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『駄美術ギャラリー』(現代美術二等兵) [読書(教養)]

 片手に松明を高く掲げたカニの銅像、タイトルは「自由の毛蟹」。ビールのジョッキを鉄板で囲んで「防弾ジョッキ」。ユーモアっつーか脱力ギャグを形にしたら、「こんなの美術じゃない」と何度も言われ、「えーそうですよ、これは美術じゃありません、駄美術ですよ」と開き直ったアートユニット、現代美術二等兵の駄美術作品写真集。単行本(マガジンハウス)出版は2007年11月。

 芸術とは何か、現代美術とは何か。これらの問いに明確に答えるのは難しそうです。しかし、芸術でないものは何か、現代美術とはいえないものは何か、という問いになら、何とか答えられそうです。

 例えば、書き損じの原稿をわざわざ印刷した紙を、こう、くしゃくしゃっと丸めて、「紙くずペーパークラフト」だと言い張るのは、それは現代美術ではないでしょう。鎧武者の黒い切り絵を地面に置いて影に見立てて、「影武者」というタイトルを付けても、それは現代美術ではありません。

 素麺の写真に「シャアか?」というタイトルを付け、さらにお菓子の写真に「シャアなのか?」とタイトルを付けて、並べたからといって、迫り来る緊迫感を表現した現代アートだということにはならないでしょう。

 テディベアの全身にお経を書いて、片方の耳をちぎりとって、「ジャパニーズホラーベア」と題しても、世界のアートシーンに羽ばたけはしません。エンピツのはしっこを削って「無罪」を三面、「死刑」を三面書いて、それを「ミニマル裁判」と題してみても、社会風刺だと受け取ってもらえる可能性はありません。

 これまでの人生で手に入れたアイスの「あたり」棒を集めて立派な額縁に入れて「ラッキー持ち越し20年」と主張しても、コンセプチュアルアートにはなりません。片手に松明を高く掲げたカニの銅像を「自由の毛蟹」だといっても、ビールのジョッキを鉄板で囲んで「防弾ジョッキ」だといっても、それはさっき出たネタだろ、と突っ込まれるのがオチ。

 ましてや、ネギを電球の紐にしたり、本のしおりにしたり、ネクタイにしたり、パンの袋の口を縛ったり、色々やって、それを「万能ねぎ」と名付けてみても、ジグソーパズルのピースにメカっぽいものを書き込んで「826号機、合体だ!」と題してみても、水泳帽をかぶった顔の上半分だけをラジコンで動かして、地面をすいすい泳いでいる男に見立てて喜んでみても、そんなものは美術ではないでしょう。

 というわけで、菓子に対して駄菓子があるように、現代美術に対する「駄美術」を追求するアートユニット、現代美術二等兵(籠谷シェーン、ふじわらかつひと)の作品集です。両名とも大阪出身だそうで、ん、まあ、そうでしょう。

 これも現代美術だ、と主張すれば、「ない、ない」と否定されますが、駄美術だ、と主張すれば、君たちも40代なかばを過ぎて色々と大変だねえ、と同情されてしまう、そんな楽しい作品でいっぱいの写真集。個々の作品には制作者による解説が付けられ、その制作意図が伝わるようになっています。

 個人的に最も気に入った作品というと、背中に羽根を付けて空を舞っているワニの彫像。タイトルは「ワニが死んだときに迎えにくるヤツ」。(単行本p.43)

 これは、制作者が子供のころ、TVアニメ『フランダースの犬』の最終回、ネロとパトラッシュの魂を天使が連れてゆくシーンを見て、ネロを連れてゆくのが人間型の天使なのは分かるとして、パトラッシュを連れてゆく天使が犬型でないのはなぜか、と疑問を覚えたことから制作されたそうで、その発想はなかったなあ。というか、あのシーンを見てそんなことを考える子供が将来こういうことになるのか。なるほど。


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『対詩 泥の暦』(四元康祐、田口犬男) [読書(小説・詩)]

