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『ドキュメント・東日本大震災 「脇役」たちがつないだ震災医療』(辰濃哲郎、医薬経済編集部) [読書(教養)]

 「孤立無援の病院を守ったのは、医師だけではなかった。事務方や看護師、薬剤師、栄養士、医薬品卸など、ふだんは「脇役」と称される人々が、自ら被災者であるという立場を乗り越えて踏ん張った。(中略)途中で取材の目標を切り替えた。失礼を承知で言うならば、「脇役」たちの震災を描くことに」(単行本p.34)

 東日本大震災により壊滅的な状況に置かれた被災地の病院。丹念な取材により、注目を浴びることが少ない医療従事者たちの震災体験を描いた一冊。単行本(医薬経済社)出版は、2011年06月です。

 災害拠点病院で多数の教護チームを指揮し、困難な状況のなかで医療崩壊や疫病流行を未然に防いだ医師の話は有名になりました。私も本を読んで感動した一人です。

    2012年12月12日の日記
    『東日本大震災 石巻災害医療の全記録
    「最大被災地」を医療崩壊から救った医師の7カ月』(石井正)
    http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2012-12-12

 しかし、その現場では、もっと地味で、泥臭く、誰からも注目されない戦いも繰り広げられていました。病院に医薬品を届ける、患者に食事を用意する、避難所のトイレを掃除する、ガソリンや通信を確保する、などの仕事です。

 「看護師も、薬剤師、栄養士、病院事務員、そして医薬品卸の担当者も、自身が被災者でありながら、自分を捨てて命をつなぐことに没頭した。誰かに褒められることを期待せず、当たり前のことを、当たり前のようにこなした。震災という非常時に、このことがどんなに大変なことだったか」(単行本p.2)

 自分自身や家族の命が危険にさらされている中で職場に踏みとどまり、自らの判断と責任のもとに仕事を続けた医療従事者、医療関係者が本書の「主役」です。患者の食料確保のために奔走した栄養士、子どもたちを守った看護師、医薬品確保のために全力を尽くした卸業者や薬剤師など。

 「コメと食器が足りない。食べることさえできれば、何とか乗り切れる」(単行本p.30)

 「まずは自分の命は自分で守れ。そして被災者が、被災者の命を救うんだ」(単行本p.70)

 「誰に何を言われても、恥ずかしいことはない。みんな、ヘッドライトをつけて倉庫から注文の医薬品を出しただろう。寝ずに商品を配送しただろう。どんな苦労もいとわずに、できる限りのことをやったはずだ。お前は胸を張ったらいいんだ。明日の電話は、私が受ける」(単行本p.86)

 ぎりぎりの状況で放たれた言葉が胸をうちます。

 なかでも忘れがたいのは、原発事故という最悪の事態に直面した看護師たちのエピソードです。動かすことが出来ない入院患者たちがいる病院から原子炉建屋まで、わずか25キロ。

 原子炉格納庫の水素爆発、屋内退避勧告、見えない放射能の恐怖。「もう仕事はできません!」と泣き叫ぶ主任看護師。約90人いた看護師が17名にまで減り、それでも「入院患者がいる限り、私たちは逃げるわけにはいかない」と、終わりの見えない24時間勤務を続けた看護師たち。あまりに生々しい体験談に、その葛藤と苦悩に、想像するだけで寒けすら感じます。

 「極限の状況のなかで体が自然に動いたのは、彼女たちが被災者でありながらも、医療のプロであったからだ」(単行本p.120)

 というわけで、あの東日本大震災における医療現場の全体像を把握するには、緊急医療チームの活躍だけでなく、それを背後から支えた人々の姿も合わせて見る必要があることを痛感させられます。大規模災害時の医療のあり方について考えたい方にとって必読の一冊でしょう。


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『日本SF短篇50 (2) 日本SF作家クラブ創立50周年記念アンソロジー』 [読書(SF)]

 「70年代、それは日本SFが大いなる飛躍を遂げた年代であった」(文庫版p.575)

