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『空時計サナトリウム』(振付演出:勅使川原三郎) [ダンス]

 2014年3月29日は、夫婦で両国シアターχに行って勅使川原三郎さんの新作公演を鑑賞しました。ブルーノ・シュルツの短篇『砂時計サナトリウム』を原作とする60分の作品。タイトルの差異は、翻訳の版の違いによるものでしょうか。

 寝台やベンチ、天井から釣り下がった光源(オレンジ色)など、最小限のものだけを使ったシンプルな舞台。照明効果と朗読によって、そこが列車の中、森、廊下、病室、町、戦場など、様々な場所に見立てられます。

 照明と影の効果が素晴らしい。背後の壁に投影される影はまるで生きているように感じられ、ときどき実在する出演者とその影が逆転して見えることさえ。森の木立の影や、暗闇のなか静かに揺れる光源など、底知れない不気味さが存分に感じられます。奇怪な音響効果も加わったりして、ちょっとしたホラー映画のよう。

 そんな薄暗い不穏な舞台で、勅使川原三郎さん、佐東利穂子さんを含む、総勢九名が踊ります。

 何と言っても勅使川さんのダンスが超絶的。しなやかで、強靱で、とてつもないバランスで繰り出される動きは、流水のごとくというか、放電のごとくというか、まるで時の流れすら自在に操るよう。思わず息を飲みます。

 ダンスによって創り出された「人為的に引き延ばされた空虚な時間」あるいは「流れない時のよどみ」のなかにいるという感覚、いやそんなものをダンスで表現できること自体が魔法みたいなものですが、これが朗読されるテキストとも共振して、ぞっとするような劇的な効果をもたらします。圧巻の舞台です。

[キャスト]

振付演出構成: 勅使川原三郎

出演: 勅使川原三郎、佐東利穂子、
川村美恵、鰐川枝里、高木花文、加藤梨花、林誠太郎、ディッダ、鳥居美由紀


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『八番筋カウンシル』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

 「あの人たちは何でも言う。ちょっとしたことでも、自分たちの有利になることなら何でも言う。自分らの言ってることを信じてなかっても」(単行本p.80)

 大人になってから地元の商店街に戻ってきた幼なじみの三人。小さな商店街の人間関係を背景に、彼らがそれぞれに仕事を見つけ、人生の転機をむかえる姿を描く長編。単行本(朝日新聞出版)出版は、2009年2月です。

 タケヤス、ホカリ、ヨシズミ。ともに母子家庭に育った幼なじみの三人も、今や三十歳前後。仕事に行き詰まりを感じ、転機を求めています。いずれも家族と折り合いが悪い彼らは、緩やかに助け合いながらも、それぞれに一人で生きてゆくしかありません。

 「タケヤスの父は事業に失敗し、ホカリの父は家庭内暴力をふるい働かず、ヨシズミの父は死別と、それぞれに母子家庭で祖父母の家に身を寄せているという共通点がある。姓は、三人とも母親のものを名乗っている。三人が大人になろうと、家は女子供と老人の所帯と見做されたままで、カウンシルの連中には暗黙のうちに物の数から弾かれ、憐れまれている」(単行本p.9)

 三人を何かと侮ってくる「敵」である、カウンシルの連中。要は商店街の店主をやっているオヤジたちの集まりです。

 「青年会というのは昔の名で、彼らは現在はカウンシルと名乗っている。短くて通りの狭い、空から見たらY字型をしている商店街だが、末広がりの縁起を担いで『八番筋』と名付けられた商店街の評議会だから、八番筋カウンシル」(単行本p.7)

 その八番筋カウンシルですが、これがもう、お話にならない駄目で暇なオヤジどもでいっぱい。とにかく実質的に何の仕事もしていない。

 「会社にいた時だってそれはいろいろあった。いろいろな人間がいた。いい人もいれば、どうしようもない屑もいたし、その両面を持ち合わせているやつもいた。しかし、全員が全員、会社に雇われて家の外で歯を食いしばって働いてるという前提があり、死ぬほど腹が立った時も、そのことを思い出して堪えたものだった。しかし、さっきのあの男はどうだろう。少なくとも、会社員をやっていた時にはお目にかかったことのない人種だった」(単行本p.26)