 人生の転機を迎えた詩人と、奇病に侵され眠り続ける詩人。二人の詩人が交わした詩の言葉による対話。単行本(思潮社)出版は2008年5月です。

 先日読んだ小池昌代さんとの共著『対詩 詩と生活』に続く対詩集です。交替で詩を提示しあい、互いの詩に対する返答として詩を書く。流れるような詩の連鎖が続いてゆきます。個々の詩には「あとがき」めいた著者自身による短い解説が付き、どういう状況あるいは心境でその詩を書いたのかがつづられています。

 当時、四元さんは会社を止めて詩人に専念するという決断をしたばかり、田口さんは奇病にかかり治療の副作用で一日の大半を眠り続けるという状態だったそうで、それぞれに心配や気苦労を抱えているなかでの対詩。全体的に、苛立ちや不安や焦燥感が漂っているようにも感じられます。

 四元さんが

 「眠っている男をみていると/なんだか無性に起こしてやりたくなる」
(四元康祐『眠る男』より)

と挑発すると、田口さんは

 「眠ることが僕の仕事だったから/覚醒した僕は生まれて間もない失業者だ」
(田口犬男『覚醒』より)

と応えつつ、続いてこう皮肉を返します。

 「詩を病むためには/あなたの肉体は頑強過ぎる」
(田口犬男『フロイトの顎』より)

 これに対して四元さんはオレの苦労も知らない若造めが、とばかりに。

 「詩に罹ったひとの/妻子こそは哀れなり/彼の書く詩はどれも三行半/生活に、世間に、それとも現実に?/マイホームパパの遠吠え」
(四元康祐『シニカカッタ人』より)

 現代詩というと高尚で難解なものという印象が強いのですが、お二人の詩の言葉によるやりとりを読んでいると、何だかそこらの飲み屋で課長と部下が交わしている会話とあんまり変わらないような気がしてきます。(注:錯覚です)

 付録リーフレットとして著者たちによる対談がついていて、23ページものボリューム(うち1ページは表紙、そして見開き2ページがお二人の写真)。これが面白い。

 小池さん相手の前作では、同年代ということもあってか、やや構えていた感のある四元康祐さんですが、今作では相手が年下ということか、いきなり「指導」が入って。詩や生活に立ち向かう姿勢から、自分の詩にオレをそのまま出すなよ、オレの手紙を勝手に引用するなよ、ということまで、遠慮なしに文句をつけています。 

 「犬男さんの詩を読んでると、現実を遮断して自分を守ろうとするためにこそ詩を書いているように見えることもあって」(リーフレットp.4)

 「犬男は生活がすごく希薄だという印象だった」(リーフレットp.16)

 いかにも「ふらふらしてないで真面目に就職してきちんと生活しろ」と言い出しそうな説教おやじモードですが、背後に定職を捨ててしまって収入激減(たぶん)して微妙に焦っている心理もちらちら見えるのが妙におかしい。しかも田口さんにはあっさり流されてしまってるし。

 前作では、敬意を払って接していた小池昌代さんについても、ここで本音がボロボロ出てきます。

 「自分の生活を、悪く言うとダシにされて、小池さんと『詩と生活』をやったときもそういうふうに思ったことがあったのね。『森を横切って』という作品にぼく自身が出てきて、なんでこの人は人の現実を勝手に使うのよって(笑)」(リーフレットp.9)

 「小池さんもぼーっとしたところのある人だから」(リーフレットp.5)

 何だか余裕を失っているというか、ほら、転職に失敗して失業しちゃったサラリーマンがあらゆる相手にくどくど早口で文句を言い続けてるっていう、あの感じ。

 というわけで、エリートビジネスマンにして高名な詩人、という近寄りがたいイメージだった四元康祐さんに、何だか親しみを感じてしまう一冊です。小池昌代さんとの対詩とはまた違った味わいがありますので、『対詩 詩と生活』を気に入った方はこちらもどうぞ。


タグ:四元康祐
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『SFマガジン2011年8月号 特集:初音ミク』 [読書(SF)]