 日本SF作家クラブ創立50周年記念として出版される日本短篇SFアンソロジー、その第2巻。文庫版(早川書房)出版は、2013年04月です。

 1年1作、各年を代表するSF短篇を選び、著者の重複なく、総計50著者による名作50作を収録する。日本SF作家クラブ創立50年周年記念のアンソロジーです。第2巻に収録されているのは、1973年から1982年までに発表された作品。

 ニューウェーブSFから明治SFまで、著名作が並んでいます。10代の頃に読んだ作品が多いため、自分のSF読書暦の原点を見るような思いが。第1巻と比べて、再読しても古びてない作品、今読むのはちょっとつらい作品、その差が広がったような気がするのは、そういった個人的事情が影響しているのかも知れません。

1973年
『メシメリ街道』(山野浩一)

 「私はこの考えに満足した。どこかへ向かっているのだ。どこか私の安息を得ることができるところ。どこか素晴らしいところ。 だが、いつまでも正午で、メシメリ街道はどこまでも続いていた」(文庫版p.43)

 歩道橋も横断歩道もなく、車両が間断なく走り続けている巨大な道路、メシメリ街道。何とかその向こう側に渡ろうとする語り手は、なすすべもなく翻弄されるばかり。そして時刻は常に正午。

 若いころ読んだときはその不条理感に驚かされましたが、今になって読むとそれほど不条理ではなく、むしろ比喩や風刺性があからさまに感じられます。しかし、それが今なお古びていません。傑作だと思います。

1974年
『名残の雪』(眉村卓)

 「歩きながら、ぼくは、伊藤さんがいたというその世界のことを空想した。どこにあるかは分からないが、堂々たる大国である日本・・・・・・。ぼくが生きているうちに、この日本がそうなるだろうか? そのことが頻りに思われてならないのである」(文庫版p.130)

 幕末期へとタイムスリップした一人の若者が、道場で剣の腕を磨き、新撰組に入る。だがそれが歴史にどのような影響を与えるか、彼は想像もしてなかった・・・。

 歴史改変SFですが、基本アイデア自体もその処理(ひねり)も、今から見るとかなり素朴。私を含む「しらけ世代」の若者が、「陽明学」的心証にハマり身勝手な正義感に酔って行動するとどうなるかを教えてくれた作品です。

1975年
『折紙宇宙船の伝説』(矢野徹)

 「女の声が白い霧の中を動いてくる。その声におされるように折紙の飛行機はどこまでも飛ぶ。声の主は裸の女だ。白い裸身が竹藪のあいだを動く」(文庫版p.134)

 閉鎖的な村落に伝わる謎めいた伝説。なぜか年をとらない美しい狂女。そしてその息子は、他人の心を読む力を持っていた・・・。デニケン的ネタをからめた伝奇小説。今読むと、色々な意味で差別意識が強く、あまりに昭和臭きつすぎて楽しめません。

1976年
『ゴルディアスの結び目』(小松左京)

 「傷や、むすぼれが、ある程度以上になると、もはや完全に癒す事も、ときほぐす事もできなくなるんだ。----ゴルディアスの結び目のように・・・・・・」(文庫版p.235)

 他人の精神世界に入り込んで探索する能力を持つ男が、人里はなれた研究所にやってくる。そこに収容されているのは一人の美少女。人を殺しその心臓を喰った後、何かにとり憑かれて昏睡を続けているという彼女の周囲では、驚くべき超常現象が起こり続けているのだった・・・。

 オカルトと精神医学と現代物理学を、レトリックの力で強引に結びつけてしまった怪作。この頃、ブラックホールとオカルトは紙一重でした。映画『エクソシスト』を連想しながら読んだものですが、今となっては『バルバラ異界』(萩尾望都)のビジュアルイメージでしか読めません。

1977年
『大正三年十一月十六日』(横田順彌)

 「はるか沖合に、海中より艦首だけもちあげている奇怪な潜航艇が見える。海底軍艦だ。ああ、上空にはジュラルミンの銀色に輝く巨大な空中軍艦が二隻、艦尾に大日本帝国海軍の旭日旗をはためかせている」(文庫版p.282)

