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『犬心』(伊藤比呂美) [読書(随筆)]

 「犬との生活は、ほんとに何も変わらない。何年間も同じものを食べ、同じところを歩き、同じ期待を、同じ頑固を、同じ仕草をくり返す。寝て起きて、また同じ日をくり返す。よくよく見つめれば、人間と同じように、死が浮かび上がってくるし、裏返しになった生も浮かび上がってくる」(単行本p.196)

 愛犬との生活と別れを通じて静かに「いのち」を見つめる詩人。単行本(文藝春秋)出版は、2013年06月です。

 「私の声が、河原の植物から、とげ抜き地蔵を伝い、般若心経を伝い、親鸞の声に唱和して、犬のいのちにつながっていった」(単行本p.197)

  生・老・病・死。いわゆる四苦について書いてきた作品(『河原荒草』、『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』、『読み解き「般若心経」』、『たどたどしく声に出して読む歎異抄』)に続く一冊で、ずっと介護してきた老父、そして愛犬タケとの死別について書かれています。

 「タケは苦しんでいない。ただ老いて死んでいく。そして娘たちがよく世話をしている。遠くで死んでいった祖父母の身代わりのように」(単行本p.112)

 「人間にはできないことも、犬ならできる。自然に老いて病んで死ぬということだ」(単行本p.44)

 普通に出来ていたことが出来なくなり、排泄物を垂れ流すようになり、起き上がることも難しくなり、それでも飼い主のそばで「自然に老いて病んで死ぬ」という任務をまっとうしようとする犬。それを見つめる家族。

 なぜ安楽死させないのか、とアメリカ人の友人が問います。それが合理的な判断だということは分かる。しかし。

 「考え方の違いは如何ともしがたい。飼っているものを眠らせる決断を下す。そのときのアメリカ人の決断は早すぎる。そして、日本人の決断は遅すぎる」(単行本p.111)

 重い内容ばかりではなく、タケや他の飼い犬たちとの生活や、楽しそうなエピソードなどもたっぷり入っていて、犬好きなら大いに共感するはず。インコの話も少しですがありますし、ウンコの話にいたっては、もうそれはそれはうんざりするほどくり返されます。生きることは排泄すること。

 というわけで、四苦を見つめる峻厳な散文詩として読んでも、犬暮らしエッセイとして読んでも、どちらでも満足できる本です。そして、いずれにせよ、そのときはやってくるのです。

 「行ってしまった、というのが感想だ。父のときも母のときも、死に化粧やしきたりで、飾られて、隠されて、見えなかったものだ。タケの毛の生えた顔や足でそれが見えた。亡き骸とはよく言った。ここにあるのはからっぽになったカラである。タケはさっきまでここにいたのだが、今はもういない。じゃあ、そこにいたのはなんだったのだろうと私は考えている」(単行本p.175)


タグ:伊藤比呂美
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『現代オカルトの根源 霊性進化論の光と闇』(大田俊寛) [読書(オカルト)]

 「オウムの例に顕著なように、霊性進化論は、その思考を突き詰めてゆけば、人間は神に進化するか動物に堕ちるかの二つに一つであるという、極端な世界観であると言わざるをえないだろう。しかし、本書の記述において徐々に明らかにされるように、現代社会には、知らず知らずのうちにこうした世界観に絡め取られることになる思想的回路が、さまざまな場所に張り巡らされている」(新書版p.18)

 神智学、超古代史、UFOコンタクティー、マヤ歴世界終末説、爬虫類人陰謀論、オウム真理教、幸福の科学。一見してばらばらに見える様々なオカルト潮流の元となっている共通の思想体系とは。新書版(筑摩書房)出版は、2013年07月です。

 現代の様々なオカルトや新宗教を、「霊性進化論の展開」という視点で読み解くと、あら不思議、奇怪に入り組んだ迷宮のようにも思えた現代オカルト史が、驚くほどシンプルにすっきり理解できる。宗教学者がオカルトの沼地を埋め立てて区画整理したような、目からうろこが落ちる一冊です。

 「人間の歴史は全体として、霊性を進化させる歩みとして理解されるが、しかし他方、その道を転落し、「獣人」へと退化・堕落してしまう霊魂も存在する。(中略)人間の存在を、霊性の進化と退化という二元論によって捉えようとするこの図式を、本書では「霊性進化論」と称する」(新書版p.16)