 SFマガジンの2011年8月号は、「特集:初音ミク」ということで、あそこらへんを席巻したボーカロイドというかバーチャルアイドルが登場する作品を三篇掲載してくれました。

 まずは、山本弘さんの『喪われた惑星の遺産』。

 はるか未来の太陽系に調査にやってきた異星の学術調査団。すでに滅びてしまった「人類」を少しでも理解しようと懸命に努力するが、はかり知れない歳月の前に、その遺跡はほぼ完全に失われていた。人類は何も残さないまま、ただ空しく消えてしまったのだろうか。調査団が諦めかけたとき、第二惑星(金星)を周回している人工物が発見される。探査機、あかつき。その内部に収容されていた太古のデータは、驚くべきものだった。

 クラークの出世作『太陽系最後の日』を思わせる設定ですが、編集部の紹介文のおかげで最初からオチは読めてしまいます。しかし、これがまさかの感動作。たとえ言葉は通じなくても、異星人でも、爬虫類でも、何千万年もの時を隔てても、ボクらの情熱はきっと通じるんだ! いや、真顔で言われても。

 次は、泉和良さんの『DIVAの揺らすカーテン』。山奥の研究所で働いている一人の寂しい若者と、それを異世界からそっと見守っている謎の少女。というか謎でも何でもありませんが。

 パソコンの画面から美少女が出てきて嬉しい、という話で納得させるのは難しいのに、超対称性量子を介してネット空間から物理現実の基底構造に対する情報アクセスが可能になって嬉しい、といえば納得するのがSF読者。バーチャルアイドルが「現実」に微妙な影響を与えそれを少しずつ変えてゆく、という私たちの現実を象徴するような作品です。

 特集の最後は、野尻抱介さんの『歌う潜水艦とピアピア動画』。

 海洋研究開発機構でも、海上自衛隊でも、経産省でも。今やわが国の組織のキーポジションには既にあれあれな世代が就いているので、自衛隊の潜水艦にボーカロイドを乗せてクジラさんとお話しさせようプロジェクトがニコニコ動画(作中ではピアピア動画)を使ってとんとん拍子に実現。

 クジラとの音声コミュニケーション実験に成功し、そのまま群れに導かれて海洋を進むうち、潜水艦は謎の音声信号によるコンタクトを受ける。その発信源は、その正体は、そしてその意図は何か。

 内容はちょっとまてですが、海洋冒険ハードSFの雰囲気が素晴らしい。わくわくしてきます。海洋探査ものとしても、ファーストコンタクトものとしても、著者お得意の「ニコ動が人類の未来を切り拓く」プロパガンダ小説としても、よく出来ていて読みごたえがあります。

 というわけで、舞台は様々(宇宙、田舎、海洋)ですが、何らかの形で「コンタクト」がテーマとなっており、初音ミクが二つの世界をつなぐ、というのが三作の共通点。どれも願望充足と自己肯定感に満ちた作品なので、文化的に親和性の高い読者なら心地よく楽しめるでしょう。

 特集外では、読み切り短篇が二篇。

 まず、神林長平さんの『いま集合的無意識を、』。

 30年ずっとSFを書いてきた老作家が、ネットが臨界に達して「なにか」が誕生する瞬間を目撃する。やがてツィッターを介してコンタクトしてきたそれは、「伊藤計劃」と名乗るのだった。

 神林長平と伊藤計劃の対話、という、ごく一部読者大興奮の展開。著者はベテランSF作家としての矜持をかけて、『ハーモニ』(伊藤計劃)の、その先にあるビジョンを追求します。生存のため「意識」を捨てた知性はどこに向かうのか。

 偶然かも知れませんが、先月号(特集:伊藤計劃以後)と今月号の特集をつなぐ要石のような作品になっています。今月号の冒頭、特集の直前というポジションがぴったりはまっているのがまた。

 先輩作家から若い作家たちへの叱咤激励というか挑発に満ちており、ロートルにこうも気合を入れられたからには、こいつうぜえ時代遅れにしてやるっ、とばかりに若手作家の皆様ぜひ奮起して頂きたいものです。