 日本SFの祖、押川春浪の人生を短いページ数のなかで高速フラッシュバックさせてみせる作品。断片的なシーンの積み重ねが巧みで、SF的要素はほぼ皆無であるにも関わらず、SFファンの心をつかみます。

1978年
『ねこひきのオルオラネ』(夢枕獏)

 「基本的には右手でねこをいじくり、つまり音を出し、左手をねこののどにあて、音を調整する。左の指で、音を切ったり、バイブレーションをつけたりするのである。 言うなれば生きた三味線だった」(文庫版p.309)

 失業したチェロ演奏家が、オルオラネと名乗る不思議な老人に出会い、いっしょに演奏することになる。猫を。宮沢賢治を下敷きにしながら、「ニャオニャオぴニャオ! ニイッふにゅナーゴ ギャゴナッふ ふーるイイイイ」とタイポグラフィがページ狭しと跳ね回る楽しいメルヘン作品。

1979年
『妖精が舞う』(神林長平)

 「それを操る者たちといえば、任務上、良くいえば冷静、悪くいえばより非人間的冷酷心を求められた。零はまさにうってつけだった。信じているのは雪風だけだったから」(文庫版p.339)

 正体不明の侵略者ジャムを迎撃すべく創立されたフェアリィ空軍。そこに、たとえ仲間を見捨ててでも生還を至上命令とする特殊部隊所属の最新鋭偵察戦闘機があった。シルフィード、異星の空を舞う機械の妖精、コードネーム「雪風」。

 ご存じ「戦闘妖精 雪風」シリーズの原点となる短篇です。後に連作短篇集に収録されるに当たって大幅に改作されたので、雑誌初出時のまま再録されるのは本書が初めてとのこと。貴重。

1980年
『百光年ハネムーン』(梶尾真治)

 「我々は仮にそのような百周年の長寿を保ったカップルの祝婚儀式を大和石結婚式(ヤポニウム・ウェディング)と名付けました。百光年果てのトリスタンへ旅立つ結婚百周年を迎えるカップル。こんなロマンチックなイメージがあるでしょうか」(文庫版p.395)

 大企業を統括する冷酷無慈悲な総帥が、会社のイメージ戦略のためだと説得され、地球から百光年先にある惑星へ旅行に出かける。そこで彼が見つけたもの、長い間忘れていたものとは。

 『クリスマス・キャロル』を下敷きにしながら、距離を時間にするりと入れ代えて読者を感動させる手際は、今読んでも感心させられます。美亜やエマノンと並ぶ、懐古的時間SFの名手による代表作の一つ。

1981年
『ネプチューン』(新井素子)

 「あの娘のせいだわ、ネプチューン。 今まで何とか平静を保っていたあたしの心に、突然降ってきた小石。描きだされる波紋」(文庫版p.443)

 三人の男女が海で拾った美しい人魚姫、ネプチューン。それまで危うい均衡を保っていた彼らの三角関係は、そのために次第に崩れてゆく・・・。時間テーマ、進化テーマをからめた青春ファンタジー。色々な意味で若い作品で、この歳になって読むと、登場人物の誰にも共感できないことに気づきます。

1982年
『アルザスの天使猫』(大原まり子)

 「汎銀河法では、天使の翼は、第一発見者に所有権が生じることになっているが、ほんとうは翼が人を選ぶのだ。翼を背負う人間に心のきたない者はいない。だからこそ天使とよばれるのだ」(文庫版p.537)

 様々な場所を旅する心優しき天使猫は、だがその驚異的な力ゆえに、常に暗殺者に追われているのだった。そして惑星アルザスを舞台に巻き起こる凄まじい超能力戦闘。ご存じ「未来史」に属する短篇。

 全体を通して、個人的に気に入ったのは、『メシメリ街道』(山野浩一)、『ねこひきのオルオラネ』(夢枕獏)、『妖精が舞う』(神林長平)です。あと、『ゴルディアスの結び目』(小松左京)、『百光年ハネムーン』(梶尾真治)も悪くないと思います。

[収録作品]