 女子の採寸データを他人に教えて卑猥な雑談のネタにする服屋。恫喝まがいの物言いで補助金を出させてはピンハネする少年野球チームの指導者。親の金で食っているくせに他人のやることに難癖つけては説教して回るオヤジ。子供が出来ない妻を「出来損ない」と罵って暴力をふるい、「出てゆきます」と言い返されると「おまえがいなければ生きていけない」と甘え、浮気しては相手の女に逃げられ、結局は妻に人生すべて後始末させるやつ。

 「男はひどいですね。女がおらんと生きていけんくせに、最低限の敬意も払えん」(単行本p.165)

 「大人のくせに、子供まで作っておいて、情けない。どういう言い訳を自分にしながら、貯金を使い込み、家族を殴ってきたのだろう」(単行本p.178)

 「平日の明け方に、母親と祖父を呼びつけて、女を買って入った部屋の代金を立て替えさせた。二人とも働いていた。朝から仕事があった」(単行本p.189)

 「暇でしゃあないんや、体というより、気持ちがな。せやから余計なことばっかり考えよる。もっと商売に精を出せばいいのにな」(単行本p.72)

 暇だから中身が腐ってゆくというより、腐りすぎてて仕事もできんから、暇を持てあまし、無責任で小汚いまねをする。そんな商店街の連中や、自分たちの家族のことを、三人は嫌っています。

 ですが、本当に許せないのは、中学生の頃に起きたある事件の顛末。何の根拠もなしに、彼らと仲の良かったカジオに責任をなすりつけ、その母親に対してひどい嫌がらせを繰り返したのです。

 「商店街のカウンシルであると名乗る連中は、ほんまはおまえの息子が何かやったんとちがうんか、とカジオの母親を責めたてるのだという。それも、店の営業時間中にやってきて、他の場所から来るお客の前でもおかまいなしに、むしろそういった人びとに見せ付けるように、カジオの母親に絡むのだという」(単行本p.79)

 「彼らは、自分たち自身も信じていないような噂の薪を組んでそこに火をつけ、邪魔だったカジオの母親を一家ごと町から追い出した」(単行本p.118)

 後にカジオの無実が明らかになったとき、カウンシルの連中はどうしたか。

 「ばつが悪そうに顔を見合わせることさえせず、カジオたちがその近辺で暮らしていたこと自体が葬り去られた。タケヤスはその過程を、可能な限り見聞きして記憶に刻み付けるよう努めた」(単行本p.82)

 「おまえは世間知らずやな、と自分を罵ったカケイのしたり顔を胸に刻みながら、これがその世間という場所のやり口なのだと、タケヤスは認めた。それを覚えていることが、いつか誰かに襲い掛かるのだと、そう自分に言い聞かせるしかなかった」(単行本p.82)

 そのカジオが、大手会社のマーケティング担当者となって八番筋商店街に戻ってきます。しかも、商店街そばの大型ショッピングモール建築計画を持って。そうなったら商店街はどうなるのか。カウンシルの連中も大騒ぎに。

 こうして、中学生の頃の「事件」や、家族との軋轢でたまってゆく鬱屈を描く過去パートと、ショッピングモール建築をめぐるカウンシルの内紛に巻き込まれる現在パートが、交互に書かれてゆくという構成になっています。

 これまで働く人々の矜持を書いてきた作者ゆえ、仕事をしない人に対する視線は非常に厳しい。それと対比させるように、主役の三人は、もがき苦しみながらも自分にとっての「仕事」を見つけ、自力で人生を切り拓いてゆきます。

 というわけで、真面目に誠実に働くということが出来ない人々を書くことで、仕事の意味を問うような作品。重苦しく、息苦しい雰囲気が続きますが、最後には春がやってきます。


タグ:津村記久子
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『SFマガジン2014年5月号 非英語圏SF特集』(小田雅久仁) [読書(SF)]

 SFマガジン2014年5月号は、非英語圏SF特集ということで、フランス・中国・インドのSF作品が翻訳掲載されました。また、小田雅久仁さんの中篇も掲載されました。


『パッチワーク』(ロラン・ジュヌフォール)

 「この死に犯意を見出しても誰の得にもならない。ここは三種族の棲域が交わるセルム高原地方なのだ。この地に平和が訪れて、まだ数十年しかたっておらず、ほんの些細なもめごとでも起きれば、白紙に戻りかねない」(SFマガジン2014年5月号p.12)

 三つの知的種族が共存している惑星オマル。三種族都市ロプラッドで働いているホドキン族の医師シズニーのもとに、種族間の平和共存を推進していた政治家の遺体が運び込まれる。自然死か、事故か、それとも種族差別主義者による暗殺だろうか。遺体に謎めいた傷痕を発見したシズニー医師は、友人である刑事にそのことを告げる。それは一連の怪遺体事件の始まりだった……。

