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『謎の独立国家ソマリランド』(高野秀行) [読書(随筆)]

 「崩壊国家の一角に、そこだけ十数年も平和を維持している独立国があるという。それがソマリランドだ。国際社会では全く国として認められていない。(中略)情報自体が極端に少ないので、全貌はよくわからない。 まさに謎の国。未知の国家。地上の「ラピュタ」だ。 「謎」や「未知」が三度の飯より好きな私の食欲をそそらないわけがない」(単行本p.13)

 謎の怪獣を探しにコンゴへ飛んだ顛末を書いたデビュー作、『幻獣ムベンベを追え』から四半世紀。著者は再びアフリカの大地へ降り立つ。今度のターゲットは、ソマリアの真っ只中にあるという謎の国。そこで著者が見たものとは。単行本(本の雑誌社)出版は、2013年02月です。

 世界で最も治安の悪い無政府状態の地、ソマリア。そこでは、様々な武装勢力、イスラム原理主義過激派、海賊などが跋扈し、果てしない内戦が続いている。だがそのど真ん中に、謎の「独立国」があるという。自力で内戦を終わらせ、高度な民主主義による統治が行われ、治安は良く、住民は平和でのどかに暮らしているという。

 そんな馬鹿な。

 まるで神話か伝説のような話でちょっと信じがたいのですが、まさにそれゆえに、自分の目で確かめなければ、と勢い込んで現地に乗り込んでいった著者。彼がそこで見た「ソマリランド」とは。

 「日本人相手に私が「ソマリアに自称独立国があるんだ」と言うと、相手は「へえ、そうなの?」と興味津々になるが、「それが複数政党制を実現して政権交代もして・・・」と続けると、「ウソでしょ?」という顔をされてしまう」(単行本p.477)

 「ソマリランドは国際社会の協力はほぼゼロで独自の内戦終結と和平を実現した。まさに奇跡である。ノーベル平和賞ものだ」(単行本p.113)

 「この町が何よりもすごいのは、銃を持った人間を全く見かけないことだ。民間人はもちろんのこと、治安維持のための兵士や警官の姿もない。いるのは交通整理のお巡りさんだけだ。アジア、アフリカの国でここまで無防備な国は見たことがない」(単行本p.44)

 「十年以上も平和を保ち治安もいい。夜八時過ぎでも、私たち外国人が普通に街を歩くことができる。そして、携帯でゲームをやりながらキャハハハとはしゃいでいる十代の女の子たちのグループとすれ違う。まるで新宿か渋谷みたいに。 この国は一体どうなっているのか。謎は深まるばかりなのだった」(単行本p.44、45)

 リアル「北斗の拳」に囲まれた「ラピュタ」と著者が呼ぶ、謎の独立国家ソマリランド。次から次へと疑問が浮かんできます。

 「なぜソマリランドは内戦を終結できたのか? なぜ同じソマリア人なのに南部ソマリアはそれができないのか。ソマリランドの財政的基盤は何か? ソマリランドは本当に治安がいいのか? よいとすればどうしてなのか?」(単行本p.77、78)

 深まる謎を解くべく、著者は現地ソマリ人の社会に溶け込んでゆきます。生活習慣から気質までソマリ人になりきってゆくうちに、次第に明らかになる「氏族」を中心としたソマリ社会の仕組み。

 一時帰国した著者は、さらに海賊が支配しているという東部ソマリア、世界最悪の紛争地域の一つといわれる南部ソマリアに行くことに。いや、やめとこうよ、な。

 「私だって南部ソマリアを自分の目で見ていない。メチャクチャだというのも、新聞やテレビやネットでそう報道されているから信じているだけだ。「ラピュタ」ソマリランドの意味をはっきり提示するためには、「北斗の拳」ソマリアと比較対照しないわけにはいかない。つまり自分の目で確かめるしかないのだ」(単行本p.159)

