアター』

[パリ・オペラ座バレエ学校 創立300年記念ガラ]
 2013年4月15日 パリ・オペラ座ガルニエ宮

演目
 『今から』(振付:ベアトリス・マッサン、ニコラ・ポール)
 『ワルプルギスの夜』(原振付:レオ・スターツ、振付:クロード・ベッシー)
 『祝典』(振付:ピエール・ラコット)
 『青春の罪』(振付:ジャン・ギヨーム・パール)
出演
 パリ・オペラ座バレエ団、パリ・オペラ座バレエ学校の生徒、他


[マリ・アニエス・ジロ/マース・カニングハム プログラム]
 2012年11月7日、9日 パリ・オペラ座ガルニエ宮

演目
 『ス・ザパランス』
振付
 マリ・アニエス・ジロ
出演
 レティシア・プジョル、アリス・ルナヴァン、ヴァンサン・シャイエ
 パリ・オペラ座バレエ団

演目
 『アン・ジュール・ウ・ドゥ』
振付
 マース・カニングハム
出演
 エミリー・コゼット、エルヴェ・モロー
 パリ・オペラ座バレエ団


[ウィリアム・フォーサイス/トリシャ・ブラウン プログラム]
 2012年12月6日 パリ・オペラ座ガルニエ宮

演目
 『オ・ズロゾニ/オ・コンポジト』
振付
 トリシャ・ブラウン
出演
 オーレリ・デュポン、ニコラ・ル・リッシュ、ジェレミー・ベランガール


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『ヒュッテは夜嗤う 山の霊異記』(安曇潤平) [読書(随筆)]

 「たしかに、長い間山に通っていれば、不思議な体験や不気味な体験をすることもある。 しかし、本当のことを言えば、特に高山に登った場合、そういった恐ろしい体験にいちいち付き合っていられないというのが本音なのである」(単行本p.246)

 テントの外から足首をつかんでくる手、無人の山小屋に残されていた痕跡。登山家たちが語った不気味な体験の数々をまとめた実話系山岳怪談集。 全22話収録。単行本(メディアファクトリー)出版は、2013年05月です。

 「「山に限定した怪談をよくそんなに書き続けられるな」。顔を合わせるたびに、山仲間からそういわれる」(単行本p.3)

 登山家である著者が収集した、山を舞台とする実話系怪談集です。いないはずの登山者を見たとか、夜中にテントの周囲を歩き回る足音がしたとか、ぞっとするような体験談を登山者なら一つや二つ持っているものですが、本書に収められているのは中でもかなり怖い部類。

 冬季は閉鎖される山小屋で、厳重に板張りして誰も立ち入れないようにしているにも関わらず、春になって確認すると毎年必ず五号室の扉が開いている(『五号室』)。

 山道を歩いていると、右前足のない猫が現れる。やがて右目がつぶれた猫が竹林から現れ、さらに左の後足がない猫が出てきて、三匹で静かに後ろからついてくる(『猫の山』)。

 放棄されたスキー場跡で、錆びついたリフトを見つけた登山者。そのリフトがいきなり軋みながら動き出す。キイ、キイ、キイ、という嫌な音と共にボロボロの椅子がゆらゆらと動いて次々とこちらに向かってくる。やがて、今はまだ遠くに見える椅子に、なにかが座っていることに気付く(『リフト』)。

 かなり不気味で嫌な想像をかき立てるシチュエーションが続きます。けっこう怖いですよこれ。

 登山の途中で出会った快活で気のいい女性。ところが山小屋で一夜明けてから再会した彼女は、なぜかその面相が凶悪で憎悪に満ちたものに変容している。気圧されて見送った直後、彼女が出てきた山小屋から悲鳴が上がる。

 「個室トイレのひとつのドアが開け放されており、その前で、山小屋の若い女性スタッフがしゃがみ込んで両手で顔を覆って震えていた。 周りにトイレの掃除用具が散乱している。 もうひとりの若い女性が震える彼女の肩を抱いている。 その後ろから、三人の男性スタッフが薄気味悪そうな顔をしながら、扉の開いた個室トイレの中を覗き込んでいた」(単行本p.104)

 トイレの中に何があったのか。読者の多くが、さっき再会したはずの女性の遺体があったのでは、と思うのではないでしょうか。しかし、本当に怖い怪談というのは、そんな誰でも想像するような生やさしい展開じゃないわけです。(『豹変の山』)

 怪異それ自体もすごいのですが、余韻の作り方が強烈なものも。

 尋常でない恐ろしいものに出会った登山者が、必死に逃げてきて、自分が車を停めておいた空き地に戻ろうとする。日が暮れる前にあそこまで戻れれば・・・。

 「今日中に、車を停めたあの空き地に戻ることができるだろうか。(中略)この山で体験した恐怖と関係あるのかどうかはわからないが、あの空き地に放置されていた、くすんだブルーのワンボックスカーの存在が、私は妙に気になった」(単行本p.118)

 「私は妙に気になった」。そこで終らないでーっ。
 「くすんだブルーのワンボックスカー」がどうしたのか、何がどう気になるのか、あの怪異と関係があるのか、ないのか。何ひとつ説明がないまま、ここでぷつりと話が途切れるのです。ああ、嫌。

 さすがご自身も登山家だけあって、山登りや山の風景の描写はとてもリアルです。登山ルートや登山装備の説明も詳しく、各話の前半では読者も一緒に山を登っているような気分になります。こうして感情移入させておいて、後半で・・・。

 また、音の使い方がうまい。トンネルに響く「ぴちょん ぴちょん」という雨音、背後からついてくる「カサ・・・カサ・・・」という笹藪の揺れ、真夜中の無人の公園から響く「キイ・・・キイ・・・」というブランコを漕ぐ音。怪異の予兆として見事な効果をあげています。

 他にも、「臭い」がつきまとってくる話、濡れて皮膚にぺったりと張りつく衣服の感触や温度感覚が予兆となる話など、五感をフルに刺激して怖がらせます。「山の怪談の第一人者」と呼ばれるだけのことはあります。

 というわけで、著者が「そんなに怖い目にあいながら、よく山を続けていられるね」(単行本p.246)と言われるのも無理はない、かなり本気で怖い実話系怪談集。物理的に危険な上に、心霊的にもこれほど恐ろしい山という場所に、それでも登ってゆく登山家の情熱、そして登山家だけが触れることの出来る山の神秘に、心打たれる一冊でもあります。


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