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『ポトスライムの舟』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

 「もしわたしが工場の年収を全部それに突っ込んだとしたら、その一年間はクルージング用の一年間であって、わたしの一年間ではないと言える、ってこと?」(文庫版p.26)

 薄給で働く工場労働者ナガセは、人生を取り戻すために「自分のこの一年間の労賃をすべて世界一周の旅にあてる」と決めて、無理やりの倹約生活に突入するが……。働く女性の誇り高き生き様をえがいた表題作ほか一篇を収録した作品集。単行本(講談社)出版は2009年2月、文庫版出版は2011年4月です。

 「忙しくしないと生きていけないのだ、とすぐに心のどこかが答える。(中略)生活を維持するために。 維持して、それからどうなるんやろうなあ。わたしなんかが、生活を維持して」(文庫版p.81)

 以前の職場で凄絶なパワハラを受け精神的に深く傷ついているナガセ。今は工場勤務のかたわら喫茶店や商工会館でアルバイトをして暮らしています。働く以外に何もする余裕もない、苦しい生活。いわゆるワーキングプアです。

 「『時間を金で売っているような気がする』というフレーズを思いついたが最後、体が動かなくなった。働く自分自身にではなく、自分を契約社員として雇っている会社にでもなく、生きていること自体に吐き気がしてくる。時間を売って得た金で、食べ物や電気やガスなどのエネルギーを細々と買い、なんとか生き長らえているという自分の生の頼りなさに、それを続けなければいけないということに」(文庫版p.14)

 そんなナガセが人生を取り戻すために決めたこと。それは、今後一年間、工場労賃をすべて貯金して、それで世界一周クルージングの旅に出る、という「設定」だった。自分はただ生きるためだけに働いているのではなく、世界一周のために働いているのだと。自分の仕事は、世界一周の旅と等価なのだと。

 「結婚より、わたしは家を改修したい。それか、世界一周の船に乗って、パプアニューギニアでアウトリガーカヌーに乗りたい」(文庫版p.83)

 アルバイトの収入だけで一年を乗り切るという悲惨なまでに厳しい倹約生活。実際にはおそらくかなわない夢。だが、目標を得たことで、ナガセの心は次第に解放されてゆく。

 「玄関にも、ナガセの部屋にも、そして工場のロッカールームにもポトスは置いてある。どれもこれもが、安いコップに差して水を替えているだけだが、まったく萎れる様子がない。改めて、ポトスはすごい、と思う。好きではないが、すごい、と」(文庫版p.64)

 お金が尽きたらポトスを食べたら生きていけるのではないか、などと考えるナガセ。養分なしで繁茂するポトス、そして「波に逆らうんではなく、波に乗る力に長けてて、ひっくり返りにくい」(文庫版p.12)アウトリガーカヌー。それらのイメージがナガセの困窮生活を支え、彼女の心をゆっくりと癒してゆく。

 「休んでいることが体に馴染んでいて、これから大丈夫なのだろうかと不安だったが、辛いと感じればうまく手を抜けばいいと気軽に思った。今までそんなふうに考えたことは一度もなかった」(文庫版p.102)

 パワハラで精神を病み、苦しみを避けるために無理やり仕事をいくつも掛け持ちしてわざと忙殺されていたナガセ。彼女が「自分の仕事は世界一周の旅と等価なのだ」という「設定」によって、次第に回復してゆく様子が書かれた小説です。

 津村さんが書く主人公の多くがそうですが、ナガセも誇り高い人です。どんなに理不尽でひどい状況に追いやられても、決して卑屈にならない、恥ずべきこと卑怯なことをしない。自分も苦しい生活をしているのに、離婚調停中の友人を居候させ、返してもらえないだろうと予感しながらもお金を貸す。どんなに苦しくても、それを言い訳にズルはしない、くさらないのです。

 そして、その友人も、子どもを抱えながら頑張って働き、やがて借りたお金をナガセに返します。彼女もまた矜持を持った人として書かれます。

 ワーキングプアの生活を書いた悲惨で辛い話ではあるのですが、暗くならない、むしろ困難に立ち向かう冒険譚のようにさえ読めるところは、こうした人物造形によるものが大きいと感じます。最後に、頑張ったナガセにささやかな「恵み」が訪れる場面では、けっこう涙腺にきました。