 「ここは逃げられないと思った。私の人生は「逃げ」に彩られているが、十年に一度くらいは「絶対に逃げてはいけない場面」というものに出くわす。私にとってソマリア行きはまさにそれだった」(単行本p.162)

 悲壮な覚悟を固めた著者は、まずは難民キャンプで情報収集しつつ、計画を練ります。しかし、南部ソマリアでは大虐殺の嵐が吹き荒れ、同行予定だったガイドは「じゃっ、がんばって」とばかり逃げてしまう・・・。

 「かつてルワンダやカンボジアで聞いた大虐殺の話を思い出した。しかもこちらは今現在進行形なのである。だんだん気分が悪くなってきた」(単行本p.190)

 「このままでは大激戦の真っ直中に私はモガディショ入りすることになる。ただでさえ世界で最も危険な町モガディショに、最も危険な時期に突入するのか。 今さら予定を変更できないし、愚痴をこぼしてもしかたない」(単行本p.224)

 「俺は一体どうなってしまうんだろう、と思った。なぜ、世界最悪の都市が最悪な状況にある時期に突入していかねばならないのか」(単行本p.318)

 で、本当に単身で突入しちゃうんだ、これが。

 ここまでが本書の半分。あまりの面白さにひっくり返ります。大興奮。

 後半、さらに盛り上がります。

 資金が尽きてきたので本物の海賊を雇って荒稼ぎ、じゃなかった「取材」しようと計画して見積書を作成したり(単行本p.305に収支見積もり書を掲載)、そのおかげで海賊ビジネスがよく理解できるようになったり。

 「車の上から機関銃を掃射し、その薬莢がシャワーのようにバラバラと頭に降ってきた。 目の前では、同行していたランドクルーザーにロケット弾らしきものが撃ち込まれ、車はたちまち炎上、運転していた兵士はあわててドアを開けて外に飛び出したところを撃たれた。兵士は血まみれのまま必死に私たちの車に飛び込んできた。彼の右腕はポッカリと穴が空き、肉が飛び出し、血がどくどく流れていた」(単行本p.499)

 なんてトラブルに遭遇したり。

 そして著者がようやく自分の目で見た南部ソマリアの町と人々の様子、それは、予想を大きく裏切るものだったのです・・・。

 単なる冒険紀行として読んでも目茶苦茶に面白い一冊。具体的に描写される異文化はとても刺激的で、登場人物たちはみんな印象深い。ソマリの社会システムの詳しい解説には、感嘆の他はありません。

 もちろん悲惨なこと深刻なことも書かれていますが、文章にはどこかのんびりした風情やしたたかなユーモアが込められており、そこに描き出された現地でリアルに生活しているリアルな人々の姿が読者の先入観をゆさぶってくれます。

 本筋とはさほど関係のない話題や挿話にも、心ときめくものがあります。例えば、ろくに考古学調査も行われていないという「謎のピラミッド」を現地で見かけた著者。地元の人に尋ねると、「古代日本の女王の墓」だと断言。ということは、卑弥呼の墓がこの地に。・・・いや、いくらなんでもそれは。

 そして、単なるエキゾチシズムではなく、制度疲労を起こしている今の政治システムを変えるためのヒントがそこにある、というのがまた素晴らしい。

 「ソマリランドのほうがやはりシステム的には日本より上だ。そして何より私がソマリランドの政治を評価するのは、彼らはいつも自分たちで考えて自分たちに合うシステムを作っていることだ。(中略)国連や先進国のお仕着せではなく、安直な真似でもない」(単行本p.495)

 「日本も今さら欧米にモデルを探すことはやめて、ソマリランドを参考にすべきではないかと真剣に思う。 西欧民主主義を超えたものがたしかにそこにあるからだ」(単行本p.495)