1973年 『メシメリ街道』(山野浩一)
1974年 『名残の雪』(眉村卓)
1975年 『折紙宇宙船の伝説』(矢野徹)
1976年 『ゴルディアスの結び目』(小松左京)
1977年 『大正三年十一月十六日』(横田順彌)
1978年 『ねこひきのオルオラネ』(夢枕獏)
1979年 『妖精が舞う』(神林長平)
1980年 『百光年ハネムーン』(梶尾真治)
1981年 『ネプチューン』(新井素子)
1982年 『アルザスの天使猫』(大原まり子)


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『アスタリスク』(大松達知) [読書(小説・詩)]

  「趣味が高じて本まで出したセンセイと紹介されて ぐつとこらへて」

 男子校の教師として勤務している著者による歌集。単行本(六花書林)出版は2009年06月です。

 旅行、ペット(亀)、時事など様々な対象が扱われていますが、やはり中心となるのは勤務先である学校(中学高校)をよんだ短歌です。教師の目から見た学校生活を、すこし滑稽な感じで描写する作品が多くなっています。

  「台風のため早帰りさせるとき狂喜乱舞といふさまはあり」

  「君が代斉唱のとき起立せぬ保護者一組をちらちらと見る」

  「超法規で進級させんとする会議ゆゑに夜までかかり候」
 
  「さうですね、さうなんですよ、頷いてゐれば終はつてしまふ面談」

  「わづかづつ偽装してわれら生きをらん 易しめにする考課問題」

  「趣味欄の「ピアノ」の下に(他の人には絶対に言わないでください。)」

  「一生を終へたことなきわたくしが英語は一生役立つと説く」

  「<B面>て何? と訊かれて乱れたる授業はもとに戻らざりけり」

  「職員室十四年目のこの夏は黙つて設定温度を上げる」

  「同僚の噂話はたのしけれなかんづく株で損した噂」

  「「わが国」と大観衆を前に言ふ悦楽を思ふ思ふのみなる」


 個人的に笑ってしまったのが、入試問題の不思議をよんだ歌。そして言葉使いがなっちゃいねえ中高生男子に対するいらだちをこめた歌。

  「なにゆゑかひとりで池を五周する人あり算数の入試問題に」

  「誤答なる選択肢(3)「日本は老人を減らさねばならない。」」(実話。)

  「<むかつく>の訳(わけ)に<うざい>と<きもい>あり十四歳の生徒に問へば」

  「ビミョウかも、ふつうに、なにげに、よくなくない? すれ違ふたび死ねと言ひたり」

  「携帯電話を携帯と呼ぶ人々は太平洋戦争を太平洋と呼ぶか」

  「<すこしづつ>われの板書を指摘する生徒は日本政府の手先」

  「コンピューター<マウス>の複数形にして<マウシーズ>あり英語おそるべし」


 意外な発見や、思わずはっとするような新しい抒情、などはありませんが、「あるある、ありそう」と共感させるユーモアが特徴です。風刺や主張が込められた作品も多いのですが、その多くが薄っぺらい借物ご意見(新聞の投書欄みたいな)に思えて、あまり感心しません。

 あと妻をテーマにするとサラリーマン川柳みたいなオヤジ定型になってしまうのが残念なところですが、これが(ペットの)亀をよむと冴えてくるのが何とも。亀、愛されてるな。

  「メスに乗るためにお腹の真ん中がちよつと凹んでゐるカメのオス」

  「怒らないカメは妻より御しやすく金魚のエサで日に日に肥える」

  「カメはいくら育ったところで入試なし入試なければ勉強しない」

  「いかんせん日本人にて三匹のカメのひとりをお兄ちやんと呼ぶ」

  「世の中が何と決めてもわが家ではカメはひとりふたりさんにんである」


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『、そうして迷子になりました』(ブリングル) [読書(小説・詩)]

 「ご覧下さい。鍛え抜かれた指が選んだ、柔らかい新芽ばかりを摘み取った言葉たちを。きめ細かくなめらかなので味がよく染みこむはずですからぜひご家庭でもお試しください。」
  (『ニュースの時間です。』より)

