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『適切な世界の適切ならざる私』(文月悠光) [読書(小説・詩)]

 「それは、適切な世界の適切ならざる私の適切かつ必然的行動」

 自分を取り巻く世界と適切な関係がとれず揺れ動く十代を描いた詩集。単行本(思潮社)出版は、2009年10月です。

 読んでいて、とても痛々しい。世界から拒絶されている自分、世界を拒絶している自分、その二つの間でもがき苦しむ思春期がストレートに書かれているから、個人的にいろいろ思い出して、つらくなります。

 「色に従うことを余儀なくされた記憶から、/抜け出すための横断歩道。/(中略)渡りきるまで、/たくさん轢かれてみよう。/ランドセルも道連れだ。/さぁ、この喉は声を発す。/だが、血も吹く!/保険おりるな。」
  (『横断歩道』より)

 交通信号を見ても、世界が私に歩けとまれ適切に行動しろと命令している、従ってやるもんか、みたいにつっぱってしまう思春期。詩を書くことは、あえて信号無視して轢かれること。「保険おりるな。」が、好きです。

 「ブレザーもスカートも私にとっては不適切。姿見に投げ込まれたまとまりが、組み立ての肩肘を緩め、ほつれていく。配られた目を覗きこめば、どれも相違している。そこで初めて、一つ一つの衣を脱ぎ、メリヤスをときほぐしていく。それは、適切な世界の適切ならざる私の適切かつ必然的行動。」
  (『適切な世界の適切ならざる私』より)
 
 「私を駆り立てたのは恐ればかりではない。/この私を洗い清めようとする彼らを/挑発してみたい欲求だ。/もみくちゃの言葉をはなっては、あざ笑った。/どこまで水に浸されていくのか、/確かめたかったのだ。」
  (『洗濯日和』より)

 「赤く染まることに/思いをかけなければ/生きてはおれない、/そう夕日に迫られていた。/(中略)爽やぐことを忘れた/制服のすそを引っ張る。/月気を帯びる今日だから/夕焼けの色に、染まらぬように。」
  (『“幼い”という病』より)

 夕日を見ても、鏡を見ても、洗濯しても、「世の中の規範に自分を合わせようとする力」を感じていちいち反発しなければなりません。何とまあ、しんどいことでしょう。

 しかし、彼女は詩人です。

 「焼けた夕日は/私が見ているから、きれいだ。」
  (『まつげの湿地』より)

 精一杯、言い切ってしまうし。

 「確かに私は飛べず踊れずの一少女。だが、ひとたび活字の海に身をまかせれば、水をふるわせ、躍る。それこそ足になろう、ふくらはぎになろう、五本指の貝殻で踏みしめよう。指の先までことばとなろう。」
  (『ロンド』より)

 かっこいい。

 でも、女子にはもう一つ、自分の意志とは関係なく否応なしに変化してゆく自らの肉体や身体感覚と向き合わなければならない、という大問題があるらしい(よくは知りません)。作品中にも出血や妊娠のイメージが頻出してたりして、痛々しさをさらにつのらせています。つらいです。

 何しろ、河童巻きのキュウリを食う、という情景ですら、こんな風に官能的に書かれてしまう。

 「河童巻きの中身を/次々と抜き出して/酢飯に私の夜を孕ませた。/醤油をさすのももどかしく/裸のきゅうりをほおばる。/(中略)ステンレスの流し台を/醤油が/たららと茶色く歩いていった。/(中略)まだぬめりの残る私のおやゆびに/お酢ときゅうりのにおいが/まとわりついている。」
  (『お酢ときゅうり』より)

 というわけで、あの時期の悩み苦しみにきちんと折り合いをつけないままごまかして大人になってしまったような、そんな気持ちになる若い作品集。齢五十のおじさんが読んでも切ない気持ちになります。


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