 というわけで、今年のノンフィクション部門、個人的ベストはおそらく本書に決まりです。すごいよ。こんな面白い本、滅多に読めるもんじゃない。熱烈推薦。


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『閉経記』(伊藤比呂美) [読書(随筆)]

 「あたしたちは満身創痍だ。昔からいっしょにやってきた女たちも、新しく知り合った女たちも、みんな血まみれの傷だらけ、子供がいりゃ子供のことで、親がいりゃ親のことで、男がいりゃ男のことで、男がいなきゃいないということで、ぼろぼろになって疲れはてて、それなのに朝が来れば、やおら立ち上がって仕事に出て行く。ふだんは自分が傷ついていることなんか気づいてもない。 女友達に声を届けたい一心で、あたしは書きつづけてきたような気がしておる」(単行本p.201)

 高名な詩人にして赤裸々育児エッセイの先駆者、新聞の人生相談おばさんでもある伊藤比呂美さんが女の(後期)人生を語るエッセイ本。単行本(中央公論新社)出版は、2013年01月です。

 『太平記』と同じく50年をこえる動乱の歴史を描いた軍記物語、たぶん。血もいっぱい流れます。

 「ここは『婦人公論』。男が買って読んでるとは思えない。だから、経血経血経血とへーきで言える。(中略)卵胞ホルモンを飲んでる間は変化はないのに、黄体ホルモンを飲みはじめたら、たちまちオリモノがじゅんっと出た。数日後には、遠くから聞こえてくる戦太鼓、あるいは夕立の前にふっとかぎ取る雨のにおい、そんなざわめく気配を感じとった。ああ知ってるこの感じ、そう思ったときに血が滴った」(単行本p.22、25)

 すいません、単行本になったので男も読んでますけど、ちょっと、ごめんなさいです。

 というわけで、女の人生、女の肉体、女の苦しみと向き合ってきた著者による、高齢生活エッセイです。カリフォルニアと熊本を往復するいっぱいいっぱいの生活。閉経前後の肉体変化、家族のこと。父親の介護、そしてその死。長女の妊娠と出産。ダイエット、エクササイズ。様々な話題が生々しく語られます。

 「男たちはよく似ている。 家庭の中にどんと居て、家族のことなら任せろと言ってるし、家族のことは大好きなのだが、どうも、母やあたしほど、家族のことに夢中にならない。家族という人々の日々のいとなみに、自分の人生をもみくちゃにされる覚悟ができてない。その必要があるとも思ってない」(単行本p.57)

 もちろん女の肉体と人生がメインテーマではあるのですが、伊藤さんの凝り性がよく表れたエッセイも印象的です。こんな感じの記述があちこちに。

 「夢中になった。夢中になったというよりは、はまった。溺れた。抜け出せなくなった。何日も何日も数独しかやってなかった。仕事もメールも滞って、あちこちから苦情が来た。ベッドの中に持ち込んでやっているので、夫からも苦情が来た。 ああ、あたしは何にでも溺れずにはおれない」(単行本p.27)

 「昔から数独をやっておれば、詩なんて書いてなかったろう。カリフォルニアにも移り住んでなかったろう。結婚なんかしなかったろうし、離婚だってしないですんだろうし、今の夫ともいっしょにならずにすんだであろう。子どもだって産んでなかったはずだ。(中略)数独に溺れた生活は、あと数日つづけたら身の破滅というところまで行った」(単行本p.29)

 「ハマるとつっ走るのがあたしである。というわけで、今はエクササイズのことしか考えてない。(中略)ズンバについて書くのは何回めになるか。それほどズンバが、あたしの生活の中心だ。今や、月、火、水、木、土、日、と、週に六日行っている。行かない金曜日はズンバのクラスがない。ありゃ行ってます」(単行本p.74、150)

 「あたしはここ数週間、むちゅうになって塩麴のことを、発酵のことを考えていた。一日じゅう考えていた。夫の味覚なんか脳裏になかった。恋みたいだった」(単行本p.137)

