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『日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで』(長山靖生) [読書(SF)]

 『SFが読みたい!2011年版』において、ベストSF2010国内篇第四位に選ばれた長山靖生さんの評論。単行本(河出書房新社)出版は2009年12月です。

 幕末からスタートして、いわゆる第一世代SF作家たちが活躍した1970年代までの日本SFの歴史を概説した一冊です。この期間に発表された主要な「SF的発想にもとづいて書かれた作品」を取り上げるだけでなく、この百年を通じた日本SFの歴史的連続性に焦点を当てているのが特徴。

 つまり今日、「SF魂」などと呼ばれている(誰に?)、かの不可思議な、ジャンル外の人に説明困難な、ある種の“精神”、あるいは“性根”と言った方が適切かも知れませんが、そういうものが、何と幕末から、明治、大正、戦前、戦後を通じて、今日まで綿々と途切れることなく続いている、それは私たち一人一人のSF個人史にそのままつながっている、というのです。

 私は、何となく、日本のSFは戦前と戦後で大きな断絶がある、今わたしたちが知っている日本SFは、戦後にペーパーバックの形で輸入された海外 SFの影響からスタートして、SFマガジンの創刊あたりから本格化した、みたいな歴史観を持っていました。本書を読むと、実はそうではないことがよく分かります。

 明治時代にもSF的な発想を持った人はいて、そういう人がSF的な小説を書いてきたのです。そして、SF的な作品に対して「未来のことを書いた小説など文学ではない」、「人間が書けていない」といった批判が出て、それに対してSFを擁護する人が出てきて、喧々諤々の論争になる、というのも全く同じ構図。思わず失笑するくらい。

 作品の連続性だけでなく、SF界隈のあれやこれやも、歴史的に連続しているというか、進歩がないというか、いやそれを言っちゃいけません。

 「物語仕立ての<科学小説>は、啓蒙書であると同時にSFだともいえる。しかもこの手の作品は、啓蒙書としては失敗しているほうが、SF史的には「トンデモ本」的で面白いという、微妙な地点に立っている」(単行本p.85)

 「明治三十年代から四十年代にかけて、現実の日本の海外拡張に関連して架空戦記、特に対露戦争小説が流行し、日露戦争後になると対米戦争小説(あるいは英米との技術開発競争物)がしきりに書かれた」(単行本p.113)

 「現代ではおたく文化が隆盛で(中略)もともとはSFファンの活動が基盤にあったことは、おたく第一世代にとっては体感的に記憶されているところだ。そして、さらにその源流をたどると、大正・昭和初期の愛書趣味とダイレクトにつながるラインがあったのである」(単行本p.145)

 「科学小説というと、当時は(今も?)情緒のない即物的で機械的な描写ばかりの、非文芸的な小説ジャンルだと思われがちだが(中略)、たとえば海野十三が「成層圏」とか「音速」と書く時、それは単に地学的・数学的な記述ではなく、その実態への豊かな体感的想像を帯びた、その意味ではロマンチックな響きすら持っていたはずだ。それが科学的想像力の乏しい読者には共有されず、科学小説の描写を即物的なイメージでしか感受されなかったのではないだろうか」(単行本p.154)

 というわけで、幕末から明治時代にかけて、あるいは戦前のSFがどのようなものだったかという話題だけでも面白いのですが、明治維新も太平洋戦争も越えて続いている日本SF精神の歴史的連続性、という主題はとても魅力的。

 幕末にも、明治にも、大正にも、そして昭和初期にも、自分たちと同じようなSF者がいて、やっぱりSFなことを言ったり、やったり、書いたりしていた、ということを知るのは実に印象的です。素晴らしい意味でも、しょんぼり駄目な意味でも。本書がSF読者に圧倒的な支持を受け、日本SF大賞と星雲賞を受賞し、ベストSF2010国内篇第四位に選ばれたのを見ても、同じように感じた人が多いのではないでしょうか。


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『目覚めよと人魚は歌う』(星野智幸) [読書(小説・詩)]