 そして、ピーター・ワッツの『天使』。

 民間人や中立建造物に対する付随的損害を最小限にするために、自律判断アルゴリズムのなかに「良心」に相当する学習機能を搭載した無人攻撃機。戦闘体験を積むごとに学習を重ね、単なる評価関数をこえたバリューを意識するようになったそれは、自意識すら持っていないにも関わらず、次第に「良心の呵責」に苦しむようになってゆく。そして戦場で大きなダメージを受けたとき、それが下した判断とは・・・。

 今まさにアフガニスタン等で大量に投入され、様々な政治的・倫理的問題を引き起こしている無人攻撃機をテーマとした作品です。(神林長平さんの後に読んだので、もしや海外版『雪風』かと思ってしまいましたが)

 兵器に人工知能を搭載したところ自我や感情に目覚めてどうのこうのというSFは多いのですが、たいていそのプロセスは詳しく書かれません。というか、そもそも「命令に絶対服従していた兵士が、ある出来事をきっかけにそのことに疑問を感じてしまう」という定番プロットのバリェーションに過ぎなかったり。

 本作は、このプロセスを丁寧に追ってゆくのが特徴。短い乾いたセンテンスをつみ重ねて、自意識も持たない主人公の「内面」で起きていることを、もっともらしくえがいてみせます。抑制がよく効いており、安易な寓話にならないように、説得力を持たせるところは実に巧み。感心させられます。

 というわけで、陸、海、空、宇宙、そしてネットと舞台も揃っており、ベテラン作家から若手まで執筆陣も幅広く、特集もキャッチーだし、これを機会にSFも読んでみようかと思っている方にもお勧めの、SFマガジン8月号であります。

[掲載作品]

『喪われた惑星の遺産』(山本弘)
『DIVAの揺らすカーテン』(泉和良)
『歌う潜水艦とピアピア動画』(野尻抱介)

『いま集合的無意識を、』(神林長平)
『天使』(ピーター・ワッツ)


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『君がいない夜のごはん』(穂村弘) [読書(随筆)]

 「ところてんは箸一本で食べるもの」、「牛乳のなかで苺を潰すための専用スプーンがあった」、「ブロッコリーって緑色のカリフラワーじゃないか」、「生ハムメロンは分離して食べちゃ駄目ですか」、「おはぎは甘いおにぎりじゃない」。食にまつわる小学生的大問題に歌人が挑む。料理雑誌に連載された失笑エッセイ。単行本(NHK出版)出版は2011年5月。

 生活能力の低さで稼いでいる歌人、とも云われる穂村弘さんの最新エッセイ集です。今回のテーマは食。もちろんグルメエッセイ、だとか、世界の美食巡り、といった随筆にならないのは当然のこと。

 「ナポリタンとミートソース、その二種類のスパゲティを食べ続けて我々は何十年も平和に暮らしてきたのだ。ところが或る日、カルボナーラとかボンゴレなどというものたちが現れた。それらはパスタという食べ物だという。実際にみて驚いた。こいつらスパゲティと瓜二つじゃないか」(単行本p.18)

 頭を抱えつつも必死に覚える作者。追い打ちをかけるように、アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノといったミドルネーム族、ラヴィオリとか何とかいうショートパスタ族が現れるに至って、ついに彼は叫ぶ。「私が絶対的な権力者だったら、君らは全員マカロニだ」(単行本p.19)

 ミルク・コーヒーとカフェ・オ・レとカフェ・ラ・テとカフェ・クレームの違いが分からない作者。お皿は裏面も洗う必要があるということを知らなかった作者。自分が好きなものを女友達から「ださー」と評されて恐怖に震える作者。おはぎを食べるときに「おはぎ、おはぎ」と唱えて気を引き締めておかないと、うっかり「甘いおにぎり」とか思って気持ちが悪くなってしまう作者。