 以前、『漫画がはじまる』という単行本に、「あのハマり方は常軌を逸していました。朝に、晩に、読むといったら『SLUM DUNK』。新装版で二十四冊。それだけを一年間、くりかえし、くりかえし」(単行本p.13)とあって、その執着ぶりに度肝を抜かれたのですが、それはどうやら変わってないようです。

 伊藤比呂美さんの手にかかると、「何かにハマった」という話題ですら、何やら業のようなものを感じさせて、うっかり深淵を覗き込んでしまったかのように思わず身震いが出てしまう。恐ろしい。

 基本的には同年代の女性に向けた一冊ですが、より若い女性が読んでも参考になると思います。伊藤比呂美さんの育児エッセイの読者なら、あのカノコが今や母親になった、ということで読みたいと思うことでしょう。個人的には、『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』や『読み解き「般若心経」』、『女の絶望』といった作品の続篇として読ませて頂きました。

 「あたしはいちいちこのように生きてきたのだ。生皮をめりめりとひきはがして、裏返して、よくふるって、こびりついた業を、煩悩を、きれいさっぱりふるい落としたい欲望に駆られておる」(単行本p.89)


タグ:伊藤比呂美
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『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』(万城目学) [読書(小説・詩)]

 「この町には、夫人が生涯はじめて得た夫と友がいた。はじめて得た「マドレーヌ」という自分だけの名前があった。かのこちゃんが設けた期限までの三日間、その三分の二を相変わらず眠りに費やしながら、夫人は真摯に考えた」(Kindle版 No.2063)

 万城目学さんの第四長篇の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteという電子書籍リーダーで読みました。新書版(筑摩書房)出版は2010年01月、文庫版(角川書店)出版は2013年01月、Kindle版(角川書店)出版は2013年03月です。

 これまでの作風から推察するに、神戸を舞台にした小説で、鎌倉時代から続いてきた途方もない秘密が明らかになり、主人公が意地をかけて引くに引けない大勝負に挑む、というような話だろうと思ったら、これが全然違いました。

 舞台は、とくに場所が特定されていないある平凡な住宅街。小学生になったばかりの女の子「かのこちゃん」と、その家の飼い犬と同居している猫の「マドレーヌ夫人」、この二人のささやかな物語です。隠された歴史とか、宿命の対決とか、そういうのはありません。

 マドレーヌ夫人(この名前が素晴らしい)は、人語を解したり、文字を読んだり、ときおり尻尾が二股に分かれて人間に化けたりしますが、おおむね普通のアカトラ猫。ただし、彼女には「特定の犬と会話することが出来る」という他の猫にはない特技があり、その犬と夫婦になったことから、仲間の猫たちから「夫人」と呼ばれています。

 「あんなに驚いたことは、これまでもなかったわ。だって、逃げ場もなく観念したところへ、いきなり目の前の犬が言葉を話しだすんですもの」 「僕だって負けていない。雨がやむなり、『お世話さまでした』っていきなり猫がお礼を言うんだから」(Kindle版 No.864)

 どこか落ちついた気品あるマドレーヌ夫人は、空き地で開かれる雌猫集会でも人気者です。

 一方、小学一年生になったかのこちゃんは、学校で「ただ者ではない」女の子に出会います。

 「クラスの女の子は、かのこちゃんのピンクの髪留めゴムを、とても素敵だと褒めてくれるけど、かのこちゃんにしてみれば、そんな髪留めゴムよりも、鼻に親指を突っ込み、残りの指をひらひらさせている女の子のほうがよほど素敵だった」(Kindle版 No.406)