 星野智幸さんの著作を順番に読んでゆくシリーズ“星野智幸を読む!”、その第4回。今回は三島由紀夫賞を受賞した著者の長篇を読んでみました。単行本(新潮社)出版は2000年5月、私が読んだ文庫版は2004年11月に出版されています。

 いざこざで人を殺めてしまい、逃亡中の日系ペルー人の青年が語り手の一人となります。彼は恋人とともに、伊豆高原にある人里離れた家に逃げ込むのですが、そこには、もう一人の語り手となる女性が、自閉気味の息子、そして家の所有者である男と共に住んでいました。男は、自分たちはここで疑似家族として生活している、と語るのですが。

 思い出にとらわれ、今はなき夫との幻想の逢瀬に夜な夜な溺れている女性(タイトルの「人魚」は彼女のことでしょう)、自分の過去との連続性に実感が持てず自我がうまく統一できないでいる青年、この二人を中心に作られる疑似家族を描いた作品です。

 前作『嫐嬲(なぶりあい)』も同じく疑似家族の誕生と崩壊を扱った小説でしたし、どうやら作者にとって疑似家族は重要なテーマのようです。ただし『嫐嬲』と違って、本作における疑似家族は、精神の均衡を欠いた青年を現実から引きはなし永遠に取り込んでしまおうとする罠(人魚の歌声)であるかのように書かれています。

 冒頭で、青年が様々な苦難や「儀式」を経てたどり着くのをみても分かりますが、舞台となる家は黄泉の国のような異界として扱われており、その感じを出すために、語り手の頻繁な切り換え、ときには段落の途中で三人称から一人称にすっと移行するといった視点の移動、感覚を刺激する執拗な描写、そういった技法が存分に駆使されています。

 人魚の誘いをかわした青年は家を出て現実へと向かって歩み去ってゆき、幻想の彼を手に入れた人魚はそれで満足して再び永遠の過去にとらわれる。予想通りの決着ですが、しかしそうしたストーリーはさほど重要ではなく、やはり文章で読ませるタイプの小説だといってよいでしょう。

 余談ですが、本作のヒロインがとらわれている過去の夫の名前が蜜夫(ミツオ)、息子の名前が密生(ミツオ)。これはデビュー作『最後の吐息』の主人公である蜜雄(ミツオ、ミツ)を露骨に連想させます。自分も過去の作品にとらわれているという自虐ネタでしょうか、それともデビュー作に落とし前をつけるという意志表示でしょうか。ちなみにヒロインの名前は糖子で、あわせて糖蜜。だから二人がからむ幻想シーンはとても甘美に。作者はそういうベタな言葉遊びがけっこう好きなのかも。


タグ:星野智幸
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『私たちは眠らない』(東野祥子、BABY-Q) [舞台(コンテンポラリーダンス)]

 昨日(2011年3月6日)は、東野祥子ひきいるダンスパフォーマンスグループ「BABY-Q」の新作公演を観るために、夫婦で三軒茶屋シアタートラムに行ってきました。

 観客の頭を揺さぶる大音響ノイズミュージック、テトリスブロックみたいな大道具、零細工場あるいは錬金術師の工房を連想させるような雑多なガジェット類、謎の小芝居、劇的な照明効果、くらくらしてくるアート系映像、さらにはバイオリン生演奏まで、様々な表現手法を組み合わせた、その混乱っぷりが魅力的なパフォーマンスです。ダンスもその奇怪な構造物を支える表現の一つとなっています。

 BABY-Qは、「ダンサー、ミュージシャン、役者、映像作家、美術家、コスチュームデザイナー、ロボット制作家などからなるメンバーそれぞれが、個々のセンスや時代性を多角的に組み合わせた作品製作を行い、舞台芸術からサブカルチャー、現代音楽シーンなど多方面で活動を行う」(公式ウェブページより)グループだそうで、なるほど、各メンバーがそれぞれ自分のやりたいことを全力でぶつけたような、錯綜したパワーを感じさせます。