 薄給で長時間労働に耐え、生活に必要なお金を稼ぐために生活の大半を犠牲にしていることの虚しさに打ちのめされ震えているすべての人に、ポトスの生命力とアウトリガーカヌーのしぶとさを。仕事小説の傑作です。

 併録されている『十二月の窓辺』は、職場のパワハラ、いじめを正面から扱った作品。これが、何というか、凄絶な話で。

 職場で怒鳴られ、罵倒され、ねちねち嫌味を言われ、仕事できないのなら退職しろと罵られ、退職して仲間に迷惑をかけるのは人非人だと脅迫され、どうせ世界中どこでも同じあんたの居場所なんてない無能なんだから迷惑なんだから生きてる意味ないんだからと否定され、それなのに仕事はどんどん回され、身に覚えのないことで誹謗中傷され、罰せられ、他人のミスの尻拭いを押しつけられ、尊厳を叩き潰される毎日を送っているツガワ。何を言われてもひたすら「すいません」を繰り返すしかないツガワ。

 「朝礼であの人に吊るし上げを食らう。人格を否定される。こんな間違いをする人間は次も失敗する。そんなのと一緒に仕事などできない。これから気をつけますといったところで限度は知れている。口先だけの謝罪など聞きたくない」(文庫版p.120)

 同僚たちは見て見ぬふり。自分に災いが降りかからぬよう息をひそめて。そのくせぼろくそに陰口をたたいて、あざけ笑って。そして口先だけで慰める。

 「ツガワのことを思ってああ言ってるんだよ。ある意味目をかけられてて幸せだよ。がんばってね」(文庫版p.126)

 「あらかじめ、ツガワが所感を述べることを封じる方向へ話題を持っていかれるようにプログラムされているかのような状況は、ツガワの意欲を痩せ衰えさせるには充分だった。同僚達はそれを、あの親愛を込めた手つきや、元気出して、という言葉つきで行うのだった」(文庫版p.152)

 次第に精神が衰弱して正常な判断が出来なくなり、自分は本当に他人に迷惑をかけるだけの能無しではないかと感じるようになってゆくツガワ。枯渇して、麻痺して、病んでゆく。

 「通り魔がわたしを殴ってくれたら、会社に来なくていいのかななんてこと考える」(文庫版p.137)

 「「いっそのこと殺したいです」ツガワは、組んだ腕のあいだに頭を突っ込んで、震える声でそう言った。「でもこんなことで刑務所には入りたくない」」(文庫版p.152)

 正直いって、読むのが辛い小説です。特に、職場でパワハラやイジメにあったことのある方は読んでいて自身の体験がフラッシュバックして「うわあーっ」と頭を抱えることになるかも。特にそれで鬱病を患ったことがある(または今も全快していない)方は、避けた方がいいかも知れません。

 しかし、暗く絶望的なままで終わる作品ではありません。職場の「窓辺」から見たある光景が、ツガワを救います。

 「ここではないどこかは、当然こことは違い、そこには千差万別の痛みや、そのほかのことがあるとツガワは知ったのだった。Vが自分に信じ込ませようとしたほど、世界は狭く画一的なわけではないと思ったのだった。自分がここから離れて、その感触に手を差し伸べに行くのは自由だと思ったのだった」(文庫版p.181)

 どこにいっても同じ、どこにもあんたの居場所なんてない、という呪いの言葉から解き放され、世界に触れる自由を手にしたツガワ。『ポトスライムの舟』において、「世界一周の旅」がどれほど切実な希望だったのかが解る瞬間です。

 「いつの間にか息を切らしながら全力で駆け出していた。そんなことでのしかかる後悔が振り払えるとは思わなかったが、次は自分以外の誰かのこともわかることができるようにとツガワは強く願った」(文庫版p.187)

 あの極限状況のなかで、自分のことで精一杯で他人を思いやることが出来なかった、ということを後悔するツガワ。彼女もまた誇り高き人です。『ポトスライムの舟』で、困窮生活のなかでも懸命に友人を助けようと頑張る姿が思い浮かんで、胸に、じん、と来ます。


タグ:津村記久子
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