 あえて服を着て文庫本を持っておしっこを我慢しつつ体重計に乗り、「本当の私はこんなに重くないのだ」(単行本p.84)と断じることで傷つかないようにする作者。アイドルというジャンルについて「沢山の女の子が入れ替わり立ち替わり踊り続ける集団があるような気がする」(単行本p.174)ということしか知らない作者。

 こんな作者ですが、何といっても料理雑誌に連載されたエッセイですから、食の自慢話も出てきます。牛乳のなかで苺を丁寧に潰してゆく(そのための専用スプーンまであった)、グレープフルーツの切断面に砂糖をかけてスプーンですくって食べる、ところてんを箸一本で食べる(家族も親戚もみんなそうして食べていたのだそうです)、そして麦茶に砂糖を入れて飲む。

 料理雑誌の読者がどのような感想を抱いたのかは分かりませんが、個人的には大いに笑わせて頂きました。

 なお、個人的に最もインパクトを感じたのは、ある女性作家のエピソード。食事のとき、彼女は「肉が好きなんです」といって前菜もスープも断り、ひたすらメインディッシュに備えていたそうです。「牛より豚が、肉って感じがして好きなんです」といいながら微笑む彼女。「チキンは」と尋ねたところ、返ってきた答えは「あれは魚です」。

 肉食系女子ってやっぱりいるんだ。


タグ:穂村弘
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『ロンリー・ハーツ・キラー』(星野智幸) [読書(小説・詩)]

 シリーズ“星野智幸を読む!”、その第7回。今回は、無差別心中が流行し戦時下のような殺伐とした世相に覆われた閉塞社会をえがく長篇小説。単行本出版は2004年1月、私が読んだ文庫版(中央公論新社)は2007年4月に出版されています。

 この国の象徴たる「オカミ」の崩御により、社会との関係性を見失った者たちが引きこもってしまう「カミ隠し」と呼ばれる現象が広まり、社会不安を引き起こしている。そんなとき、生きているという実感が得られず社会からの疎外感にさいなまれていた若者が、大陸から吹き寄せる黄砂の嵐のなか、この世の「真実」を幻視。そのことを手記にしたためネットにアップした直後、知人を殺害して自殺する。

 彼の手記はネットに広まり、その「真実」に触れた者たちが次々と無理心中事件を引き起こす。さらには、無差別心中というか、誰でもいいから目についた相手を殺して直後に自殺するという、自爆テロのような事件が続出。

 誰もがいつ殺されるか分からないという不安と恐怖のなかで、先制殺害こそ正当防衛だという世論が高まり、むしろ殺される方が自己責任、という風潮が世の中を覆ってゆく。

 疑似家族的な共同体、天皇制と国体、草の根ファシズムの空気など、これまでの作品にも見られた要素を散りばめながら、社会からの疎外感が引き起こす暴力をえがいた長篇。現実の世相やら言説やらを連想させる描写が多く、読んでいてちょっと気が滅入ってきますが、これまでの作品に較べて小説として面白いのも確か。

 ただ、私は最新作を先に読んでいたため、どうにも『俺俺』の原型に思えて仕方ありませんでした。

 第一部の主人公など『俺俺』そっくりだし(社会性が低いフリーターの若者で、疎外感に苦しみ、カメラが唯一の趣味、など)、自画像が無限に増殖してゆく「合わせカメラ」のイメージも、そのまま『俺俺』につながります。

 第二部に至って、社会が崩壊して(というか、おそらく社会性が欠如した語り手たちの世界観が投影されて)、他者への不信が肥大化して殺し合いが横行する戦場のような世の中になってゆく、という展開も同じです。

 そういうわけで、私のように、話題作『俺俺』を読んで感心し、星野智幸さんの小説をもっと読んでみようと思った方は、とりあえず本作から入るのがよいかと思います。あるいはむしろ『俺俺』の前に本書を読んでおいた方がいいかも知れません。最初から最後まで若い男性の殺伐とした心象風景が続く『俺俺』に較べて、若い女性が語り手となるパートが長い本書のほうが、イライラ感は若干少なめですし。


タグ:星野智幸
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