 やがて二人は親友に、二人の言葉でいうと「ふんけーの友」になります。

 かのこちゃんたちの元気溌剌たる幼い友情、マドレーヌ夫人たちの静かな夫婦愛。対照的な二つの愛情が読者の心に響きます。しかし、やがてやってくる別離のとき。

 「ふと静寂が訪れて、二人は無言で見つめ合った。「さらばでござる」 物干しから、すずちゃんは厳かに告げた。 そういえば、お祭りでおとなのお別れしようと約束したことを思い出し、「さらばでござる」 とかのこちゃんも重厚に応じた。(中略)すずちゃんを見上げていると、急に鼻の奥がツンとして、目の下あたりが変にじりじりしてきた」(Kindle版 No.1796)

 「「だって、きみは僕の妻じゃないか」 とどこまでもやさしい口調で、少しだけ笑った。その一瞬だけ、不思議と荒れた呼吸が静かになった。 夫人はもう何も言わなかった。ただ、玄三郎の前に座って、白髪が目立つ顔を何度もなめた」(Kindle版 No.2096)

 かのこちゃんもいい子ですが、何といってもマドレーヌ夫人が魅力的です。気品があり、物静かで、思いやり深く、受けた恩を忘れない、それどころか恩返しをする。どう考えてもそれ猫とちゃう、わけですが、でも睡眠最優先なところなど、行動はとても猫らしい猫。一読して忘れがたい印象を残してくれます。

 というわけで、これまでのような大仰で熱血な話から一転して、しみじみと胸に迫るような静かな話を書いてくれました。作品の幅が劇的に広がったようで、とても嬉しい。今後どんな作品を書いてくれるのか、先が楽しみです。


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『プリンセス・トヨトミ』(万城目学) [読書(小説・詩)]

 「五月末日の木曜日、午後四時のことである。 大阪が全停止した」(Kindle版 No.25)

 万城目学さんの第三長篇の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteという電子書籍リーダーで読みました。単行本(文藝春秋)出版は2009年03月、文庫版出版は2011年04月、Kindle版出版は2012年9月です。

 「ことの始まりはおよそ四百年前、西暦1615年、舞台は大坂城----」(Kindle版 No.4035)

 京都を舞台に、平安時代から続いてきた「秘密」を書いた第一長篇。奈良を舞台に、古墳時代から続いてきた「秘密」を書いた第二長篇。とくれば、誰もが期待するでしょう。そう、第三長篇では、大阪を舞台に、安土桃山時代の末期から続いてきた「秘密」が書かれます。期待を裏切りません。

 「やられたときには、大阪国の人間は立ち上がる。でも、暴力はふるわん。これは大阪国がずっと守り続けてきたことや」(Kindle版 No.4690)

 「「会計検査院は、決して大阪国を認めない」 いっさいの感情がうかがえない、地を這うような低い声で、松平は攻撃の口火を切った」(Kindle版 No.6201)

 会計検査院から派遣されてきた調査官たちの前に現れたのは、大阪という土地が守ってきた途轍もない「秘密」。四百年に渡って大阪人が隠してきたという影の歴史に、調査官は敢然と戦いを挑む。

 「午後六時半の時点で、大坂城に参集した男たちの総計は実に120万人を超えた。 それら大勢にたった一人で挑むべく、松平は庁舎前に立った。(中略)「35年前は怖じ気づいて、尻尾を巻いて会計検査院は逃げ帰ったかもしれない。だが、今度は違う。こんな虚仮おどしには屈しない」(Kindle版 No.6210、6271)

 「あなたはそれを無駄なことだと言うかもしれない。だが、そこには、かけがえのない想いが詰まっている。我々はこれからも“王女”を守る。たくさんの大切なものと一緒に、大阪国を守り続ける----これがすべての問いに対する、我々の答えだ」(Kindle版 No.6903)

 三権分立の枠外に立ち、いかなる権力にも屈することのない会計検査院の意地。役人を嫌い、義理人情を大切にする、大阪人の誇り。それぞれに譲れない信念を持った二人の男が対峙する。

 というような大仰な話が語られる一方で、学校で激しいイジメに合う少年(ただし性自認は女性)と、彼をかばう幼なじみの少女(男勝り)、といういかにも庶民的な物語が進行する。