 近刊『オマル-導きの惑星-』と同じ背景世界を舞台とした短篇です。異星人の視点から語られるSFミステリで、全体的に地味な話ですが、人種間の軋轢という現実の問題をSFの手法で扱おうとするプロットが印象的です。


『鼠年』(スタンリー・チェン(チェン・チュウファン))

 「鼠だ。何百万匹という鼠が、畑や、森や、丘や、村から出てきている。歩いている。そう、直立してゆっくりと歩いている。(中略)冬の枯れ野や、同様に無味乾燥な人間の建物を飲みこみ、波打ちながら鼠の海は進む」(SFマガジン2014年5月号p.52)

 遺伝子操作されたネオラットを駆除するために組織された鼠駆除隊に動員された若者たち。「国を愛し、軍を援けよう。民を守り、鼠を殺そう」なるスローガンのもと、劣悪な環境で鼠と戦わされ、無意味に命を落としてゆく。一方で、改変遺伝子(ただし違法コピー版)を持つ鼠たちは勝手に知性化を進め、独自の社会を築きつつあった……。

 大学を卒業したのに良い仕事につけず、都市部で低収入・不安定な底辺労働者として生きる若者たちのことを、中国のスラングで「蟻族」「鼠族」といいますが、まさにそのまんまの話。一部の富裕層が外貨をどっさり稼ぐその足元で、鼠族と鼠が共食いさせられる。現代中国が抱えている社会矛盾を風刺しつつ、感傷的な筆致で読者の心を打つ作品。個人的お気に入りです。


『異星の言葉による省察』(ヴァンダナ・シン)

 「孤独なのは完結したシステムだけだ。そして、完結したシステムなどというものは存在しない。(中略)アイデンティティは不変でもなく、完結してもいない」(SFマガジン2014年5月号p.69)

 異星人が遺した機械により接続された無数の蓋然性世界。失われた恋人を追って蓋然性の間を移動するうちにループにとらわれた男が、何度も同じ女のもとを訪れる。歳月は流れ、今や年老いて死期が迫っている女。果たして死ぬ前にもう一度、彼に会えるだろうか。探し求めている恋人に決して再会することのない彼に。

 多元宇宙やタイムループといったSFの定番ネタを駆使しながら、詩的で幻想的な物語が展開します。テーマおよび文体から『あなたの人生の物語』(テッド・チャン)が連想されますが、雰囲気はけっこう違います。


『廃り』(小田雅久仁)

 「こんな街がどこかに実在するとはやはり信じがたい。墜ちる夢の向こう側、樹木のように育ってゆく街、果てしなく広がる灰色の海と灰色の空、灰病、喪色者、連行者……弟は廃りになって気がふれたのではないだろうか」(SFマガジン2014年5月号p.255)

 全身がモノトーンの「廃り」たち。人々は本能的な嫌悪感から彼らを不可触賤民として目をそらしている。ある事故がきっかけで「廃り」に興味を持った姉弟。やがて連絡がとれなくなった弟を探し当てた姉は、弟が書き残した手記から「廃り」に関する驚くべき事実を知ることになる。

 『本にだって雄と雌があります』や『11階』と同じく、隠された世界に足を踏み入れてゆく傑作ダークファンタジー。差別問題が扱われているためか、初期の『増大派に告ぐ』を思い出させるような、怒りや鬱屈をはらんだ暗い雰囲気が印象的です。


[掲載作品]

『パッチワーク』(ロラン・ジュヌフォール)
『鼠年』(スタンリー・チェン(チェン・チュウファン))
『異星の言葉による省察』(ヴァンダナ・シン)
『廃り』(小田雅久仁)

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『なんでそんなことするの?』(松田青子:著、ひろせべに:イラスト) [読書(小説・詩)]

 「だれかの好きなものや好きなことを変だなんて言ったり、バカにしたり、だれもそんなことしちゃいけないんだよ。本当にひどいことなんだよ、それは」

 友達にからかわれて、とても悲しい思いをしたトキオ。そのとき、突然あらわれた飼い猫のミケがその友達をぱくっと飲み込んでしまった……。松田青子さんによる書き下ろし絵本。単行本(福音館書店)出版は、2014年3月です。