 「霊性進化論とは、近代において宗教と科学のあいだに生じた亀裂に対し、その亀裂を生み出す大きな原因となった「進化」という科学的概念を宗教の領域に大胆に導入することにより、両者を再び融合させようとする試みであったと理解することができる」(新書版p.244、245)

 全体は三つの章に分かれており、霊性進化論の誕生、発展、日本における受容というように、その系譜を辿ってゆきます。

 「第一章 神智学の展開」では、19世紀後半に活躍したブラヴァツキー夫人の経歴と彼女が創始した神智学の教説を分析します。そして、そこには「霊性進化論」の特徴がすでに完成された形で含まれていたことが明らかになります。

その特徴とは、霊性進化、輪廻転生、誇大的歴史観、人間神化/動物化、秘密結社の支配、霊的階層化、霊的交信、秘教的伝統・メタ宗教、の八つです(新書版p.46、47)。ここでは個々の要素については説明しませんが、字面から何となく想像がつくのではないでしょうか。興味ある方は本書をお読みください。

 本書全体を通読してからここを再読すると、なるほど、その後に現れるオカルト体系の基本要素がすべて登場していることが分かります。その後、これに匹敵する影響力を持つオリジナルな妄想体系を誰も生み出せなかったわけで、決して皮肉ではなく、ブラヴァツキー夫人、やっぱり超絶的な天才としか言いようがありません。

 さらに、ブラヴァツキー夫人亡き後、神智学を引き継いで発展させたリードビーター、シュタイナーといった人々の活動、神智学の影響も受けて広まったアリオゾフィ(アーリア人種至上主義)からユダヤ陰謀論、そしてナチズム、ホロコーストへと至るその後の展開が概説されます。いっけん他愛もない霊性進化論のなかに秘められている、危険で破壊的なパワーには慄然とさせられます。

 「ナチズムにおける民族的運動が、通常の近代的ナショナリズムの範疇を遥かに超える暴挙に結びついた原因の一つとして、霊性進化論に基づく特異な世界観からの隠然たる影響があったということを、われわれは決して見逃してはならないだろう」(新書版p.104)

 「第二章 米英のポップ・オカルティズム」では、ニューエイジ運動に代表されるような通俗オカルトがどのようにして生まれ発展したのかを分析します。

 「実際のところそれらの思想においては、体系の骨組み自体は神智学のそれからほとんど変化していないのだが、大衆の目を引くために、新奇性やエキゾティシズムを感じさせるさまざまな装いが、その表面に施されている」(新書版p.106)

 眠れる予言者エドガー・ケーシー、金星人とコンタクトしてUFOに乗ったジョージ・アダムスキー、マヤ暦による2012年世界終末説を唱えたホゼ・アグエイアス、爬虫類人(レプティリアン)による人類家畜化計画を糾弾するデーヴィッド・アイク。

 この章で紹介、分析される四名の主張は、一見するとバラバラに見えますが、いずれも神智学に含まれていた霊性進化論を分かりやすくポップに飾りたてたものだと解釈すると、実はほとんど同じものだということが明らかになります。

 「霊の性質によって神人と獣人を区別するという二元論的思考、さらには、神的本質を有する人間が獣的勢力によって脅かされるという構図自体は、依然として持ち越された。(中略)戦後のオカルティズムにおいては、霊性進化に向かう人類の歩みを、邪悪な超古代的・宇宙的存在者が妨害しているという図式がしばしば描かれたのである」(新書版p.176)

 さらにはチャールズ・フォートの「人類家畜説」、エイリアン・アブダクション(宇宙人による誘拐と人体実験)、宇宙考古学、様々な誇大妄想的陰謀論など、おなじみの話もそのバリエーションであることが明らかにされ、第二章は幕を閉じます。

 「第三章 日本の新宗教」では、日本に導入された霊性進化論が生み出した新宗教の代表として、オウム真理教と幸福の科学を取り上げ、その教義を分析します。

 「日本における霊性進化論の展開は、全体として見れば、ヨーガや密教の修行を中心とする流れと、スピリチュアリズムを中心とする流れの二種類に大別することができる。(中略)それぞれの流れを代表する新宗教の団体として、オウム真理教と幸福の科学を挙げることができるだろう」(新書版p.180、181)