 誰もが仰天するような真相と共に二つのプロットが合流するとき、物語はクライマックスたる「大阪全停止」に向けてなだれ込んでゆく・・・。

 ホルモーや鹿男といった超自然的なものは一切登場しません。しかし、その荒唐無稽さは前二作をはるかに上回ります。何しろ大阪人の半分(男性)が全員グルになって世代をこえて途方もない秘密を守ってきた、という無茶苦茶な設定です。どうやって読者をそれなりに納得させるのでしょうか。特に大阪の男性読者に。

 大阪という土地柄の丹念な描写、巧みな人物造形、そして視点人物を次々と切り換えることで事態の進展を立体的に見せる語り口、などの手法を駆使することで、最初は「いや、いくらなんでも、それはないやろ」と感じていた読者も、次第に「けど、ホンマやったらオモロイやろうなあ」となり、やがて「よっしゃ、そういうことにしといたろ」と納得させる。その手際は、前二作よりもずっと洗練されています。

 「宿命の対決」になだれ込む展開はお約束ですが、物語のパターンとしてどちらが勝つか見え見えだった前二作と比較すると、本作ではどちらの意地が勝つのか予想が難しく、どちらの立場にも共感を覚えるため、対決シーンは異様に盛り上がります。大仰な割に、結局やっているのは会計検査だという変な脱力感もいい。

 というわけで、京都・奈良・大阪を舞台とした初期三作を読みましたが、個人的にはやはり「私は大阪が大好きだったのだ。いつだって、いちばんでいてほしかったのだ」(Kindle版 No.7803)という著者の思い入れが存分に発揮されている本作が最も面白いと思いました。


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『ちがうねん』(作:ジョン・クラッセン、訳:長谷川義史) [読書(小説・詩)]

 「このぼうし ぼくのと ちがうねん。とってきてん。おっきな さかなから とってきてん」

 名作『どこいったん』に続く、ジョン・クラッセン作、長谷川義史訳の「大阪弁翻訳絵本」その第二弾。単行本(クレヨンハウス)出版は、2012年11月です。

 「こわー、なお話をゆらゆらと訳してん」(長谷川義史) 

 とぼけた絵柄とシニカルなオチ、そして何よりも全編これ大阪弁で翻訳したということで評判になった動物絵本『どこいったん』。

    2013年01月25日の日記:『どこいったん』
    http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-01-25

 この翻訳が好評だったらしく、その姉妹編ともいうべき絵本が、またもや大阪弁で翻訳されました。

 『どこいったん』はお気に入りの帽子をなくしてしまった熊が主人公でしたが、本作は今度は帽子を盗んだ小魚が主人公になります。やっぱりとぼけたユーモラスな絵柄、場面はずっと暗い海の底。

 「きっと まだ ねてるわ」
 「まあ おきたとしても、ぼうしのことなんた きがつけへんわ」
 「まあ きがついたとしても、ぼくのことなんか あやしめへんわ」
 「まあ あやしんだとしても、ぼくの いきさきなんか わかれへんわ」

 という具合に、ひたすら楽観的な小魚ですが、もちろんそんなわけはなく。『どこいったん』を読んだ方ならご想像の通りのオチが待っています。相変わらずのシニカルさに、たぶんお子様たちは大喜び。

 人間の心理をうまく皮肉っているので、大人が読んでも刺激的、というか、身につまされる気が。

 「きっと うちのかいしゃは だいじょうぶやわ」
 「まあ ぎょうせきがあっかしても、りすとらはせんやろ」
 「まあ りすとらしても、ぼくはまじめやから だいじょうぶ」
 「まあ しつぎょうしても、すぐにさいしゅうしょくできるやろ」
 「たいしょくきんで、じゅうたくろーんも かんさいできるし」


タグ:絵本
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