 いじめをテーマにした絵本です。お話を書いたのは、『スタッキング可能』と『英子の森』が大きな話題となった松田青子さん。きれいな色彩、子どもの絵のような優しいタッチで描かれたイラストは、ひろせべにさんです。

 「ぼくたち男なんだから、ぬいぐるみ持ってるのおかしいよ。ぼく、この前お父さんにきいてみたんだ。そしたらお父さんも言ってたよ。それはおかしいって」

 「トキオくん、変だよ。いいかげんわかろうよ。(中略)ぼく、トキオくんのために言ってるんだよ」

 お気に入りのぬいぐるみ「トラ」を学校に持っていったトキオは、男なのに変、などとからかわれて悲しい思いをします。そのとき、突然現れた飼い猫のミケが、友達をぱくっと食べてしまったのです。

 それだけではありません。トキオがからかわれたり、嫌がらせをされたりして、悲しむたびに、ミケが現れてその友達をひどい目に合わせるようになったのです。透明にされたり、その子の席にだけ雨が降ったり、キツツキの大群に襲われたり、ハリネズミに刺されたり。いじめを止めようとしない先生も容赦なくリスにされます。

 トキオを守っているつもりなのかも知れませんが、何しろ猫なので、やることがごっつえげつないです。むしろトキオを口実にやりたい放題、猫として獲物いたぶり本能を発揮しているだけかも。

 「やめてよね。みんなぼくをからかってるだけなのに、なんでそんなことするの? トラを学校に持ってきて、悪いのはぼくなのに」

 「からかってるだけって言うくせに、じゃあなんでトキオくんは、毎回悲しいの? 傷つくの? いやな気持ちになるの? からかってるだけって本当は思ってないからだよね」

 これ以上の犠牲者を出さないよう、トキオは決心します。これからは、黙ってないで、からかわれたら言い返そう。みんなを守るために、勇気を振り絞って言い返そう。

 「なんでそんなことするの?」

 たとえやる方が「いじめ」だと思ってなくても、悪意がなくても、大したことがないように見えても、誰かを「普通じゃないから」「変だから」という理由で傷つけることは「本当にひどいこと」だと教えてくれる絵本です。

 傷ついたときに、黙っていたり、平気そうに振る舞ったりしていると、いずれみんながひどい目にあうことになる。だからみんなのために我慢するんじゃなくて、みんなのために言い返すことが大切。そんなことも教えてくれます。

 「ミケの魔の手から同級生を守ることができるのはトキオだけです」

 同級生たちに降りかかる災難の数々や、彼らが密かに持っている「変なところ」の列挙など、細かいところが魅力的です。いかにも松田青子さんらしい。

 それと、個人的には、正論をぶちながら、やってることは極悪非道、でもすぐ飽きてだらだらするという、動物寓話らしからぬ、あからさまに猫むきだしのミケが気に入りました。


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『dress after dress クローゼットから始まる冒険』(中村和恵) [読書(随筆)]

 「いまさらなにをといわれるかもしれないが、身につけるもののことを書くということは、身にまとう人の身体について考えることでもあり、それは自ずと書く人自身の身体感覚を反映する」(単行本p.93)

 文学のなかで衣服はどう描写されてきたか。階級社会のほころびは衣服から。最後の衣服としての身体。食、読に続き、今度は衣を通して世界を眺めるポストコロニアル視点のドレスエッセイ集。単行本(平凡社)出版は、2014年3月です。

 「本を読むこと書くこと、それが家でいちばん大事な仕事で、その後にくる衣食住のうち、衣のことはいちばん最後、間に合って考えずにいられるならそれが最良という、いとこのひとりにいわせれば「図書館に台所がついた家」に育ったわたしにとって、身につけるもののことは長い間悩みの種だった。衣服の色やかたち、質感や機能にどうしてかつよい関心があったので、ことは厄介だった」(単行本p.13)

 読衣食住のなかでも、しばしば最も軽んじられるのが衣服ではないでしょうか。しかし、衣服は身体の延長であり、社会とコンタクトする高度に政治的な選択でもあり、あとほら、ぱさぱさ振ってみると、例によって無意識レベルに染みついた西洋中心的価値観がぽろぽろ落ちてきたりして、甘く考えていると私たちは衣服に乗っ取られかねません。

 『地上の飯 皿めぐり航海記』では食を、『日本語に生まれて 世界の本屋さんで考えたこと』では読を通して、世界を眺め、文化的多様性について書いてきた中村和恵さんが、今度は衣を通してあれこれ語りかけてくれます。

