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『残響  中原中也の詩によせる言葉』(町田康) [読書(小説・詩)]

 シリーズ“町田康を読む!”第41回。

 町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、中原中也の詩を一つ一つ取り上げて、解説とも返歌ともオマージュともつかない自分の言葉を合わせてゆく一冊。単行本(NHK出版)出版は2011年7月です。

 萩原朔太郎賞詩人でもある町田康が、中原中也の作品に挑みます。解説のようだったり、同じ主題を扱った自作詩だったり、ときにはコメントだったりします。中原中也の研ぎ澄まされた、けれどどこか気取った感のある、いけ好かない詩に、パンクな関西弁口語が寄り添い、共鳴して、深みを増してゆくのが凄いところ。

 例えば、『疲れやつれた美しい顔』(「疲れやつれた美しい顔よ、/私はおまへを愛す。/さうあるべきがよかつたかも知れない多くの元気な顔たちの中に、/私は容易におまへを見付ける」以下略)という詩。どこか気取ったような感じがして好きになれないこの作品に、町田康は次のような言葉を捧げます。

 「げさげさにやられた。げさげさにやられる。どつきまわされる。どつきまわされて、唾と小便を掛けられて倒れていた。だっせー。」(単行本p.22)

 「陳腐・愚劣な物語を二六時中聞かされて、心の底から軽蔑しているのに気がつくと物語の世界の住人にされている。美人が通り過ぎて行く」(単行本p.23)

 こちらの方がよく分かるなあ、うんうん、人生パンクだよなあ、という感じで得心してから、さて、改めて中原中也を読み返すと、あれ、あれれ、こちらも似たようなことが書いてあるような気がする。すかした顔して、実はけっこうパンクなこと書いてたんじゃないか、中原中也、とか、改めて。

 『閑寂』(「なんにも訪ふことのない、/私の心は閑寂だ。」以下略)には、こう。

 「ぜんぜん大丈夫。と、言ってみる。ぜんぜんオッケー。と言ってみる。それで驚いたのは、本当にぜんぜん大丈夫で、ぜんぜんオッケーだったこと。言ってみるまではぜんぜんヤバいと思っていたんだけどね。」(単行本p.51)

 『わが半生』(「私は随分苦労して来た。/それがどうした苦労であつたか、/語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。」以下略)には、こう。

 「いろんなことしましたよ。饂飩玉、捏ねたりね。ヤキソバ作ったり、こけしを百も買ったり、女の子と生駒山に行って気まずくなったり、」(単行本p.195)

 そして、有名な『汚れちつまつた悲しみに・・・・・・』(「汚れちつまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる/汚れちつまつた悲しみに/今日も風さへ吹きすぎる」以下略)に添える言葉はこうです。

 「ソースが垂れる。出汁が飛び散る。まだ火がついているタバコの灰を落とす。無理矢理に鞄に押し込んで折れ曲がる。排気ガスを浴びる。嘔吐する。土足で踏みにじる。バックしているときに電柱にぶつかる。煤が溜まる。モスバーガーを食べてベタベタになった指で触る。」(単行本p.202)

 わあ、そりゃ汚れちつまうよなあ。さらに「俺のもっとも大切にしていたもの」、「もう俺と一体化して皮膚のようになってしまった衣服のようなもの」に、「ソースが垂れる。焼け焦げができる。そして、そのうえ、時間が垂直に突き刺さるのだ。たまらんよ。やれんよ」(単行本p.203)と。あー、つらいな、それは。すごく納得します。それから中原中也を読み返してみると。

 あれ、子供の頃に教科書か何かで読んだときには、(大人になって世間ずれしたり打算的になったりして心が)汚れてしまった(自分のことが)悲しい、というように読んで、いい気なもんだなあ、ガキっぽいなあ、とか思ったこの作品、町田康の言葉を読んだ後で読み返すと、汚れたのは自分でも自分の心でもなく、「悲しみ」ではないかと気づきました。

 言葉にならない純粋で大切な気持ちに、「悲しい」という言葉がくっついて汚れてしまった、もうどうしようもないその「汚れちつまつた悲しみ」を嘆いているのではないか、と。

 いや、今さらそんなことに気付いたとか書いたら、中学時代の国語の先生が悶死してしまいそうですが。でもたぶん先生もう生きてないから。私、『残響』(町田康)を読んで、『汚れちつまつた悲しみに・・・・・・』(中原中也)を誤読していたことに気づきました、48歳です、先生。

 という具合に、中原中也と町田康、両方を読み比べることで、色々と誤読や無理解に気付いて、中学時代の恩師にそっと手を合わせたりすることになる本です。町田康の詩集が好きな方はもちろん、むしろ中原中也の愛読者にお勧めします。あと、中学生の皆さんは、手遅れになる前に読んでおいた方がいいかも知れません。


タグ:町田康
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