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『ゴランノスポン』(町田康) [読書(小説・詩)]

 シリーズ“町田康を読む!”第40回。

 町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、七篇を収録したひさしぶりの短篇集です。単行本(新潮社)出版は2011年6月。

 単行本『浄土』が出版されたのが2005年6月なので、ちょうど6年ぶりの短篇集ということになります。例によって、虚妄に惑わされ、煩悩にとらわれて、あがき苦しみながら、結局は「あかんかった」と穢土に沈む私たちの人生をコミカルにえがいた作品がいっぱい。

 まず、何といってもタイトルのインパクトが強いのが、表題作『ゴランノスポン』。一瞬何のことやら分からなかったのですが、親切にも、帯に「コノバングミハ」と書いてあるので、ようやく納得。ゴランノスポン、ゴランノスポン、という語感のすっとぼけっぷりに、思わず、うぷぷっ、と笑いが込み上げてきます。

 人生を「前向き」に生きる貧乏ミュージシャンの話です。自分を大切にしたい、素晴らしい仲間たち、すべてのものに感謝。そんなクソみたいな言葉を唱えながら、仲間同士で「すっげぇいいよね」だの「わかるよ、あれ最高だよね」だの、誰も傷つかないようポジティブなことを言い合って気をつかっているうちにどんどんストレスたまって駄目になってゆく救いなき人生が、やたらリアルに書かれます。あー、思い当たる思い当たる。

 色々と偽っているのはミュージシャンだけではありません。『二倍』では、ひょんなことから企業の正社員になった主人公が、虚業に踊らされているだけと薄々気付いていながら、俺ビジネスエリートだから、仕事やりがいあるし、同僚はいい奴ばかり、将来安泰、人生勝ち組、デキる男はここが違う、と無理やり自分に思い込ませて、明らかに無意味な仕事を大真面目にやり続けます。

 周囲の人もみんな同じ。誰もが、馬鹿馬鹿しいと、いつまでも続くはずがないと分かっていながら、ひたすら気付かないふりをして、踊り続けて。やめればどん底に落ちるだけ。地獄のような社会の様がぐりぐり正直に書かれています。俺のことだ、ああ、俺のことだ、と頭を抱える読者も多いでしょう。

 『尻の泉』は、全ての穢れを浄化する聖なる泉が尻から湧き出てくる男の話。なんじゃそりゃ、とお思いでしょうが、そういう話なんだから仕方ありません。よりによって、ちゃらら~ん、尻から聖水。

 自分は奇跡の人なのに、聖人にもなれるはずなのに、尻から聖水じゃ誰も認めてくれない。悩み苦しむ主人公は、縁なき衆生としてぐずぐずの人生台なし野郎に。穢れの底で救いを求める彼に、果たして救済はあるのか。しかし、パンクな生き様ですよねえ。

 他の作品における駄目な奴は、駄目なりに愛嬌もあるのですが、『一般の魔力』の主人公は例外。他人を姑息に押しのけたり、ゴミを人んちの前に捨てたり、気に入らない相手にちっこい嫌がらせをして憂さを晴らしたり、そんなみみっちいことをしては、俺ってスマートだから、そもそもあいつの自業自得だし、なーんて思う、よくいる(いるいる)器の小さい、いっつも被害者面の嫌な奴。

 あるとき隣の庭に嫌がらせで除草剤を撒いたら、その家の飼い猫が草を食べて死んでしまう。苦悶に満ちた形相で死んでいる猫を見つけた主人公は、せっかくの爽快な朝が台無しだよ、ぼくは被害者だよ、と憤りつつ、そのままにしておく勇気もなくて、山中に埋めに行くのですが・・・。正直、嫌な奴に猫が殺される話は読んでて辛い。

 他に、偉い文学者の推薦で講演するはめになり、四苦八苦のドタバタを繰り広げる作家の姿をえがき、これはほぼ実話ではないのか、『テースト・オブ・苦虫』シリーズとどこが違う、などと誰もが思うであろう『先生との旅』など。

 救いのない話が多いのですが、何しろ文章のリズムが素晴らしく、読んでいてついついハイになって、しまいには笑ってしまうのが凄いところ。この文章はクセになります。『浄土』と合わせて一気読みして耽溺したい傑作短篇集です。

[収録作品]

『楠木正成』
『ゴランノスポン』
『一般の魔力』
『二倍』
『尻の泉』
『末摘花』
『先生との旅』


タグ:町田康
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