 まったく異なるように思えるこれらの宗教団体ですが、その教義を「霊性進化論の日本土着化」と見なして分析してみると、共通の源流から発していることがよく分かるのです。

 というわけで、神智学として誕生した「霊的進化論」というシンプルなミームが、どんどんバリエーションを広げて生存競争を繰り広げてきた、という視点から現代オカルト史を読み解くという試みには興奮させられます。

 ややシンプル化しすぎではないかという懸念はありますが、一世紀半におよぶオカルトの全体像を把握できる(できた気になる)というのはやっぱり凄い。それは、オカルトを軽んじたり笑い物にしたりするのではなく、「近代科学を手にしたはずの現代人が、なぜオカルトにこれほどまでに必死にすがってしまうのか」という深刻な問いに、きちんと向き合うために大切なことなのでしょう。

 「約150年のあいだに生み出された霊性進化論の数々のヴァリエーションを概観してきた今、その理論が実際には、妄想の体系以外のものを生み出しえないということを、もはや結論して良いと思われる。しかし、果たしてわれわれは、その思想を一笑に付して済ますことが許されるだろうか」(新書版p.245)

 「宗教と科学のあいだに開いた亀裂、すなわち、科学的世界観や物質主義的価値観のみで社会を持続的に運営することが本当に可能なのか、長い歴史において人間の生を支え続けた過去の宗教的遺産を今日どのように継承するべきかといった、霊性進化論を生み出す要因となった問題は、根本的な解を示されないまま、今もなおわれわれの眼前に差し向けられている」(新書版p.245)


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『まさかさかさま 動物回文集』(著:石津ちひろ、イラスト:長新太) [読書(小説・詩)]

  「ねこなまけまなこね (ネコ、怠け眼ね)」
  「めもかわいいわかもめ (目も可愛いわ、カモメ)」
  「だめなからすやすらかなめだ (駄目なカラス、安らかな目だ)」

 ひらがなを覚えた子供と一緒に楽しめる、すてきな動物回文。1989年06月に初版が発行され、2007年に新版、2013年04月に新版の5刷が発行された名作絵本です。

 個人的な話で恐縮ですが、甥っ子も四歳。ひらがなも覚えたというので、動物が登場する名作回文絵本をプレゼントすることにしました。言葉には「意味(内容)を伝える」という以外にも、使い方がたくさんあることを知っておいてほしいと思うんですよね、おじさんとしては。

 というわけで、次のような回文がずらりと並んだ絵本です。

  「ちんぱんじいからかいじんぱんち (チンパンジーから、怪人パンチ)」

  「したしげなわにわなげしたし (親しげなワニ、輪投げしたし)」

  「よつたとらふらふらとたつよ (酔ったトラ、ふらふらと立つよ)」

  「かしあたえこえたあしか (菓子あたえ、肥えたアシカ)」

 イラストがついていて状況が想像できるようになっていますが、いくつかの作品は子供にはよく分からないかも知れません。そこは大人がきちんと説明してあげてほしいと思います。例えば次のような作品です。

  「らつかんしたぶたしんかつら (楽観したブタ、新かつら)」

  「だつころばろこつだ (抱っこロバ、露骨だ)」

  「たぶうおかしてしかおうぶた (タブー犯して、シカ追うブタ)」

  「たいはんもぐらだらだらぐもんはいた (大半モグラ、だらだら愚問吐いた)」

 会社で、公園で、合コンで、大学で、よく見られる光景を、そのままだとなんなので動物にかこつけて表現する(こういうのを暗喩あるいは隠喩といいます)ということを教えてあげましょう。

 あと、個人的に気になる作品はこれ。

  「おかるとふなよなよなふとるかお (オカルト鮒、夜な夜な太る顔)」


タグ:絵本
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『ぶたぶた洋菓子店』(矢崎存美) [読書(小説・詩)]

 「今回のぶたぶたは、パティシエです。待望という方もいらっしゃるのではないでしょうか」(文庫版p.232)

 見た目は可愛いぶたのぬいぐるみ、心は普通の中年男。山崎ぶたぶた氏に出会った人々に、ほんの少しの勇気と幸福が訪れる。「ぶたぶた」シリーズはそういうハートウォーミングな物語です。愛読者には女性が多いそうですが、私のような中年男性をも、うかうかとファンにしてしまう魅力があります。

 さて今回は連作形式の短篇集。森の中にある洋菓子店で、ぬいぐるみのパティシエが美味しいお菓子を作っているという、設定だけ見るとメルヘンなお話。でもメルヘンじゃ仕事にならないわけで。文庫版(光文社)出版は、2013年07月です。