 大道具の使い方(舞台上にある四つのブロックを、叩いて音を出すなど散々使い倒した挙げ句、組み合わせて十字架を作り、最後はそれを釣り上げる)などけっこう素敵ですが、個人的には「声高に陰謀論をうったえる講演会」のパフォーマンスがお気に入り。

 激しい音割れのせいでノイズと化した講演ですが、不思議なことに、耳をすませると「新世界秩序・・・人口半減計画・・・人工インフルエンザウイルスをばらまいて・・・大型ハドロン加速器LCD・・・作られた経済危機・・・すべては・・・の・・・なのです」みたいな“おなじみの言葉”だけは聞き取れるのです。

 後で配偶者に確認してみると、「UFOと宇宙人の隠蔽工作」について何か言っていた、という認識だったので、もしかしたら観客一人一人が異なる言葉を聞き取る聴覚ロールシャッハテストなのかも知れません。洗脳かも知れません。

 そういえば、何度か登場する丸に三角の映像(ときどぎ三角の中にまばたきする目が現れる)とか、怪しい儀式とか、大量虐殺とか、舞台から観客席に向けて強烈な光が放たれるシーンとか、いちいち秘密結社や陰謀論の香りが漂っている気もします。

 そんな得体の知れないパフォーマンス連打のなかにあってもなお、東野祥子さんのダンスは強烈な印象を残してくれます。糸がからまった操り人形のような、手足がうまく制御できないギクシャクした感じを中心に、機械のように動いたかと思うと、ふと意識が戻って混乱したり、かと思うと床にゆっくり倒れて、手足を昆虫のように動かしたり、観ていてぐいぐい引きつけられます。

 実は東野さんは公演全体を通じて踊っているのですが、何しろノイズや照明など他の表現の「主張」が激しいためあまり目立たず、むしろ最初というか、開演前のソロダンスが最も印象に残りました。

 BABY-Qのパフォーマンスを本格的に観たのは初めてなのですが、これけっこうイイかも、という印象は受けました。機会を見つけて他の公演も観てみようかと思います。

[キャスト]

演出・振付・出演:東野祥子
演出・音楽:カジワラトシオ
映像:Rokapenis(斉藤洋平)
美術:OLEO
衣裳:ペーどろりーの
出演:ケンジル・ビエン、pee、吉川千恵、井田亜彩実、鈴木拓朗、斎藤亮、加藤律、もっしゅ(岩佐妃真)ほか
LIVE演奏=及川景子/MTR(CARRE)


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『からまる』(千早茜) [読書(小説・詩)]

 デビュー長篇『魚神』でいきなり泉鏡花文学賞を受賞して注目された著者による連作短篇集です。出版は2011年2月。

 これまで単行本で読んだ作品は、いずれも、時代劇、ファンタジー、寓話という側面が強かったのですが、今作は現実の社会に生きるごく普通の人々を描いた一般小説、というか恋愛小説です。

 第一話「まいまい」から、第七話「ひかりを」まで、7つの短篇から構成されており、登場人物も重複しています。例えば最初の「まいまい」の主人公は役所につとめる青年ですが、彼の同僚が第二話の主役となり、職場の上司が第三話の主役をつとめ、姉貴が第四話の主役、姉の息子が第五話の主役、そして最後に謎めいた恋人が第七話の主役となる、という具合です。

 もちろん各話で語られるエピソードも微妙に重なり合っており、全体タイトル「からまる」は、こういう各話の関係性を指していると共に、どんなに他人の干渉を嫌っても互いにからまらずには生きていけない人間のさが、という共通のテーマを暗示しているようです。

 他にも第一話と第七話、第二話と第六話がそれぞれ対になっている(同じペアの各人がそれぞれ語り手になって、二人の関係性をそれぞれの立場から描く)とか、どの作品もタイトルがひらがなで、目次をみると四文字・五文字・四文字・五文字という正確なリズムを刻んでいるとか、色々と仕掛けはありそう。