 はじける言葉が解放感と高揚感を生む、気持ちのよい詩集。単行本(思潮社)出版は、2012年10月です。

 「ほんととか嘘とかいらないの。だってわたしはぷすんぷすんと軽石みたいに酸素を孕んで今日もごきげんよかよかと過ごしている普通のおんなのこですから言葉に押し倒されても固く閉じた身体を投げ出してされるがままでいるおぼこなだらしのないおんなのこでしかないのです。」
  (『いつだってどこかでおこってる』より)

 こう、読んでいるうちに何とも言えない解放感と高揚感に包まれてゆく、あげぽよ(使ってみたかった)詩集であります。ごきげんよかよか。

 何といっても、解放された言葉がわらわらと飛び跳ねる様子がとっても素敵です。

 「海王星。山椒魚。金曜日。ノン! カタカナでお願いします。蛙によく似た昼下がり。砂時計に埋もれ首だけを突き出す。電送の時間ね、はじめましょう。雷魚の給食。七ツ。鵺。朝顔の種。どこに行っても見つからない。身代わり。実がなる。よく聞いて。ウリム。ハッサヌイーシ。時報。」
  (『散歩日和』より)

 繰り返し読んでいると、どんどん気分が晴れて昂奮してくるのですが、いったいどこら辺に何が仕込んであるんでしょうか。

 「シリーズ「旨味の濃い匿名性」、今週はノマドと小窓の見分け方・育て方です。1分以内にまとめないと熱しやすく醒めやすい肌にアミノ酸降りしきるおやじギャグが着火しますので取り扱いにご注意下さい。爆撃をくりかえすツンデレですが上記の分布図によるとみずみずしい饒舌が精度2120度をまたぎ北上した位置に停留しているので突然のさぶいぼにご注意下さい。」
  (『ニュースの時間です。』より)

 耳慣れた言葉もいやがうえにも鮮度ましまし。

 「赤白しましま棒キャンディーのように/固くいつまでも/いついつまでも/とけずに残るぬれぬれのわたし/(かんじゃだめなめて)/苦みもえぐみもありません/いれたりだしたり迷ったり/だしたりいれたり(ぐぇっ/えづくまで気づかない距離感のないわたし//  (ざぬぅーん ざぬぅーん」
  (『はかる』より)

 ちょっとエッチな感じの言葉もほらこの通り全年齢対応に。

 しかし、高揚感だ解放感だと昂奮していると、いきなりそこに生活感。

 「ハンバーグ・歯ぎしり・ごはん・嫌み・ふりかけ。もうすきやきは鬼門だということがよくわかりました。いかがですか朝のはなしです。とにかく。//今日はもう寝ます。/だって虫歯だから。/どうせ人妻だから。」
  (『だってそうだから』より)

 「時間をかけても必ず選びとる不正解。中和できないままかかえてるメールの意味に苦しんでいます。どうせわたし馬鹿だから。言葉なんて上滑りだから。しゃべりこんで店を出ないおばちゃんたちのナックルボール並の会話を見習いたい。だらしなく使い分けしてきた身体だからカラダ。」
  (『だってそうだから』より)

 「毎度わたしはわたしの中で自分にしか話し掛けない、なんて素晴らしき自給自足、地産地消に今日もご満悦、ためらうこともなく、いっさいがっさいをパウンド型に流しこむがごとく、すっかり満ち足りることの自家製中毒を循環して盛り上がり、食後のケーキはおまけじゃなくて大切なクライマックスと有頂天にたいらげた、そしてげっぷした」
  (『すすめ、人生あたっかー』より)

 「空中から突如あらわれた目蓋から剥がれ落ちた書きかけの落ちこぼれが酸っぱい。背中に馬鹿と貼られました。四十肩だから手はあげません。信号を待たないでからめた舌。」
  (『ところで恋をしています』より)