 何しろパティシエといえば重労働、忙しくて一日中働いていなければならず、まず体力がないと勤まる仕事ではありません。しかしそこは体力気力に満ちた職人気質で仕事中毒の中年男、山崎ぶたぶた氏のこと。馬車豚のごとくひたむきに働いて、きっちりいい仕事してますよ。

 洋菓子店「コション」の姿を見せない謎のパティシエに弟子入りしようと押しかけてきた高校生たちがその正体に驚く話(『森の洋菓子店』)がプロローグ、彼らがついにやりとげる『たからもの』がエピローグに相当し、その間に、「コション」で働いている女性スタッフが出会った思いがけない出来事をえがく『最初にやりたかったこと』、婚約者の心を引き止めるすべを探して「コション」にやってきた男性の物語『メッセージ』、そして男友達にプロポーズされて戸惑う女性が逃げるようにして出かけた「コション」で彼に出くわす『帰ってきた夏』、という三篇が挟まる構成です。

 忙しい山崎ぶたぶた氏はひたすら仕事をしていますが、彼が作る美味しい洋菓子が人の心を揺さぶり、何かに踏み出すためのきっかけを与えてくれるわけです。当然ながら、登場する洋菓子の数々がポイント。

 「本人よりも若干濃いピンク色で、点目が流れてしまったマカロンをかじる。中の濃厚なクリームは塩キャラメル味。 さっくりした生地となめらかなクリームが口の中で合わさって、もうなくなってしまう」(文庫版p.18)

 「ふわふわのクリームと一緒に、スポンジ----マドレーヌを口に入れる。お酒の香りが口に広がり、冷たくしてあるクリームにほろ苦さが交じる。牛乳+マドレーヌ、というおやつが、ものすごく上品になったような味だった」(文庫版p.104)

 「あのタルトはおいしかった。ブルーブリージャムの酸っぱさは、子供の頃、山で穂乃実と一緒に摘んだキイチゴの実を思い出させた。あれは顔がきゅっとなるほど酸っぱかったが、ジャムには柔らかな甘さと瑞々しい香りも一緒にあった。タルト生地の食感はサクサクで、食べる時間を計算したみたいに口の中でホロホロ崩れる」(文庫版p.156)

 「シュークリームの皮はとても薄く、触るだけで破けてしまいそうだった。こんなん、家でできるかあっ! って感じだったが、小さくて一口で食べるとぷしゅっとなめらかなクリームが弾けるようで----できたてもいいけど、冷たく冷やして、あるいは凍らせてもおいしそうだ」(文庫版p.192)

 「ゼリーは果物の色を引き立てるため、透明----いや、ちょっとだけ色づいていた。はちみつのゼリーなのだ。透明に近いふるふるのゼリーの中に、たくさんの果物が泳いでいる」(文庫版p.193)

 他にも、ラスク、クッキー、そしてもちろんケーキも登場しますよ。読むだけでダイエットに失敗しそう。いかにも「コション」で商品を包んでくれる包装紙というイメージのカバーイラスト(手塚リサ)も素晴らしい。

 というわけで、ぶたぶたシリーズをご存じない知人などへのプレゼントにも最適な一冊。『食堂つばめ』も重版されるとのことで、何だか勢いに乗っている感じがします。このままどんどん読者が増えるといいですね。

[収録作品]

『森の洋菓子店』
『最初にやりたかったこと』
『メッセージ』
『帰ってきた夏』
『たからもの』


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『わが盲想』(モハメド・オマル・アブディン) [読書(随筆)]

 「ぼくはうれしくなって、それだけでもう日本へ行ける気がした。うちへ帰るバスのなかでも、日本のことが頭から離れない。どうしよう。家族にはいつ打ち明けたらいい? ぼくは「日本留学」というこれまでの人生で最大レベルの不思議なネタに完全に支配されていた」(単行本p.16)

 遺伝性疾病で視力を失ったスーダンの青年が、家族とわかれて単身日本へ。ありとあらゆる苦難を乗り越えて日本で生活するスーダン人の盲目作家が、音声読み上げソフトを使って日本語で書いた感動の自伝。単行本(ポプラ社)出版は、2013年05月です。

 「食」を通じて在日外国人の生活を探った傑作ルポ、『移民の宴 日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活』(高野秀行)を読んだ方なら、作中に何度も登場するあの奇妙なスーダン人、アブディンのことを覚えていることでしょう。同書の「おわりに」では、後日談として次のように書かれています。