 「はじめに」からスタートして、個人、文化、社会、政治、という具合に身近な問題から大きな問題へと考えてゆき、最後の「ターン」で身体をくるりと旋回させ、改めて政治問題から個人の問題へと戻ってゆき、最後に「おわりに(リヴァーシブル)」に到着する、というしゃれた構成になっています。

 書物にとっての衣服でもあるカバーには、衣服を様々に着用中のイラストがごっちゃり描かれていて、実に楽しい雰囲気。なお、カバーを“脱がす”と、もう一つイラストが出てきますので、ぜひお試しあれ。他に、本文中に著者直筆による味わい深い絵も多数収録されています。

 さて、内容は多岐にわたっています。

 「なんだかわからないけれど不愉快なストレスだらけの日常から脱出したかった。着るもののことは、その不愉快のかなりの割合を占めていたと、いまになっておもう。(中略)自分で稼げるようになったら、あたしもアンナのようにする。着たいものを、着たいからというだけで、誰にもおかまいなしに着る」(単行本p.16、17)

 「マダムのところには世界中から、いろんなタイプの女性がブラジャーを誂えにやってくる。国によって要求は違うという。彼女の経験はそのまま、ブラジャーに求められる理想の体型の国際比較である」(単行本p.36)

 はじめて自分のお金で買った服のこと、オーダーメイドのブラジャーを注文したときのこと。衣服にまつわる個人的な思い出から始まりますが、軽い導入だと思っていると、いつの間にか衣服というものが持っている政治的機能(束縛/自由)の話になっていたりして、油断なりません。

 「経済基盤を理不尽なかたちで奪われるまでは見事に持続可能な循環型の生活様式をつづけてきた先住諸民族の考え方に学ぶ必要を、どん詰まり感がここ二十年ほどの間にぐんぐん高まってきたいわゆる先進国の人たちが、ようやくじわじわと骨身にしみて感じ出している。暮らしの思想のわかりやすい入り口として、工芸品や伝統デザインは重要な役割を担う」(単行本p.55)

 アイヌなど伝統文化における衣服の話、衣装デザインと資本主義の相剋、西洋中心的世界観で語られる動物愛護や自然保護のうさん臭さ、といった話題を通じて、世界経済のあり方へと視界を拡げてゆきます。

 「なにが自然で、なにが正統で伝統的で、だれが善意で、どいつがごうつくばりなのか、といった話に、単純明快な図式的解答は見出されないのが現実だ。理論をこねまわすより、事実に即してそのときどきで、判断していくしかないようにおもう」(単行本P.70)

 「毛皮はすべて悪だ、合成皮革やダウンジャケットを着ればいいんだという人たちに、わたしは賛成しかねるところがあるのだ。いかに大切に野生動物を扱うか。それは単純に一切殺さない、ということとは違うのではないか」(単行本P.72)

 「コンパクトで無駄がなく、地元環境に適合した先住民族の方々の日用品は、実際きわめて魅力的だ。トナカイの毛皮が家になり衣類になり虫よけになる、トナカイさえいればなんとかなるという生活スタイルに、ため息が出る。トナカイ飼いたい」(単行本p.65)

 最後の「トナカイ飼いたい」が素敵。「おかわりしてもいいかな」もそうでしたが、 こういう一言のおかげで、大学の教室でかたい授業を受けてるというより、親しい知人から色々と教えてもらっている、という感覚が出てきて、それが読んでいて楽しいのです。

 「三島は幼時、祖母の下で女の子のように育てられたというが、長じてのちの様子からみてトランスヴェスタイト(異性装者)と呼ぶのは不適切だろう。しかし女性の服装に対する関心はおそらくなみなみならぬものであった。そうでなければ『禁色』のようなドレス描写はできない。衣装小説として読むこともできる、服装に力点のおかれた物語である」(単行本p.95)

 文学作品に登場する衣装の話へと展開したかと思うと、さらに、伝統的衣装文化の衰退と世界の文化的多様性、といった中心的な話題へと流れるように移行してゆきます。

 「全般的にこの日本の近代化=西洋化の「ソフト・ランディング」の上手さは世界的に傑出しており驚異的であって、その分ランディングのショックで生じた長く深い亀裂について考えることをわたしたちは随分早々とやめてしまった気がする」(単行本p.113)