 ずっしりとした生活感の底から浮上してきた言葉の泡がぽんぽん弾けてゆくような。その力強さ、ふんばり感、大いなる感銘を受けます。ぎゅってなる。

 というわけで、書き写しているだけで気分が晴れる個人的にお気に入りの詩集です。みんな読めばいいと思う。

 「節電におけるメイクのボリュームすら量りきれない迷子女子として徘徊の日々に血迷い気味で貧血必至です」
  (『すすめ、人生あたっかー』より)


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『適切な世界の適切ならざる私』(文月悠光) [読書(小説・詩)]

 「それは、適切な世界の適切ならざる私の適切かつ必然的行動」

 自分を取り巻く世界と適切な関係がとれず揺れ動く十代を描いた詩集。単行本(思潮社)出版は、2009年10月です。

 読んでいて、とても痛々しい。世界から拒絶されている自分、世界を拒絶している自分、その二つの間でもがき苦しむ思春期がストレートに書かれているから、個人的にいろいろ思い出して、つらくなります。

 「色に従うことを余儀なくされた記憶から、/抜け出すための横断歩道。/(中略)渡りきるまで、/たくさん轢かれてみよう。/ランドセルも道連れだ。/さぁ、この喉は声を発す。/だが、血も吹く!/保険おりるな。」
  (『横断歩道』より)

 交通信号を見ても、世界が私に歩けとまれ適切に行動しろと命令している、従ってやるもんか、みたいにつっぱってしまう思春期。詩を書くことは、あえて信号無視して轢かれること。「保険おりるな。」が、好きです。

 「ブレザーもスカートも私にとっては不適切。姿見に投げ込まれたまとまりが、組み立ての肩肘を緩め、ほつれていく。配られた目を覗きこめば、どれも相違している。そこで初めて、一つ一つの衣を脱ぎ、メリヤスをときほぐしていく。それは、適切な世界の適切ならざる私の適切かつ必然的行動。」
  (『適切な世界の適切ならざる私』より)
 
 「私を駆り立てたのは恐ればかりではない。/この私を洗い清めようとする彼らを/挑発してみたい欲求だ。/もみくちゃの言葉をはなっては、あざ笑った。/どこまで水に浸されていくのか、/確かめたかったのだ。」
  (『洗濯日和』より)

 「赤く染まることに/思いをかけなければ/生きてはおれない、/そう夕日に迫られていた。/(中略)爽やぐことを忘れた/制服のすそを引っ張る。/月気を帯びる今日だから/夕焼けの色に、染まらぬように。」
  (『“幼い”という病』より)

 夕日を見ても、鏡を見ても、洗濯しても、「世の中の規範に自分を合わせようとする力」を感じていちいち反発しなければなりません。何とまあ、しんどいことでしょう。

 しかし、彼女は詩人です。

 「焼けた夕日は/私が見ているから、きれいだ。」
  (『まつげの湿地』より)

 精一杯、言い切ってしまうし。

 「確かに私は飛べず踊れずの一少女。だが、ひとたび活字の海に身をまかせれば、水をふるわせ、躍る。それこそ足になろう、ふくらはぎになろう、五本指の貝殻で踏みしめよう。指の先までことばとなろう。」
  (『ロンド』より)

 かっこいい。

 でも、女子にはもう一つ、自分の意志とは関係なく否応なしに変化してゆく自らの肉体や身体感覚と向き合わなければならない、という大問題があるらしい(よくは知りません)。作品中にも出血や妊娠のイメージが頻出してたりして、痛々しさをさらにつのらせています。つらいです。

 何しろ、河童巻きのキュウリを食う、という情景ですら、こんな風に官能的に書かれてしまう。

 「河童巻きの中身を/次々と抜き出して/酢飯に私の夜を孕ませた。/醤油をさすのももどかしく/裸のきゅうりをほおばる。/(中略)ステンレスの流し台を/醤油が/たららと茶色く歩いていった。/(中略)まだぬめりの残る私のおやゆびに/お酢ときゅうりのにおいが/まとわりついている。」
  (『お酢ときゅうり』より)

 というわけで、あの時期の悩み苦しみにきちんと折り合いをつけないままごまかして大人になってしまったような、そんな気持ちになる若い作品集。齢五十のおじさんが読んでも切ない気持ちになります。


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