 「スーダン人のアブディンは、作家としてデビューを果たした。現在はポプラ社のウェブマガジンで『我が盲想』というエッセイを連載している。実はこの連載、私がプロデューサー役である」(『移民の宴』Kindle版No.3438)

 「今のところ、彼は期待通り、いや期待を上回る素晴らしい文章を書いてくれている。いずれ彼は日本の文芸界に一石を投じるほどの作家になるかもしれない」(『移民の宴』Kindle版No.3443)

 その『我が盲想』が、ちょっとだけタイトルを変えて、ついに単行本化されました。それが本書です。

 何しろ、日本語も点字もろくに勉強しないまま勢いで日本にやってきたのですから、とてつもない苦労が待っています。目が見えない、言葉が通じない、習慣が違う、でもイスラム教の戒律は守らなければならない、というより、まず寒い。

 日本語の授業にまったくついてゆけないショック。成績が良くなければ故国へ追い返されてしまうというプレッシャー。一人では電車に乗ることもままならない不便さ。しかし、持ち前の呑気さと粘り強さで、困難を一つ一つ乗り越えてゆくアブディン。克服したときの喜び。例えば、靴ひもを一人で結んだときの描写はこうです。

 「その日の夜、ぼくは思わず母に国際電話をかけて知らせた。だれより先に知らせたかったのだ。興奮冷めやらぬまま、この大事件について報告すると、そのテンションになんと母が驚いていた。どうも母は、靴ひも結びがぼくの人生最大の山場だということを知らなかったらしい」(単行本p.91)

 並大抵の苦労ではなかったでしょうが、文章がユーモラスなので、あまり深刻にならずに気軽に読むことが出来ます。

 ただ、故国スーダンの情勢についてはさすがのユーモアも影をひそめて。

 「ちょうどそのころ、大学時代の先輩で兄の大親友が学生デモをリードしたとして秘密警察に暗殺され、遺体が首都郊外の林に捨てられた」(単行本p.144、145)

 「友人のほとんどは、1995年から1997年にかけて命を落とした。(中略)ぼくが物心ついたころには、スーダンの第二次内戦は始まっていた。それまでにおよそ200万人の命が紛争によって奪われていた。紛争のない祖国を想像することは容易ではなかった」(単行本p.188、189)

 寿司と広島カープと近代日本文学が大好きなアブディンですが、就活の理不尽さなど、日本社会の歪みについては辛辣です。

 「2001年9月に9.11テロがあってから、メディアがイスラムに対する偏見を平気で並べ立てるようになっていた。(中略)周囲の日本人と9.11テロについていろいろ話したかったのだが、まったくと言っていいほど聞く耳を持ってもらえず、断念した」(単行本p.154)

 「スーダンでは政府の悪口を言っただけでも命がけになることさえあるのに、人々はそれに屈せず、政府の腐敗や国のあるべき姿について語り合っていた。日本では、自由に話せる環境があるというのに、だれも真剣に意見を交わそうとしない」(単行本p.155)

 「人間をがらりと会社都合で練り直せる企業の恐るべき力に脱帽した。この刷り込みぶりは、どのカルト宗教にも引けを取らない洗脳力だと感心した。強いて言えば、これに対抗できるのはスーダンのバシール政権くらいじゃないか」(単行本p.198)

 その皮肉はキツすぎる。と思いながらも、日本は例えばスーダンと比べて本当に自由な社会なのか、抑圧の形が見えにくいだけではないだろうか、などと考え込んでしまいます。

 本書のクライマックスは、故国の女性とのスピード結婚、東日本大震災でしょう。このくだりは、『移民の宴』の「震災下の在日外国人」と読み比べてみると面白さが倍増します。

 例えば、アブディンが高野秀行に電話をかけて原発事故への対処について相談するシーン。アブディンは「自分は沈着冷静に話しているのに、相手はわけのわからないことを口走るばかりで役に立たなかった」というように書いているのですが、高野さんもまさに同じように書いていて、人間の記憶というのがいかに自分に都合よく編集されているか明らかになったり。

 また、本書は娘が生まれたところで終っていますが、その後日談は『移民の宴』の「震災直後に生まれたスーダン人の女の子、満一歳のお誕生日会」で語られています。アブディン一家のその後が気になる方は、そちらもお読みください。


タグ:高野秀行
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