 「世界を「おさえ」ることはできない、とわたしはおもう。偶然出会ったものとつきあい、ときに聞こえてくる音を頼りに、薄暗闇で目を細めてほのかに浮かび上がっている全体の影を一瞬とらえることしか、生者にはできない」(単行本p.123)

 単純にトピックとして面白い話を流暢に語りながら、ときに、はっとするような鋭い指摘、今まで意識してなかった自分のなかの偏りに気付かせてくれる言葉が飛び出してくるところが、実にスリリング。このあたりの呼吸はこれまでのエッセイ集とも共通しており、読むたびにドキドキします。

 さて、折り返し地点が近くなってくると、ドレスコードと個人の選択の自由、知的財産権は誰のためのものか、といった政治問題にスポットライトが当てられます。

 「ドレスコードを通じて、衣服は社会的権力や従属性の象徴となり、一種の記号システムとして機能するものになる。しかしその反対に、ファッションには個人の表現や憧憬、欲望が表現され、既存のコードを破っていこうとする意志も発揮されうる」(単行本p.169)

 「しかも服は、脱ぐことができる。偽装としてこれを利用することはいともたやすい。社会の約束事の中に人をはめ込むためにも、はみ出させるためにも利用できる。階級社会において、これは危険なもの、統制しなくてはならないものだ」(単行本p.169)

 「世界というのは端っこのほうから眺めたほうがよく見える。強国が派手に掲げる崇高な建前の後ろで、実際、なにを考えているのかは、あまり目立たないちいさな国や弱い立場にあるグループにどんな態度で接しているのかを見ればわかる」(単行本p.136)

 さて折り返し地点。ここでは最後の衣服、すなわち身体に関するトピックが扱われます。月経、肥満嫌悪、身体イメージをめぐる諸問題など。

 「月経や女性器をめぐる社会全般の態度について、おそらくそこそこ怖かった十代の頃から、その後複数回の手術や現在の更年期障害等むかつく状況を繰り返す中で、折にふれいろいろいいたいことがあったわたしとしましてはですね、生理用品を被服文化の側面から考察することは、必要かつ重要と信じて疑わないわけであります」(単行本p.190)

 「はびこっている美しさは陳腐な商業戦略が提供する模型の複製で、どこかくたびれた表情の女の子たちを自由にするかわりに拘束している。(中略)彼女にとって美しい身体とは見られる身体で、その視線の出どころ、つまり美の基準は「世間」にあり、当の身体の持ち主にはない。はっきりしない「世間」にはしかし、はっきりした主体/主人(マスター)が、じつは隠されていることが、歴史を振り返ればわかる」(単行本p.212)

 このパートは、分かりやすいフェミニズム入門にもなっています。よく知らないのに何か誤解してネガティブなイメージを持っている人(男女ともに)、読んでおいた方がいいですよ。なお、個人的に大好きな「コンテンポラリーダンス」に関する言及がいくつかあり、そこがすごく嬉しかった。

 「コンテンポラリー・ダンサーたちが生み出す身体の美は、こうした隠された主体/主人が揺るぎない基準として信仰している美を、いま・ここにある自分の内側からつき破っていこうとする。だからそれはときにグロテスクだ」(単行本p.213)

 そして、ターン。これが正しくそうでないものは間違っているという一面的な決めつけ、西洋中心主義的な視点から世界を見る習慣、そういったものをくるりと脱ぎ捨てて、あるいは裏返して着用し、それから本書で語られてきた様々なトピックに戻ってゆけば、個人の自由と世界の多様性について、今まで見えなかったこと、考えなかった、考えないよう仕向けられていたことが、明らかになってゆくはず。

 というわけで、衣服を裏返すように、世界観のプチ転回をもたらしてくれる好著です。今の世の中には、息苦しさ、閉塞感、どん詰まり感がハンパなく充満しているというのに、その根本的な原因がどうもよく分からない、と思って思い悩んでいるすべての方々に一読をお勧めします。たぶん、衣服が合ってないんですよ。

 最後に、おそらく若い読者に向けた著者の言葉を引用しておきます。ピナ・バウシュも、似たようなことを言っていたかも知れません。

 「回るのよ。回って。考えすぎると動くことはできない。どっさりある矛盾の重さを、動きを妨げる重力ではなく、床をとらえるしっかりした軸の錘にして、回ることができれば。ターン。違う視点が得られれば。かわいいもきれいも美しいも、たくさんの種類があったほうが、誰にとってもいい。それは練習で獲得できる視点だ」(単行本p.214)


タグ:中村和恵
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