 主人公の心境を象徴する無脊椎動物の名前が出てくるのも共通点の一つです。例えば、自分の殻に閉じこもっている青年はカタツムリ、次々と男に惚れては振られてを繰り返す女性はクラゲ、といったように。

 どの話も、恋愛や友情など人間関係の機微をていねいに描いた作品となっています。人物設定やストーリー展開はごくありふれたもの。定番といってもよいでしょう。暗い話もありますが、いずれもラストに救いがあって、読後感はさわやかです。

 とにかく三冊目の単行本とは思えないほど手慣れた印象があり、作品としての完成度も高く、読んでいて安心感のある恋愛小説を求める方にはぴったりでしょう。

 ただ、この作者に対して、『魚神』でみせてくれた、あの、何というか、歪んだ純情というか、禍々しいまでの一途さというか、作品世界をそれこそ焼き尽くしてしまうほどの強烈な幻想を期待する私のような読者にとっては、少し物足りない気もします。

 ですから収録作品中では、血のつながらない兄妹のいびつな愛憎と葛藤を描いた第六話「うみのはな」がいっとうお気に入りです。人間の生と死を静かな海の底からみつめるような第七話「ひかりを」にも感動しました。「野生時代」に連載された五話よりも、この書き下ろしのラスト二話のほうが、作者らしさがよく出ていると思います。


タグ:千早茜
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『スピンク日記』(町田康) [読書(随筆)]

 シリーズ“町田康を読む!”第38回。

 町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、著者の飼い犬が日常生活のあれやこれやを、犬らしく楽しげに語ってくれる作品です。単行本(講談社)出版は2011年2月。

 まずカバー写真(裏表紙も要チェック)が強烈なインパクト。この珍妙な犬こそ、語り手であるスピンク(正式名:ラブリー・スピンク)君です。プードルです。作者のうちで飼われています。

 兄弟のキューティー(正式名:キューティー・セバスチャン)と、主人・ポチ(正式名:町田康)と、奥さんと、たくさんの猫たち(詳細は、『猫にかまけて』、『猫のあしあと』を参照)といっしょに暮らしています。その生活の様をスピンク君が語ってくれるのです。

 もちろん飼い犬ですから、最大の関心事は主人・ポチの言動です。スピンクにマウントされて「スピンク、痛い、スピンク、痛い」と泣いたり、スピンクが黒い目でじっと見つめるとふいに「スピンクー」と絶叫して抱きしめてきたり、文学の鬼になると称して自室に閉じこもり焼き芋を食べてたり、わけのわからない歌を熱唱したり、そのような作家の生態が赤裸々に書かれています。

 何しろ観察者がプードルなので、しかも飼い主とはいえ明らかに自分より劣位犬と見なしている相手のことなので、その筆致にはまったく容赦というものがありません。

「ポチが真面目に生きるのはもう無理だと思います」(単行本p.114)

「この主人というのがいつもまでも子供で困ります。子供なだけでなく変コです」(単行本p.192)

 内容的には『テースト・オブ・苦虫』シリーズと似ていますが、何しろ町田康のあれやこれやを犬の視点から語り、しかも犬の立場から冷静にツッコミを入れるわけで、これがあまりにも可笑しい。思わず吹き出してしまいます。

 ぼろぼろ泣ける猫エッセイに比べて、語り手が犬なので、しかもプードルなので、全体的に気楽で楽しい雰囲気になっています。悪質業者による犬虐待といった深刻な話題も出てきますが、何しろ犬なので、すぐに気分が良くなって、うわんわんわん、楽しくなってしまいます。

 というわけで、『猫かま』や『猫あし』の犬版かと思って読み始めたのですが、むしろ爆笑エッセイ『テースト・オブ・苦虫』シリーズの後継といった方がよいかも知れません。スピンクやポチやキューティのカラー写真も満載で、ぺらぺらめくるだけでも何だか楽しくなってくる一冊です。

 個人的に犬には興味がなかったのですが、スピンクと主人・ポチが見苦しいほど楽しく遊んでいる描写を読んで、犬を飼うのもいいものだなあ、などと思いました。


タグ:町田康
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